僕らは正しい答えを見逃したようです。第一巻

3
 三月X日、夜、「家」。すでに温度を失った空間。
─「夢美、一人じゃ少し危ないだろ?ヨル、お前にご褒美。送ってやれよ。」
 ウォーターパークを出たあと、僕ら五人で近くで夕飯を済ませ、電車で大口駅へ戻った。解散前、ヒロにそう言われて、先に夢ちゃんを家まで送り、そのあとここへ戻ってきた。

 「家の扉」と呼ばれる仕切りを開けると、ソファでテレビを見ている一組の男女がいた。「母」は一度だけ僕と目を合わせ、すぐ逸らした。「父」は一度もこちらを見なかった。

 いつからだろうな。「ただいま」も「おかえり」もなくなった家。。

 室内履きに履き替え、僕はそのまま二階へ向かった。
 部屋のドアを開けようとしたとき、隣の部屋から姉さんの声がした。

「おかえり、ヨル。」
「うん。」

 短く返した直後、姉さんの部屋から慌ただしい足音がして、勢いよくドアが開いた。その勢いに驚いて、部屋に逃げ込む間も失った。

「前に何て言ったか、また忘れたの?」
「……ただいま。」

 姉さんが言っているのは、たぶん「悪いのは私じゃないし、パパとママはともかく、姉さんに挨拶しないつもりなら、やってみなさいよ。」みたいな。

「一日あるかないかね。ずいぶん私に叱られてないみたい。」
「ご……ごめん……」

 いつの間にか少しだけ僕より背が低くなった姉さんを見ていると、そんなセリフでびびる自分も、なんだか可笑しかった。もう僕のほうが背は高いのに、それでも効くらしい?

「今日も何も言わずに上がってきたの?」
「……」
「はあ。友達と遊びに行ってたんでしょ?少しは機嫌よくなってるかと思ったのに。」

 姉さんはため息をついた。

「まあいい、荷物はもうまとめた?」
「うん。」
「じゃあ、あと数日だけ我慢しなさいね。この自意識過剰なガキ~」

 左手で僕の頭をガシガシ撫でると、姉さんは自分の部屋へ戻っていった。
 羽冬《はねふゆ》悠《ゆ》月《づき》。三つ上の姉だ。今年は僕と同じく卒業の年で、県立高校を卒業し、パンドラ高校の近くの大学に受かった。そのおかげで、僕も一緒に家を出ていけることになった。

 さっきの「荷造り」はそのことだし、「あと数日だけ我慢」は、あの二人と同じ屋根の下で過ごす残り時間のことだ。
 それと、ツネもヒロも姉さんは美人だと言っていたけど、僕にとってはただの家族でしかない。
 残った、たった一人の家族だ。

 あの日から、どうやってここまで来たのか。

 最初は、夕食のときだった。僕の話をされても、何か聞かれても、全部聞こえないふりをしていた。そのうち父は「話す気がないなら同じ食卓で食うな」と言い、母にも僕の分を作るなと命じた。それからは、夕食の時間に家へ戻らなくなり、自分で貯めていた金で済ませた。
 次は、ある日帰宅すると玄関がわざと内側から施錠されていた。でも予想していたから、その場で鍵屋を呼んで開けてもらった。それが何度か続き、一か月ほどで父はそんなやり方もやめた。
 最後は、父が完全に堪えきれなくなったあの日だ。いつものように僕がそのまま二階へ上がろうとすると、父は僕の手首をつかみ、延々と説教を始めた。僕に聞く気も返す気もないとわかると、壁に突き飛ばし、胸ぐらをつかんで押しつけてきた。
 もう小学生じゃない。あの頃の体格なら、やり返そうと思えばできたから、家庭内暴力ってほどでもない。むしろ男同士の喧嘩の前触れみたいなものだった。
 でも、やり返さなかった。
 あいつらの独善で負わされた傷に比べれば、そんな体の痛みは苦痛ですらなかったからだ。
 父が拳を振り上げようとしたのを止めたのは、母の声だった。そのあとは二人の口論になった。僕は結果を待たずに二階へ上がった。どうせ僕には関係なかった。
 あれが、僕に説教しようとした最後だった。あいつらが欲しかったのは「対話」じゃない。自分たちは間違っていないと思っていた。
 要するに僕は、父と殴り合うことすら拒み、あいつらとのやり取りそのものを断った。空気みたいにこの家で暮らし、今に至る。

 たぶん、その後あいつらが何も言わなくなったのは、僕の模試の順位がずっと校内一位だったからでもある。そう、僕は恨んでいても勉強は捨てなかった。むしろ、それで最低限の牽制にしていた。
 つまり、もしあいつらがまた何か言うなら、あいつらが大事だと思っているもの、僕にとって一番大事だと決めつけているものを、僕は全部壊して、投げ出せるということだ。

 けれど表向き、あいつらの望む通りに動き、課された項目を一つずつこなしてきた。今さら、もうあいつらに僕を止める理由はない。それでも心に残った傷も、そこから生まれた憎しみも、消えない。受験を終え、あいつらの望んだ結果を出したからといって、僕が夢を追っていた道に戻ることもない。なぜなら……

 全部、お前たちのせいだ。羽冬《はねふゆ》日《ひ》茂《しげ》。羽冬《はねふゆ》澄《すみ》花《か》。