コーヒーの香ばしい香りがヨシユキの鼻孔をくすぐる。
伸ばした髪が首筋に触れる感触がうっとうしい。
スカートはスースーして歩きにくいが、ヒールの歩きにくさに比べればまだマシだ。
普段は長く伸ばした髪を後ろで無造作に束ねているが、今は勤務中だ。
髪をおろしてフリルのついたエプロンドレスを着て給仕するのが、ヨシユキの仕事だ。
「はーい、お待たせしましたー」
ヨシユキはできるだけ高く、可愛らしい声と仕草でコーヒーを客に運ぶ。
元から中性的な声がより女性に近づく。
大抵の男性客はヨシユキの姿を見てデレデレと鼻の下を伸ばす。
普段は着ない服と靴も、十年も着続ければさすがに慣れてくる。
カウンターに戻ったヨシユキに、店長のアスカが客に聞こえないように声をひそめて言う。
「あんたを看板“娘”にして正解だわ。ね、ヨシノちゃん」
ヨシユキは客には見えないように露骨に顔をしかめる。
「看板娘なら姉ちゃんがやればいいだろ。なんでボクが……」
「だってあんた背も低いし小柄で華奢、髪もサラサラ。何より子供の頃から慣れてるでしょ」
「姉ちゃんが無理矢理させてたんだろ! ボク、もう大学生だぞ!? 誰が好きでこんな格好……!」
「またまたー。本当は可愛くなる自分が嬉しくなっちゃったりしてるんでしょ?」
「……これが嬉しそうな顔に見えるか?」
「いいわー、そういう表情。私が男だったら即、押し倒してるわね」
「もういいよ! それよりバイト代はちゃんとはずんでくれよ。今月ほんとにピンチなんだから!」
ドアチャイムが鳴る音。
「ほら、お客さんよ。ちゃんと可愛くお出迎えする!」
「はいはい……どーも、いらっしゃいま──」
ヨシユキは精一杯の作り笑いで振り返り、そのまま固まった。
視線の先には金色の髪に褐色の肌、190cmはあろうかという長身。
「タクマ……くん」
ひそかに想いを寄せている後輩がそこに立っていた──
「なんでオレの名前知ってんの? どっかで会った?」
タクマは低く響く声でいぶかしげに問いかけた。
ヨシユキは一瞬焦ったものの、すぐに言葉をつなげた。
「……有名だもの、キミ。タクマくんでしょ。バスケ部のホープ」
バスケ、という言葉でタクマの顔が曇る。
「……ビール」
タクマは不愛想にそれだけ言うと隅の席に座った。
ヨシユキはほっと胸を撫でおろしてカウンターのアスカの元に戻る。
「誰? でっかい子ね。知り合い?」
「……高校時代にちょっと。それよりどうしよう。ビールだって」
「どうって、出せばいいでしょ。うちはビール一種類しかないんだから迷う余地ないじゃない」
「タクマくんはまだ未成年なの! お酒なんか出せないよ!」
「え!? あの子、高校生なの? めっちゃ大人びて見えるけど」
「……いろいろあったんだよ。それに、笑うとちゃんと──いや、それよりどうしよう?」
「そうねぇ……じゃ、これ出してきな」
アスカは冷蔵庫から缶を取り出して栓を空け、グラスに注ぐ。
「姉ちゃん、それ──」
「だいじょぶだいじょぶ、ガキに味の違いなんて分かりゃしないって。ほら行った行った!」
ヨシユキは不安になりながらも、グラスをタクマの前に置く。
……顔に痣がある。
暗い店内と日焼けした肌で目立たないが、頬にまだ新しい痣があった。
「おまちどうさま……またお父さんとケンカ?」
タクマは弾かれたようにヨシユキを見る。
「なんで分かるんだよ。あんた、いったい──」
しまった。
また余計なことを言ってしまった。
ここではヨシユキはタクマの先輩の大学生ではない。
看板娘のヨシノのはずだ。
だが、ヨシユキは一呼吸おいてから涼しい顔で答えた。
「……キミの目を見れば分かるわ。それに、そっちのほっぺたを隠すように席に座ったでしょ。
喧嘩した後の男の人って、大抵そうよ」
タクマがはっとした顔で頬の痣に手をあてた。
しかしすぐに手を引っ込める。
「……でも、なんで相手がオヤジだなんて思うんだよ。ガッコの奴かもしれねぇだろ」
「消去法よ。キミの腕っぷしはこのあたりじゃ有名だもの。ヘタな不良は目も合わせないわ。なら、家庭での喧嘩の可能性が高いでしょ」
ヨシユキは淀みなくスラスラと答えた。
高校からの付き合いなのだ。
タクマの家の事情はだいたい知っている。
咄嗟に適当な嘘をついて誤魔化すのも、言い寄って来る男性客を煙にまくことで身につけた。
「……やりづれぇな。あんたみたいな人は」
タクマはグラスに口をつけて顔をしかめた。
「んだよこれ!? ビールはビールでもノンアルじゃねぇか!」
思いっきりバレてるじゃないか!
何がガキには味が分からない、だよ……。
タクマが抗議の目を向ける。
その顔は年相応の、高校生の幼さを遺している。
怒った時は子供っぽさが出る、ヨシユキは余裕の笑みを返した。
「キミ、まだ17歳でしょ。お酒は大人になってから。ね?」
「うっ……」
タクマは気まずそうに下を向いた。
タクマの外見と雰囲気から、大抵の人間は成人済みだと勘違いするだろう。
「……歳がバレたのははじめてだ。すげえな。あんた」
ヨシユキはグラスを手に取ってタクマに差し出した。
「これはボクのおごりだから、呑んでみなさい。アルコールなんて入ってなくても、ちゃんと麦の味がして美味しいから」
タクマはおずおずとグラスを受け取り、再びグラスに口をつける。
「……美味い」
「でしょ?」
「麦の味、か。今まで意識してなかったな」
ヨシユキはタクマの手の甲にそっと自分の手を重ねる。
逞しい感触が伝わる。
タクマが驚いたようにヨシユキを見る。
ヨシユキは優しく包み込むように微笑む。
「大人になったら一緒に呑んであげる。だから、それまでは麦の味をしっかり味わいなさい」
「お、おう」
タクマは味わうようにグラスの中身を呑む。
その間、ヨシユキはじっとタクマを見守るように微笑む。
グラスが空になった。
「他になにか頼む?」
「……いや、もう帰るよ。金、そんなにねぇし」
タクマは立ち上がった。
「ご馳走さん」
ヨシユキは名残り惜しそうにタクマの背中を見守る。
タクマが店のドアに手をかけた時、ヨシユキも背を向けた。
「あのさ!」
タクマの声に振り返る。
「お姉さん……名前、なんていうんだ」
「え?」
「名前。オレだけ知られてるのって不公平じゃん。教えてよ」
タクマがずいと歩み寄った。
「……ヨシノ。そう呼ばれてるわ」
「ヨシノ……」
タクマは噛みしめるようにゆっくりとその名を口にした。
「また来るよ。ヨシノさん」
タクマは少し照れ臭そうに笑い、店を出た。
騙してしまった。
ヨシユキの胸の奥がチクリと痛んだ。
「でさ、先輩! そのヨシノさんってマジでイイ女なんだよ!」
タクマは興奮気味に言った。
「そ、そう」
ヨシユキは曖昧に笑って答える。
大学のほど近くの公園のベンチ。
二人は座って昼食を取っていた。
「上品で、おしとやかで、色っぽくて……名は体をあらわすってやつだな」
ヨシノという名は単に本名の「由之」を音読みしただけの適当なものだ。
「そのくせボクっ娘なんだぜ? そのギャップがたまんねぇ!」
それも「私」という一人称に抵抗があったから、姉にせめてもの反抗をしただけだ。
あの日からタクマは毎日来店するようになった。
姉のアスカによると、昼間に来たこともあるらしい。
だがヨシユキがヨシノとして働くのは大学が終わったあとの夜だけだ。
ヨシノがいないと分かると、タクマはガックリと肩を落して退店したらしい。
そしてその日の夜にまた来店した。
ヨシノ目当ての男性客は他にもいるが、タクマのように毎日毎晩というわけではない。
「なんかタクマ、最近すごく楽しそうだね……」
「おうよ! 俺、今まで女とかチャラチャラして興味なかったけど……ああ、これが初恋ってやつなのかなぁ……」
タクマはハッと我に返ったのか、
「って、何言わせんだよ! 恥ずかしいじゃねぇか!」
と顔を真っ赤にした。
子供のように無邪気にはしゃぎ、はにかみ、そして照れる
くるくると変わるタクマの姿が微笑ましく、愛おしかった。
その初恋が、もう一人の自分に向けられている。
鉾らしい気持ち。
しかしそれは目の前の自分にではないという気持ち。
相反する二つの感情が行ったり来たりを繰り返す。
「そうだ! いいこと考えた!」
イヤな予感がする。
「今から一緒に行こうぜ! リリィローズつって、駅前のちょっと奥まったとこにあるんだよ」
予感が的中した。
「え、い、いや、今日はちょっと……」
「なんだよ。今日は午後の授業ねぇんだろ? だったらいいじゃん。コーヒーくらいおごるからさ!」
「で、でも、そのヨシノさんって夜だけなんだろ? 今行ってもいないんじゃ──」
「だからだよ! アスカさんに色々聞くチャンスじゃねぇか! 好きな食い物とか、趣味とか……好みの男のタイプとか」
好みのタイプ──
一人で盛り上がるタクマをよそに、ヨシユキはふと考え込んだ。
もし、ヨシノでいる時にそう聞かれたらどう答えればいい?
『ボクが好きなのは、キミだよ』
そう言えたらどんなに楽だろうか。
でもタクマが欲しいのはヨシマサからの言葉じゃない。
なら、ヨシノはタクマとはまったく違うタイプが好みだと言うべき
なのか?
そうすればタクマはヨシノを諦めるかもしれない。
しかし、それはタクマを深く傷つけることでもある。
だったら──
「……ねぇタクマ。そんなにステキな人なら、すでに彼氏がいたりとかしない?」
そうだ。それが一番簡単な“ウソ”だ。
ヨシノなんて人間はこの世に存在しない。
存在そのものがウソなのだ。
夜のひと時だけ現れる、蜃気楼のように儚い幻でしかない。
だったら手が届かないことを伝えればいい。
その理由がウソであっても。
「そ、それは……」
タクマは咄嗟に反論しようとしたが言葉が見つけられないようだった。
タクマの表情が見る見る曇る。
「……そうか、そうだよな。あんなにイイ女なんだから、彼氏がいねぇほうが不自然だよな……」
ヨシユキは咄嗟に口を挟んだ。
後ろめたさにたえきれなかったから。
「で、でも、前はいたけど今はフリーってこともあるかもしれないよ? 諦めるのは早いんじゃない?」
……何をやってるんだボクは。
せっかくタクマが夢からさめかけていたのに、自分からフォローしてどうするんだ。
絶対にかなうことのない夢なのに。
それでも、好きな人が落ち込む姿を見ていられなかった。
どうしたらいいんだ。
何をすれば正解なんだ。
そもそも正解なんてあるのだろうか。
タクマはうつむいてしばらく押し黙っいていたが、ガバと顔をあげた。
「決めた。やっぱり今から行く」
「え?」
「アスカさんに聞くんだよ! 店長なんだから色々知ってるだろ? もしかしたら、応援してくれるかも!」
「い、いや、さすがに応援してくれるかどうかは……」
「そんなの言ってみねぇとわかんねぇだろ!? さ、行こうぜ!」
「い、いや、だからボクは──」
「なんだよ、いつもはつきあってくれんのに……あ、先輩、もしかして……」
タクマは真剣な眼差しでヨシユキに顔を近づける。
「そんなに嫌がるってことは、まさか先輩……!?」
バレた!?
メイクはちゃんと落としたはず。
髪も後ろで縛っている。
服だって普段着の男物だ。
でも顔は同じだから、間近でじっと観察されたらバレてもおかしくない……!
どうしよう?
どうする?
突き付けられる前に自分から言うべきか?
でもバレたのならもう思い悩むことも──
「先輩……さては俺に彼女ができるのを嫉妬してんな!?」
タクマは得意気な顔で言った。
分かってない。
全然わかってないよキミは!
「そうかそうか! こりゃ配慮が足りなかったな!」
タクマは勝ち誇ったように笑いながらうんうんとうなずいだ。
何を分かったつもりになってるんだこいつは!
「先輩も彼女いない歴イコール年齢だもんな! 後輩に先越されるかもって思ったら、そりゃ焦るよな!」
……なんか腹が立ってきた。
人の気も知らないで!
「でも大丈夫だって! 俺がヨシノさんと付き合い始めても、俺と先輩の友情は変わんねぇから!」
しかももう付き合う気でいる。
色々思い悩むのがバカらしくなってきた。
「……わかったよ。行こう」
「おう!」
ヨシユキはタクマに手を引かれて立ち上がる。
ゴツくて逞しい手。
その手の暖かさは頼もしく、それでいて胸に小さな痛みを突き刺した──
「いらっしゃーい」
アスカの声が出迎える。
「あら、タクマくんと、隣にいるのは──」
ヨシユキは唇の前に人差し指を立てて「黙って」のジェスチャーをする。
アスカはヨシユキの意図を察したのか、意味ありげにニヤッと笑った。
「……そちらはお友達?」
その目は明らかに
『あんた、その子のこと好きなんでしょ?』
と言っている。
タクマはヨシユキたちの意図も知らずに能天気に笑っている。
「ああ、先輩だよ。友達でもあるけどさ」
「今日はどうしたの? ヨシノちゃんは──」
「知ってるよ。夜だけだろ。だからこそ聞きたいことあるんだけど──」
ヨシユキとタクマはカウンター席に座ってコーヒーを注文した。
タクマはヨシノのことをどうにか聞き出そうとする。
しかしアスカはそれらをのらりくらりとかわす。
「なんでヨシノさんて夜しかいねぇの?」
「あの子も忙しいのよ」
「ヨシノさんってどんな人が好みなの?」
「そりゃ、好きになった相手が好みのタイプでしょ」
「彼氏、いるの?」
「彼氏もなにも結婚してるわよ」
「えっ!?」
「あ、私じゃなくてヨシノちゃん? さぁねぇ。どうかしら。独身だとは思うけど」
必死に質問を続けるタクマを、アスカは明らかに面白がっている。
時折、ヨシユキに『この子、からかうと面白いわ』という視線を送ってくる。
昔から分かっていたが、改めて趣味の悪い姉だ。
そもそもヨシノなんて“女”はこの世に存在すらしないので答えようがないのだが。
徐々にタクマの口数が少なくっていく。
アテが外れて意気消沈しているのは目に見えて分かる。
ヨシユキは少し可哀そういなってきた。
しかしアスカがヨシノの正体についてバラすことはなさそうなので、ひとまずは安心だ。
「ところでタクマくんと……先輩さん? はどういう知り合いなの?」
「え? あぁ……昔、オレがバスケやってた頃にちょっと……」
タクマは言いにくそうに目を反らした。
ヨシユキが高校三年生の頃、タクマはエース候補の大物一年生として学内でも有名だった。
190cmを超えるめぐまれた体格だけでなく、パワーもスピードもセンスも高校生離れしている。
タクマがいれば全国大会出場はおろか、ベスト8も狙えるのではと皆が期待を寄せていた。
学内にファンも多く、特に女生徒の中ではファンクラブ結成の動きもあったほどだ。
しかし足首を負傷で挫折、そのままバスケ部を辞めてから荒れた生活を送るようになっていった。
周囲に大勢いた人間は一人、また一人と少しづつ離れていった。
ヨシユキ一人を除いて。
「……でさ、先輩って小柄で女顔だろ? だから変態オヤジに狙われてたところ、たまたま助けたことがあってさ」
ヨシユキが店から帰る時、ストーカーと化した客がヨシユキを物陰に連れ込もうとした。
客はヨシノの正体を知った上で襲ってきた。
タクマが通りかからなかったらどうなっていたことだろう。
「オレ、バスケやめてから、ガッコで友達とかいなくて。でも先輩だけは何かと話しかけてくれて、今でも時々大学で会ったりしてんだ」
「最近は毎日でしょ」
ヨシユキが突っ込んだ。
「ん? そうだっけ? なんかいつも会ってっからわかんなくなってたな」
タクマは屈託なく笑う。
ヨシノには見せることはないだろう笑顔。
それは同性だから、友達だから見せてくれる笑顔。
もし全てがバレたら、こんな風に笑ってくれるだろうか──
「あら、そろそろ夜の用意しないと」
時計は午後五時に差しかかろうとしている。
「ごめんね。うち、六時からお酒出すから準備しないと」
ヨシユキとタクマは店を出た。
「なんもわかんなかったな……」
タクマは溜息をついた。
キミが知りたい人は、今目の前にいるんだけどな……。
そう言ってあげられたらどんなにいいか。
「じゃ、先輩。またな……」
肩を落して歩いていくタクマを、ただ黙って見守るしかできなかった。
気にはなったが、もうすぐ夜の店が始まる。
後ろ髪を引かれながら、ヨシユキは店に戻った。
ヨシノにならねばならない時間だ。
※ ※ ※
「ヨシノさん! オレとデートしてくれ!」
タクマはヨシユキの手を握りしめ、店中に響き渡る大声で言った。
「え……えぇーー!?」
ヨシユキも負けてないほどの驚きの声をあげてしまった。
店中の客の目が二人に集まる。
「ちょ、ちょっと、落ちついて!」
「落ち着いてるって! 落ち着いてよく考えたんだ! もう、当たって砕けるしかねぇって!!」
「い、いや、それ全然落ち着いてないから! ヤケになってるだけだから!」
どうやらタクマは一度店から出たあと、色々考えて極まった行動に出る決意を固めてしまったらしい。
常連客はニヤニヤして眺めている。
誰も助けてくれそうにはない。
アスカにいたっては拳を握りしめて「もっと行け!」というジェスチャーまでしている。
「と、とにかく座って! まず話をしないと」
「いいや! オーケーしてくれるまで座らねぇ!」
「もう、分かった、分かったから! まずは座って」
「……マジ? マジでデートしてくれる?」
「……あ」
つい勢いで言ってしまった。
「もう、しょうがないなぁ。でも、ボクにだって都合があるんだから、今日、明日ってわけにはいかないのよ。それも含めて話しあいましょ。ね?」
タクマは静かに下を向いた。
……その場の流れで言ってしまったことを見抜かれたのだろうか。
実際にデートなんてするつもりはない。
いやできない。
今は夜の店だから誤魔化しがきく。
しかし明るい時間に明るい場所でじっくり顔を見られたら、バレる可能性は高くなる。
いや、絶対にバレる。
だから適当に話を濁しておくつもりだったのだが。
タクマの肩が小刻みに震えている。
まずい。
怒らせてしまったか。
あるいは絶望させてしまったのか。
「あ、あの、ねぇ、タクマくん?」
「……った」
「え?」
「……ィやったー!!」
タクマは飛び上がらんばかりに大声をあげた。
いや、本当に飛び上がって歓声をあげた。
いや奇声と言うべきか。
店中の人間があまりの大声に一瞬ビクリと全身を振るわせた。
「じゃ、オレ、いろいろイイところとか調べてくるから!」
タクマはスキップせんばかりの上機嫌で店を飛び出していった。
「どこに行くとか考えてもなかったの……」
「普通、デートで行きたい場所くらい聞いてくるもんじゃないの?」
ヨシユキは公園で横に座るタクマに冷ややかに見た。
「う、うるせぇな。嬉しかったんだからしょうがねぇだろ」
タクマはスネたように口を尖らせる。
「しかも、デートの日取りもまだ決まられてないなんことある? あれからもう一週間だよ」
「だってよぉ、ヨシノさん、なかなか予定空いてねぇらしくてさ。大人は色々あるんだろうな」
タクマは空を見あげた。
どうせヨシノのことを考えているのだろう。
こんな無防備なタクマの顔を見られるのはきっと自分だけだ。
ヨシユキは密かに鉾らしく思った。
「でさ、先輩。ヨシノさんどこに誘ったら喜ぶと思う?」
「そんなのわかんないよ。会ったこともないんだから」
「……それもそうか。そもそも彼女いねぇ先輩に聞いたオレがバカだったな」
……ちょっと腹が立つこともあるけど。
「あっそ! だったら毎日会いにきてくれなくていいんだよ!」
「ま、待てって! そんなヘソ曲げんなよ。オレ、先輩しか相談できる相手いねぇんだよ。悪かったって!」
あれからタクマは昼だけでなく毎朝通学時にも会いに来るようになった。
タクマの家はヨシユキと正反対なのに、わざわざ遠回りしてまでやって来る。
「とにかくさぁ、一緒に考えてくれよ。頼むよ、オレと先輩の仲じゃねぇか」
タクマのお願いには弱い。
でも、
そこまで“ヨシノ”が好きなんだ──
そう思い知るたびに心にトゲが刺さる。
わざわざ遠回りして朝早くから会いに来るのも全てヨシノのため。
頼ってくれるのは嬉しい。
でもそれはヨシユキのためじゃない。
もしヨシノの正体を知ったら──
「……って、おいって、先輩! どうしたんだよ。ボーッとして」
「あ、あぁごめん。午後の授業のこと考えちゃって」
「もしかしてオレ、先輩の迷惑になってたり……」
「な、ないない! そういうわけじゃないよ!」
「そ、そうか? ならいいけどよ。迷惑ならそう言ってくれよ。オレ、そういう距離計るのってダメでさ。ウソついてまで気ぃつかわせたくねぇし」
むしろ迷惑をかけているのは……キミを騙しているのは──
「ま、とにかく先輩も早く彼女作れって! いいもんだぜ? 人を好きになるのって。たとえそれが片思いでもよ」
そうだね。
人を好きになる気持ち、キミより先に知ってるよ。
片思いがどんなものなのかも。
痛いほどに、ずっと前から──
※ ※ ※
「え、映画とかどうかな? ヨシノさん」
タクマはコーヒーを運んできたヨシノに声をかける。
「うーん、そうねぇ。どんな映画に連れてってくれるの?」
「あ……そういやオレ、映画とかあんま見ねぇんだった」
「ならダメね。タクマくんがつまらない思いをしたら意味ないわ」
「じゃ、じゃあさ、日程だけでも決めようぜ!」
「そうねぇ……とりあえず来月まで待って。そうでないと予定が分からないの」
「ら、来月か。なげえなぁ……」
こうやってタクマに曖昧な返答をしてお茶を濁すのは何度目だろう。
いつまでこんな手が通用するのだろうか。
いっそバイトを辞めて姿を晦ませようかとも考えた。
だが学費も参考書代も交通費も、何もかもが足りない。
ここより割りのいいバイトが他に見つかるとも思えない。
「タクマくんさぁ」
唐突にアスカが声をかけてきた。
「あの先輩くんとはどうなの?」
「どうって、なにが?」
「あの子、夜は来てくれないじゃない。ヨシノちゃんも会いたがってるわよ。ねぇ?」
アスカが意地悪そうにヨシユキを見る。
黙っててくれ姉ちゃん。
てゆーかこっち見んな。
「あぁ、先輩理系でさ。実験とか色々忙しいんだって。頭イイからな、あの人」
「あの子キレイな顔してたじゃない。男にしとくのはもったいないくらい」
やめろってば!
何考えてんだよ!
「まぁ、そうだな。カワイイ系ってやつ? あれでなんで彼女できねぇのが不思議なんだよな。ああいう顔って女受けすんだろ?」
「あの先輩くん、案外タクマくんのこと好きなのかもよ?」
このバカ姉!
ヨシユキの焦りをよそにタクマは大笑いした。
「バカ言うなって! つーかあの人男だぜ? そりゃ、オヤジに狙われるくらいカワイイけど。単に女に声かける度胸ねぇだけだよ」
バカはお前もだ!
「でも、まぁそんな人だからほっとけねぇつーか。また変なのに絡まれそうだし。誰かが守ってやんねぇと」
……そこで優しいところ見せるの、ちょっとズルイよ……。
「そうかなぁ。私はイイと思うわよ?」
「イイって、何が?」
「うん、小柄でか弱い年上受けと、逞しく元気な年下攻め……あぁ、いいわねぇ」
アスカは恍惚とした表情でタクマを見た。
だがその目はタクマを見ているわけではない。
もっと遠くの、おそらくは知るべきではないどこかを見つめている。
「えっ、えぇ……いや……えぇー……」
タクマが明らかにドン引きしている。
他の客も同じ表情だ。
「……ごめんね。うちの店長、ビョーキなの。治らない系の」
「お、おう……アスカさんって美人ではあるけど、なんつーか、普通じゃねぇよな……」
「ああなるとアッチの世界から10分は帰ってこないから」
客たちはアスカをいないもののように振る舞い出した。
店の名はリリィローズ、百合と薔薇。
この店では定期的によく見られる光景だ。
タクマも他の客にならって、アスカのことは時々不気味な笑いを漏らすオブジェと思うことにしたようだ。
「そ、それで、デートなんだけどさ、オレ、ヨシノさんとだったらどこでも楽しい……から……」
タクマの言葉が途切れた。
「どうしたの?」
「あれ、いや、そんなわけねぇよな……」
「もう、何かあるの? ちゃんと話して?」
「あ……うん。あのさ」
タクマはヨシノとアスカを見比べんがら戸惑いがちに言った。
「なんか、ヨシノさんとアスカさん、ちょっと似てんなって」
「え?」
「いや、普段は全然そうでもねぇんだけど、今のアスカさんの、どっか遠くを見てる目が……似てるなって」
「あ、あぁ、親戚ではあるから、似てないわけじゃないかもね」
「……なんで今まで気づかなかったんだ」
ヨシユキの言葉はタクマには届いていないようだ。
「タクマくん?」
「……帰るよ。なんか、ちょっと呑みすぎたのかもしれねぇ」
タクマは立ち上がり、フラフラと店を出て行った。
「……お酒なんて呑んでないのに」
この時、ヨシユキは気づいていなかった。
終わりが近づいていることを──
次の日、タクマは現れなかった。
朝と昼も、夜にヨシノに会いくることもなかった。
ヨシユキもどこか落ち浮かずソワソワしていた。
LINEもメールもかえってこない。
三日が過ぎた昼頃の大学。ヨシユキはタクマが遠くから自分を見ていることに気づいた。
少し痩せたように見える。
「タクマ?」
声をかけようとしたが、タクマは背を向けて走り去ってしまった。
※ ※ ※
「ヨシノちゃん、今日の顔、魂どっかに置いてきちゃった感じだけど大丈夫?」
店でもメイクが適当になっていることをアスカに指摘された。
コーヒーや酒を運ぶ時もミスが目立つようになっている。
嫌われてしまったのだろうか。
でも“ヨシユキ”が嫌われたとしても“ヨシノ”にも会いに来ないのはどういうことだろう?
「恋する乙女は手抜きも許されるわけ?」
「だ、誰が乙女だよ! ボクは──」
「……もういいからちょっと休憩しなさい。今日はお客も少ないし、私一人でもどうにかなるから」
「で、でも──」
今日こそタクマが来るかもしれない。
そう言いかけた。
「これ以上ミスされちゃたまんないの」
アスカにピシャリと遮られた。
「店長命令よ。休憩しなさい」
返す言葉が見つからない。
「それに、タクマくんが来てもそんな顔じゃ会えないでしょ? お化粧、直してきなさい」
ドアチャイムが鳴ったのはその時だった。
「タクマくん……」
初めて店に来た時と同じようにタクマが立っていた。
タクマは少しおぼつかない足取りで、いつもの席に座る。
「タクマくん、しばらく来てくれなかったけど、なにかあった? ずいぶん痩せたみたいだけど」
「……オレ、おかしいんだ」
「え?」
タクマは机の上をじっと見つめながら呟いた。
「先輩は……男なのに。オレが好きなのは、ヨシノさんのはずなのに……」
ヨシユキはタクマの向かいに座った。
が、タクマは目を合わせようとしない。
「ねぇ、なにがあったの?」
「夢に……出てきたんだ。ヨシノさんが」
「ボク?」
「でも……でもおかしいんだよ! ヨシノさんのはずなのに……そこにいたのが、違うんだよ」
「違うって、なにが違うの?」
「先輩なんだよ! そこには先輩がいるんだ! でも、オレはそれがおかしいとか全然思わなくて、まるでヨシノさんと話すみてぇに先輩と話してるんだよ! それがすっげぇ楽しくて……」
以前、店で様子がおかしかったのはこのことだったのか。
ヨシユキとアスカは姉弟だ。
だから二人の顔立ちが似ているのは当然だ。
しかし、それはアスカとヨシノが似ているということでもある。
「オレ、先輩と顔あわせられなくて……恥ずかしいやら、申し訳ないやら、もう、どうしていいのか……」
「申し訳ない? ただの夢じゃない。キミが悪いところなんてなにも──」
「そうじゃねぇ、そうじゃねぇんだよ……!」
タクマは握り拳を震わせる。
「オレも最初はヘンな夢見たな、って程度だったよ。でも、先輩の顔見たら……先輩が、ヨシノさんに見えて……胸がドキドキして、おかしいんだよ! オレも、先輩も男なのに、オレはヨシノさんが好きなはずなんだよ!」
「タクマくん……」
「先輩の近くにいたら、先輩の手を握りたくて、抱きしめたくなって……オレ、こんなサイテーな奴だったのかって……」
ボクのせいだ。
ヨシユキはかける言葉を見つけられなかった。
タクマは無意識のうちに、ヨシユキとヨシノの共通点を見つけてしまったのだろう。
「オレ、これでも先輩には感謝してんだよ。バスケ部やめて、荒れてるだけのクズなオレのこと、先輩だけが気にかけてくれたのに。そんな人相手にオレは……! しかも、オレが好きなのは別の人なのに……!」
「……タクマくんは、その先輩のこと、嫌いなの?」
「嫌いなわけねぇよ! 大事な人なんだよ!」
タクマがガバッとして顔をあげた。
その勢いで目から涙が零れ落ちた。
「……自分でも、よくわかんねぇよ。先輩は男で、オレも男で、好きな人はヨシノさんで、なのに、先輩見たらドキドキして、すげぇカワイイなって……オレ、誰でもいいんだろうな。優しくしてくれる人なら男でも女でも、そんなサイテーな自己中野郎だって分かったんだ……!」
タクマは涙をぬぐって、無理に明るい笑顔をつくった。
「……それだけ言いたかったんだ。だからゴメン。デートの話、忘れてくれ。オレ、そんな資格ねぇ奴だからさ。なんでもっと早くに気づけなかったんだろうな。あ、だからバカなんだろうな」
タクマは力なく笑った。
乾いた笑いが痛々しい。
おかしくないよ。
人を好きになるのに資格なんているの?
そんなこと言ったらボクはもっと──
「……そんじゃ。さよなら。もう来ねぇから安心してくれ。そもそもオレみたいなのが来てイイ店じゃなかったんだよな。最初から」
タクマは立ち上がって背を向けた。
出口に向かって歩き出す。
「待って!」
タクマは足は止めたが振り返りはしなかった。
「その先輩とは、どうするの?」
「……もう会わない。会えねぇよ。会っちまったら、自分でも何しでかすかわかんねぇ。そんなのダメだろ。オレも変態オヤジのこと、笑えねぇよな」
「違うよ!」
ヨシユキはカウンターに置いてある酒瓶を手に取った。
アスカが止める間もなく、ヨシユキは栓を開け、脱いだエプロンに中身をぶちまける。
「ヨシノさん?」
タクマが怪訝そうに見守る中、ヨシユキは酒に浸したエプロンを見る。
強いアルコールが揮発するムワッとした匂いが鼻をつく。
一瞬躊躇したが、ヨシユキは酒で濡れたエプロンで顔を覆い、強引に、乱暴に拭い始める。
「ちょ、ちょっと、ヨシノさん!?」
タクマが思わず駆け寄ろうとして、立ち止まった。
「おかしくないよ。タクマくんは、なにもおかしくない」
エプロンが床に落ちる。
エプロンはベージュや口紅、アイシャドウの色に染まっている。
「おかしいのは……ずっと騙していた、ボクのほうだよ」
ヨシユキは髪を後ろで無造作に縛る。
アルコールで強引にこすった目元が少し赤くはれあがっている。
「先輩……」
タクマは茫然とした表情で呟いた。
「ね? 男のボクなんてダメでしょ。全然ドキドキしないでしょ? だから、キミはなにもおかしくないよ。
ヨシユキは笑った。
その笑いは先程のタクマのようにどこか乾いて空虚だった。
「男なんか好きになったりしちゃ、ダメよ。夢はもう終わり」
最後はヨシノとして、タクマが愛したお姉さんの声で言った。
それが精一杯だった。
凍り付いたように固まるタクマの脇をすり抜け、ヨシユキは出口のドアに手をかける。
「店長、ごめんなさい。今日は、もう帰りますね」
ドアチャイムが鳴る音。
タクマは床に落ちたエプロンを見て立ち尽くすことしかできなかった──
午前の講義はまるで頭に入らなかった。
ヨシユキはどんよりと沈んだ顔でいつもの公園のベンチに座る。
いつもならタクマが隣にいてくれてるのにな……。
ヨシユキは真っ赤に晴らした目で曇り空を見上げた。
昨晩は泣いて泣いて、気づいた時には朝になっていた。
変な体勢で寝ていたせいで体も痛い。
アルコールによる顔の腫れはひいたが、目はよりいっそう赤くなってしまった。
アスカから鬼のように電話もメールもきていたが全部無視した。
あれで正解だったのだろうか、と考えを巡らせる。
苦しみ、悩むタクマを見ていられなかった。
ヨシノとしてタクマと接するのは、最初は騙しているようでイヤだった。
しかしタクマがヨシノに好意を寄せてくれるのが嬉しくて、二人で過ごす時間は徐々に楽しいものに変わっていった。
たとえそれがヨシユキではなく、ヨシノへのものだったとしても。
だがそれももう終わった。
昨夜の言葉の通り、二度とタクマはヨシユキと会ってはくれないだろう。
でも、せめて最後に憎まれなければいけなかった。
怒ってほしかった。
あいつに騙された、ひどい奴だ、そう思われるなら、タクマが自分自身を責めることだけは避けられる。
「はぁ」
嫌われるのはツライな。
思わず深いため息が漏れる。
一瞬、視界が真っ黒になった。
急な雨か、と思ったが目の前に誰かが立っていた。
「あの」
……知らない男性だ。
多分同じ大学生だろう。
「はい?」
「ヨシユキくん、だよね」
「えぇ、そうですけど」
「むこうの彼から伝言が……あれ、もういないな」
男性は公園の入口を見た。誰もいない。
「まぁ、とにかく夕方、体育館で待ってるって。そう伝えてくれって」
「体育館って、どこのですか?」
「さぁ。そう言えばわかるとしか」
そう言われてもヨシユキには心当たりがない。
「どんな人だったんですか?」
「名前は聞いてないけど、金髪の、エラくでっかい奴だったな。でもあの感じ、高校生くらいじゃないかな。それと、ヨシノさんによろしく、って」
「!」
「確かに伝えたよ。それじゃ」
※ ※ ※
卒業して以来、母校の高校に訪れたのは初めてだった。
時間は夜の八時。
もう部活はやっていないはずだが、まだ明かりがついている。
物音はしない。
ヨシユキは一瞬だけ躊躇い、体育館の扉に手をかけた。
広いバスケッとコートの中央にタクマが一人立っていた。
「先輩」
「タクマ……」
「もう、ここには来ねぇと思ったんだけどな。でも、ここが一番いいって思ったんだ。先輩と初めて会ったトコだから」
タクマはバスケットゴールを見上げた。
「覚えてる? 先輩さ、オレが荒れてここでケンカした時、必死に止めてくれたよな。オレ、どけよ、てめぇもシメるぞって怒鳴ったっけ」
ヨシユキもゴールを見上げた。
「……覚えてるよ。すっごく怖かった。でも、放っておけなかったから」
「最初はさ、なんだこのチビ、ヘンな奴だなって思った。でも、それでも先輩はオレを放っておかなかった。部の奴らも、顧問も、親も見捨てたオレなんかを」
タクマはいつの間にか手に持っていたバスケットボールをゴールに向かって放った。
ボールがゆるやかなカーブを描いてゴールに向かい……リングに蹴られて外れた。
タクマは苦笑いした。
「……やっぱニブッてんな。前はこのくらい楽勝だったのによ。当たり前だけど、サボって逃げるとすぐダメになるよな」
タクマは振り返り、神妙な面持ちのヨシユキを見て笑った。
「あ、さては先輩、信じてねぇな? オレ、ホントは外のシュートのほうが得意だったんだぜ。タッパあるから突っ込まされてばっかだったけど」
「ううん。知ってるよ。ずっと……見てたから。応援……してたから」
「……そっか。じゃ、ガッカリさせちまったんだな」
タクマは深呼吸した。
「オレ、戻るよ。バスケ部に。ずいぶんサボっちまったから、またベンチからだけど。でも、やり直したいんだ」
「……うん。よかった。本当は、ボクが高校にいる間にそうして欲しかったけどね」
「……そうだよな。ずいぶん待たせて、遠回りしちまったな。でも」
タクマがヨシユキの両手をガッと掴んだ。
「え……」
「オレ、もう後悔したくねぇんだ。やっと分かったんだ。オレが好きなのは“ヨシノ”さんだからじゃない。ずっと、オレを支えてくれてた先輩だからだって。オレは、結局、ずっと一人の人を好きだったんだ。ようやく気づいたんだ」
「タクマ……」
「先輩とヨシノさん、正直、どっちのほうが好きだとか、どっちか選べとか言われても、分かんねぇ。だって、どっちも好きなんだよ。ヨシノさんも、先輩も」
二人の足下に、ゴールを外れたバスケッとボールがゆっくり転がってきた。
ヨシユキの足にあたり、止まる。
「だから、お願いします。改めて……オレとデート、してくれませんか。先輩」
ヨシユキは言葉に詰まった。
嬉しいはずなのに、胸が苦しくて言葉がつかえる。
「ボ、ボクで、いいの? ヨシノじゃ、なくて」
それだけ言うのも精一杯だ。胸の奥のあついものが今にもこみあげてきそうだ。
「オレは、先輩が好きなんだ。今の姿の先輩も、ヨシノさんも。もちろん、先輩がヨシノさんのカッコしたいならそれでもいい。でも、今のままの先輩だって、オレは好きなんだよ……これってフタマタになったりすんのかな?」
「ううん……いいよ、どっちでも。ボクも、タクマくのこと──」
あとは言葉にならなかった。
いや言葉なんて必要なかった。
ヨシユキの踵が床を離れてつま先立ちになる。
止まっていたボールが、ヨシユキの足に押されて、また床を転がり出した──
〈了〉
伸ばした髪が首筋に触れる感触がうっとうしい。
スカートはスースーして歩きにくいが、ヒールの歩きにくさに比べればまだマシだ。
普段は長く伸ばした髪を後ろで無造作に束ねているが、今は勤務中だ。
髪をおろしてフリルのついたエプロンドレスを着て給仕するのが、ヨシユキの仕事だ。
「はーい、お待たせしましたー」
ヨシユキはできるだけ高く、可愛らしい声と仕草でコーヒーを客に運ぶ。
元から中性的な声がより女性に近づく。
大抵の男性客はヨシユキの姿を見てデレデレと鼻の下を伸ばす。
普段は着ない服と靴も、十年も着続ければさすがに慣れてくる。
カウンターに戻ったヨシユキに、店長のアスカが客に聞こえないように声をひそめて言う。
「あんたを看板“娘”にして正解だわ。ね、ヨシノちゃん」
ヨシユキは客には見えないように露骨に顔をしかめる。
「看板娘なら姉ちゃんがやればいいだろ。なんでボクが……」
「だってあんた背も低いし小柄で華奢、髪もサラサラ。何より子供の頃から慣れてるでしょ」
「姉ちゃんが無理矢理させてたんだろ! ボク、もう大学生だぞ!? 誰が好きでこんな格好……!」
「またまたー。本当は可愛くなる自分が嬉しくなっちゃったりしてるんでしょ?」
「……これが嬉しそうな顔に見えるか?」
「いいわー、そういう表情。私が男だったら即、押し倒してるわね」
「もういいよ! それよりバイト代はちゃんとはずんでくれよ。今月ほんとにピンチなんだから!」
ドアチャイムが鳴る音。
「ほら、お客さんよ。ちゃんと可愛くお出迎えする!」
「はいはい……どーも、いらっしゃいま──」
ヨシユキは精一杯の作り笑いで振り返り、そのまま固まった。
視線の先には金色の髪に褐色の肌、190cmはあろうかという長身。
「タクマ……くん」
ひそかに想いを寄せている後輩がそこに立っていた──
「なんでオレの名前知ってんの? どっかで会った?」
タクマは低く響く声でいぶかしげに問いかけた。
ヨシユキは一瞬焦ったものの、すぐに言葉をつなげた。
「……有名だもの、キミ。タクマくんでしょ。バスケ部のホープ」
バスケ、という言葉でタクマの顔が曇る。
「……ビール」
タクマは不愛想にそれだけ言うと隅の席に座った。
ヨシユキはほっと胸を撫でおろしてカウンターのアスカの元に戻る。
「誰? でっかい子ね。知り合い?」
「……高校時代にちょっと。それよりどうしよう。ビールだって」
「どうって、出せばいいでしょ。うちはビール一種類しかないんだから迷う余地ないじゃない」
「タクマくんはまだ未成年なの! お酒なんか出せないよ!」
「え!? あの子、高校生なの? めっちゃ大人びて見えるけど」
「……いろいろあったんだよ。それに、笑うとちゃんと──いや、それよりどうしよう?」
「そうねぇ……じゃ、これ出してきな」
アスカは冷蔵庫から缶を取り出して栓を空け、グラスに注ぐ。
「姉ちゃん、それ──」
「だいじょぶだいじょぶ、ガキに味の違いなんて分かりゃしないって。ほら行った行った!」
ヨシユキは不安になりながらも、グラスをタクマの前に置く。
……顔に痣がある。
暗い店内と日焼けした肌で目立たないが、頬にまだ新しい痣があった。
「おまちどうさま……またお父さんとケンカ?」
タクマは弾かれたようにヨシユキを見る。
「なんで分かるんだよ。あんた、いったい──」
しまった。
また余計なことを言ってしまった。
ここではヨシユキはタクマの先輩の大学生ではない。
看板娘のヨシノのはずだ。
だが、ヨシユキは一呼吸おいてから涼しい顔で答えた。
「……キミの目を見れば分かるわ。それに、そっちのほっぺたを隠すように席に座ったでしょ。
喧嘩した後の男の人って、大抵そうよ」
タクマがはっとした顔で頬の痣に手をあてた。
しかしすぐに手を引っ込める。
「……でも、なんで相手がオヤジだなんて思うんだよ。ガッコの奴かもしれねぇだろ」
「消去法よ。キミの腕っぷしはこのあたりじゃ有名だもの。ヘタな不良は目も合わせないわ。なら、家庭での喧嘩の可能性が高いでしょ」
ヨシユキは淀みなくスラスラと答えた。
高校からの付き合いなのだ。
タクマの家の事情はだいたい知っている。
咄嗟に適当な嘘をついて誤魔化すのも、言い寄って来る男性客を煙にまくことで身につけた。
「……やりづれぇな。あんたみたいな人は」
タクマはグラスに口をつけて顔をしかめた。
「んだよこれ!? ビールはビールでもノンアルじゃねぇか!」
思いっきりバレてるじゃないか!
何がガキには味が分からない、だよ……。
タクマが抗議の目を向ける。
その顔は年相応の、高校生の幼さを遺している。
怒った時は子供っぽさが出る、ヨシユキは余裕の笑みを返した。
「キミ、まだ17歳でしょ。お酒は大人になってから。ね?」
「うっ……」
タクマは気まずそうに下を向いた。
タクマの外見と雰囲気から、大抵の人間は成人済みだと勘違いするだろう。
「……歳がバレたのははじめてだ。すげえな。あんた」
ヨシユキはグラスを手に取ってタクマに差し出した。
「これはボクのおごりだから、呑んでみなさい。アルコールなんて入ってなくても、ちゃんと麦の味がして美味しいから」
タクマはおずおずとグラスを受け取り、再びグラスに口をつける。
「……美味い」
「でしょ?」
「麦の味、か。今まで意識してなかったな」
ヨシユキはタクマの手の甲にそっと自分の手を重ねる。
逞しい感触が伝わる。
タクマが驚いたようにヨシユキを見る。
ヨシユキは優しく包み込むように微笑む。
「大人になったら一緒に呑んであげる。だから、それまでは麦の味をしっかり味わいなさい」
「お、おう」
タクマは味わうようにグラスの中身を呑む。
その間、ヨシユキはじっとタクマを見守るように微笑む。
グラスが空になった。
「他になにか頼む?」
「……いや、もう帰るよ。金、そんなにねぇし」
タクマは立ち上がった。
「ご馳走さん」
ヨシユキは名残り惜しそうにタクマの背中を見守る。
タクマが店のドアに手をかけた時、ヨシユキも背を向けた。
「あのさ!」
タクマの声に振り返る。
「お姉さん……名前、なんていうんだ」
「え?」
「名前。オレだけ知られてるのって不公平じゃん。教えてよ」
タクマがずいと歩み寄った。
「……ヨシノ。そう呼ばれてるわ」
「ヨシノ……」
タクマは噛みしめるようにゆっくりとその名を口にした。
「また来るよ。ヨシノさん」
タクマは少し照れ臭そうに笑い、店を出た。
騙してしまった。
ヨシユキの胸の奥がチクリと痛んだ。
「でさ、先輩! そのヨシノさんってマジでイイ女なんだよ!」
タクマは興奮気味に言った。
「そ、そう」
ヨシユキは曖昧に笑って答える。
大学のほど近くの公園のベンチ。
二人は座って昼食を取っていた。
「上品で、おしとやかで、色っぽくて……名は体をあらわすってやつだな」
ヨシノという名は単に本名の「由之」を音読みしただけの適当なものだ。
「そのくせボクっ娘なんだぜ? そのギャップがたまんねぇ!」
それも「私」という一人称に抵抗があったから、姉にせめてもの反抗をしただけだ。
あの日からタクマは毎日来店するようになった。
姉のアスカによると、昼間に来たこともあるらしい。
だがヨシユキがヨシノとして働くのは大学が終わったあとの夜だけだ。
ヨシノがいないと分かると、タクマはガックリと肩を落して退店したらしい。
そしてその日の夜にまた来店した。
ヨシノ目当ての男性客は他にもいるが、タクマのように毎日毎晩というわけではない。
「なんかタクマ、最近すごく楽しそうだね……」
「おうよ! 俺、今まで女とかチャラチャラして興味なかったけど……ああ、これが初恋ってやつなのかなぁ……」
タクマはハッと我に返ったのか、
「って、何言わせんだよ! 恥ずかしいじゃねぇか!」
と顔を真っ赤にした。
子供のように無邪気にはしゃぎ、はにかみ、そして照れる
くるくると変わるタクマの姿が微笑ましく、愛おしかった。
その初恋が、もう一人の自分に向けられている。
鉾らしい気持ち。
しかしそれは目の前の自分にではないという気持ち。
相反する二つの感情が行ったり来たりを繰り返す。
「そうだ! いいこと考えた!」
イヤな予感がする。
「今から一緒に行こうぜ! リリィローズつって、駅前のちょっと奥まったとこにあるんだよ」
予感が的中した。
「え、い、いや、今日はちょっと……」
「なんだよ。今日は午後の授業ねぇんだろ? だったらいいじゃん。コーヒーくらいおごるからさ!」
「で、でも、そのヨシノさんって夜だけなんだろ? 今行ってもいないんじゃ──」
「だからだよ! アスカさんに色々聞くチャンスじゃねぇか! 好きな食い物とか、趣味とか……好みの男のタイプとか」
好みのタイプ──
一人で盛り上がるタクマをよそに、ヨシユキはふと考え込んだ。
もし、ヨシノでいる時にそう聞かれたらどう答えればいい?
『ボクが好きなのは、キミだよ』
そう言えたらどんなに楽だろうか。
でもタクマが欲しいのはヨシマサからの言葉じゃない。
なら、ヨシノはタクマとはまったく違うタイプが好みだと言うべき
なのか?
そうすればタクマはヨシノを諦めるかもしれない。
しかし、それはタクマを深く傷つけることでもある。
だったら──
「……ねぇタクマ。そんなにステキな人なら、すでに彼氏がいたりとかしない?」
そうだ。それが一番簡単な“ウソ”だ。
ヨシノなんて人間はこの世に存在しない。
存在そのものがウソなのだ。
夜のひと時だけ現れる、蜃気楼のように儚い幻でしかない。
だったら手が届かないことを伝えればいい。
その理由がウソであっても。
「そ、それは……」
タクマは咄嗟に反論しようとしたが言葉が見つけられないようだった。
タクマの表情が見る見る曇る。
「……そうか、そうだよな。あんなにイイ女なんだから、彼氏がいねぇほうが不自然だよな……」
ヨシユキは咄嗟に口を挟んだ。
後ろめたさにたえきれなかったから。
「で、でも、前はいたけど今はフリーってこともあるかもしれないよ? 諦めるのは早いんじゃない?」
……何をやってるんだボクは。
せっかくタクマが夢からさめかけていたのに、自分からフォローしてどうするんだ。
絶対にかなうことのない夢なのに。
それでも、好きな人が落ち込む姿を見ていられなかった。
どうしたらいいんだ。
何をすれば正解なんだ。
そもそも正解なんてあるのだろうか。
タクマはうつむいてしばらく押し黙っいていたが、ガバと顔をあげた。
「決めた。やっぱり今から行く」
「え?」
「アスカさんに聞くんだよ! 店長なんだから色々知ってるだろ? もしかしたら、応援してくれるかも!」
「い、いや、さすがに応援してくれるかどうかは……」
「そんなの言ってみねぇとわかんねぇだろ!? さ、行こうぜ!」
「い、いや、だからボクは──」
「なんだよ、いつもはつきあってくれんのに……あ、先輩、もしかして……」
タクマは真剣な眼差しでヨシユキに顔を近づける。
「そんなに嫌がるってことは、まさか先輩……!?」
バレた!?
メイクはちゃんと落としたはず。
髪も後ろで縛っている。
服だって普段着の男物だ。
でも顔は同じだから、間近でじっと観察されたらバレてもおかしくない……!
どうしよう?
どうする?
突き付けられる前に自分から言うべきか?
でもバレたのならもう思い悩むことも──
「先輩……さては俺に彼女ができるのを嫉妬してんな!?」
タクマは得意気な顔で言った。
分かってない。
全然わかってないよキミは!
「そうかそうか! こりゃ配慮が足りなかったな!」
タクマは勝ち誇ったように笑いながらうんうんとうなずいだ。
何を分かったつもりになってるんだこいつは!
「先輩も彼女いない歴イコール年齢だもんな! 後輩に先越されるかもって思ったら、そりゃ焦るよな!」
……なんか腹が立ってきた。
人の気も知らないで!
「でも大丈夫だって! 俺がヨシノさんと付き合い始めても、俺と先輩の友情は変わんねぇから!」
しかももう付き合う気でいる。
色々思い悩むのがバカらしくなってきた。
「……わかったよ。行こう」
「おう!」
ヨシユキはタクマに手を引かれて立ち上がる。
ゴツくて逞しい手。
その手の暖かさは頼もしく、それでいて胸に小さな痛みを突き刺した──
「いらっしゃーい」
アスカの声が出迎える。
「あら、タクマくんと、隣にいるのは──」
ヨシユキは唇の前に人差し指を立てて「黙って」のジェスチャーをする。
アスカはヨシユキの意図を察したのか、意味ありげにニヤッと笑った。
「……そちらはお友達?」
その目は明らかに
『あんた、その子のこと好きなんでしょ?』
と言っている。
タクマはヨシユキたちの意図も知らずに能天気に笑っている。
「ああ、先輩だよ。友達でもあるけどさ」
「今日はどうしたの? ヨシノちゃんは──」
「知ってるよ。夜だけだろ。だからこそ聞きたいことあるんだけど──」
ヨシユキとタクマはカウンター席に座ってコーヒーを注文した。
タクマはヨシノのことをどうにか聞き出そうとする。
しかしアスカはそれらをのらりくらりとかわす。
「なんでヨシノさんて夜しかいねぇの?」
「あの子も忙しいのよ」
「ヨシノさんってどんな人が好みなの?」
「そりゃ、好きになった相手が好みのタイプでしょ」
「彼氏、いるの?」
「彼氏もなにも結婚してるわよ」
「えっ!?」
「あ、私じゃなくてヨシノちゃん? さぁねぇ。どうかしら。独身だとは思うけど」
必死に質問を続けるタクマを、アスカは明らかに面白がっている。
時折、ヨシユキに『この子、からかうと面白いわ』という視線を送ってくる。
昔から分かっていたが、改めて趣味の悪い姉だ。
そもそもヨシノなんて“女”はこの世に存在すらしないので答えようがないのだが。
徐々にタクマの口数が少なくっていく。
アテが外れて意気消沈しているのは目に見えて分かる。
ヨシユキは少し可哀そういなってきた。
しかしアスカがヨシノの正体についてバラすことはなさそうなので、ひとまずは安心だ。
「ところでタクマくんと……先輩さん? はどういう知り合いなの?」
「え? あぁ……昔、オレがバスケやってた頃にちょっと……」
タクマは言いにくそうに目を反らした。
ヨシユキが高校三年生の頃、タクマはエース候補の大物一年生として学内でも有名だった。
190cmを超えるめぐまれた体格だけでなく、パワーもスピードもセンスも高校生離れしている。
タクマがいれば全国大会出場はおろか、ベスト8も狙えるのではと皆が期待を寄せていた。
学内にファンも多く、特に女生徒の中ではファンクラブ結成の動きもあったほどだ。
しかし足首を負傷で挫折、そのままバスケ部を辞めてから荒れた生活を送るようになっていった。
周囲に大勢いた人間は一人、また一人と少しづつ離れていった。
ヨシユキ一人を除いて。
「……でさ、先輩って小柄で女顔だろ? だから変態オヤジに狙われてたところ、たまたま助けたことがあってさ」
ヨシユキが店から帰る時、ストーカーと化した客がヨシユキを物陰に連れ込もうとした。
客はヨシノの正体を知った上で襲ってきた。
タクマが通りかからなかったらどうなっていたことだろう。
「オレ、バスケやめてから、ガッコで友達とかいなくて。でも先輩だけは何かと話しかけてくれて、今でも時々大学で会ったりしてんだ」
「最近は毎日でしょ」
ヨシユキが突っ込んだ。
「ん? そうだっけ? なんかいつも会ってっからわかんなくなってたな」
タクマは屈託なく笑う。
ヨシノには見せることはないだろう笑顔。
それは同性だから、友達だから見せてくれる笑顔。
もし全てがバレたら、こんな風に笑ってくれるだろうか──
「あら、そろそろ夜の用意しないと」
時計は午後五時に差しかかろうとしている。
「ごめんね。うち、六時からお酒出すから準備しないと」
ヨシユキとタクマは店を出た。
「なんもわかんなかったな……」
タクマは溜息をついた。
キミが知りたい人は、今目の前にいるんだけどな……。
そう言ってあげられたらどんなにいいか。
「じゃ、先輩。またな……」
肩を落して歩いていくタクマを、ただ黙って見守るしかできなかった。
気にはなったが、もうすぐ夜の店が始まる。
後ろ髪を引かれながら、ヨシユキは店に戻った。
ヨシノにならねばならない時間だ。
※ ※ ※
「ヨシノさん! オレとデートしてくれ!」
タクマはヨシユキの手を握りしめ、店中に響き渡る大声で言った。
「え……えぇーー!?」
ヨシユキも負けてないほどの驚きの声をあげてしまった。
店中の客の目が二人に集まる。
「ちょ、ちょっと、落ちついて!」
「落ち着いてるって! 落ち着いてよく考えたんだ! もう、当たって砕けるしかねぇって!!」
「い、いや、それ全然落ち着いてないから! ヤケになってるだけだから!」
どうやらタクマは一度店から出たあと、色々考えて極まった行動に出る決意を固めてしまったらしい。
常連客はニヤニヤして眺めている。
誰も助けてくれそうにはない。
アスカにいたっては拳を握りしめて「もっと行け!」というジェスチャーまでしている。
「と、とにかく座って! まず話をしないと」
「いいや! オーケーしてくれるまで座らねぇ!」
「もう、分かった、分かったから! まずは座って」
「……マジ? マジでデートしてくれる?」
「……あ」
つい勢いで言ってしまった。
「もう、しょうがないなぁ。でも、ボクにだって都合があるんだから、今日、明日ってわけにはいかないのよ。それも含めて話しあいましょ。ね?」
タクマは静かに下を向いた。
……その場の流れで言ってしまったことを見抜かれたのだろうか。
実際にデートなんてするつもりはない。
いやできない。
今は夜の店だから誤魔化しがきく。
しかし明るい時間に明るい場所でじっくり顔を見られたら、バレる可能性は高くなる。
いや、絶対にバレる。
だから適当に話を濁しておくつもりだったのだが。
タクマの肩が小刻みに震えている。
まずい。
怒らせてしまったか。
あるいは絶望させてしまったのか。
「あ、あの、ねぇ、タクマくん?」
「……った」
「え?」
「……ィやったー!!」
タクマは飛び上がらんばかりに大声をあげた。
いや、本当に飛び上がって歓声をあげた。
いや奇声と言うべきか。
店中の人間があまりの大声に一瞬ビクリと全身を振るわせた。
「じゃ、オレ、いろいろイイところとか調べてくるから!」
タクマはスキップせんばかりの上機嫌で店を飛び出していった。
「どこに行くとか考えてもなかったの……」
「普通、デートで行きたい場所くらい聞いてくるもんじゃないの?」
ヨシユキは公園で横に座るタクマに冷ややかに見た。
「う、うるせぇな。嬉しかったんだからしょうがねぇだろ」
タクマはスネたように口を尖らせる。
「しかも、デートの日取りもまだ決まられてないなんことある? あれからもう一週間だよ」
「だってよぉ、ヨシノさん、なかなか予定空いてねぇらしくてさ。大人は色々あるんだろうな」
タクマは空を見あげた。
どうせヨシノのことを考えているのだろう。
こんな無防備なタクマの顔を見られるのはきっと自分だけだ。
ヨシユキは密かに鉾らしく思った。
「でさ、先輩。ヨシノさんどこに誘ったら喜ぶと思う?」
「そんなのわかんないよ。会ったこともないんだから」
「……それもそうか。そもそも彼女いねぇ先輩に聞いたオレがバカだったな」
……ちょっと腹が立つこともあるけど。
「あっそ! だったら毎日会いにきてくれなくていいんだよ!」
「ま、待てって! そんなヘソ曲げんなよ。オレ、先輩しか相談できる相手いねぇんだよ。悪かったって!」
あれからタクマは昼だけでなく毎朝通学時にも会いに来るようになった。
タクマの家はヨシユキと正反対なのに、わざわざ遠回りしてまでやって来る。
「とにかくさぁ、一緒に考えてくれよ。頼むよ、オレと先輩の仲じゃねぇか」
タクマのお願いには弱い。
でも、
そこまで“ヨシノ”が好きなんだ──
そう思い知るたびに心にトゲが刺さる。
わざわざ遠回りして朝早くから会いに来るのも全てヨシノのため。
頼ってくれるのは嬉しい。
でもそれはヨシユキのためじゃない。
もしヨシノの正体を知ったら──
「……って、おいって、先輩! どうしたんだよ。ボーッとして」
「あ、あぁごめん。午後の授業のこと考えちゃって」
「もしかしてオレ、先輩の迷惑になってたり……」
「な、ないない! そういうわけじゃないよ!」
「そ、そうか? ならいいけどよ。迷惑ならそう言ってくれよ。オレ、そういう距離計るのってダメでさ。ウソついてまで気ぃつかわせたくねぇし」
むしろ迷惑をかけているのは……キミを騙しているのは──
「ま、とにかく先輩も早く彼女作れって! いいもんだぜ? 人を好きになるのって。たとえそれが片思いでもよ」
そうだね。
人を好きになる気持ち、キミより先に知ってるよ。
片思いがどんなものなのかも。
痛いほどに、ずっと前から──
※ ※ ※
「え、映画とかどうかな? ヨシノさん」
タクマはコーヒーを運んできたヨシノに声をかける。
「うーん、そうねぇ。どんな映画に連れてってくれるの?」
「あ……そういやオレ、映画とかあんま見ねぇんだった」
「ならダメね。タクマくんがつまらない思いをしたら意味ないわ」
「じゃ、じゃあさ、日程だけでも決めようぜ!」
「そうねぇ……とりあえず来月まで待って。そうでないと予定が分からないの」
「ら、来月か。なげえなぁ……」
こうやってタクマに曖昧な返答をしてお茶を濁すのは何度目だろう。
いつまでこんな手が通用するのだろうか。
いっそバイトを辞めて姿を晦ませようかとも考えた。
だが学費も参考書代も交通費も、何もかもが足りない。
ここより割りのいいバイトが他に見つかるとも思えない。
「タクマくんさぁ」
唐突にアスカが声をかけてきた。
「あの先輩くんとはどうなの?」
「どうって、なにが?」
「あの子、夜は来てくれないじゃない。ヨシノちゃんも会いたがってるわよ。ねぇ?」
アスカが意地悪そうにヨシユキを見る。
黙っててくれ姉ちゃん。
てゆーかこっち見んな。
「あぁ、先輩理系でさ。実験とか色々忙しいんだって。頭イイからな、あの人」
「あの子キレイな顔してたじゃない。男にしとくのはもったいないくらい」
やめろってば!
何考えてんだよ!
「まぁ、そうだな。カワイイ系ってやつ? あれでなんで彼女できねぇのが不思議なんだよな。ああいう顔って女受けすんだろ?」
「あの先輩くん、案外タクマくんのこと好きなのかもよ?」
このバカ姉!
ヨシユキの焦りをよそにタクマは大笑いした。
「バカ言うなって! つーかあの人男だぜ? そりゃ、オヤジに狙われるくらいカワイイけど。単に女に声かける度胸ねぇだけだよ」
バカはお前もだ!
「でも、まぁそんな人だからほっとけねぇつーか。また変なのに絡まれそうだし。誰かが守ってやんねぇと」
……そこで優しいところ見せるの、ちょっとズルイよ……。
「そうかなぁ。私はイイと思うわよ?」
「イイって、何が?」
「うん、小柄でか弱い年上受けと、逞しく元気な年下攻め……あぁ、いいわねぇ」
アスカは恍惚とした表情でタクマを見た。
だがその目はタクマを見ているわけではない。
もっと遠くの、おそらくは知るべきではないどこかを見つめている。
「えっ、えぇ……いや……えぇー……」
タクマが明らかにドン引きしている。
他の客も同じ表情だ。
「……ごめんね。うちの店長、ビョーキなの。治らない系の」
「お、おう……アスカさんって美人ではあるけど、なんつーか、普通じゃねぇよな……」
「ああなるとアッチの世界から10分は帰ってこないから」
客たちはアスカをいないもののように振る舞い出した。
店の名はリリィローズ、百合と薔薇。
この店では定期的によく見られる光景だ。
タクマも他の客にならって、アスカのことは時々不気味な笑いを漏らすオブジェと思うことにしたようだ。
「そ、それで、デートなんだけどさ、オレ、ヨシノさんとだったらどこでも楽しい……から……」
タクマの言葉が途切れた。
「どうしたの?」
「あれ、いや、そんなわけねぇよな……」
「もう、何かあるの? ちゃんと話して?」
「あ……うん。あのさ」
タクマはヨシノとアスカを見比べんがら戸惑いがちに言った。
「なんか、ヨシノさんとアスカさん、ちょっと似てんなって」
「え?」
「いや、普段は全然そうでもねぇんだけど、今のアスカさんの、どっか遠くを見てる目が……似てるなって」
「あ、あぁ、親戚ではあるから、似てないわけじゃないかもね」
「……なんで今まで気づかなかったんだ」
ヨシユキの言葉はタクマには届いていないようだ。
「タクマくん?」
「……帰るよ。なんか、ちょっと呑みすぎたのかもしれねぇ」
タクマは立ち上がり、フラフラと店を出て行った。
「……お酒なんて呑んでないのに」
この時、ヨシユキは気づいていなかった。
終わりが近づいていることを──
次の日、タクマは現れなかった。
朝と昼も、夜にヨシノに会いくることもなかった。
ヨシユキもどこか落ち浮かずソワソワしていた。
LINEもメールもかえってこない。
三日が過ぎた昼頃の大学。ヨシユキはタクマが遠くから自分を見ていることに気づいた。
少し痩せたように見える。
「タクマ?」
声をかけようとしたが、タクマは背を向けて走り去ってしまった。
※ ※ ※
「ヨシノちゃん、今日の顔、魂どっかに置いてきちゃった感じだけど大丈夫?」
店でもメイクが適当になっていることをアスカに指摘された。
コーヒーや酒を運ぶ時もミスが目立つようになっている。
嫌われてしまったのだろうか。
でも“ヨシユキ”が嫌われたとしても“ヨシノ”にも会いに来ないのはどういうことだろう?
「恋する乙女は手抜きも許されるわけ?」
「だ、誰が乙女だよ! ボクは──」
「……もういいからちょっと休憩しなさい。今日はお客も少ないし、私一人でもどうにかなるから」
「で、でも──」
今日こそタクマが来るかもしれない。
そう言いかけた。
「これ以上ミスされちゃたまんないの」
アスカにピシャリと遮られた。
「店長命令よ。休憩しなさい」
返す言葉が見つからない。
「それに、タクマくんが来てもそんな顔じゃ会えないでしょ? お化粧、直してきなさい」
ドアチャイムが鳴ったのはその時だった。
「タクマくん……」
初めて店に来た時と同じようにタクマが立っていた。
タクマは少しおぼつかない足取りで、いつもの席に座る。
「タクマくん、しばらく来てくれなかったけど、なにかあった? ずいぶん痩せたみたいだけど」
「……オレ、おかしいんだ」
「え?」
タクマは机の上をじっと見つめながら呟いた。
「先輩は……男なのに。オレが好きなのは、ヨシノさんのはずなのに……」
ヨシユキはタクマの向かいに座った。
が、タクマは目を合わせようとしない。
「ねぇ、なにがあったの?」
「夢に……出てきたんだ。ヨシノさんが」
「ボク?」
「でも……でもおかしいんだよ! ヨシノさんのはずなのに……そこにいたのが、違うんだよ」
「違うって、なにが違うの?」
「先輩なんだよ! そこには先輩がいるんだ! でも、オレはそれがおかしいとか全然思わなくて、まるでヨシノさんと話すみてぇに先輩と話してるんだよ! それがすっげぇ楽しくて……」
以前、店で様子がおかしかったのはこのことだったのか。
ヨシユキとアスカは姉弟だ。
だから二人の顔立ちが似ているのは当然だ。
しかし、それはアスカとヨシノが似ているということでもある。
「オレ、先輩と顔あわせられなくて……恥ずかしいやら、申し訳ないやら、もう、どうしていいのか……」
「申し訳ない? ただの夢じゃない。キミが悪いところなんてなにも──」
「そうじゃねぇ、そうじゃねぇんだよ……!」
タクマは握り拳を震わせる。
「オレも最初はヘンな夢見たな、って程度だったよ。でも、先輩の顔見たら……先輩が、ヨシノさんに見えて……胸がドキドキして、おかしいんだよ! オレも、先輩も男なのに、オレはヨシノさんが好きなはずなんだよ!」
「タクマくん……」
「先輩の近くにいたら、先輩の手を握りたくて、抱きしめたくなって……オレ、こんなサイテーな奴だったのかって……」
ボクのせいだ。
ヨシユキはかける言葉を見つけられなかった。
タクマは無意識のうちに、ヨシユキとヨシノの共通点を見つけてしまったのだろう。
「オレ、これでも先輩には感謝してんだよ。バスケ部やめて、荒れてるだけのクズなオレのこと、先輩だけが気にかけてくれたのに。そんな人相手にオレは……! しかも、オレが好きなのは別の人なのに……!」
「……タクマくんは、その先輩のこと、嫌いなの?」
「嫌いなわけねぇよ! 大事な人なんだよ!」
タクマがガバッとして顔をあげた。
その勢いで目から涙が零れ落ちた。
「……自分でも、よくわかんねぇよ。先輩は男で、オレも男で、好きな人はヨシノさんで、なのに、先輩見たらドキドキして、すげぇカワイイなって……オレ、誰でもいいんだろうな。優しくしてくれる人なら男でも女でも、そんなサイテーな自己中野郎だって分かったんだ……!」
タクマは涙をぬぐって、無理に明るい笑顔をつくった。
「……それだけ言いたかったんだ。だからゴメン。デートの話、忘れてくれ。オレ、そんな資格ねぇ奴だからさ。なんでもっと早くに気づけなかったんだろうな。あ、だからバカなんだろうな」
タクマは力なく笑った。
乾いた笑いが痛々しい。
おかしくないよ。
人を好きになるのに資格なんているの?
そんなこと言ったらボクはもっと──
「……そんじゃ。さよなら。もう来ねぇから安心してくれ。そもそもオレみたいなのが来てイイ店じゃなかったんだよな。最初から」
タクマは立ち上がって背を向けた。
出口に向かって歩き出す。
「待って!」
タクマは足は止めたが振り返りはしなかった。
「その先輩とは、どうするの?」
「……もう会わない。会えねぇよ。会っちまったら、自分でも何しでかすかわかんねぇ。そんなのダメだろ。オレも変態オヤジのこと、笑えねぇよな」
「違うよ!」
ヨシユキはカウンターに置いてある酒瓶を手に取った。
アスカが止める間もなく、ヨシユキは栓を開け、脱いだエプロンに中身をぶちまける。
「ヨシノさん?」
タクマが怪訝そうに見守る中、ヨシユキは酒に浸したエプロンを見る。
強いアルコールが揮発するムワッとした匂いが鼻をつく。
一瞬躊躇したが、ヨシユキは酒で濡れたエプロンで顔を覆い、強引に、乱暴に拭い始める。
「ちょ、ちょっと、ヨシノさん!?」
タクマが思わず駆け寄ろうとして、立ち止まった。
「おかしくないよ。タクマくんは、なにもおかしくない」
エプロンが床に落ちる。
エプロンはベージュや口紅、アイシャドウの色に染まっている。
「おかしいのは……ずっと騙していた、ボクのほうだよ」
ヨシユキは髪を後ろで無造作に縛る。
アルコールで強引にこすった目元が少し赤くはれあがっている。
「先輩……」
タクマは茫然とした表情で呟いた。
「ね? 男のボクなんてダメでしょ。全然ドキドキしないでしょ? だから、キミはなにもおかしくないよ。
ヨシユキは笑った。
その笑いは先程のタクマのようにどこか乾いて空虚だった。
「男なんか好きになったりしちゃ、ダメよ。夢はもう終わり」
最後はヨシノとして、タクマが愛したお姉さんの声で言った。
それが精一杯だった。
凍り付いたように固まるタクマの脇をすり抜け、ヨシユキは出口のドアに手をかける。
「店長、ごめんなさい。今日は、もう帰りますね」
ドアチャイムが鳴る音。
タクマは床に落ちたエプロンを見て立ち尽くすことしかできなかった──
午前の講義はまるで頭に入らなかった。
ヨシユキはどんよりと沈んだ顔でいつもの公園のベンチに座る。
いつもならタクマが隣にいてくれてるのにな……。
ヨシユキは真っ赤に晴らした目で曇り空を見上げた。
昨晩は泣いて泣いて、気づいた時には朝になっていた。
変な体勢で寝ていたせいで体も痛い。
アルコールによる顔の腫れはひいたが、目はよりいっそう赤くなってしまった。
アスカから鬼のように電話もメールもきていたが全部無視した。
あれで正解だったのだろうか、と考えを巡らせる。
苦しみ、悩むタクマを見ていられなかった。
ヨシノとしてタクマと接するのは、最初は騙しているようでイヤだった。
しかしタクマがヨシノに好意を寄せてくれるのが嬉しくて、二人で過ごす時間は徐々に楽しいものに変わっていった。
たとえそれがヨシユキではなく、ヨシノへのものだったとしても。
だがそれももう終わった。
昨夜の言葉の通り、二度とタクマはヨシユキと会ってはくれないだろう。
でも、せめて最後に憎まれなければいけなかった。
怒ってほしかった。
あいつに騙された、ひどい奴だ、そう思われるなら、タクマが自分自身を責めることだけは避けられる。
「はぁ」
嫌われるのはツライな。
思わず深いため息が漏れる。
一瞬、視界が真っ黒になった。
急な雨か、と思ったが目の前に誰かが立っていた。
「あの」
……知らない男性だ。
多分同じ大学生だろう。
「はい?」
「ヨシユキくん、だよね」
「えぇ、そうですけど」
「むこうの彼から伝言が……あれ、もういないな」
男性は公園の入口を見た。誰もいない。
「まぁ、とにかく夕方、体育館で待ってるって。そう伝えてくれって」
「体育館って、どこのですか?」
「さぁ。そう言えばわかるとしか」
そう言われてもヨシユキには心当たりがない。
「どんな人だったんですか?」
「名前は聞いてないけど、金髪の、エラくでっかい奴だったな。でもあの感じ、高校生くらいじゃないかな。それと、ヨシノさんによろしく、って」
「!」
「確かに伝えたよ。それじゃ」
※ ※ ※
卒業して以来、母校の高校に訪れたのは初めてだった。
時間は夜の八時。
もう部活はやっていないはずだが、まだ明かりがついている。
物音はしない。
ヨシユキは一瞬だけ躊躇い、体育館の扉に手をかけた。
広いバスケッとコートの中央にタクマが一人立っていた。
「先輩」
「タクマ……」
「もう、ここには来ねぇと思ったんだけどな。でも、ここが一番いいって思ったんだ。先輩と初めて会ったトコだから」
タクマはバスケットゴールを見上げた。
「覚えてる? 先輩さ、オレが荒れてここでケンカした時、必死に止めてくれたよな。オレ、どけよ、てめぇもシメるぞって怒鳴ったっけ」
ヨシユキもゴールを見上げた。
「……覚えてるよ。すっごく怖かった。でも、放っておけなかったから」
「最初はさ、なんだこのチビ、ヘンな奴だなって思った。でも、それでも先輩はオレを放っておかなかった。部の奴らも、顧問も、親も見捨てたオレなんかを」
タクマはいつの間にか手に持っていたバスケットボールをゴールに向かって放った。
ボールがゆるやかなカーブを描いてゴールに向かい……リングに蹴られて外れた。
タクマは苦笑いした。
「……やっぱニブッてんな。前はこのくらい楽勝だったのによ。当たり前だけど、サボって逃げるとすぐダメになるよな」
タクマは振り返り、神妙な面持ちのヨシユキを見て笑った。
「あ、さては先輩、信じてねぇな? オレ、ホントは外のシュートのほうが得意だったんだぜ。タッパあるから突っ込まされてばっかだったけど」
「ううん。知ってるよ。ずっと……見てたから。応援……してたから」
「……そっか。じゃ、ガッカリさせちまったんだな」
タクマは深呼吸した。
「オレ、戻るよ。バスケ部に。ずいぶんサボっちまったから、またベンチからだけど。でも、やり直したいんだ」
「……うん。よかった。本当は、ボクが高校にいる間にそうして欲しかったけどね」
「……そうだよな。ずいぶん待たせて、遠回りしちまったな。でも」
タクマがヨシユキの両手をガッと掴んだ。
「え……」
「オレ、もう後悔したくねぇんだ。やっと分かったんだ。オレが好きなのは“ヨシノ”さんだからじゃない。ずっと、オレを支えてくれてた先輩だからだって。オレは、結局、ずっと一人の人を好きだったんだ。ようやく気づいたんだ」
「タクマ……」
「先輩とヨシノさん、正直、どっちのほうが好きだとか、どっちか選べとか言われても、分かんねぇ。だって、どっちも好きなんだよ。ヨシノさんも、先輩も」
二人の足下に、ゴールを外れたバスケッとボールがゆっくり転がってきた。
ヨシユキの足にあたり、止まる。
「だから、お願いします。改めて……オレとデート、してくれませんか。先輩」
ヨシユキは言葉に詰まった。
嬉しいはずなのに、胸が苦しくて言葉がつかえる。
「ボ、ボクで、いいの? ヨシノじゃ、なくて」
それだけ言うのも精一杯だ。胸の奥のあついものが今にもこみあげてきそうだ。
「オレは、先輩が好きなんだ。今の姿の先輩も、ヨシノさんも。もちろん、先輩がヨシノさんのカッコしたいならそれでもいい。でも、今のままの先輩だって、オレは好きなんだよ……これってフタマタになったりすんのかな?」
「ううん……いいよ、どっちでも。ボクも、タクマくのこと──」
あとは言葉にならなかった。
いや言葉なんて必要なかった。
ヨシユキの踵が床を離れてつま先立ちになる。
止まっていたボールが、ヨシユキの足に押されて、また床を転がり出した──
〈了〉

