僕の家は、入院していたあの病院から徒歩圏内の場所にある。実家というには滞在期間が短いからか、どこか他人の家に思えてしまうこの場所で僕は育った。最後に足を踏み入れたのはいつだったか。それすらも曖昧な記憶の海に溶けている。寂しかったとも、帰りたかったとも思わない、そんな空っぽな場所だった。
ゆっくりと玄関扉を引いてみるが、家の鍵は当たり前だけどかかっていて入れない。いつか母が、鍵を忘れてしまった時は裏庭のスノードロップが植わっている鉢の下を見るように、そこに合鍵が隠してあるからねと言っていたのを不意に思い出した。
記憶を頼りに裏庭に行けば、そこにスノードロップの鉢を見つけた。
小さい頃、母の日に近所の花屋で一番綺麗だと思った花を買って帰った。子供のお小遣いだし、本数は少なくなってしまったけれど、それでも母さんはとても喜んでくれたのを憶えている。次の日、学校から帰ったら可愛い鉢に座ったスノードロップが玄関に飾られていたのが、幼いながらに嬉しかった。
健気に、けれど強かに咲いているスノードロップは、ふわりと優しく風に揺れている。その様子がどこか笑っているように見えて、ちょっとだけ荒んだ心が凪いだ気がした。
感傷的になりつつその大切な鉢を優しく持ち上げると、記憶の通りそこには家の合鍵がぽつんと落ちていた。それを拾い玄関に戻る。
死神は玄関前にただ佇んでいた。深く被ったフードの所為であまり表情は見えないけれど、人の家に興味があるのだろうか、じっと家を見つめ上げていた。
合鍵を扉の鍵穴に差し込む。ガチャリと無機質な開錠音が、脳裏に重く響いた。
「……ただいま」
そう呟く音は、拾い掬われることはない。
僕は自分の部屋に向かおうと足を進める。目の前に立ちはだかる階段はもう随分と踏んでいない。小さい頃に駆け上った記憶は、成長した体によってすぐに塗り替えられた。この成長を素直に喜んでもいいのか、二度とこの階段を上ることができないことを嘆けばいいのか。そんなことを思いながら一段一段を踏みしめた。
僕の部屋だった場所は、まだ僕の部屋のまま、子供の頃のままの状態で綺麗に保管されていた。成長して姿を変えても、部屋はこのまま時を止めて、主人である僕を待ち続けていた。
埃一つない、人のにおいの消えた部屋。
もう戻ってこられない。ここで眠ることも、友人と遊ぶことも、机に向かって勉学に励むことだってできない。二度とできないんだ。僕はなんとなく、無機物である僕の部屋に申し訳なく思った。
最後に使ったのはいつの時だったか。憶えていないけれど、財布は記憶の場所にそっと息づいていた。もう新紙幣も発行されて随分経つというのに、新札一枚見当たらない財布の中身は、静かな時の流れを思わせた。財布を手に、僕は二度と戻ることはないであろう部屋に笑顔で別れを告げ出た。
ゆっくりと玄関扉を引いてみるが、家の鍵は当たり前だけどかかっていて入れない。いつか母が、鍵を忘れてしまった時は裏庭のスノードロップが植わっている鉢の下を見るように、そこに合鍵が隠してあるからねと言っていたのを不意に思い出した。
記憶を頼りに裏庭に行けば、そこにスノードロップの鉢を見つけた。
小さい頃、母の日に近所の花屋で一番綺麗だと思った花を買って帰った。子供のお小遣いだし、本数は少なくなってしまったけれど、それでも母さんはとても喜んでくれたのを憶えている。次の日、学校から帰ったら可愛い鉢に座ったスノードロップが玄関に飾られていたのが、幼いながらに嬉しかった。
健気に、けれど強かに咲いているスノードロップは、ふわりと優しく風に揺れている。その様子がどこか笑っているように見えて、ちょっとだけ荒んだ心が凪いだ気がした。
感傷的になりつつその大切な鉢を優しく持ち上げると、記憶の通りそこには家の合鍵がぽつんと落ちていた。それを拾い玄関に戻る。
死神は玄関前にただ佇んでいた。深く被ったフードの所為であまり表情は見えないけれど、人の家に興味があるのだろうか、じっと家を見つめ上げていた。
合鍵を扉の鍵穴に差し込む。ガチャリと無機質な開錠音が、脳裏に重く響いた。
「……ただいま」
そう呟く音は、拾い掬われることはない。
僕は自分の部屋に向かおうと足を進める。目の前に立ちはだかる階段はもう随分と踏んでいない。小さい頃に駆け上った記憶は、成長した体によってすぐに塗り替えられた。この成長を素直に喜んでもいいのか、二度とこの階段を上ることができないことを嘆けばいいのか。そんなことを思いながら一段一段を踏みしめた。
僕の部屋だった場所は、まだ僕の部屋のまま、子供の頃のままの状態で綺麗に保管されていた。成長して姿を変えても、部屋はこのまま時を止めて、主人である僕を待ち続けていた。
埃一つない、人のにおいの消えた部屋。
もう戻ってこられない。ここで眠ることも、友人と遊ぶことも、机に向かって勉学に励むことだってできない。二度とできないんだ。僕はなんとなく、無機物である僕の部屋に申し訳なく思った。
最後に使ったのはいつの時だったか。憶えていないけれど、財布は記憶の場所にそっと息づいていた。もう新紙幣も発行されて随分経つというのに、新札一枚見当たらない財布の中身は、静かな時の流れを思わせた。財布を手に、僕は二度と戻ることはないであろう部屋に笑顔で別れを告げ出た。

