水縹(みはなだ)に眠る

「……おい」
「いや~、アンタが聞き分けのいいガキでほんとに助かったわ。危うく規律違反になるところだったんだ」
「おい」
「俺の管轄区域ってどうしてこうも自殺志願者が多いんだか。参っちまうよ」
「おい。聞けよ」
「あ。そもそもこの辺り病院が多いからこうも違反されやすいのか? ……悪い、ちょっと本題に入る前に今から上司に掛け合ってく——」
「人の話まったく聞かねえなこいつ‼」
「……そんなカリカリすんなよ。脳の血管切れるよ?」
「誰の所為で叫び散らかしてると思ってるの?」
「さあ?」
「お前だよ‼」

 息も絶え絶えな僕だけど、動揺が隠せないのが本音で、どうこの感情を処理したらいいのか分からず、結局八つ当たりという選択を取った。死神相手にバカバカしいと思うが、この目の前の状況を見れば百人が百人、僕に同情してくれると自負していた。

 だって、僕の足元に僕が死んでいるんだから(・・・・・・・・・・・・・・・・)。

「そう怒るなって」
「怒る怒らないの次元じゃないでしょ。ねえこれ僕だよね。僕の体、僕から離れてるんだけど。なにこれ。説明しろよクソ死神」
「……なんかアンタ、さっきと打って変わって人が違う気がするんだけど。もしかしてそっちが本性?」
「もしかしなくてもこっちが本来の僕だよ。てか話逸らすな。これは何」

 これ、と指差した先には僕が転がっている。転がっている僕は完全に色を失っていて、誰がどう見ても、死体のそれである。
 しかし不思議と感じるのはその体の在り方だ。視点が変わる瞬間、僕は確かにこの死神の持つ三日月形の大鎌によって斬り殺されたはずだった。けれど、どういう仕組みか僕の体には傷一つ、血の一滴すらも無かった。
 それに比べて僕である。半透明の体から連想される、幽体離脱という言葉。その言葉が脳裏に過ぎった瞬間、僕は思わず身震いした。
 自分自身を、こうして客観的に目の当たりにして、思う。さっきまで僕の体だったものは、やはりガラクタだったのだ。

「それは……アンタだったもの、だな」
「……何をいけしゃあしゃあと……。元に戻せよ」
「俺は狩る側だって分かってて言ってるか? ……ふはっ、人間にそう噛みつかれたのは初めてだ。面白そうだ。戻りたいなら戻ってみればいい。——もっとも、戻れたらの話だがな」

 何が「戻れたらいい」だ。僕は死神を穴が開くまで睨みつけ、転がる体に戻ろうと強くイメージを持って勢いよく触れた。よし、なんだ戻れるじゃないか、と目の前でニタニタと嗤うクソ死神を言い負かしてやろうと思っていた——のに。

「……っ……⁉」
「どうだ、自分の死を間近で見た感想は。そして、生を捨てた体の感想は?」

 死神に問われて、僕は言葉を失った。触れようとした瞬間、僕の手は僕の体をすり抜けてしまったのだ。何度試しても僕は僕に触れることができず、僕は今、本当に幽霊なのだと、自覚せざるを得なかった。

 結論、僕は僕の体に戻れなかったが、いざ冷静になれば不思議と驚いただけで、何でなのかとは思わなかった。

 この死神が死だとか生だとか、簡単に言ってのけるから、僕の体——正しくは幽体——はどっと疲れを訴えてきた。……そういえば、さっきまで感じていた体の不調も不快感も、今は何も感じない。純粋な疲れだけという感覚に戸惑う。きっとこの感覚が普通の体の感覚なんだろう。健康体を知れたことに関しては、死神に感謝しなくちゃならないなとも思う……けれど。

「——狂ってる」

 この状況も、夜空に光る眩しい星の大海も、そこで三日月形に口を歪め嗤う死神も。

「それは、なんとも光栄な回答だな」

 すべてが狂って、僕は今すぐにでも意識をこの世界から飛ばしてしまいたくなった。