建物と、僕たちの世界とを隔てる境界線。なんだか無性に気になって、近くまで行って、なんとなく下を覗いた。
あ。と、今とてもいいことが頭の中に思い浮かんだ。あ、空飛べそう。飛び落ちて、鳥になって空に浸るのは気持ち良さそうだな、なんて。狂った思考を回せるくらい、今の僕は生きることに執着が無かった。
びゅおお、と病棟と病棟の隙間から強い風が吹き抜けている。まるで闇に潜む鎌鼬が楽しげに現世に飛び出してきているような音だった。
どうせ誰も僕を見ていないのだから、今ここから飛び降りて死んでしまっても誰も知る由もないだろう。苦しみを感じない世界にゆけるのだから安いものだ、死なんて。
僕が世界からいなくなれば、家族は楽になれる。僕がその選択を取れば、僕の入院費の為に二人が身を粉にして働く必要もなくなる。迷惑は、少しばかりかけてしまうことに変わりはないかもしれないけれど、それでも、これからの夫婦の時間をあげることができる。やっと「僕」という重荷から、二人は解放されるんだ。
いいことをして生を終えられると思ったら、僕の右足は一歩、自然とフェンスの外に踏み出していた。
「死ぬのかアンタ」
世界に静寂が満ちた瞬間、僕の足はここが高層建築物であることを思い出したらしく一気に震え上がった。視線を声のした方へぐるりと回せば、人が宙に浮かんでいた。
僕は小さく息を飲んだ。黒装束に身を包み、フードを深く被っているその人物は、顔の認識が難しい。
不意に風に揺らいだフードの隙間から覗いた、あの空彼方に浮かぶ月明かりに劣らないだろう黄金の双眸、宵闇に溶ける黒髪、そして、見る者すべての視界を一度は支配するであろう三日月形の大振りな鎌を、その人物は手に握っていた。
僕の認識が間違っていなければ、目の前に浮かぶそれは死神の姿をしていた。
「……」
思いもしない事態に僕はしばらく沈黙した。そもそも僕には霊感なんてないし、あったとしても幽霊という非科学的概念は信じていない主義なので、今目の前にいる人物が仮に死神だったとしても、僕にはコスプレをした痛い奴にしか見えない。
「……はあ……」
ずっと静かにしていたのが気に障ったのか、ひとつ溜め息を吐いて彼はその黄金に輝く双眸を僕に向けた。吐息は空気に溶けていくだけで、冬の白さは持ち合わせていない。
それは、きっと生者でないことの証明。
「お前……人じゃないの?」と僕が問うと、鎌の人は口角を持っている三日月形の鎌のように歪めて言った。「俺は死神だよ」と。
「しに、がみ……」
「そう。死神。よくある伝承で見るような見た目をしているだろう? 怪しげな黒装束に鎌。ほら、完璧じゃん?」
じゃん? と言われましても。自慢げに両手を広げて見せられましても。実物を見るのは初めてですが。というか、いるんですか、実物。
「……出会って間もない、得体のしれない人に言うのは少しためらうんだけどさ」
「うん?」
「邪魔しないでくれる? 部外者」
僕のはっきりとした物言いに一瞬だけ死神は驚いた様子を見せたけれど、すぐに笑い飛ばして彼は僕に近づいてきた。
「ははは! アンタ、随分と活きがいいんだなァ!」
「は?」
「ただアンタが今ここで死ぬのは、俺にとってあまり宜しくない状況なんだよな~」
「状況とかどうでもよくない? お前、僕のなんでもないじゃないか」
「なんでもあるんだよ、これが」
いわくその死神が言うことには、この辺り一帯の「死」を取り締まるのが彼の主な仕事らしい。正しく死を迎えられない者たちを正しい終焉へと導くために、都度こうして地に降り立つのだという。ちなみに死神の言う「正しい死」というのは、その人に定められた人生の時間を指すらしい。
「じゃあ僕はそのお前の言う正しい死を迎え損ねた人間ってこと?」
「ああ。自殺はそのほとんどが正しい死の条件を満たさないからな」
死神は困ったように両手を上げた。全然困ったように見えないのは、フードの中から薄ら見える三日月の笑みの所為だろうか。まるでこの状況を心から楽しんでいるようにすら見えて、彼のペースに乗せられているような感覚になって正直イラっとした。
「……世の自殺志願者にまで人員を割いてくれるだなんて、死神業界はよほど暇の集まりなんだね」
僕は嫌味を独りごちた。どこに向けるでもなかったけれど、それは死神にも聞こえていたのだろうと思う。彼はフードを目深に被っているため表情は読めないが、驚いた、ような反応を見せた。初めて見る反応に、僕は一瞬ドキッとした。不整脈かな。そう思うことにした。
「まっ! 何がともあれ、俺にとって今日この場でアンタが死ぬことは都合が悪いって話。あと三日は生きてもらわないといけないんでね」
「三日……?」
「ああ。三日後が、アンタの命日だ」
これが定められた僕の人生の終着点なのだと、三日月の死神は僕に指差し言った。
どうやら僕の命は、あと三日で尽きるらしい。
必ず三日後に死ぬという運命から逃れられないのなら、今日と明日を生きたって変わらないのかもしれない。どうせ変わらないのなら、今ここで飛び降りて死ぬ意味も無い。僕が死神業界の均衡を守ろうとしている理由もよく分からないけれど、もはや反抗する気力も削がれてしまった。
「分かったよ」と死神の言葉に頷いた。瞬間、僕の視界いっぱいに、命を狩り取る月の刃が音もなく振り落とされた。
あ。と、今とてもいいことが頭の中に思い浮かんだ。あ、空飛べそう。飛び落ちて、鳥になって空に浸るのは気持ち良さそうだな、なんて。狂った思考を回せるくらい、今の僕は生きることに執着が無かった。
びゅおお、と病棟と病棟の隙間から強い風が吹き抜けている。まるで闇に潜む鎌鼬が楽しげに現世に飛び出してきているような音だった。
どうせ誰も僕を見ていないのだから、今ここから飛び降りて死んでしまっても誰も知る由もないだろう。苦しみを感じない世界にゆけるのだから安いものだ、死なんて。
僕が世界からいなくなれば、家族は楽になれる。僕がその選択を取れば、僕の入院費の為に二人が身を粉にして働く必要もなくなる。迷惑は、少しばかりかけてしまうことに変わりはないかもしれないけれど、それでも、これからの夫婦の時間をあげることができる。やっと「僕」という重荷から、二人は解放されるんだ。
いいことをして生を終えられると思ったら、僕の右足は一歩、自然とフェンスの外に踏み出していた。
「死ぬのかアンタ」
世界に静寂が満ちた瞬間、僕の足はここが高層建築物であることを思い出したらしく一気に震え上がった。視線を声のした方へぐるりと回せば、人が宙に浮かんでいた。
僕は小さく息を飲んだ。黒装束に身を包み、フードを深く被っているその人物は、顔の認識が難しい。
不意に風に揺らいだフードの隙間から覗いた、あの空彼方に浮かぶ月明かりに劣らないだろう黄金の双眸、宵闇に溶ける黒髪、そして、見る者すべての視界を一度は支配するであろう三日月形の大振りな鎌を、その人物は手に握っていた。
僕の認識が間違っていなければ、目の前に浮かぶそれは死神の姿をしていた。
「……」
思いもしない事態に僕はしばらく沈黙した。そもそも僕には霊感なんてないし、あったとしても幽霊という非科学的概念は信じていない主義なので、今目の前にいる人物が仮に死神だったとしても、僕にはコスプレをした痛い奴にしか見えない。
「……はあ……」
ずっと静かにしていたのが気に障ったのか、ひとつ溜め息を吐いて彼はその黄金に輝く双眸を僕に向けた。吐息は空気に溶けていくだけで、冬の白さは持ち合わせていない。
それは、きっと生者でないことの証明。
「お前……人じゃないの?」と僕が問うと、鎌の人は口角を持っている三日月形の鎌のように歪めて言った。「俺は死神だよ」と。
「しに、がみ……」
「そう。死神。よくある伝承で見るような見た目をしているだろう? 怪しげな黒装束に鎌。ほら、完璧じゃん?」
じゃん? と言われましても。自慢げに両手を広げて見せられましても。実物を見るのは初めてですが。というか、いるんですか、実物。
「……出会って間もない、得体のしれない人に言うのは少しためらうんだけどさ」
「うん?」
「邪魔しないでくれる? 部外者」
僕のはっきりとした物言いに一瞬だけ死神は驚いた様子を見せたけれど、すぐに笑い飛ばして彼は僕に近づいてきた。
「ははは! アンタ、随分と活きがいいんだなァ!」
「は?」
「ただアンタが今ここで死ぬのは、俺にとってあまり宜しくない状況なんだよな~」
「状況とかどうでもよくない? お前、僕のなんでもないじゃないか」
「なんでもあるんだよ、これが」
いわくその死神が言うことには、この辺り一帯の「死」を取り締まるのが彼の主な仕事らしい。正しく死を迎えられない者たちを正しい終焉へと導くために、都度こうして地に降り立つのだという。ちなみに死神の言う「正しい死」というのは、その人に定められた人生の時間を指すらしい。
「じゃあ僕はそのお前の言う正しい死を迎え損ねた人間ってこと?」
「ああ。自殺はそのほとんどが正しい死の条件を満たさないからな」
死神は困ったように両手を上げた。全然困ったように見えないのは、フードの中から薄ら見える三日月の笑みの所為だろうか。まるでこの状況を心から楽しんでいるようにすら見えて、彼のペースに乗せられているような感覚になって正直イラっとした。
「……世の自殺志願者にまで人員を割いてくれるだなんて、死神業界はよほど暇の集まりなんだね」
僕は嫌味を独りごちた。どこに向けるでもなかったけれど、それは死神にも聞こえていたのだろうと思う。彼はフードを目深に被っているため表情は読めないが、驚いた、ような反応を見せた。初めて見る反応に、僕は一瞬ドキッとした。不整脈かな。そう思うことにした。
「まっ! 何がともあれ、俺にとって今日この場でアンタが死ぬことは都合が悪いって話。あと三日は生きてもらわないといけないんでね」
「三日……?」
「ああ。三日後が、アンタの命日だ」
これが定められた僕の人生の終着点なのだと、三日月の死神は僕に指差し言った。
どうやら僕の命は、あと三日で尽きるらしい。
必ず三日後に死ぬという運命から逃れられないのなら、今日と明日を生きたって変わらないのかもしれない。どうせ変わらないのなら、今ここで飛び降りて死ぬ意味も無い。僕が死神業界の均衡を守ろうとしている理由もよく分からないけれど、もはや反抗する気力も削がれてしまった。
「分かったよ」と死神の言葉に頷いた。瞬間、僕の視界いっぱいに、命を狩り取る月の刃が音もなく振り落とされた。

