一ノ瀬千景はとてもやさしい人である。
それは、千景が率先して人の嫌がること、雑用を進んで引き受けていたからだ。
周りは千景を優しい人だと口々に言った。その度に、千景はどんどん自分を失った。
それでもよかった。日常を平穏に生きて行ければ。
他人の視線が怖くって、誰かとつながりを持つことで安心できた。
そんな、千景のいつもの日常が、ぐにゃっと曲がったのは、怒鳴り合って感情をぶつけ合う二人に出会った時。
あれから三日、そのうちの一人である日真桜夏はゲーセンに通い続けている。
三日間ずっと見守っていたが、今日はたまたま写真部の用事でパソコンルームに向かっていた。
もしかしたらいるかな、とは思っていた。
ガラッとパソコン室の扉を開けると、案の定、赤い髪の少女がパソコンと格闘しているところだった。
そっと近づくと、ほとんど視界の端だったはずなのに、安心院和は千景を見つけた途端にヘッドホンを取って見上げた。
「あ、ごめんなさい、邪魔した、かな」
「ううん。丁度手詰まりで息抜きしたかったとこ。ええっと……」
「あ。ごめんなさい。私は一ノ瀬千景。ええと……日真さんの友達、かな」
「かなって、なにそれウケる。あいつ友達いたんだ。一人きりだと思ってた」
「安心院さんは――」
「和で良いよ」
「和さん――」
「呼び捨てで良いよ」
「ええと、和ちゃん、は、日真さんとお友達?」
「そうだよ」
思ったよりも即答が帰って来て、千景は思わず笑ってしまった。
和は恐らく、誰にでも分け隔てなく接するだろうと言う安心感があった。
それに、喧嘩したからと言って、嫌いになってないことが簡単に透けて見えた。
写真を撮っているからかは分からないけれど、和はフレームの中に納まらない魅力があるように思えて、この快活さが一助になっているのは間違いない。
「それ、動画編集? ゲームの」
「ん? うん。いやまあ、やる気はなかったんだけどねぇ。ちょっとさ」
「……そっか。何か、迷ってそうって言うか、困ってそうだね」
「うーん? なんかテロップと音、上手いこと合ってない気がするんだよね。ほら、ズレてる。でも合わせ方分かんなくてさ」
「それじゃあ、波形、これ分かる? この波に合わせると良いよ」
「ほうほう……え、波多くない? あと、テロップの文字さ、これどうやって変えるんだろ。フォントってのがいつも使ってるやつが見つからなくて」
「フリーフォントとか色々あるから……ああ、いつも使ってるのは、けいふぉんとって言うらしいよ。フリーダからダウンロードしてみたら?」
「何、千景天才じゃん。ありがと!」
感謝されるのはいい気分だった。
そっと、もう一度パソコンのウィンドウを覗き見た。
素人目から見ても分かる。動画編集って言う作業がどれだけ複雑か。
それも、一から始めるとなるとまた違う次元の難しさがあるように感じた。写真だったら、ある程度教えることが出来るが、どう考えても動画編集は門外漢であった。
しかし千景は一つ思いついたことがあった。
だけど、そこまでしていいものなのか分からなくて、千景は一瞬だけ思考を止めた。
「自分で編集しようって思うの、偉いね」
「うん? うーん。まあたぶん自分のためには絶対今後やんないけどね」
「じゃあ、誰かのため?」
「どうだろ。結果的に自分のためかもしんない。千景はそういうのない?」
「……あるよ。自分のために、誰かに尽くす事」
雑用も、人が嫌がることも率先して行う理由はただ一つ。
そうしないと、自分の存在価値を見出せないから。そうすることで、じぶんがここにいてもいいって言う居場所を作っているから。
「うっわ、私、それは無理だわ」
「え?」
「だってそれ、千景のためになってんの?」
「私の……?」
「誰かのためになるって聞こえはいいけど、マジで人って馬鹿でさ、感謝だのお礼だの、忘れちゃうんだよね。なのに自分だけいい人になるってだけのことで尽くすのって、割に合わないでしょ、私のこれは、結局自分が相手の立場になって理解したいって言うエゴだよ」
「そういう考えも……あるかもね」
「でもさ、千景の優しいってかっこいいって思うんだよね」
「かっ……え?」
「だって、これ喜ぶだろうなって思いついて即実行してんでしょ? めっちゃカッコイイじゃん」
初めて言われた言葉に、千景は自分でもわかるほど顔に出してしまっていた。
言っている意味も、言葉の内容も全部理解しているのに一言一句呑み込めずにいた。
体が、というより、心が納得するのを嫌がっているようだった。
でも……それでも、安心院和という人間がほんの少しは分かったような気がした。
どうせ、桜夏にアドバイスした時から、ある程度責任もって最後まで見守るつもりではあった。
「それ、格ゲーだよね。好きなの?」
「スキー。マジこれしかやってない」
「そうなんだ……ねえ、初心者が上手くなるには何したらいいと思う?」
「コーチングが速いと思うよ。私もそうだったし。でも無理なら、これ。とにかくチュートリアルがキャラごとにあるのね。このキャラ! っていうのを決めて練習する。そして時間かけて対戦。そしたら、相手が嫌な事と自分が嫌なことがわかるから、あとはそこに対して得意を押し付ける。ちょい待って」
和はルーズリーフを取り出すと達筆な文字で大切なことをわざわざ書き記してくれた。
今日会ったばかりの自分に親切にする余裕があるのか、根っこから優しい人間なのか。
少なくとも、千景が今まで会ったことのない人種だった。
「ふむふむ。ありがと。じゃあ、私、用事があるから」
「パソコンは?」
「え?」
「いや、ここ来て何もしてなくない?」
「……ううん、出来たよ」
千景はその足で学校を出て、ゲームセンターへ走った。
走ったのなんていつ振りか思い出せない。
しかも目当ての相手がいるとも限らない。
さすがにもう四日目だ。
ここまでに毎日数千円をつぎ込んでいる。今日は休みという可能性だって十分あった。
なんでか分からない。
出会ったばかり、知り合ったばかり。でも、二人を見ると、胸がざわついて仕方がなかった。
自分にない物を、持っているような気がした。
ここにくれば、ざわつきと、自分が持ってない物の正体がわかる気がした。
「だああああくっそわれ! ゲームでよかったな、目の前におったらぶちまわしとったわ!」
笑ってしまった。
入ってすぐ響く、単純に迷惑な叫び声だと言うのに、今の千景にとっては努力の結晶に思えた。
スポドリを買って、叫ぶ少女の元に――
日真桜夏のところまで行くと、何故か人だかりが出来ていた。
いや、何故というかそりゃ、女子高生が一人ゲームセンターで発狂していたら興味も湧くのは当たり前だった。
実際声量だけなら他の機械音にかき消されるからか、特に店員さんは見えなかった。
とは言え、この人だかりの中、声をかけるのはさすがに憚られた。
「なんっでや……和に、ウチはここまでやれるんやって、言って、仲直りするって、決めたんや!」
「何か分かんねえけど熱いねえ」
「わかる。熱量とコインの消費量がガチ熱い」
「お前ら、邪魔するなよ。格ゲー人口を増やすためにここは見守るんだ」
本気で嫌になったが、桜夏の本気の叫びを聞いて揺さぶられない程、千景の心は小さくなかった。
「日真さん」
「なに……あ、え、一ノ瀬さん? どうしたの? 今日は学校じゃ?」
「応援。はい、スポドリと、これ、調べて来たよ、練習方法」
「えー、本当? ありがとー……って、これ……」
桜夏は何か言いたげだったが、すぐにメモの上にスマホを置いて重り代わりにしながらチュートリアルを始めた。
初日から今日まで、一度もやらなかったのに、と千景は笑った。
たぶん、桜夏は気づいている。そのメモを誰が書いたのか。
「おほん、あー、今日はチュートリアルモードでもやるか、久々に。懐かしいな、初心者の頃は絶対に大切だからってやってたっけ」
「そうだな。コンボモードってやつなら簡単なコンボから順番に練習できるしな」
「そうそう。初心者はまず、コンボモードだよなぁ」
桜夏が聞こえているかどうかはさておいて、優しい外野の優しいお節介から聞こえてきたモードでコンボを練習し始める。
不思議な話だった。確かギターをやっていて、動画編集を始めて、今は格闘ゲームをやっている。
ここまで、全く違う枝分かれしたものを頑張っている人間を始めてみた。
普通人は夢とか目標とかを見つけると、迷わずそちらへ走るものだと千景は思っていたから。
だから、自分が夢へ向かって歩いていないことも、強く自覚していた。
「ねえ、日真さん」
「え? 何? あ、ごめん、今度ジュース奢って返すから」
「それは良いんだけど、ギターとか動画編集とか、好きでやってるんだよね」
「そうだよ」
「じゃあ、このゲームも、自分が面白いから?」
「いや、たぶん私の人生に絶対必要ない時間だよ。だけどさ、癪なんだよね」
「癪?」
「友達の好きなもんを、自分が知らないからって理由で軽く見てる自分が癪。だから、覚えて真っ直ぐ、和と仲直りする」
「大丈夫だよ、きっと。あ、そうだ、ねえ日真さん、音声波形にテロップ合わせるじゃない? その時、音声の波を見つけるコツとかある? 波がいっぱいあると見えなくて」
「おーん……それゲーム実況?」
「そうだね」
「ゲームはね、普通の雑談系と違ってゲーム音が基本ずっと鳴ってるから、めっちゃ拡大するとか、あとは繰り返し同じ場所の再生だね。ほんで、テロップは言い終わりから大体15フレーム伸ばすと綺麗だよ」
「15フレーム……」
「ええとね、まずはショートカットキー覚えたらいいよ。これで5フレーム進むから3回押せばいい」
「じゃあ、フォントとかってどうやって集めたの?」
「ああ、SNSでフリーフォントを紹介するアカウントがあるのと、普段動画見てる時によさそうなの見つけるの。私はけいふぉんとと源ノ角明朝とか使ってる。アカウントの名前これねー」
さすがにマルチタスクがすぎる桜夏に圧倒される。
ゲームの練習をしつつ左手で文字を書く。正直お世辞にも綺麗とは言えない文字だった。
だけど、真摯な気持ちが伝わるメモを、千景はしっかりと大切にファイルへしまった。
「ありがと」
「……編集でもすんの? また、面倒ごとに巻き込まれてない?」
「え? ううん。そんなことないよ」
「そっか。この前言うの忘れたんだけどさ、一ノ瀬さんの写真、すごく好きだよ。カメラの枠の使い方って言うのかな。動画編集してて分かったけど、縦横数センチの中に魅力を押し込むのって難しいのに」
「……ありがとう。仲直り、出来るといいね」
にしし、と子供っぽい笑みを浮かべ、桜夏はプレイに戻った。
次の日は和の編集を見守りながら、桜夏にもらったメモをそのまま渡した。
和は感謝と共に動画編集と格闘していた。驚くことに、二人ともゲームなり編集なりしている時は全く他のことをしない。
編集もゲームの練習も家でしているらしかった。学校にいる時だけ、ゲーセンにいる時だけ集中力をもたせているとか。
そして、そんな日が更に一週間続いた辺りで、桜夏と和はゲーセンにいた。
喧嘩をして飛び出したパソコン室から始まった物語のエピローグが、ここで紡がれようとしていた。
ただならぬ空気。その上、ここ最近ゲーセンの一角を賑わせていた桜夏の纏う覇王のような形容しがたい雰囲気にギャラリーはゲームをプレイする振りをして神経を全てこちらに注いでいた。
「久しぶり、和」
「死んだかと思ってたよ、桜夏。で? こんなところに呼び出してどうした?」
「言葉には気を付けなさい? ここはもう私の第二の実家よ」
「桜夏の家は騒がしいところだなぁ。座りな、家なき子にしてやるよ」
「同情するならコイン入れな」
二人は座って戦いが始まる。この段になるとギャラリーは既に見学の姿勢を隠そうともしない。
誰もがこのビックマッチに興味津々だった。無論、千景も。
戦いが始まる。両者同キャラ、俗にいうミラーマッチ。
となればあまりに当たり前の話だが、上手い方が勝つ。
キャラ相性という格ゲー特有の概念も介在しない。単純なキャラの練度がものを言う。
試合は、一方的だった。
千景は自分を恥じた。
ほんの一瞬だけでも、和が手加減をすると思ってしまった。
しかし、前に進む桜夏の一瞬の隙をついてガードを崩し、画面端へ運ぶ、ダメージが多く取れるコンボを披露。
桜夏が練習をサボったわけではない。何度も画面端に運ばれては引くくらい怒りながらも対策を講じていた。
直面したものは、そんな桜夏が2週間で身に着けた付け焼刃が全く機能しない圧倒的な別世界だった。
打撃音が一方的に響き、何度も何度も桜夏がボタンを叩く音が空しく掻き消されて行った。
結果は、0-3で桜夏の敗北だった。
よろよろと立ち上がった桜夏の顔は……笑っていた。清々しいって感じで。
「ナイストライ。なかなかやるじゃん。いつももうちょっと早く終わる試合が多いのに」
「知ってる。だから尺が取り辛いし……あのさ、これムズイね。勝つのもそうだけど、そのキャラを練習するのも、2週間じゃきつかった。後、やってる内に、負け試合でも面白く見せれそうだなって、色々学んだ。ごめんなさい」
頭を下げようとする桜夏のでこを掴んで、和は顔を上げさせたまま、スマホを取り出した。
保存されていたのは、和が編集した動画だった。
内容は、酷かった。カットが雑。音声とテロップは合っていない。フォントの結合や状況に合わせた色使いも何一つできていない。初心者丸出しの編集だった。
「酷いでしょ。これさ、2週間でも全然完成しなくてさ。なのに桜夏は毎日新しい動画を作ってくれてた。それがどんなにすごいか身に染みたよ。いつもありがとう。それと、ごめんな」
ごめん。その言葉は千景にとって、マイナスな意味しか持たなかった。
出来なくてごめん。
期待に応えられなくてごめん。
一ノ瀬さんごめん、任せていい?
ごめん、一ノ瀬さんならいいかなって。
期待に応えて居場所を作るのが千景の処世術だった。
でも、目の前のごめんがあまりにも知らないもので、千景は一枚だけ、写真を撮った。
フレームに収まっていたのは、知り合ったばかりの友人の笑顔じゃない。
『憧れ』だった。
それは、千景が率先して人の嫌がること、雑用を進んで引き受けていたからだ。
周りは千景を優しい人だと口々に言った。その度に、千景はどんどん自分を失った。
それでもよかった。日常を平穏に生きて行ければ。
他人の視線が怖くって、誰かとつながりを持つことで安心できた。
そんな、千景のいつもの日常が、ぐにゃっと曲がったのは、怒鳴り合って感情をぶつけ合う二人に出会った時。
あれから三日、そのうちの一人である日真桜夏はゲーセンに通い続けている。
三日間ずっと見守っていたが、今日はたまたま写真部の用事でパソコンルームに向かっていた。
もしかしたらいるかな、とは思っていた。
ガラッとパソコン室の扉を開けると、案の定、赤い髪の少女がパソコンと格闘しているところだった。
そっと近づくと、ほとんど視界の端だったはずなのに、安心院和は千景を見つけた途端にヘッドホンを取って見上げた。
「あ、ごめんなさい、邪魔した、かな」
「ううん。丁度手詰まりで息抜きしたかったとこ。ええっと……」
「あ。ごめんなさい。私は一ノ瀬千景。ええと……日真さんの友達、かな」
「かなって、なにそれウケる。あいつ友達いたんだ。一人きりだと思ってた」
「安心院さんは――」
「和で良いよ」
「和さん――」
「呼び捨てで良いよ」
「ええと、和ちゃん、は、日真さんとお友達?」
「そうだよ」
思ったよりも即答が帰って来て、千景は思わず笑ってしまった。
和は恐らく、誰にでも分け隔てなく接するだろうと言う安心感があった。
それに、喧嘩したからと言って、嫌いになってないことが簡単に透けて見えた。
写真を撮っているからかは分からないけれど、和はフレームの中に納まらない魅力があるように思えて、この快活さが一助になっているのは間違いない。
「それ、動画編集? ゲームの」
「ん? うん。いやまあ、やる気はなかったんだけどねぇ。ちょっとさ」
「……そっか。何か、迷ってそうって言うか、困ってそうだね」
「うーん? なんかテロップと音、上手いこと合ってない気がするんだよね。ほら、ズレてる。でも合わせ方分かんなくてさ」
「それじゃあ、波形、これ分かる? この波に合わせると良いよ」
「ほうほう……え、波多くない? あと、テロップの文字さ、これどうやって変えるんだろ。フォントってのがいつも使ってるやつが見つからなくて」
「フリーフォントとか色々あるから……ああ、いつも使ってるのは、けいふぉんとって言うらしいよ。フリーダからダウンロードしてみたら?」
「何、千景天才じゃん。ありがと!」
感謝されるのはいい気分だった。
そっと、もう一度パソコンのウィンドウを覗き見た。
素人目から見ても分かる。動画編集って言う作業がどれだけ複雑か。
それも、一から始めるとなるとまた違う次元の難しさがあるように感じた。写真だったら、ある程度教えることが出来るが、どう考えても動画編集は門外漢であった。
しかし千景は一つ思いついたことがあった。
だけど、そこまでしていいものなのか分からなくて、千景は一瞬だけ思考を止めた。
「自分で編集しようって思うの、偉いね」
「うん? うーん。まあたぶん自分のためには絶対今後やんないけどね」
「じゃあ、誰かのため?」
「どうだろ。結果的に自分のためかもしんない。千景はそういうのない?」
「……あるよ。自分のために、誰かに尽くす事」
雑用も、人が嫌がることも率先して行う理由はただ一つ。
そうしないと、自分の存在価値を見出せないから。そうすることで、じぶんがここにいてもいいって言う居場所を作っているから。
「うっわ、私、それは無理だわ」
「え?」
「だってそれ、千景のためになってんの?」
「私の……?」
「誰かのためになるって聞こえはいいけど、マジで人って馬鹿でさ、感謝だのお礼だの、忘れちゃうんだよね。なのに自分だけいい人になるってだけのことで尽くすのって、割に合わないでしょ、私のこれは、結局自分が相手の立場になって理解したいって言うエゴだよ」
「そういう考えも……あるかもね」
「でもさ、千景の優しいってかっこいいって思うんだよね」
「かっ……え?」
「だって、これ喜ぶだろうなって思いついて即実行してんでしょ? めっちゃカッコイイじゃん」
初めて言われた言葉に、千景は自分でもわかるほど顔に出してしまっていた。
言っている意味も、言葉の内容も全部理解しているのに一言一句呑み込めずにいた。
体が、というより、心が納得するのを嫌がっているようだった。
でも……それでも、安心院和という人間がほんの少しは分かったような気がした。
どうせ、桜夏にアドバイスした時から、ある程度責任もって最後まで見守るつもりではあった。
「それ、格ゲーだよね。好きなの?」
「スキー。マジこれしかやってない」
「そうなんだ……ねえ、初心者が上手くなるには何したらいいと思う?」
「コーチングが速いと思うよ。私もそうだったし。でも無理なら、これ。とにかくチュートリアルがキャラごとにあるのね。このキャラ! っていうのを決めて練習する。そして時間かけて対戦。そしたら、相手が嫌な事と自分が嫌なことがわかるから、あとはそこに対して得意を押し付ける。ちょい待って」
和はルーズリーフを取り出すと達筆な文字で大切なことをわざわざ書き記してくれた。
今日会ったばかりの自分に親切にする余裕があるのか、根っこから優しい人間なのか。
少なくとも、千景が今まで会ったことのない人種だった。
「ふむふむ。ありがと。じゃあ、私、用事があるから」
「パソコンは?」
「え?」
「いや、ここ来て何もしてなくない?」
「……ううん、出来たよ」
千景はその足で学校を出て、ゲームセンターへ走った。
走ったのなんていつ振りか思い出せない。
しかも目当ての相手がいるとも限らない。
さすがにもう四日目だ。
ここまでに毎日数千円をつぎ込んでいる。今日は休みという可能性だって十分あった。
なんでか分からない。
出会ったばかり、知り合ったばかり。でも、二人を見ると、胸がざわついて仕方がなかった。
自分にない物を、持っているような気がした。
ここにくれば、ざわつきと、自分が持ってない物の正体がわかる気がした。
「だああああくっそわれ! ゲームでよかったな、目の前におったらぶちまわしとったわ!」
笑ってしまった。
入ってすぐ響く、単純に迷惑な叫び声だと言うのに、今の千景にとっては努力の結晶に思えた。
スポドリを買って、叫ぶ少女の元に――
日真桜夏のところまで行くと、何故か人だかりが出来ていた。
いや、何故というかそりゃ、女子高生が一人ゲームセンターで発狂していたら興味も湧くのは当たり前だった。
実際声量だけなら他の機械音にかき消されるからか、特に店員さんは見えなかった。
とは言え、この人だかりの中、声をかけるのはさすがに憚られた。
「なんっでや……和に、ウチはここまでやれるんやって、言って、仲直りするって、決めたんや!」
「何か分かんねえけど熱いねえ」
「わかる。熱量とコインの消費量がガチ熱い」
「お前ら、邪魔するなよ。格ゲー人口を増やすためにここは見守るんだ」
本気で嫌になったが、桜夏の本気の叫びを聞いて揺さぶられない程、千景の心は小さくなかった。
「日真さん」
「なに……あ、え、一ノ瀬さん? どうしたの? 今日は学校じゃ?」
「応援。はい、スポドリと、これ、調べて来たよ、練習方法」
「えー、本当? ありがとー……って、これ……」
桜夏は何か言いたげだったが、すぐにメモの上にスマホを置いて重り代わりにしながらチュートリアルを始めた。
初日から今日まで、一度もやらなかったのに、と千景は笑った。
たぶん、桜夏は気づいている。そのメモを誰が書いたのか。
「おほん、あー、今日はチュートリアルモードでもやるか、久々に。懐かしいな、初心者の頃は絶対に大切だからってやってたっけ」
「そうだな。コンボモードってやつなら簡単なコンボから順番に練習できるしな」
「そうそう。初心者はまず、コンボモードだよなぁ」
桜夏が聞こえているかどうかはさておいて、優しい外野の優しいお節介から聞こえてきたモードでコンボを練習し始める。
不思議な話だった。確かギターをやっていて、動画編集を始めて、今は格闘ゲームをやっている。
ここまで、全く違う枝分かれしたものを頑張っている人間を始めてみた。
普通人は夢とか目標とかを見つけると、迷わずそちらへ走るものだと千景は思っていたから。
だから、自分が夢へ向かって歩いていないことも、強く自覚していた。
「ねえ、日真さん」
「え? 何? あ、ごめん、今度ジュース奢って返すから」
「それは良いんだけど、ギターとか動画編集とか、好きでやってるんだよね」
「そうだよ」
「じゃあ、このゲームも、自分が面白いから?」
「いや、たぶん私の人生に絶対必要ない時間だよ。だけどさ、癪なんだよね」
「癪?」
「友達の好きなもんを、自分が知らないからって理由で軽く見てる自分が癪。だから、覚えて真っ直ぐ、和と仲直りする」
「大丈夫だよ、きっと。あ、そうだ、ねえ日真さん、音声波形にテロップ合わせるじゃない? その時、音声の波を見つけるコツとかある? 波がいっぱいあると見えなくて」
「おーん……それゲーム実況?」
「そうだね」
「ゲームはね、普通の雑談系と違ってゲーム音が基本ずっと鳴ってるから、めっちゃ拡大するとか、あとは繰り返し同じ場所の再生だね。ほんで、テロップは言い終わりから大体15フレーム伸ばすと綺麗だよ」
「15フレーム……」
「ええとね、まずはショートカットキー覚えたらいいよ。これで5フレーム進むから3回押せばいい」
「じゃあ、フォントとかってどうやって集めたの?」
「ああ、SNSでフリーフォントを紹介するアカウントがあるのと、普段動画見てる時によさそうなの見つけるの。私はけいふぉんとと源ノ角明朝とか使ってる。アカウントの名前これねー」
さすがにマルチタスクがすぎる桜夏に圧倒される。
ゲームの練習をしつつ左手で文字を書く。正直お世辞にも綺麗とは言えない文字だった。
だけど、真摯な気持ちが伝わるメモを、千景はしっかりと大切にファイルへしまった。
「ありがと」
「……編集でもすんの? また、面倒ごとに巻き込まれてない?」
「え? ううん。そんなことないよ」
「そっか。この前言うの忘れたんだけどさ、一ノ瀬さんの写真、すごく好きだよ。カメラの枠の使い方って言うのかな。動画編集してて分かったけど、縦横数センチの中に魅力を押し込むのって難しいのに」
「……ありがとう。仲直り、出来るといいね」
にしし、と子供っぽい笑みを浮かべ、桜夏はプレイに戻った。
次の日は和の編集を見守りながら、桜夏にもらったメモをそのまま渡した。
和は感謝と共に動画編集と格闘していた。驚くことに、二人ともゲームなり編集なりしている時は全く他のことをしない。
編集もゲームの練習も家でしているらしかった。学校にいる時だけ、ゲーセンにいる時だけ集中力をもたせているとか。
そして、そんな日が更に一週間続いた辺りで、桜夏と和はゲーセンにいた。
喧嘩をして飛び出したパソコン室から始まった物語のエピローグが、ここで紡がれようとしていた。
ただならぬ空気。その上、ここ最近ゲーセンの一角を賑わせていた桜夏の纏う覇王のような形容しがたい雰囲気にギャラリーはゲームをプレイする振りをして神経を全てこちらに注いでいた。
「久しぶり、和」
「死んだかと思ってたよ、桜夏。で? こんなところに呼び出してどうした?」
「言葉には気を付けなさい? ここはもう私の第二の実家よ」
「桜夏の家は騒がしいところだなぁ。座りな、家なき子にしてやるよ」
「同情するならコイン入れな」
二人は座って戦いが始まる。この段になるとギャラリーは既に見学の姿勢を隠そうともしない。
誰もがこのビックマッチに興味津々だった。無論、千景も。
戦いが始まる。両者同キャラ、俗にいうミラーマッチ。
となればあまりに当たり前の話だが、上手い方が勝つ。
キャラ相性という格ゲー特有の概念も介在しない。単純なキャラの練度がものを言う。
試合は、一方的だった。
千景は自分を恥じた。
ほんの一瞬だけでも、和が手加減をすると思ってしまった。
しかし、前に進む桜夏の一瞬の隙をついてガードを崩し、画面端へ運ぶ、ダメージが多く取れるコンボを披露。
桜夏が練習をサボったわけではない。何度も画面端に運ばれては引くくらい怒りながらも対策を講じていた。
直面したものは、そんな桜夏が2週間で身に着けた付け焼刃が全く機能しない圧倒的な別世界だった。
打撃音が一方的に響き、何度も何度も桜夏がボタンを叩く音が空しく掻き消されて行った。
結果は、0-3で桜夏の敗北だった。
よろよろと立ち上がった桜夏の顔は……笑っていた。清々しいって感じで。
「ナイストライ。なかなかやるじゃん。いつももうちょっと早く終わる試合が多いのに」
「知ってる。だから尺が取り辛いし……あのさ、これムズイね。勝つのもそうだけど、そのキャラを練習するのも、2週間じゃきつかった。後、やってる内に、負け試合でも面白く見せれそうだなって、色々学んだ。ごめんなさい」
頭を下げようとする桜夏のでこを掴んで、和は顔を上げさせたまま、スマホを取り出した。
保存されていたのは、和が編集した動画だった。
内容は、酷かった。カットが雑。音声とテロップは合っていない。フォントの結合や状況に合わせた色使いも何一つできていない。初心者丸出しの編集だった。
「酷いでしょ。これさ、2週間でも全然完成しなくてさ。なのに桜夏は毎日新しい動画を作ってくれてた。それがどんなにすごいか身に染みたよ。いつもありがとう。それと、ごめんな」
ごめん。その言葉は千景にとって、マイナスな意味しか持たなかった。
出来なくてごめん。
期待に応えられなくてごめん。
一ノ瀬さんごめん、任せていい?
ごめん、一ノ瀬さんならいいかなって。
期待に応えて居場所を作るのが千景の処世術だった。
でも、目の前のごめんがあまりにも知らないもので、千景は一枚だけ、写真を撮った。
フレームに収まっていたのは、知り合ったばかりの友人の笑顔じゃない。
『憧れ』だった。
