恋人のやり方がわからない

 蛾の話から、数日ほど経った頃だったと思います。
 私は珍しく、放課後、教室に残って絵を描いていました。
 別に深い理由はありません。今日はたまたま、教室から完全に人影が消え(ごくたまにこういう日があるのです)、天気もよく、窓からほんの少しだけオレンジがかった光が差し込んでいて……こういった場所で絵を描くのも、風情かと思ったのです。
 ……とはいえ実際、風情なのかどうかは、よくわかりません。
 なぜって、教室というものが青春らしいことは知っていますが、私にとっては、日常でしかないわけで。
 そもそも青春という概念が、私にとっては、少しだけ胃を痛くさせるものであるわけで。
 それでも私は、最初から避けるようなことはしないで、とりあえず、ちょっとだけ、やってみてから考えようと思いました。意外にも私には、そういう建設的なところがあるのです。
 筆箱と絵用の青いノートを取り出して、適当なシャーペンで、サラサラと線を重ねていきます。最近は空の絵をよく描いていました。空というより、雲といった方が良いでしょうか。綿雲がブームです。どのように描いたら綺麗に見えるのか、探求するのが楽しいのです。
 実物も資料も見ずに、ただ気ままに描いてみる。
 こういうのも、良い。
 気がつけば生徒たちの足音も、時計の針も、どこか遠くに響いています。今あるのは、静かにシャーペンが紙を滑る音だけ。
 ああ、悪くない。
 悪くないな……。
 と、思っていた時でした。
「成瀬」
「へっ!?」
 頭上から突然声が降ってきました。五十嵐くんでした。
 またしても、浸っているところを見られた!
 私が反射的にノートを閉じると、五十嵐くんはノートを見て、「それ……」と言いました。
「あっ、これは、なんでもないよ!」
 なんでもなくはありません!
「お前、絵描くのか……?」
 ここは「そうか」で流してくれないのですか!
「あー……」
 私は何かをどうにか、誤魔化そうとしました。ですが私程度の人間に、上手い誤魔化し文句などそう簡単に思いつく訳もなく……結局は、素直に言うことになりました。
「うん、そう、たまに描いてるんだ」
 そう言うと五十嵐くんは、「へぇ……」と言って、
「見てもいいか?」
 と聞いてきました。
 見せる……?
 いや無理です。それはかなり恥ずかしいです。
「俺下手だよ? 美術部じゃないし」
 私は反射的に笑顔を浮かべて言いました。しかし五十嵐くんは、
「美術部とか関係ねえだろ」
 と、引きませんでした。
「いや本当、下手だから」
「そういうこと言うなよ」
「どういうこと?」
「下手とかさ……」
「はぁ」
 そこに引っかかるのですか……。
「ダメか?」
「うーん……」
 私は手元のノートを見て、しばらく悩みました。一瞬、ちょっと見せてみようかなと思い、いやでもやっぱりともう一度悩んで、それからなんとなく五十嵐くんを見上げました。見上げた先の五十嵐くんは、じっとこちらを見ていました。
 その顔……。
 なんか、おやつ待ちの犬みたい……。
 ……いや、何を考えているのでしょう、私は。
 でも本当に、そんな顔をされたら、断るこちらが苦しいではありませんか。
「さっき描いてたやつなら……」
 そう言って私は、描きかけの雲のページを開きました。
「……うま」
「……そうかな」
「すげえうまい」
「本当?」
「うまいよ」
 五十嵐くんは、真っ直ぐな目でそう言ってきました。
 あ、この目は……。
「ありがと……」
 まずい。
 こんなに直球の褒めなんて、刺激が強すぎる!
 すっかりドギマギしてしまって、私は「おしまい!」と、勢いよくノートを閉じました。五十嵐くんは「えっ」と小さく驚いた顔をし、それからどこか不満げに、私の顔を見ました。
 なんですかその顔。
 なんで私の絵程度に、そんな顔を……。
 ……いやいやいやいや。
 私は焦ってしまい、
「そういえば五十嵐くんは、なんで教室に?」
 と、半ば無理やりに話題を変えました。
 五十嵐くんはじっと私のノートを見てから、すっと私の顔を見ると、「英語の教科書忘れたから」とだけ、言いました。
「そうなんだ」
 私はそう言うと、「俺、もう帰ろうかな」と、ノートとペンを仕舞いました。五十嵐くんが「俺も帰るけど」と言うので、流れで、途中まで一緒に帰ることになりました。帰り道、五十嵐くんは「もしかして俺が邪魔したか?」と不安げに聞いてきたのですが、あの褒め言葉で気が動転していた私は、再び絵の話題を出されて、「いや、別に?」と言うしかできませんでした。「全然平気だよ、気にしないで」だの、「ほんとは邪魔だったけど、褒めてくれたから許してあげる」だの、気の利いた言葉は、まったく出てきませんでした。