恋人のやり方がわからない

「成瀬、今日も俺んち来る?」
 翌日の帰り道、五十嵐くんはいつものように誘ってくれました。
 朝も昼も少しだけ喋りましたが……結局、猫のことには触れませんでした。
「行く」
 多分、この後も、触れられない気がします。
 触れたら、何かが壊れてしまう気がします。

・ ・ ・

 いつものように、二階の部屋に案内されて、お茶を出される。ほとんど手をつけないまま向かい合って、少ししてから五十嵐くんが「いいか」と聞く。そうして五十嵐くんが静かに立って、隣に座る。そうして手を重ねて、指を絡める。
 もう何度もやっているのに、まだ慣れない。胸の奥が、おかしくなる。
 キスでも、それ以上のことでもないのに。
 キス……。
 それ以上……?
 いや、何を考えているんだ。
 横を見ると、いつもよりもずっと近い距離に五十嵐くんがいて。
「……」
「……成瀬?」
「あっ、ごめん、なんでもない……」
「……そうか」
 ……見過ぎてしまった。
 そうして、また無言になりました。
 無言。
 静か。
 静かすぎて、やっぱり、お互いの息の音も、心臓の音も聞こえてしまいそう。
「成瀬」
 突然、五十嵐くんが口を開きました。
「……なに?」
「お願いが、あるんだけど……」
 ……お願い?
 ……キス……とか。
 いやいやいやいやそんなまさか!
 でもそのまさかも、今なら、ありえないわけじゃない。
 そうして、私は、ドキドキしながら待っていたのですが……、
 五十嵐くんは口ごもって、なかなか言い出しません。私はもう一度聞きます。
「お願いって……?」
「その……」
 まだ、言わない。
 そこから十何秒、待っていたでしょうか。
 私がじっと見続けていると、五十嵐くんは顔を真っ赤にして、
「俺のこと、名前で呼んでほしい……」
 と、消えそうな声で言いました。
「名前……」
 ……名前!!
 名前!!
 あまりに小さなお願いに、すっかり拍子抜けしてしまいました。
 なんだ、名前を呼ぶくらい!
「悠介くん……これでどうかな」
 私はそう呼んでみました。ただ普通に呼んだだけのつもりでした、が……。
「……」
 ……なるほど、これは口に出すと、なかなか照れる。
 妙に熱くなってきてしまい、私はパタパタと顔をあおぎました。
 五十嵐くんはいつの間にか顔を背けていて、「これ、やばいな……」と呟きました。耳は真っ赤になっていて、向こうを向いているのに、何一つ隠せていません。それを見てもっと私は熱くなってしまいました。
「ねえ、五十嵐く……じゃなくて、悠介くん」
「……」
「俺も、名前で呼んでほしい」
「……律」
「……」
「……」
「……」
 これは……。
「待って、これ、照れちゃうね……」
「だろ……?」
 だろ? って……。そっちから言い出したのではないですか!
「なんかもう平気になった。もう一回呼んでくれ」
 まだ顔、赤いですけど……。
「……悠介くん」
「……!」
「悠介くん」
「……!!」
 ……五十嵐くんの目が、わかりやすくキラキラしていく!
「俺、お前のこと律って呼ぶからな……」
「いいよ、好きにして……」
 何が「好きにして」でしょう! 自分から呼んでほしいと言ったのに!
「なあ、もうちょっとくっついてもいいか……」
「うん……」
 私が頷くと、五十嵐くん……ではなく、悠介くんは、そっと身体を寄せてきて……。
「あ……」
 肩と肩が、ちょんと触れました。
 これは、初めてだ。
「……」
 心臓が、暴れ出していく。
 痛いくらいに……。
「お前……心臓の音すげえな……」
 ……悠介くん!
「いっ、言わないで!」
「悪い……」
「……」
「俺も、緊張してるから……」
「……」
 ……なんの報告ですか。
「だから、お前も、こうなってるんだなって、思って……」
「何それ……」
「……」
「……」
 また、静かになった。
 うまく、息ができない。
 息の仕方を、忘れてしまった。
 なんだか、身体がおかしい気がする。
 でも、どうすればいいかわからない。
「なあ、今日何時までいられる……?」
 五十嵐くんは、突然聞いてきました。
「何時だろう……わかんない……」
 そんなこと、気にしたことがない。
 でも、少なくとも、いつも帰る時間は、もう過ぎている。
「じゃあもうちょっとだけ、いいか……?」
「うん……」
 そう言うと、悠介くんはさらに身体を寄せてきました。
 密着、している……。
 ……。
 熱い。
 熱くて、仕方がない。
 キスしたいと、言ってしまおうか。
 ……。
 ……いや、今は違う気がする。
 私は目を閉じて、悠介くんに身体を預けました。
 悠介くんも、そっと、受け止めてくれました。