恋人のやり方がわからない

 翌日、私は朝から妙にドキドキしていました。落ち着かない気持ちで朝食を食べ、いつもよりも長く鏡を見て、いつもよりも早足で登校しました。
 五十嵐くんに絵を渡す。たったそれだけのことなのに……。
 ……。
 ……いや、認めよう。たったそれだけ、じゃない。
 これは、大事なことだ。
 教室に着いたのは、まだほとんど生徒がいない時間でした。五十嵐くんは、来ていない。いつものように文庫本を開きましたが、集中などできるわけがありません。
 早く、来て。
 いや、まだ来ないで。
 五十嵐くんが来たのは、ホームルームが始まる五分前でした。
「あっ、五十嵐く……」
 立ち上がりかけて、やめました。もっとゆっくり、渡したいと思いました。
 私は考えていました。
 ホームルーム後の休み時間は、短い。授業の合間の休み時間は、短い。
 昼食後は……人がいる。
 なんて、思っていたら。
 結局渡せず、放課後になってしまいました。
 ……。
 結局今日は、無理なのでしょうか。
 みんなが、部活に向かっていく。みんなが、家に帰っていく。みんなが、教室から消えていく。
 ……結局、今日は。
 ……結局、自分は。
 ……。
 動く気になれず、机に突っ伏しました。
 ……本当に、何をやっているんだ、自分は。
 ……。
「……成瀬」
「……」
 上から声が降ってきました。
「体調、悪いのか」
「あ……」
 じっと、五十嵐くんが見下ろしていました。私にもはっきりとわかるくらいに、心配そうな顔をしていました。
「……悪くないよ」
「本当か?」
「うん、本当……」
「じゃあ……一緒に帰んね?」
「……」
 いいよ。いつものように、そう言おうと、思った時でした。
 ふと気づいた。
 今、教室に誰もいない。
 ……。
 もしかしたら、今しか、ないのでは。
「いいよ、でも……」
「……?」
「先に、渡したいものがあるんだ……」
 そう言って、カバンを開けました。手は、震えていました。けれど、妙に頭は冷静でした。
「絵、描いたんだ」
「……」
「だから、あげる」
 私は五十嵐くんの返事を待たず、クリアファイルから出して、見せました。
 そうして、見せて、
「……うま」
 五十嵐くんは、それだけ言いました。
 それだけ言って、小さく、顔を輝かせました。
 ほんの少し子供のようで。
 キラキラと光を反射する、目。
 ああ、これだ。
 この顔だ……。
「っ……!」
「……成瀬?」
 この顔。
 かわいいな。
 嬉しいな。
 なんか、すごい、報われたな。
 私が見つめていると、五十嵐くんは「これ、くれるのか」と言いました。
「うん」
 声が裏返りそうになるのを必死に抑えて、私は頷きました。
 そう言うと、五十嵐くんは「ありがとな」と言いました。その顔には、昨日のような、小さな笑顔が浮かべられていました。
「五十嵐くん、笑ってる……」
 つい、声に出ていました。
「っ……笑っては……」
「……」
「いや、笑ってるかも……」
「へへ、なにそれ……」
 五十嵐くんは、正直ですよね。
「ねぇ、一個聞いてもいい?」
「……いいけど」
「この前言ってた気になる奴って、どういうこと……?」
「……覚えてるのかよ」
「覚えてるよ」
 そう言うと五十嵐くんは、目を泳がせました。ああ、五十嵐くんは、たまにものすごくわかりやすいですよね。
「気になる奴ってのは、つまり、その……」
 そう言うと五十嵐くんは目線を背けて、黙ってしまいました。
 私は、言いました。
「俺も、五十嵐くんのことが気になってる」
「……」
「五十嵐くんのこと、かなり見てたいっていう意味」
「……」
「ごめんね、変なこと言っちゃった」
「いや……」
 そう言うと五十嵐くんは、頭の後ろに手をやり……私をチラリと見ると、手を下ろして、突然、小さく一つ呼吸を整えました。それからまっすぐに、私の目を見て、
「俺も、そういう意味」
 と、言いました。
 ……。
 ……え。
 ……本当に?
 五十嵐くんが、そういう意味って、言ってくれた?
 これって。
 これって。
「これって、普通の同級生同士で言うことなのかな」
「……」
「普通の友達だったとしても……」
「わかんねえ」
「……」
 そうだよね。
 五十嵐くんなら、そう言うよね。
 私は、言いました。
「俺は、多分違うと思う」
「……」
「俺、これ、普通の友達じゃないと思う」
「……」
「俺、もう普通の友達として振る舞うの、無理かも」
「……」
「だからって別に、どうして欲しいとかは、ないんだけど……」
「……」
「……ごめん、変なこと言ったね。今のは忘れて……」
「無理だろ」
「……」
「今の忘れろは、無理だろ……」
「……そうだね」
「……」
「……」
 沈黙。
 また、沈黙。
 長い長い、沈黙。
 私は俯きました。
 五十嵐くんを、見られない。
 なにも、言えない。
 なのに。
「……俺も」
 五十嵐くんは、静かに口を開きました。
「俺も、無理かも」
「え……」
「俺も成瀬のこと、普通の同級生として見るの、無理かも……」
「……」
「ていうか、友達としても……」
 そう言って五十嵐くんは、自分の頭の後ろに手を伸ばしました。
 それから手を戻して、言いました。
「成瀬、俺、付き合ってほしい」
「……」
「お前と付き合いたい」
「……」
「あの、そういう意味で……」
「わかってるよ」
 言いました。
「俺も、付き合ってほしい」
「っ……!」
 そう言うと五十嵐くんは勢いよく私に手を伸ばしかけて……やめました。代わりに、聞いてきました。
「なあ、触ってもいいか?」
 ひどく、慎重な声でした。
「……いいよ」
 そう言って、私も手を伸ばしました。
 五十嵐くんは、私の手をそっと握りました。
 何か、探るように手を撫でて……。
 それは、あの時のような触り方ではなく、妙に優しくて、妙にくすぐったいもので。