恋人のやり方がわからない

 その日の夕方には雨が降りました。まさに「しとしと」という擬音の合う、控えめな雨です。普段部屋の中から見ている分には、強く打ち付けるような豪雨の方が好きなのですが、下校という移動の用事がある場合には、断然、今日のような静かな雨の方が都合のいいものです。
 それでもまあ、濡れはするのだろうな。
 私は折りたたみ傘を出しました。
 どうせ濡れるなら、全身で浴びてみたらどうだろう。
 ……なんていうのは、昔からよく考えている夢ではありました。ですが厄介なことに、私には中途半端に社会性があるのです。人のいる場所で、傘も差さずにゆったりと歩くことなど、とてもじゃありませんが恥ずかしくてできません。せいぜい傘を忘れたフリをして走るのがやっとです。そんなものでは、情緒もへったくれもありません。
 ですが、ふと気づいてしまいました。
 学校の敷地内。
 みんなが部活をやっている時間。
 今、誰もいない。
 ……やるなら、今では?
 善は急げです。幸いにも、今持っているのは折りたたみ傘でした。私はキョロキョロとあたりを見回して、誰もいないことを確認すると、サッと傘を閉じて、ろくに畳まず、急いで仕舞いました。
 夢の傘なし歩行。
 冷たい。
 九月でも、雨は冷たい。
 心地良い……のかは、わからない。
 ですがとりあえず、そのまま、ゆったりと歩いてみました。濡れた前髪が、ぺっとりと額に張り付きます。うざったい。けれどそれもまた風情か。とりとめなく考えながら、なんとなく、上を向いて歩いていた時でした。
「おい」
 突然、背後から声をかけられました。
「っ……!」
 不意打ち!?
 私はバッと振り返りました。サッと相手の顔を確認し、誰かと思えば……私と同じクラスの男子生徒でした。
 この人……。
 確か名前は、五十嵐悠介くん、だったか。
 私よりも背が高くて、黒い猫っ毛をしていて、いつも無愛想で何を考えているのかわからず、それでいて、妙に綺麗な顔をしている男子生徒。彼もまた、私と同様、カーストの外側で一人ぼんやりと窓の外を眺めているような、そんな生徒でした。
 しかし彼が、なぜ?
「何か、用かな?」
 私は精一杯の社交用笑顔を張り付けて言いました。そしてすぐに気がつきました。
 五十嵐くんもまた、傘を差していない。
 しかし右手には、大きめのビニール傘を持っている……。
 ……。
 ……本当に、なんの用だ?
「……何かな?」
 私が笑顔を張り付けたまま首を傾げると、五十嵐くんは、
「成瀬、傘忘れたのかと思って」
 と、なんでもないように言いました。
 ……。
 ……見られていた!?
 真っ先に思ったのはそれでした。羞恥。冷や汗。最悪です。わかりますか、無防備に浸っているところを見られる、あの時特有の恥ずかしさを!
 私はもう、恥ずかしさでバクバクです。それなのに五十嵐くんはといえば、そんなものなど一切気にせず、カバンの中をガサゴソと漁ると、「これ、使えよ」と真っ黒な折りたたみ傘を差し出してきました。
 傘。
 真っ黒。
 イメージ通りすぎる……。
 いや、何を考えているんだ。
「……貸してくれるの?」
 私は必死に恥ずかしさを振り払い、必死の社交用笑顔で言いました。すると五十嵐くんは、「そうだよ。お前、そんなんじゃ風邪引くぞ」と、妙に真っ直ぐな目で返してきました。それはまた、随分と保護者のようなことを言う……。
「ありがとう。でも五十嵐くんも、傘差さないと風邪ひいちゃうよ」
 私は必死に高校生らしい返しを考えて、小さく笑いました。ちょっとだけ冗談めかした返し。これで、大丈夫でしょうか。
「……」
「……」
 あれ、喋らなくなってしまった。
 ……。
 ……しくじった?
「……あっ」
 いや、しくじっていない!
 五十嵐くんは今気づいたかのように小さく目を見開くと、さささと自分のビニール傘を差しました。
「これでいいか?」
 ……なぜ私に確認を求めるのですか。
「いいと思う」
 私も私で、なぜそんな返事を。
 それから私たちは、静かに、二人並んで歩き出しました。二人一緒に帰る必要はないのですが、今から別々に帰りますというのも、なんだかおかしなことになってしまうわけで……。
 私はチラリと五十嵐くんを見上げました。
 真っ直ぐに、前だけを見ている。
 ……この人、雑談をする気がない?
 私の視線に気づいたのか、五十嵐くんはこちらを見ると、「傘、明日返してくれればいいから」と言いました。
「ああ、うん……」
 会話は、それで終わりました。
 それからも、無言でした。
「じゃあ、俺、こっちだから……」
 T字路で、五十嵐くんは言いました。
「うん、じゃあ、また明日……」
 私がそう言うと、五十嵐くんは小さく手を上げて背を向けていきました。
 本当に、会話がなかった。
 私はそのまま、ぼんやりとした頭で帰宅しました。そのまま食事を摂り、そのままお風呂に入り、そのまま机に向かって、数学の参考書を開いて、いくつかの演習を解いて、集中が切れたところで……ふと思いました。
「五十嵐くん、嫌じゃなかったな……」
 ……。
 私は参考書に戻りました。