ライアー・キャンパスライフ



 深呼吸をする。吸って、吐く。大丈夫だ。
 いつかもこうしてひとりで深呼吸していたことを思い出す。今俺がいる場所は部室のドアの前じゃなくて、中庭の端っこだけど。
 授業終わりに友達と食堂へ向かう途中、たまたま通りがかった中庭で国領先輩の姿を見つけた。広いキャンパスのなかでもこうして時々姿を見かけることはある。そういうときはちょっと立ち止まって遠くから見ているだけで話しかけたりはしない。だいたい先輩は友達や後輩に囲まれていて、俺はその中に無理やり割って入る勇気がないから。
 視線の先で国領先輩は中庭のベンチに座って友達と話をしている。これまでならこのまま通り過ぎるだけだけど──。
「高尾? 食堂行かねーの?」
 急に立ち止まって動かなくなった俺に、一緒に歩いていた友達が不思議そうに言う。
「ごめん、俺ちょっと用事あったわ。先行ってて」
 覚悟を決めてそう言い、友達と別れてひとり中庭へ足を踏み入れる。
 間隔をあけて並んだベンチのひとつに国領先輩はいた。その場所を目指してまっすぐに突き進んでいく。俺のほうから見ると先輩は背中を向けていて、ベンチの背凭れが見えている状態だ。
 周りにいるのは先輩と仲のいい三年生の男女グループ。俺がお呼びじゃないことはわかりきってるけど、でも。
 近くまで来ると立ち止まって、最後にもう一度深呼吸をする。
「──……こ、国領先輩」
 思いきって声をかけるとベンチに座っていた先輩は振り返った。ちょっと驚いたように目を瞠ってから立ち上がる。
 突然現れた俺という乱入者に、先輩の周りにいる人たちからの視線と注目が嫌でも集まる。気まずい。気まずいけど、それも覚悟の上でここに来たんだ。
「航大じゃん。何?」
 ベンチの横から回って国領先輩は俺のほうにやって来た。俺が針の筵になっていることを気にしてか、さりげなくベンチから遠ざかるように誘導される。
 少し離れたところまでふたりで移動してから立ち止まる。思えば、サークル以外でこうして先輩とふたりで話すのは初めてかもしれない。
「──……なんか困ってる?」
 少し声を落としながら神妙に尋ねる先輩を見上げて、俺は首を振った。
 キャビネットの鍵の番号がわからなくなったとか、なにか困っていることがあるわけじゃない。緊急の用事は何もない。
「用は、特にないんですけど……たまたま先輩がベンチにいるの見かけて、構ってほしくなっただけっす」
 言えた。声はちょっと震えたし、変なところで息継ぎもしたし、目もろくに見られなかったけど、言えた。何もないけど、先輩と話したい──それが俺の正直な気持ちだ。
 自分の気持ちを素直に伝えるのは緊張するけど、嘘をついていたときのような罪悪感は少なくとも感じない。
 国領先輩はどんな顔をしているのかと思えば、口のあたりに拳を押し当てて、驚いたように目を丸くしながら固まっていた。その顔がいつもよりも少しだけ赤くなっているように見える。戸惑いながら見ていると、しばらくしてからおもむろに口を開いて、
「素直に言えって言ったのは俺だけどさ……破壊力すごいな」
「はい?」
 しみじみとした口調で言う先輩に、どういう意味かわからず尋ね返す。国領先輩は眉間に皺を寄せて長いため息を吐き出してから、ぽつりと言った。
「部室に連れ込んでどうにかしてやりたくなった」
 低くてかすれた声だった。今まで一度だって聞いたことのない、どうしてだか背筋がぞくぞくするような声。
「────は、はい?」
「なんでもない」
「いや今絶対なんか言いましたよね」
「言ってないって。それより航大、もう飯食った?」
「まだっすけど……」
「じゃあなんか食堂で奢るよ」
 目が眩みそうになるくらい鮮やかな笑顔でそう言って、先輩は中庭を歩き始めた。今日は本当に天気がよくて、木漏れ日が先輩の肩に落ちている。陽射しに目を細めながらその背中を駆け足で追いかける。

 そのときの先輩の言葉の意味を俺が知ることになるのは、もう少し先の話だ。