ライアー・キャンパスライフ



「これでいい?」
 キャビネットから一冊の本を抜き取り、国領先輩は差し出した。
「はい。ありがとうございます」
 その本を受け取りながらお礼を言う。
 部室の窓から強い風が吹き込んで、椅子にかかった誰かの忘れ物のカーディガンがひらひらはためいた。
 サークル棟の三階にあるこの部室の窓からは、大きな木の梢が見える。換気のために開けた窓から葉の擦れる音と風の音が聞こえる。普段は賑やかな皆の喋り声にかき消されて聞こえないけど、今日は違う。
 いつ来ても誰かが中にいて騒がしい部室が、今日は珍しく静かだった。部屋の中には俺と国領先輩のふたりだけしかいない。
 二限目の授業が急遽休講になり、空き時間を潰すために部室に来たのが少し前。部室には国領先輩がひとりでいて、授業と授業の間の空きコマをここで過ごしているんだと俺に話してくれた。
「すみません、またキャビネット開けてもらって……」
 受け取った本を身体の脇に抱えながら言う。
 本当はダイヤル錠の番号がわかってるのに、また忘れたふりをして開けてもらった。
 ──ダイヤル錠の番号を忘れたと言って国領先輩に開けてもらうのは、これでもう三度目になる。二度目は借りていた本を返すときで、本をキャビネットに戻したいけどまた忘れてしまったと言って開けてもらった。そして今日は、また別の本が借りたいからと言って開けてもらえないか頼んだ。
 嘘をついて騙すなんて最低だ。良心につけこむなんて最低だ。最低だってわかってるのに、やめられない。罪悪感は嘘をつくたびに膨れ上がっていくのに、それでもまだやめられない。嘘をつくのをやめたいけど、やめたらもう話せなくなってしまう。もっともらしい理由がないと国領先輩に声をかけられない。その勇気がない。だから先輩の優しさにつけこんで、甘えてしまう。
「──航大さぁ」
 湧き上がる自己嫌悪に苛まれていると、ふいに名前を呼ばれた。
 国領先輩はキャビネットに凭れかかりながらポケットに両手を突っ込んだ。そのままちょっと躊躇うみたいに視線をさまよわせてから、おもむろに言った。
「本当は番号覚えてるんだろ」
 心臓が止まる。息が止まる。目の前が真っ暗になる。
 ──本当は番号覚えてるんだろ。隠していた真実を突然言い当てられた衝撃で、咄嗟に否定することができなかった。そこで黙り込んでしまったら認めたも同然なのに。
 ダイヤル錠に設定された四桁の番号を、俺は先輩が指摘した通り、ちゃんと覚えている。4、8、2、5。本当は覚えてる。覚えてるのに、忘れたと嘘をついた。それが、ばれてしまった。
「あーいや、違う違う。別にお前のこと責めてるわけじゃなくて。怒ってないし」
 よっぽど俺がひどい顔色になっていたのか、国領先輩は慌てたように早口になってそう付け足した。
 責めてるわけじゃないというけど、嘘をつかれて騙されていたことがわかったら、嘘をついた相手を責めたくなるのが人の性だろう。怒りも覚えるだろうし、失望するだろうし、不信感を抱いて、そんな相手とはもう関わりたくないと思うものじゃないのか。
 国領先輩の言葉がにわかには信じられず、俺は恐る恐る顔を上げた。キャビネットに背中を預けた先輩の顔は、たしかに怒ってはいない……ように見える。どちらかというと困っているような顔に見える。
「……っい、いつから、気づいてたんすか……」
「最初から」
 あっさり告げられたまさかの答えに愕然とする。二度も三度も忘れるのはさすがにおかしいと疑われたのかと思いきや、まさか最初からとは。
「経済学部ってうちの大学で一番偏差値高いだろ。お前頭いいし、しかも真面目なのに、教えてもらったばっかの番号忘れんのはちょっと不自然だって。俺ですら覚えてんのに」
 先輩は笑って言った。
 疑っているようなそんな素振りは一度も見せなかったのに。いつも快く引き受けてキャビネットを開けてくれていたのに。キャビネットの番号を忘れてしまったと初めて部室で伝えたあの日から、国領先輩は俺の嘘を見抜いていた。そのうえで今日まで俺の嘘に付き合ってくれていたのだ。
「それに、態度でばればれなんだよ。先輩のこと騙して申し訳ないですって顔してるし」
「嘘。恥っず……なさけな。最悪……」
 ここにきて明かされた衝撃的な事実に打ちのめされる。情けなさ過ぎる。嘘をついて、その嘘もとっくの昔に見抜かれていたなんて。
 今すぐに走って部室から飛び出してどこか遠くのほうに逃げたい。けど、逃げたところで何になる。明日も明後日も大学があるし、どんなに逃げ回っても同じキャンパスにいる以上国領先輩と顔を合わせるのは時間の問題だ。
 恥ずかしさと情けなさで後退りそうになる足をなんとかその場に踏み止まらせる。恥ずかしいし情けないけど、逃げずにちゃんと向き合わないと。責めずに俺が喋り出すのを辛抱強く待ってくれている国領先輩に。
「……嘘ついてすみませんでした。本当は俺、その、国領先輩と……話したくて」
 恥ずかしさで顔から火を吹きそうだ。
「国領先輩は人気だから、俺みたいな奴が話しかける隙がなくて……それで、嘘つきました。困ってるふりしたら、先輩は放っておけないと思ったから」
 こんなことを言っても言い訳にしかならないけど。それでも正直にすべて洗いざらい話すことが、まずは信頼回復のための第一歩だろう。
 ダイヤル錠の番号を忘れたふりをしたことについて、その経緯を俺が話し終えると、国領先輩は困ったように笑って言った。
「わざと困ってるふりなんかしなくても、俺と話したいんだったら素直にそう言って。俺も航大と話したいって思ってるから」
 ──国領先輩は面倒見がいいから。困っている人を放っておけないから。だから哀れな後輩である俺に気を遣ってそう言ってくれているだけだと言い聞かせても、浮き足立つ気持ちは抑えられなかった。
「航大がサークルの他の奴と喋ってたら嫉妬するし、俺」
「え……」
 言われて、最初に部室で国領先輩にキャビネットを開けてもらった日のことを思い出す。
 サークル内で主に話をする先輩は国領先輩くらいだけど、あの日は話の流れで他の先輩から声をかけられた。あのとき、国領先輩にしては珍しく表情が険しかった。あのときはなにか考え事でもしていたんだろうと思ったけど、今の話が本当なら──本当は嫉妬してたんだろうか。俺がキャビネットの番号を他の先輩に尋ねるところを想像して。
 そんなことを考えていると、国領先輩は凭れかっていたキャビネットから背中を離した。そのまま俺のほうに向かって近づいてくる。やけに真剣な表情で。いつもの柔和な笑顔はそこにはない。
「騙してたのは俺も一緒だよ。お前の前でずっと優しくて無害な先輩のふりしてたんだから」
 どんどん近づいていく距離にたまらなくなって、腕に抱えた本を強く握りしめる。
「……っ」
 ──と、そのとき。部室のドアが開く音が聞こえて、はっとして振り返る。同じ一年生の部員がふたり連れ立って入ってくるのが見えて、慌てて国領先輩から距離を取る。別に何もやましいことはないんだけど。
 国領先輩のほうをちらっと見ると、何事もなかったようにキャビネットのガラス戸を閉めていた。そのまま見ていると目が合いそうになって、急いで顔を逸らす。あのまま誰も部室に入って来なければよかったのにと思う気持ちと、誰かが来てよかったと思う気持ちが同じだけあった。