ライアー・キャンパスライフ

「あ──あの、国領先輩。今ちょっといいすか?」
 国領先輩たちのいるテーブルに近づいていき、タイミングを見計らって言う。
 家で何度も練習した台詞だ。練習していたときは一度も間違えなかったのに、さっそく焦ってつっかえてしまった。
 落ち着けと自分に言い聞かせながら国領先輩の表情を窺う。いつもと変わらない明るい笑顔で、幸い俺のことを怪しんでいる様子はない。
「うん。どした?」
 身体ごと向き直って尋ねる先輩に、背筋を伸ばしながら「実は」と切り出す。
「実は俺、キャビネットの鍵の番号忘れちゃって……開けてもらってもいいっすか?」
 話しながら部室の壁際にあるグレーのキャビネットを見ると、先輩もつられるように同じ方向に視線を向けた。
「あぁ、あれ?」
「はい」
 部室にいくつかある備品のうちのひとつ。いかにもオフィス用品って感じの、ガラスの引き戸がついたスチール製のキャビネット。中にはたくさんの本が収納されていて、経済思想史研究会という肩書きにふさわしくどれも経済について書かれた本ばかりだ。サークルの先輩たち曰く、経済思想史研究会の建前を維持するために置かれているだけのただのオブジェだそうだけど。
 キャビネットの扉の真ん中あたりに四桁のダイヤル錠がついていて、普段は鍵がかかっている。この春に入部してから何度も部室に出入りしているけど、誰かがこのキャビネットを開けたり、中の本を手に取って読んだりしているところは今のところまだ一度も見たことがない。
 入部したての頃、先輩たちから部室にある備品の使い方について説明を受けているとき、そのキャビネットについても話を聞いた。
「ダイヤル錠の四桁の番号は、最初の説明のときに聞いてたんですけど」
 ここで眉を下げて、できるだけ困っているような顔を作る。これも練習済みだ。
「セキュリティ的に、番号をメモしたりスマホで写真撮ったりするのはダメだってことで、それで俺暗記してたのに……」
「うっかり忘れたと」
 国領先輩はちょっとからかうような口調に変わって、にやっとしながら俺を見た。
「あのキャビネットの中に入ってる本、部員なら誰でも貸し出し可なんですよね? 履修してる授業の課題で参考になりそうな本があって、借りたいんです」
 これも繰り返し練習した台詞だ。今度はつっかえたり間違えたりせずスムーズに言うことができてほっとする。……いや、でも、滑らか過ぎるのも逆に台詞くさくて違和感あるか?
 俺がひとりで疑心暗鬼になっていると、国領先輩は椅子代わりにしていたテーブルから身軽に立ち上がった。キャビネットのほうに向かう先輩の後ろについていく。
 先輩はキャビネットの前で中腰の姿勢になるとダイヤル錠に手を伸ばした。その後ろから手許を覗き込むようにして首を伸ばす。
「……わざわざ鍵かけて保管するって、厳重ですよね」
 ガラスの引き戸の向こうに並んだ本を見る。国領先輩はダイヤルをカチカチと回しながら肩越しに振り返った。
「一昨年だったかな、サークル棟で盗難事件があったんだよ。で、貴重品の管理はちゃんとしましょうってことになってさ」
「貴重品……じゃなくないすか?」
 仕舞われているのは本だけで貴重品のたぐいは入っていないように見える。わざわざ鍵をかける必要があるかと聞かれると、ちょっと疑問だ。
「これでも一応貴重な本らしいから、念のため鍵付きのキャビネットにしまっとくかって」
「そうだったんすか」
「経済学の小難しい本ばっかだから誰も読まねーけど。借りていくのは航大が初めてかもな」
 四つのダイヤルをすべて回し終えた先輩は屈めていた腰を伸ばした。引き戸の取っ手を持って力を込めると、からからと軽い音を立てて戸が開く。
「どの本?」
「えっと、あの本です。右端の」
 二段になった棚のうち、上段の右端に差し込まれたハードカバーの一冊を指差す。
 手を伸ばして取ろうとしたけど、俺よりも先に国領先輩の手が目的の本を横から掻っ攫っていってしまう。
 取り出した本の表紙をしげしげと眺める先輩に、俺は平静を装いながらも気が気じゃなかった。やっぱり怪しまれたんじゃないか。なかなか本を渡してもらえない。
 国領先輩はぱらぱらとページを捲りながら顰めっ面をした。おもむろに開いた場所を俺のほうに向けたかと思えば、ページに書かれた数式とグラフを指でぽんぽんと叩く。
「航大はこの本読んで意味わかるんだ?」
「まぁ、一応……経済学部なんで」
「勉強熱心じゃん。俺だったら読みながら寝そう」
 ぱたんと表紙を閉じて先輩は本を差し出した。
「ほら」
「あざっす。助かりました」
 受け取りながらこっそり安堵の息をつく。怪しまれたわけじゃなくて、ただ本の内容が気になっただけみたいだ。
「一応貴重な本だから、読み終わったらすぐ戻せよ」
「了解です」
 踵を返して本をリュックに入れに行こうとしたとき、いきなり国領先輩の両手がぬっと伸びてきた。ぎょっとして固まっている隙に頭を両側から掴まれる。
「わ……っ」
「4、8、2、5な。4、8、2、5」
 突然なにを言い出したのかと思えば、キャビネットのダイヤル錠に設定された四桁の番号だ。
 その四つの数字を頭に覚え込ませようとするみたいに、頭皮のマッサージをする要領で両手に力を込める。
 顔を上げた瞬間、今までにないくらい国領先輩との距離が近づいていることに気がついた。自覚した途端に体温が急上昇して、ばくばくと心臓が激しく動き出す。
「覚えた? 番号」
「……っは、はい」
 赤くなった顔をできるだけ見られないよう俯きがちになって答える。しばらくしてから国領先輩は手を離すと、俺の顔を頭上から見下ろして朗らかに言った。
「もう忘れんなよ」
 胸の中が罪悪感でちくりと痛む。なにもかも全部打ち明けてしまいたい衝動に駆られるけど、ぐっと堪えて口を噤む。手にした本の背表紙をしっかりと握り直して力を込める。
「もしまた忘れちゃったら俺らに聞いてよー!」
 後ろからそんな声が聞こえてきて、俺と先輩は振り返った。さっきまで国領先輩がいたテーブルで、先輩と仲のいい三年生たちが大きく身を乗り出すようにしている。
 声が大きくて、ノリはちょっと豪快なところはあるけど悪い人たちじゃない。もしまた番号を忘れてしまったとしても気に病む必要はないと、フォローのために助け舟を出してくれたんだとわかる。
 わかりました、と俺が答えかけたとき、ふと国領先輩の横顔が目に入った。いつも明るい笑顔を浮かべている先輩にしては珍しく、面白くなさそうな顔をして眉間に少し皺を寄せている。小さな子どもが拗ねてむくれているときの顔にも見える。
 どうかしたんだろうと思いながら見ていると、俺の視線に気がついた先輩がはっとして顔を上げた。
「あー……あいつら番号覚えてないと思うから、また俺に聞いて」
 先輩はちょっとばつが悪そうに「あいつら」と言って仲間のほうを見た。冗談っぽく笑うその顔はもういつもの先輩の顔だ。さっきの不機嫌そうな険しい表情はいったいなんだったんだろう。なにか考えごとでもしていたのかもしれない。
「ひど」
「いや正しいだろ」
「くっそ否定できねー」
 ぎゃははと大きな笑い声を響かせる先輩たちに、あはは、と俺も一緒になって少しだけ笑う。
 ふいに部室のドアが勢いよく開いて、数人の学生が雪崩れ込んできた。二年生の女子部員だ。その中のひとりが国領先輩に気がつき、こちらに向かって嬉しそうに駆け寄ってきた。
「国領せんぱーい!」
「うるさ。何」
「フラ語の課題でわかんないところあるんですけどー」
「俺第二外国語はフラ語じゃないって」
「えー、一緒に考えてくださいよー!」
「考えてもわかんねーって。自分で頑張って解いてください」
「あ、それ終わったら私の課題も見てくださーい」
「金取るぞ」
 あちこちから国領先輩を呼ぶ声が響く。先輩はちょっと呆れたような顔でため息をつきながらも、最後には笑って皆の課題を手伝い始めた。