17年前の明日、僕は空の青さを知る。



 きたる八月一日はまさに花火日和というような、雲一つない快晴だった。
 一六時集合と言われているが、一五時半に着くように余裕を持って家を出る。

 二階から階段を下りて玄関に向かうとき、リビングのドアの前を横切る。
 ドアは空いていて、奥で仕事中の母と一瞬目が合った。すぐ目を逸らした母に向けて一方的に「行ってきます」と告げ、約束の東岡崎駅に向かう。

 駅までの道のりはすでに浴衣姿の人々でいっぱいで、こころなし、皆どこか浮足立っているようだ。
 毎年家の中から見ていた光景は、壁一枚分外側に出てみたただけで全く別世界のように思えた。

 駅の北口に着くと同時にポケットのケータイが震える。
 日下部ミツル。僕を皆より一足早く呼び出した男の名前が、画面に表示されている。

『バス乗り場の近く』

 端的に指示された方向に目をやると、やたら目立つイケメンが浴衣女子たちに遠巻きに見られながら、壁に背を預けている。

「お待たせ」
「おう、待ってた」

 僕とほぼ同じような紺の甚平姿なのになぜこうも着こなしに差が生まれるのだろう。日本男児六千万人全て混ぜて平均を作ってみました、みたいな造形をしている自分の顔と体型が恨めしい。

「少し歩くか」

 そう言って日下部は背を向けて歩き出す。
 わりと最近できた駅ビルの中を意味もなくブラブラしながら、意味のない会話をする。宿題はどうだとか、最近なにしてたとか。結局お互いなにもしてなくて、静かに笑い合ったり。

 橘的な誤解を恐れず言うと、僕は日下部が好きだ。別にそんなに話すほうじゃないけれど、無関心な無口ではない。たぶん好きな空気が似ているんだと、最近気が付いた。

 だけど日下部は唐突に、残酷に、あえてその空気を壊しにきた。

「俺は今日の花火大会中に、愛に告白する」

 雑踏が消え、静寂が訪れる。返事をするべき僕が言葉を見失ったからだ。
 しばらく悩んだ末、なんとか「そうなんだ。応援してるよ」と掠れる声で絞り出した。応援されたはずの日下部は、端正な顔を思いっきりゆがめて僕をにらんだ。

「それ、本気で言ってんの?」
「え?」
「本心で話せよ。人形じゃあるまいし」

 本心。①本当の気持ち。②本来の正しい心。良心。
昔辞書で読んだ文字列が蘇る。今回の場合、前者の意味だろう。

 本心。僕の本心。そんなものわかれば苦労は……
 ふと、この前の検査の日を思い出す。阿良々木愛が僕の彼女になる。そして母に祝福される。夢に見てしまった幸せな今日。

 そうだ、答えなんてとっくに出ているじゃないか。そして日下部がなぜわざわざ事前に僕に宣言してきたのかだって、わかっている。
 彼は「本気」だからこそ、抜け駆けという方法で後々の付け入る隙を残さなかった。

「忠告はしたからな。……ほら、そろそろ戻るぞ。皆来る頃だ」

 再び日下部の背中を追いながら、ポケットの中にこっそり忍ばせた僕の「本心」に思いを巡らせる。今日のために宿題もなにもそっちのけで何度も何度も書き直した、僕なりの本気の証。
 日下部との関係を壊したくないからと、僕はそれを破棄するつもりでいた。けど、本気に本気でぶつからないのは侮辱だったはずだろう?

 ……覚悟を決めるしかない、のかもしれない。心地よい空気を自ら脱し、肺が灰に塗れる覚悟を。

 ポケットの底のケータイを握り締めると、手の中で小さく震えた。おそらく誰かの到着連絡だろう。

 運命の花が開くまで、あと四時間。