17年前の明日、僕は空の青さを知る。

 白い天井が見えて、そういえばここは病院だったと思い出す。どうやら僕はいつもの麻酔にかけられて、夢を見ていたらしい。

 我ながら恥ずかしく、そして幸せな夢だった。
 でも夢は夢。今になって思えば現実ではありえないことだらけだった。阿良々木愛が僕の彼女になるとか、母があんな笑みを僕に見せるとか。

 だいたい、今までの人生で母から「賢太」と名前を呼んでもらえたことがあっただろうか。
 覚えてないということは、そういうことだ。

「なかなか興味深いデータが取れた。それじゃ、もう帰っていいよ」

 まるで機械のように抑揚のない声で医者に言われ、駐車場で待つ母の元に戻る。

「お待たせ。遅くなってごめんなさい」
「待ってないわ」
「……あの、母さん」
「なに」

 少し躊躇った後、勇気を出して尋ねる。

「僕の名前ってなんだっけ?」
「はい?」
「その、えっと、ド忘れ、しちゃって」

 祈るような思いで絞り出した言葉に、しかし母は突き放すような声色で応えた。

「意味のない問いは好きじゃないわ」

 あぁ。

「そうだよね。ごめんなさい」

 母はなにも言わず車を発進させた。
 思えば物心ついた頃から、母は僕に対してバリアを張っていた気がする。あなたには興味がない、踏み込んでくるなと、言外に伝えられ続けてきた。

 だったら物心つく前はどうだったのだろう。

 昔は僕の名前を呼んでくれていたの?
 どういう意味で「賢太」って名付けたの?
 父さんがいないのはどうして?

 気遣いなんて無用なものを覚えるより早く聞いておけばよかった。たった一人の肉親が、今は他人よりも遠く感じる。

 しばらく気まずい沈黙のせいで忘れていたが、そういえば、もう一つ母にお願いごとがあったのだった。

「あの、母さん」
「なに」
「えっと……来週文藝部の皆と花火大会に行くんだ。それでね、部長が浴衣か甚平を着てくるようにって……その、迷惑だったら別に無理しなくていいんだけど」
「あなたが、お友だちと花火に?」
「う、うん。ダメかな?」

 フロントミラー越しの母は目を見開いて固まっている。数秒ののち、急に意識を取り戻したようにハンドルを切った。

「いいわ。帰る前にこのまま寄っていきましょう」

 ちょうど左側に見えていた地元で一番大きなショッピングモールの駐車場に潜り込むと、母は財布を取り出して中からカードを引き抜き、後部座席の僕に向かって手だけで受け取るよう促した。

「これで好きなの、買ってきなさい」

 嬉しい、けど、やっぱり一緒に選んでまではくれないみたいだ。僕はもう一度だけ、なけなしの勇気を振り絞ってみる。

「母さん。僕、どんなのが似合うと思う?」
「……悪いけど、そういうのには疎いのよ」
「そっか。ごめんなさい」
「謝らないでいいわ」
「わかった、ありがとう」

 母にお礼を伝えてモールへと駆け出す。
 母に負けず劣らずそういうのに疎かった僕は、結局、一番最初に目に入った店の店員さんに勧められるまま、紺の甚平を購入した。