消毒液のツンとした匂いが鼻の奥に広がり、ピッ…ピッ…という規則的な電子音が耳に届く。
足や腕を動かそうとするだけで、全身に鋭い痛みが走った。
ここが病院だと気づくのに、さほど時間はかからなかった。
身体はベッドに磔にされたかのように動かなかった。唯一、目だけが自由に動かせた。
「…!秋帆!!」
ちょうど、病室に入ってきた母親が、血相を変えてベッドに駆け寄った。
「秋帆…!秋帆!よかった…本当によかった…」
母親は、安堵の涙をポロポロとこぼしながら、何度も秋帆の頭を撫でた。
「母さん…今日って…何月何日?」
「ようやく目が覚めて、第一声がそれ…?突然どうしたの? えっと…今日は……9月1日よ。」
「…そっか。……心配かけてごめん。」
「本当よ…!ちゃんと横断歩道は確認してから何回も…!」
母親は、色々な感情が入り混じって、これまで溜め込んでいた思いを一気にまくしたてた。秋帆は何も言い返さず、母親の言葉を静かに受け止めた。
「……風夏は…」
「…………残念ながら…。」
母親は眉をひそめ、うつむいたまま告げた。
風夏は亡くなった。
言葉にできないほどの大きなショックを受けているはずなのに、どこか冷静な自分もいた。悪い夢を見ているだけなのではないか、という淡い期待すら抱いている。自分の心を守るための反応なのだろうか。
さっきまで一緒にいたはずの風夏は、もういない。
どこに行くことも、何をすることもできない。
駄菓子屋も、海も、ひまわり畑も、夏祭りも。
8月32日の記憶の全てを持っているのは、この世界で秋帆ただ1人だった。
秋帆は、ベッドから無理やり起き上がろうとしたものの、身体は思うように動かなかった。
秋帆は、自分の手首に目を落とした。そこには、もう何も巻かれていなかった。
「…今は安静にしておきなさい。あなたの身体がよくなったら、一緒に風夏ちゃんにお別れをしに行こうね。」
母親は、優しく真剣な声色で秋帆に語りかけた。
ふと、壁にかけられたカレンダーを見た。
そこには、当たり前のように8月32日はなかった。
