8月32日のあなたと



消毒液のツンとした匂いが鼻の奥に広がり、ピッ…ピッ…という規則的な電子音が耳に届く。

足や腕を動かそうとするだけで、全身に鋭い痛みが走った。

ここが病院だと気づくのに、さほど時間はかからなかった。

身体はベッドに磔(はりつけ)にされたかのように動かなかった。唯一、目だけが自由に動かせた。

「…!秋帆!!」

ちょうど、病室に入ってきた母親が、血相を変えてベッドに駆け寄った。

「秋帆…!秋帆!よかった…本当によかった…」

母親は、安堵の涙をポロポロとこぼしながら、何度も秋帆の頭を撫でた。

「母さん…今日って…何月何日?」

「ようやく目が覚めて、第一声がそれ…?突然どうしたの? えっと…今日は……9月1日よ。」

「…そっか。……心配かけてごめん。」

「本当よ…!ちゃんと横断歩道は確認してから何回も…!」

母親は、色々な感情が入り混じって、これまで溜め込んでいた思いを一気にまくしたてた。秋帆は何も言い返さず、母親の言葉を静かに受け止めた。

「……風夏は…」

「…………残念ながら…。」

母親は眉をひそめ、うつむいたまま告げた。


風夏は亡くなった。


言葉にできないほどの大きなショックを受けているはずなのに、どこか冷静な自分もいた。悪い夢を見ているだけなのではないか、という淡い期待すら抱いている。自分の心を守るための反応なのだろうか。

さっきまで一緒にいたはずの風夏は、もういない。

どこに行くことも、何をすることもできない。

駄菓子屋も、海も、ひまわり畑も、夏祭りも。

8月32日(あの夏)の記憶の全てを持っているのは、この世界で秋帆ただ1人だった。

秋帆は、ベッドから無理やり起き上がろうとしたものの、身体は思うように動かなかった。

秋帆は、自分の手首に目を落とした。そこには、もう何も巻かれていなかった。

「…今は安静にしておきなさい。あなたの身体がよくなったら、一緒に風夏ちゃんにお別れをしに行こうね。」

母親は、優しく真剣な声色で秋帆に語りかけた。

ふと、壁にかけられたカレンダーを見た。

そこには、当たり前のように8月32日はなかった。