8月32日のあなたと



「な、何言ってるの?風夏、変だよ?」

思わず声が上ずる。情けない姿だと分かっているが、うまく取り繕えるほど、秋帆は強くない。

「変? 変なのは秋帆でしょ。幼馴染なのに、最後まで隠し通そうとしてたじゃん。」

風夏は、秋帆の知っている風夏ではなかった。

声から感情という感情が削ぎ落とされていて、ぽつぽつと語るその姿は、18年間で一度も見たことのない姿だった。

「この世界はね、『私が作った夏』なの。結構よくできてるよね。」

右手首にあるミサンガを愛おしそうに撫でながら、風夏は言った。

「このミサンガが切れたとき、私の願いは永遠のものになる。」

まるで人が違っていた。穏やかなトーンで語る姿は、もはや恐怖ですらあった。

聞きたいことが山ほどある。この世界のこと、いつからバレていたのか、そして何より…

「…どうして。…どうして…自分から死んじゃったの?」

「あんまりにも夏が好きすぎるんだよね。夏の間だけは、何も考えなくてよかったからさ。」

「え…?」

「色々辛かったんだ〜 あ、元の世界に戻る気なんてないよ?この世界を手放すには、あんまりにも夏が好きすぎるんだもん。」

「辛かった」という言葉が胸に響いた。

何が辛かったのだろうか。勉強?将来?人間関係?

「辛いって… どうして僕に相談してくれなかったんだよ… 何でも話せる関係なんじゃないのかよ…」

秋帆は、喉の奥を詰まらせたような声で問いかける。

風夏は、おもむろに立ち上がった。

「大人ってさ、無責任だと思わない?」

「固っ苦しい制服着せて、軍隊みたいに整列させて、『個性を大事に』とか言うくせに、枠組みに入らない人のことは異物扱いしてさぁ。」

何も言えなかった。風夏は続ける。

「学生のうちは決まったレールを歩いとけばよかったのに、急に『あなた達はもう大人』とか『好きに生きなさい』なんて言われてもできるわけないよ。たったの十数年で今後の何十年を決めるなんてさ。」

「で、でも… 辛いことがあっても…友達がいれば…」

しどろもどろになりながらも、必死に風夏を説得しようと試みる。

「友達? あー…そっか。男子には分かんないよね。」

「女子のグループってね、すっごい大変なんだよ。」

先程まで平坦だった声に、再び感情が戻ってきた。風夏の内側から湧いてきた静かな怒りと悲しみが、秋帆の心を揺さぶる。

「ちょっとでも浮いた発言しちゃったらすぐ白い目で見られるの。常に周りの顔色を窺(うかが)って、一緒になって誰かの悪口を言って、いじめ飽きたらすぐ次のターゲット。」

「言ってくれれば…相談だって乗ったのに…」

「…できるわけないよ。明るくない私に価値なんてある?」

風夏は顔を上げ、秋帆と目を合わせた。その目は少し赤くなっていて、秋帆は面食らってしまった。

「風夏…」

「秋帆。お願いがあるの。」

「お願い?」

「私と… 8月32日(ここ)に残ろう?」

「…え?」

「 8月32日(ここ)、いいところでしょ?自分に都合の悪いことは起きないし、時間が進むのも遅いし、汗もかかないし、疲れないし、歳も取らないし、学校もないし…!楽しいことづくしじゃん!」

風夏は、両手を広げて、胸いっぱいに夏の夜風を吸い込んだ。

「『風夏と、楽しい夏の思い出がずっと作れますように』って言ったよね。」

その目には、期待と圧で満ちていた。

「将来なんて来ないよ。ずーっと遊んでおけばいいの。勉強だってやめられるよ!不安も焦りも感じない!」

「お願い…お願いだよ、風夏。目を覚まして… 帰ろうよ… 大丈夫だから…!」

声がうまく出せない。秋帆の目にも涙が浮かんでいた。

風夏がここまで追い詰められていたという事実を、改めて突きつけられた痛みと、何もできない不甲斐なさが渦巻いている。

「僕…ダメなんだよ。風夏がいないとダメなんだよ。」

視界がぼやけて、風夏の顔がよく見えない。

「私もだよ。だから、ずっと一緒にいようよ。」

「違う… 違うんだよ!」

ズカズカと風夏のもとに歩み寄り、荒々しく右手を掴み上げた。

そして、ミサンガを引き千切ろうとした。

「…!ちょっと!何するの!」

風夏が血相を変えて、身を捩(よじ)る。

「お願い!やめて!お願いだから!」


『自分の手で切ったら願い事は叶わなくなっちゃうんだから。』


いつかの風夏が言っていたこの言葉が、秋帆の頭をよぎったのだ。

「お願い!お願い!もう…もう楽にさせてよ…!!せっかく…ようやく掴んだ幸せなの!もうあんな地獄に戻りたくないの…!」

感情の高ぶりを抑え切れず、涙ながらに懇願(こんがん)する風夏を見てしまった。

初めてみるその姿に、思わず、ミサンガを引きちぎろうとする手が弱まる。

「秋帆は…何がしたいの?」

「何って…僕は風夏を…」

風夏の目を見ると、何も言えなくなった。


風夏を夏から連れ出すことは、本当に救いなのだろうか。


元の世界に引きずりだすことは、風夏の望んだ奇跡を壊すことなのではないか。

夏を終わらせないことが、彼女にとっての1番の救いなのではないか。

全て、秋帆のエゴだったのか。

「……ごめん、風夏。」

秋帆は、風夏の手首から手を離した。

「…じゃあ秋帆も夏に…!」

「…ごめん。それは…できない。」

「…なんで?」

「風夏が好きだから。」

張り詰めていた空気が、一瞬だけ揺らいだ。

「…え?何?急に告白?」

ぱちぱち、と瞬きをしてから、みるみる顔をあからめる風夏を目に焼き付ける。

「僕は意気地なしで、臆病で、小心者(しょうしんもの)だからずっと言えなかった。告白して、成功しても失敗しても、関係が変わるのが怖かった。」

口からこぼれていく言葉は、自分でも驚くほど自然に出てきた。

「僕も、変化と未来が怖いんだよ。進路なんて全然決まってないし、その日暮らしの生活をしてる自覚もある。でも…」


「でも、風夏となら、何とかなると思ってた。」


「…じゃあ…残ろうよ。きっとここなら、私も秋帆も幸せになれるよ…?」

「それでも。…僕は、元の世界に戻る。」

風夏は「どうして?」と問いかけるような目で見つめた。秋帆は、その姿も、しっかりと心に刻む。

「風夏との未来を諦めるため。」

「…え?」

「僕だって、ずっとここに残りたいよ。2人で駄菓子屋さん行ったり、海行ったり、ひまわり見たり、こうやって…花火大会に行ったりして、夏を楽しみたいよ。…でも、それじゃダメなんだよ。」

秋帆は、風夏の目を真っ直ぐに見つめた。

「風夏と未来を生きていくために、この夏を終わらせる。」

夏祭りの喧騒も、虫のさざめきも、全部の音が遠ざかっていく。


「僕は、『永遠の夏』より、『風夏のいる未来』に行きたかったんだよ。」


二人の近くて遠い距離を、夏の夜風が吹き抜ける。

触れそうで、触れられない。

分かり合えそうで、分かり合えない。

「風夏がいた未来を諦めるために、夏を出る。」

飾らない本音を口にできた。心は驚くほど軽く、それでいて穏やかな強さを纏っていた。

「そっか」

からっとした笑顔で、あっさりと受け入れてくれた。

そういうところも風夏らしい。

「じゃあね、秋帆。今までありがと。楽しかったよ。」

秋帆は、自身の右手に巻かれたミサンガに手をかけた。

「また、夏で会えたらいいね。」

小さく手を振る風夏が最後に発した言葉は、ミサンガの切れる音と共に、夏の夜空に溶けていった。