8月32日のあなたと



「そろそろ立てる?」

ベンチから立ち上がった風夏は、秋帆の顔を覗き込んでそう言った。

「風夏、今日一日、僕に全部預けてほしい。」

「え?」

目が点になって、口が半開きになった風夏の手を引いて歩みを進めた。

秋帆は、なぜ風夏が9月1日を迎えられなかったのかを知るために、彼女との夏を再び過ごすことに決めた。

何か兆候がなかったのか。何か自分にできることがなかったのか。それを確かめたかった。

「ちょっと…どういうこと?ていうかどこ行くの?」

「まずは…あ、小学生の頃によく行ってた駄菓子屋に行こう。」

「駄菓子屋…?」

秋帆のいた世界で、この駄菓子屋は閉店してしまったのだ。

お店を切り盛りしていたお婆さんが、持病を悪化させてしまったため、お店を畳まざるを得なかったのだ。

本来なら、駄菓子屋のところに行っても、そこは更地(さらち)で雑草が生い茂っているはず。

そう、本来なら。

「…やっぱり。」


大通りを抜けて閑静(かんせい)な住宅街を数分歩くと、そこには『ないはずの』駄菓子屋があった。

「あらぁ…風夏ちゃん、秋帆くん…!久しぶりねぇ…」

駄菓子屋のお婆さんも元気だった。目尻にしわを寄せて、優しい微笑みを浮かべる。

「キヨおばあちゃん!久しぶり〜!」

風夏は笑顔で駆け寄る。

「うふふ、風夏ちゃんったら、前よりもっと美人さんになったわねぇ。秋帆くんが羨ましいわぁ…」

「ちょっと!別に秋帆とはなんともないし!」

ツッコミを入れる風夏の声は弾んでおり、なんとも楽しげである。

「ねぇおばあちゃん、まだあれある?」

「あるわよぉ…はい、どうぞ。」

お婆さんは店の隅に置かれたクーラーボックスから、冷えたラムネを取り出した。水滴を纏(まと)ったラムネ瓶は、とても綺麗だった。

「これは、おばあちゃんの奢りね。久しぶりに会いにきてくれたから、おまけよ。」

「わーい!ありがとー!」

「ありがとう。」

「かんぱーい!」

ラムネがシュワシュワと音を立てて、喉を流れていく。カラン、というビー玉の耳当たりの良い音が、響いた。

2人は、懐かしい駄菓子を食べ比べながら、他愛のない話に花を咲かせた。

鈴を転がすように笑う風夏の笑顔を見ながら、写真に収めたいという気持ちが、むくむくと湧き上がってきたところ、秋帆は、ズボンのポケットに厚みと重みを感じる。

びっくりして自身の体を見ると、あのヨレヨレの部屋着から制服姿に変わっていた。

その上、手を突っ込んでみると、そこには新品の使い切りカメラが入っていた。

あまりの都合の良さに少し恐怖を覚えるが、この世界の不思議さに少しずつ慣れてきたのか、最初ほどの恐怖は感じなかった。

机の下で、こっそりフィルムを巻き上げる。

「風夏、こっち向いて」

「ん?」

カチッと、小さなシャッター音を鳴らした。

「もう!写真撮るなら言ってよ!絶対変な顔だったってー!」

「それじゃダメだよ。こういう、不意に撮った感じがいいんだって。写真部が言うから間違いないんですー」

「見せてよ、今撮った写真!」

「それはできないんだよ。こういうカメラで撮った写真って、写真店で現像してもらわないと見れないんだよ。」

「えー!なにそれ!じゃあ消したりもできないってことじゃん!」

お婆さんは、ふくれっ面(つら)をする風夏と、けらけらと笑う秋帆をちらりと見て、自然と口角をほころばせた。



お婆さんに手を振ってから、駄菓子屋を後にした。
「次、海に行こう。」

「珍しいねぇ。あの秋帆がこんなにアウトドアなんてさぁ〜 私が色々連れ回したら、すぐ『疲れたー』とか『腹減ったー』とかしか言わないのに〜」

風夏は、口を尖らせて嫌味ったらしく言う。まださっきのことを根に持っているのかもしれない。

「それはごめんって…」

2人は駅に着く。切符を買ったあと、ベンチに腰掛けて電車を待つ。無人駅のホームに、さほど人はいなかった。

数分後、ホーム内に電車が走ってきた。車内にはほとんど人がいなく、2人で横並びに座った。

ガタンゴトン、という振動が定期的に伝わってくる。窓の外には緑が広がっていて、車窓(しゃそう)に差し込む光が、足元を淡く照らしている。

「わぁ…!見て!」

電車はカーブにさしかかり、辺り一面に海が広がった。

透き通った水面は穏やかに揺れていて、遠くの船が汽笛を鳴らす。空はどこまでも広がっていて、薄い雲が対岸(たいがん)の山を覆っている。

目的地への到着を知らせるアナウンスを聞き、2人は電車を降りた。

「秋帆!早くー!」

風夏は、砂浜に向かって元気よく走り出した。

風夏の後ろ姿を写真に収めたあと、秋帆も続いた。砂浜に足をとられかけたが、それすらも楽しかった。

靴を脱いだ後、2人は海に足をつけた。

「冷たーい!」

あはは、と笑いながら、明るい笑い声を響かせた。

「風夏、」

「ん?」

秋帆は、不意をついて手ですくった水をかけた。

「やったなぁ…!」

風夏は、自分の濡れた制服を一瞥(いちべつ)した後、ニタリと笑った。

「えい!」

容赦(ようしゃ)なく水を蹴り上げた。

「うわ!ちょっとは手加減しろよ!」

「先にふっかけてきたのはどっちですか〜」


水飛沫が飛び交い、制服も髪もびしょ濡れになった。

2人だけの世界が、笑い声とシャッター音で満たされた。

一通り遊び終えたのちに、砂遊びに移った。すぐに乾くはずのない制服や髪も、気がつけば元通りになっていた。

「砂遊びなんて何年ぶり?まさか高校生になってまでするとは思わなかったなぁ…」

「懐かしいよな…」

「じゃーん!これなんでしょう!」

風夏は、砂に書いた絵を指さして問いかけた。

「んー…かば?」

「…犬。」

「……これは?」

「…サバ?」

「………イルカ。」

秋帆は、拗ねる風夏と、謎のイラストをカメラでとらえた。気まずい空気も、これで思い出に昇華(しょうか)された。

「風夏、ちょっと行きたいとこあるから付き合ってくれる?」

「いいけど… ここら辺ってなんもないよ?」

しばらく海沿いを歩いて、路地に入る。

「本当にこの道なの?どんどん人里から離れてるけど…」

「もうちょっとだから… ほら…ついた!」

風夏は息をのんだ。

視界が開けた先には、大きなひまわり畑があった。

鮮やかな黄色い大輪の花々が、大空に向かって背のびをしている。

「綺麗… こんなところ、知らなかった…」

吸い寄せられるように、ひまわりに近づく。

「夏って感じ。」

優しく花弁をなぞりながら呟(つぶや)く風夏の横顔を、こっそりカメラに収めた。

「ここ、僕が幼い頃によく連れてこられてた場所なんだ。もう10年ぐらい前の記憶だから曖昧(あいまい)だったけど、残っててよかった。」

「ねぇ、写真撮ってよ!」

満開のひまわりを背景に、風夏が弾ける笑顔でこっちを向く。

「いいよ。」

「あ、違う違う!2人で撮ろうよ!」

「えぇ…僕はいいよ…」

「だーめ!ほら、私がやってあげるから!」

秋帆からカメラを奪い取って、構えた。

「はい、チーズ!」

ぎこちない笑みを浮かべることしかできなかった。

「現像が楽しみだなぁ… ねぇ、もっと奥まで行ってみようよ!」

駆け出す風夏の背中を追いかける。その背中は、子供の頃を思い出せる。

いつもこうだった。中々、一歩を踏み出せない秋帆の代わりに、先陣を切って進むのが風夏だ。

ずっと、こんな生活が続けばいいのに。

そう願ってしまった自分に、秋帆は一瞬だけ戸惑った。

脳裏をよぎったのは、あの日の悲劇。一瞬だけ心にズキッと痛みが走るが、即座に考えるのをやめた。

帰りの電車は、ひどく静かだった。疲れ切った風夏は、秋帆に寄りかかって寝ている。これだけ遊び尽くしているのに、時刻はまだお昼頃であった。

次はどこに行こう、何をしよう。逸(はや)る気持ちが抑えられなかった。



電車の背中が小さくなっていくのを見送ったあと、あてもなく歩き出した。

朝に来た時と打って変わって、商店街には人が集まっていた。

屋台の準備をする者、提灯(ちょうちん)をぶら下げている者、チラシを配る者などを見るに、今夜の夏祭りの準備をしていることが見受けられる。

風夏は、1枚のチラシに釘付けになっていた。秋帆の目にも、『大花火大会』という文字が写った。

「…行こうか。」

風夏は一瞬だけ目を見開いて、すぐに、いたいけな笑みを浮かべた。

「うん!」

「あ、どうせなら浴衣着たい!」

「いいね!」

2人は一度解散し、各自で準備を済ませてから再開することにした。

「送ってくれてありがとう。じゃあまたね。」

「全然大丈夫だよ。4時ぐらいに迎えにくるから。」

ドアが閉められるのを見届けたあと、自宅に向かった。

もう、このままでいいのではないか。

そんな考えが、頭をかすめた。

ここなら、ずっと楽しく暮らせる。

勉強も、進路も、人間関係も、将来も、何も考えなくていい。

ずっと、『楽しい』を追求するだけでいい世界。

何より、風夏が元気に生きている。笑っている。はしゃいでいる。

そして、その横に秋帆がいる。

これ以上の幸せが、元の世界にあるのだろうか。



『夏』に助けを求め、秋から逃げているのは、秋帆も同じなのかもしれない。




日が少しずつ傾き始めた頃、秋帆は風夏の家の前についた。

インターホンを鳴らそうとした瞬間、ドアが開いた。

「あ。」
「あ。」

「さっきぶり。早かったね、来るの。」

秋帆は言葉を失った。白生地をベースとしたひまわり柄の浴衣に身を包んだ風夏の、あまりの綺麗さに圧倒されたからだ。

ふんわりした三つ編みが、横に垂れ下がっている。それが大人っぽさを演出していた。

「綺麗…」

「ありがと。浴衣とか久しぶりだから上手に着れるか不安だったけど…うまくできてるみたいでよかった!」

ニコッと微笑(ほほえ)む風夏に、胸を撃ち抜かれた。

きっと漫画やアニメだったら、目がハートになって鼻血が滝のように出ていただろう。



カランコロン、と下駄(げた)の軽(かろ)やかな音を聞きながら、商店街に向かった。

目的地に近づくにつれて、徐々に浴衣や甚平を着た人が増えてきた。

街は、提灯でライトアップされていた。至る所のお店が夏祭り仕様になっていて、どこからともなく活気の良い声が聞こえてくる。もう列ができている屋台もあった。

「賑やかだな… 何食べたい?」

「んー…焼きそばとー、わたあめとー、りんご飴とー、チョコバナナとー…」

「結構食べるんだ…」

それから、怒涛(どとう)の屋台巡りが始まった。

風夏が焼きそばの屋台に並んでる間、秋帆はわたあめに。
秋帆がりんご飴に並んでいる時に、チョコバナナに…

「おいし〜!」

戦利品を膝の上やらベンチの上に並べて、美味しそうに頬張る風夏を横目に、秋帆も一口だけ、たこ焼きを食べた。

「風夏。」

「ん?」

また、その姿をフィルムに焼き付けた。風夏も撮られ慣れてきたのか、徐々に自然な笑みになってきた。

ペロリと平らげた2人は、的屋の列に並んだ。

「秋帆、あれ取ってよ!」

風夏が指さしたのは、この射的の的で1番大きなクマのぬいぐるみだ。

「で、できるかな…」

自信なさげに銃を構える。

「お!いいねぇ兄ちゃん!彼女にいいとこ見せてやれ!」

盛大に外した。射的屋のおじさんの余計な一言のせいということにしておこう。

どんまい!と、おじさんはガハハと笑いながら言った。風夏も笑っている。

出店を一周する頃には、両手がキャラクターのお面と水風船で塞がっていた。

少し休憩を取るために、石段に腰掛けた。

「あ、そろそろ花火の時間だな。」

「私いいところ知ってる!ついてきて!」

人混みを抜けて、周りの喧騒も遠くに感じるようになったところで、目的地についたようだ。

夏祭り会場を一望できる高台についた。そこには小さな空間しかなく、古びた木製のベンチが閑静な雰囲気をより際立たせている。

「ここなら誰にも邪魔されずに見れるね!」

風夏は、ちょこんとベンチに座った。秋帆もその横に座る。

「…今日、楽しかったなぁ…」

しみじみと風夏は言った。

「……うん。」

歯切れの悪い返事をしてしまった。

元々、風夏をなんとかして元の世界に連れ戻すために、今日一日を費やすつもりだったのに、結局、秋帆自身も普通に楽しんでしまっていたのだ。

「じゃあ、そろそろ決めないとだね。」

風夏はさっきと変わらないトーンで告げた。

「決める?」

「秋帆なら分かるでしょ?」

「…わ、分かるって?」

急に核心に迫られた感覚になり、心臓の鼓動が早くなる。

「本当は、8月32日なんてないってこと。」

風夏と目が合った。

それは、全てを知っているような眼差しだった。