8月32日のあなたと



カタカタカタ、と扇風機の回る音が、遠くから聞こえてきた。

続いて、チリンチリン…と風鈴が鳴った。

ああ、思い出した。僕はトラックに轢かれたんだ。そしてこれは、俗に言う走馬灯(そうまとう)というやつに違いない。

短い人生だったな。あーあ。こんなに早く死ぬならもっと自由に生きておけばよかったな。貯金なんかせずに豪遊して、勉強なんかやめて遊びまくって…

風夏に告白しとけばよかったな。

まあ、もうどれだけ悔やんでも後の祭りだ。

秋帆は考えるのをやめた。

……にしても妙にリアリティのある走馬灯だ。

背中に伝わる感触は、自宅の敷布団によく似ているし、事故に遭った割に、体は全く痛くない。むしろ、軽くてしょうがない。充分に睡眠時間をとったあとのように、頭がすっきりしている。

「…え?」

普通に目を開けることができた。目線の先には、見慣れた天井があった。

秋帆の自室の天井だった。大体のシミの位置まで把握しているから、間違いなかった。

秋帆は慌ててバサっと起き上がった。

初めて、自分の部屋の隅々まで目を走らせた。ハンガーに掛けられた制服に、角に置かれた勉強机、小さなローテーブル。四畳半の部屋はいつも通りだった。

「…え、夢?」

今まで見てきたのは夢だったのかと本当に信じ込んでしまうほど、そこには日常が広がっている。

窓の外を覗いてみても、街並みは変わらないし、手をグーパーしてみても感覚はいつも通り。

首元のよれたTシャツをまくって自身の腹を見てみたが、傷ひとつなかった。

「なんだよ…」

大きなため息が出た。それは唖然(あぜん)によるものだったが、同じくらい、安堵(あんど)の気持ちも溢れていた。

随分とタチの悪い夢を見てしまったようだ。朝食をとってから二度寝しよう。時計はまだ午前8時になったばかり。秋帆は階段を降りてダイニングに向かった。

「秋帆、おはよう。朝ごはん、もうできてるわよ。」

エプロンを着て台所に立つ母が、にこやかな笑みでそう言った。その笑顔に安心して、思わず目頭が熱くなる。

「おはよ。……うん。よかった。本当によかったよ。」

「ちょっと、どうしちゃったの?もしかして反抗期が終わったのかしら…」

母は控えめな笑い声を漏らしながら、鼻歌まじりに皿洗いを始めた。

秋帆はダイニングチェアに腰掛けて、ほかほかの白米を口に運んだ。いつもの味。何も変わってない。何なら、いつもの数倍は美味しく感じた。

秋帆には、いつもの日常が久しぶりに帰ってきたように思えた。

テレビのリモコンを操作して、お馴染みの美人なアナウンサーの出演する朝の情報番組をつける。画面に映るお姉さんも、相変わらず綺麗だった。


「それでは、『8月32日』のお天気をお伝えします!」


箸が手から滑り落ちた。床に転がる音がしたが、拾っている暇はなかった。

聞き間違いではないか、という淡い希望は、場違いなほどポップなフォントで書かれている『8月32日のお天気情報』という文言(もんごん)に打ち砕かれた。

「朝から雲ひとつない晴天で、絶好のお出かけ日和となっています!最高気温は25度前後まで上がる見込みなので、こまめな水分補給を心がけてくださいね。世間ではいよいよ『夏休み最終日』ですね。素敵な思い出を作ってくださいね!」

番組はコマーシャルに入った。今日だけは、あのお姉さんの可愛い笑顔が不気味に見えた。日本語を話しているはずなのに、異国の言語を聞かされているようだった。

「…?秋帆。お箸、落としてるわよ?」

洗い物を終えた母がタオルで手を拭きながら、怪訝(けげん)な目で秋帆を見る。

「…母さん…今日って、8月の何日?」

恐る恐る尋ねた。心臓の鼓動が速くなっていく。

「えーっと…8月…32日よ。」

当たり前のように告げた母の顔は、さっきと変わらない穏やかな顔だった。

秋帆は、その笑顔が急に薄気味悪く思えた。母から距離を取るようにイスから飛び上がり、逃げるように玄関に向かった。

「ちょっと秋帆!朝ごはん、冷めちゃうでしょ!」

母の声は耳に届かなかった。今、秋帆の頭を占めているのは『8月32日』という言葉だけだった。慌てて靴を履いて、身ひとつで外へ駆け出した。

「夢だ… これも夢だ…!絶対…夢に違いない…!」

頭を掻きむしりながら、自分に言い聞かせるように呟いた。

がむしゃらに走っていると、登下校の時に通っている商店街に着いた。

『8月32日』であるという事実を否定してくれる何かを探して、周りを見渡す。

『夏の期間限定セール! 8月32日まで!』

『8月32日 19:00から 夏の大花火大会 開催決定!』

どこのお店にも、どこの看板にも、『8月32日』という文字が溢れていた。呪いの文字に見えてきてしまった。

コンビニのお兄さんも、スーパーのおばさんも、うるさい小学生も、みんな平然と、8月32日を生きている。

みんなが、8月32日を受け入れている。

まるで太陽が東から昇って、西に沈むのと同じように。

4年に一度、2月が29日まであるのと同じように。

この街の、この世界の、全員が敵に回ったように思えた。

「違う… そんなわけがない…!僕は…あの日、事故に遭って…」

「あれ?秋帆?」

目の前には、傷一つない風夏がいた。信じられなかった。

何が現実で、何が夢なのか分からなかった。

全てがあべこべすぎる世界に、秋帆の理解は追いつかなかった。力なく、その場にしゃがみ込んでしまう。

「秋帆!大丈夫?!」

風夏は慌てて駆け寄り、顔を覗き込んだ。

秋帆は、おずおずと風夏の目を見た。

「…風夏こそ。なんで…体…大丈夫なの?」

「え?体?」

ぽかんとした風夏の様子から、『この』風夏は、事故に遭っていないのだと分かった。

では、秋帆の知っている風夏は、今どこにいるのだろうか。

そして、風夏は、なぜここにいるのだろうか。


風夏に連れられて、近くの公園で休息を取ることにした。

この公園は、あの日、「夏休み最終日の8月31日に花火をしよう。」と秋帆が誘った時の場所だ。

このことも、『この』風夏は知らないのだろうか。

「にしてもさ、体調悪いんだったら連絡してくれればよかったのに。花火大会なんてどうせ来年もあるんだからさぁ…」

「花火大会…?」

「ちょっと…本当に大丈夫?秋帆が誘ってきたんだよ?昨日、私がミサンガを渡した後に誘ってくれたじゃん。」

ふと、右手首を見る。そこには、唯一、秋帆も知っている代物(しろもの)がついていた。

そして、同じように風夏の手首にもついていた。

まるで記憶喪失のような立ち振る舞いをする秋帆を見かねた風夏は、元気づけるように明るい声で言う。

「しょうがないね… 今回は花火大会、諦めよっか!家まで送るよ。」

「え…いやそれは…」

「秋帆はただでさえ体力ないんだから、あんまり無理しちゃいけないの!」

体力という言葉がトリガーとなり、秋帆は不可解なことに気づいてしまう。

さっきから全く疲れを感じていないし、汗をかいていないのだ。家からここの商店街の通りまで全力疾走したのにも関わらずだ。

いつもなら、昇降口から教室までの距離を歩いただけでも、息切れして、汗ばんでしまうのに、今は、お風呂上がりのようにさっぱりとしている。

腕も足も日焼けをしていない。日焼け止めを塗っていないと、太陽の光にやられてヒリヒリと肌が痛むのに、今の太陽の光は、心も体もぽかぽかと温めるだけだった。

公園の時計塔も、秋帆の違和感を煽った。

午前8時10分。

家を出てから、もうずいぶん経った気がする。それなのに、時計の針はほとんど進んでいなかった。

何かの見間違いだろうか。そう思って、しばらく時計を見つめた。

けれど、秒針はあまりにもゆっくりと進んでいた。

そして、時折、ひんやりとした心地よい風が頬を撫でる。あの台風による蒸し暑さを乗せた熱風とは大違いだ。

思えば、お天気お姉さんの言葉もおかしかった。

ここのところ気温の上昇が続いていて、最高気温が35度を上回ることもザラにあったのに、「最高気温は25度前後」と言っていた。

急に冷静になってきた秋帆は、頭の中で、ある一つの仮説に辿り着いた。

ここは、秋帆の作り出した走馬灯の延長線のような夏、つまり、

『本来、存在しない夏』なのではないか。

それなら、全ての現象に納得がいく。

あたかも夏休みを延長したかのように、8月が32日まであることも。

どれだけ動いても疲れないし、汗もかかないし、日焼けもしないことも。

時間の進みが極めて遅いことも、そして何より…

風夏も秋帆も無事だということも。

すると、秋帆の頭はスッと軽くなった。

もう一度、やり直すためなのではないか。

秋帆も事故に遭って、この世界に迷い込んだのは、『風夏を元の世界に連れ戻す』ためなのではないか。

その方法もわかっていないし、仮にこの世界を抜けられたとしても、元の世界に帰れる確証はないが、秋帆の本能がそう言っていた。

まだ何も確かなことは分からない。それでも、今度こそ風夏を失いたくなかった。

神様のいたずらだか、秋帆の悪あがきだか分からないが、きっと何か特別なことが起こって、秋帆にラストチャンスをくれたに違いない。

そういう、摩訶不思議なことが起こるのが夏ってやつなのかもしれない。