夏は日が落ちるのが遅い。西日が、ほんの少しだけ水平線にかかっていた。
約束は午後7時だったのに、午後6時を回った頃には、全ての準備を終えていた。先延ばし癖のある秋帆にとって異常なことだった。
それくらい、今日の花火が楽しみだったのだ。水の入ったバケツ、ライター、虫除けスプレー。そして、本日の主役である線香花火。
完璧な準備を終えたことに、思わず自画自賛してしまう。あとは風夏を待つだけだった。
ベンチに置いていたデジカメのフォルダを見て時間を潰すことにした。
デジカメには、思い出のハイライトが凝縮されていた。何百枚もある写真を最初から振り返っていく。
最初の方の写真は、軒先の木々や野良猫などが写っていた。ピントが合っていなかったり、ブレていたり、試行錯誤の跡が見えた。
写真を見進めていくと、身の回りの人の写真が増えてきた。中学の頃の同級生や両親、いとこなど、写真の中の彼らはどこか若々しく、みんな笑っていた。
風夏が写っている写真は、ほとんどがブレていた。おそらく爆笑し過ぎていたせいだろう。
今日こそは綺麗に撮ってやるぞ、と意気込んだ時、ふと時計を見ると、時刻はようやく午後6時20分になったところだった。
6時30分、6時32分、6時33分…
これほど時間の進みを恨んだことはない。たった1分がひどく長く感じられる。
午後6時55分。約束の5分前になっても、風夏は現れなかった。
いつもは飄々としている風夏だが、根は真面目で責任感のある子だ。今までも約束した時間の5分前には、必ず着いていた。
大通りに出て、辺りを見渡すも、それらしい姿はない。通り過ぎる人の顔を見ては、違うことを確認してすぐに目を逸らす。
不審者極まりない行動を何回か繰り返していると、気づいたら、時刻は約束の午後7時を過ぎていた。
何かがおかしい。ポケットからスマホを取り出して、風夏とのトーク画面を開く。風夏からは着信もメッセージも何もなかった。
「今どこ?」「なんかあった?」
今だけは連投も許してほしい。不安と不在着信の表示だけが心を侵食していく。
約束の時刻から15分過ぎた時、秋帆はとっくに公園を出ていた。
何か大変なことに巻き込まれたに違いない。そう肌で感じていた。
少し走っただけですぐ息切れする自分が情けなかった。通学路の路地裏、公園に続く裏道、人気の少ない河川敷。全てを巡ったが、風夏はどこにもいない。
どこだ。どこにいるんだ。早く出てきてほしいのに。ただ、無事なことが分かればそれでいいのに。心当たりのある場所をしらみ潰しに回ったが、手がかりは皆無だった。
最後の希望を持って風夏の家を訪ねることにした。
お願いだから家にいてほしい。「ごめん、寝てた!」って笑顔で言ってくれれば大丈夫だから。その笑顔で安心させてほしいだけだから。
だが、そんな願いも虚しかった。
何より、家の様子がおかしかった。いつもはしっかり施錠されている門扉も開けっぱなし。そして、この時間なら風夏のお母さんがいるはずなのに、キッチンもリビングも明かりはついておらず、もぬけの殻のように見えた。
プルルル…プルルル…
着信が鳴った。慌てて画面を見る。発信先に「風夏」と書かれているのが目に入った。考えるよりも先に通話ボタンに触れた。
「もしもし、風夏。今どこ?大丈夫?1人?」
矢継ぎ早に質問が溢れ出る。風夏は何も喋らない。繋がっているはずなのに、どこにも繋がってない。
よく耳を澄ませてみると、何やら慌ただしい気配がする。
「…風夏…?」
声から力が抜ける。自分の心臓の音がうるさい。
「…もしもし、秋帆くん。…風夏の…母です。」
頭が真っ白になった。嫌な予感がする。冷や汗がこめかみを伝った。異常に喉が渇く。足の先から血の気が引いていく感覚に襲われた。
風夏の携帯から電話がかかってきた。それなのに、風夏の母親が電話に出た。約束の時間になっても、風夏は来なかった。
この事実が、一つの結論へと繋がっていく。
その結論だけは、どうしても考えたくなかった。
「…秋帆くん。落ち着いて聞いてね。」
おばさんの声は震えていた。
聞きたくない。この続きを聞きたくない。
「…風夏が事故に遭ってしまいました。」
視界が歪んだ。頭が理解を拒否した。肺と心臓がぎゅっと締めつけられて呼吸がしにくい。でも、現実は待ってくれなかった。
「あの子…電車に… それも…遺書を残して…」
おばさんは泣き崩れた。咽び泣く声が頭に刻まれる。
かろうじてスマホを握っていた。自分の心音と呼吸音が遠ざかっていくのを感じる。
何回も何回も唾を飲み込んで、喉を潤す。聞きたいことも言いたいこともたくさんあるのに。真っ白になった頭には、何の言葉も浮かんでこない。
「病院は…」
「…市立病院よ。…ゆっくり…落ち着いてからでいいから…会いに来てちょうだいね…」
おばさんは無理やり、穏やかな声を作っていた。それが、余計に痛々しさを醸し出していた。
電話の背景には、難しい医療用語が飛び交っている。悲惨な状態だということは、おばさんの口から聞かずとも分かった。
電話を切った秋帆は、のそのそとおぼつかない足取りで市立病院の方向へ向かい始めた。頭の中は心配と自責の念でごった返していた。
ここ1週間、1番近くにいたのは誰だ。
風夏の異変に1番気づくべきだったのは誰だ。
涙が溢れた。急いで拭った。散々やらかしておいて、さらに泣いてしまったら、もう秋帆自身もどうにかなりそうだった。
でも止まらない。視界が涙で歪む。両腕で拭っても、拭っても、溢れ出る。
自然と足の回転速度が上がっていく。このやるせない気持ちの吐き出し方が分からない。市立病院が見えてきた。一心不乱だった。
秋帆の頭には、風夏の顔しか浮かんでいなかった。
その想いの強さは、迫ってくるトラックのけたたましいクラクションの音をかき消すほどだった。
スローモーションのようだった。大きく両腕を振りながら、一直線に病院へ向かっていた。
周りを気にする余裕がなかった。いつの間にか、大通りを縦断していた。
歩行者信号は、秋帆の顔を真っ赤に照らしていた。
トラックが急ブレーキをかける音と、鉄塊と人体がぶつかる鈍い音が轟いたあと、辺りは悲鳴とどよめきに包まれた。
道路のど真ん中に、血を流して横たわる秋帆の目に映ったのは、手首に巻かれたミサンガだけだった。
「…ふう…か…」
秋帆は意識を手放した。
