8月32日のあなたと



起きて、食べて、スマホを見て、ちょっと勉強して、寝る。

これを繰り返して早4週間。夏休みは、もう残り1週間となってしまった。

改めて認識すると、言葉では言い表せないほどの絶望と憂鬱に、頭の中をハイジャックされた。

今日、8月24日は出校日である。

靴箱から階段を上り、廊下を歩いて、この席に着くだけのはずなのに、汗で肌がじっとりと湿った。

それに加えて、入念に日焼け止めを塗り込んでもなお、真夏の日差しに焼かれた肌は痛みを訴えた。

約1ヶ月ぶりに入った教室には、なんとなく居心地の悪さを感じた。

一定の間隔で整然と並んだ机に、新品のチョークと、禍々(まがまが)しい存在感を放つ黒板。加えて、クラスメイトがすぐ横にいる圧迫感。息苦しく感じるのも仕方がない。

家で過ごす自由な生活に馴染んでいた宮原秋帆(みやはらあきほ)は、この空気に、再び適応するまでに一体どれほどの時間がかかるのだろう。

朝食を食べながら見た朝の情報番組によると、まだまだ気温が下がる見込みはないそうだ。今日の最高気温は35度を超えるかもしれないらしい。

その上、台風が近づいているそうだ。道理で教室の窓から入ってくる風が生ぬるいわけだ。

開放感と達成感に満ち溢れていた終業式から、もうひと月も経過したことに時の流れの早さを痛感する。

久しぶりに着た制服は、なんだか堅苦しく感じた。

家にいる時の服装は、首元のよれたTシャツに、中学時代の体操服のズボンだった。それに比べて、クリーニングから返ってきたばかりの硬いワイシャツとスラックスは、夏の暑さに溶けてしまった体を、無理やり元の形に戻しているようだった。

「おはよー。相変わらず早いね。優等生じゃーん。」

少し間延びした声が、斜め後ろから聞こえてきた。

綺麗な黒髪のポニーテールを揺らしながら教室に入ってきたのは、秋帆の幼馴染である早川風夏(はやかわふうか)だ。

今年でもう18年目の付き合いになる、いわゆる腐れ縁というやつだ。

「おはよう。僕が早いんじゃなくて風夏が遅いんじゃない?あと3分遅かったら遅刻だったじゃん。」

風夏は自分の席にどかっと座り、制服のシャツをパタパタと扇(あお)いでいる。

「間に合ったからセーフでーす。ていうか秋帆、それどうしたの?写真部、やめたんじゃなかったっけ?」

風夏は、秋帆の机の上に置いてあるデジカメを指差しながら言う。

秋帆は一学期まで写真部に所属していたのだ。

退部の理由は受験勉強のため。大学への進学を目論(もくろ)んでいる秋帆は、大好きだった写真部での活動に区切りをつけ、勉強へと舵(かじ)を切った。

「勉強の息抜き。部活はやめたけど、趣味としてはまだ楽しみたくてさ。」

「へぇ…勉強。あの秋帆が。勉強。」

顎に手を当てて、わざとらしいほど感心してみせた。相変わらず失礼なやつだ。

「そういう風夏はどうなんだよ。進路、決まってんの?就職?進学?」

「あーもう。うるさいなぁ。まだ夏休みだよ?もうちょっと楽しい話しようよ。」

都合の悪い話になると口を尖らせて反論する癖は、小学生の頃から少しも変わっていない。

「あ、それよりさ」

「何?」

すぐ話を逸らす癖もあるよな、と言えば、もっと拗ねてしまうだろう。秋帆は何も言わず、続きを待った。

「夏休みの残りの1週間、私にちょうだい?」

「1週間?」

「そう。海行ったり、秋帆んちでゲームしたりさぁ。どうせ暇でしょー?」

「僕が暇っていう前提かよ。彼女でもできてたらどうすんの?」

「秋帆に彼女ができるわけないじゃん!隣にこーんな可愛い幼馴染がいるんだよ?」

風夏は顎の下にピースを作ってウインクした。

反論したいところだが、可愛いのは事実だった。今度は秋帆にとって都合が悪くなる展開となった。

「はいはい… それにしても急だね。毎年、夏休み初日からうざいぐらいに海だの花火だの誘ってきてたのに、今年は全くの音沙汰なしだったから、彼氏でもできたのかと思ってた。」

秋帆は、デジカメをかちゃかちゃ弄(いじ)りながら、あっけらかんと言ってみせた。けれど、本当は強がっているだけだった。

「その心配はご無用でーす!とりあえず、これから1週間は絶対予定入れないでね!」

そう言い残して風夏はツヤのあるポニーテールを揺らして、友達のところへ行った。

秋帆と風夏は住んでいる環境があまりにも違う。

日陰で涼んでいて、木漏れ日すら眩しいと感じる秋帆と、日差しのど真ん中にいるにも関わらず、元気いっぱいの風夏。

女子グループの中でふざけ合っている彼女は、秋帆にとって太陽そのものだった。

朝礼が終わり、各々宿題を提出した後、放課後になった。

秋帆はリュックサックに勉強道具を詰めている。いろんな場所に持ち運んでいる参考書は、表紙の角が折れ曲がっていたり、裏面の油性ペンで書いた名前が薄くなっていたりした。

教室に残っているクラスメイトはまばらだった。教室に残って勉強をする人もいれば、午後の部活に向けて昼食をとっている人もいた。

「秋帆ー。はーやーくー!」

終礼の時からこっそり帰りの準備を進めていた風夏は、教室の後方のドアの前で仁王立ちしていた。

「ちょっと待って… あとちょっとだから。」

荷物を詰めるスピードを上げざるを得なかった。クラスメイトの好奇心に満ちた視線が秋帆の背中に突き刺さる。

「あの2人ってやっぱり付き合ってるよね?」

「どっちから告ったのかな?」

「いいなー… ああいうピュアな恋愛してみたい…」

根も葉もない憶測が狭い教室に充満する。そそくさと教室を出た。風夏はどこまでも平然としていた。それも秋帆にとっては、あまり気に食わなかった。

照れるなり、バツが悪そうにするなり、何かしらの反応を期待していたが、澄ました顔で秋帆の隣を歩いている。

「どうしたの?」

風夏はきょとんとした表情で問いかける。

ドギマギしていたのは秋帆だけだったようだ。このコントラストには苦笑するしかなかった。

「どうしたもこうしたもないよ… 次学校に来たらまたいじられるじゃん…」

「それくらいいいじゃん。放っとこうよ。冷やかしなんか気にしなくてよくない?」

あっけらかんと言う風夏には余裕と達観を感じた。強がりに由来するものではないと思った。同じように育ってきたはずなのに、こうも違うのかと思うと少し壁を感じる。

「なんか…風夏って雰囲気変わった?前より大人っぽくなったっていうか…」

「そう?まぁ…強いて言えば色々と現実が見えてきたからかな〜」

「現実?」

隣に並んだ風夏の横顔を見る。遠くを見据えた目に何が映っているのか、秋帆に分かる術もなかった。

風夏はなかなか質問に答えてくれない。答えの催促をできる雰囲気ではないことぐらい秋帆にも分かっていた。

さっきまでいた教室がどんどん遠ざかっていく。どの教室もがらんとしていた。さっきまでの喧騒と熱気が嘘のようだった。結局、会話が交わされることはなかった。

だが、沈黙が気まずいわけではなかった。

昇降口に着いた二人は、それぞれ靴を履いた。

「なんか…夏の雲って感じだな。」

なんとか雰囲気を取り戻したくて、風夏っぽいことを言ってみた。

遥か彼方にも繋がっていそうな青い空に、大きなソフトクリームのような雲が広がっていた。陰影がくっきりしていて、燦々(さんさん)と降り注ぐ夏の日差しが雲を白く縁取っていた。

「ひまわりになりたい。」

風夏は、秋帆の想像の範疇を軽々と超えていった。

ひまわり?あの、いわゆる花のひまわりのことなのか。はたまた、何かの比喩なのか。

「どういうこと?」

「朝、聞いてきたじゃん?将来何になりたいか。」

風夏は両手の人差し指と親指で四角い枠を作り、カメラを覗きこむように片目を閉じて、そう言った。その画角には、あの大きな雲がそびえ立っている。

「…どうやってひまわりになるの?」

「んー… 分かんない。」

何食わぬ顔をしていた。「何だよそれ」と言いたい気持ちが喉元までせり上がってきたが、飲み込んだ。

「夏ってさ、なんでもできる気がするよね。」

振り返った風夏からは、さっきの大人っぽさは消え去って、そこにいたのは、秋帆の知っている風夏だった。

秋帆だけに向けられた屈託のない笑みは、もう充分ひまわりと呼んでも過言ではなかった。