後宮の針姫

五

 翌日、朝の勤めが終わると、葵は貞観殿にある明石の命婦の局を訪ねた。
 朱塗りの柱に囲まれた広間には格式高い松竹が描かれた几帳が立てられ、薄絹の御簾越しには幾重にも重ねられた美しい反物や、黒漆塗りの見事な裁縫箱が置かれていた。そして、部屋全体には沈香の甘い香りが漂っているが、御簾の中に入った途端、葵は息苦しさを感じる。
(明石様の局で、黄丹の袍の黒糸と同じ禍々しい気を感じるのは一体なぜ?)
 疑問に思いながら、葵は明石と対面した。
「葵、血相を変えてどうしたのですか?」
 明石の君が葵に向かっていつもの穏やかな笑みを浮かべた。
「明石様、これをご覧下さい」
 葵は持参した包みを解き、黒漆塗りの箱を開けた。中には黄丹の袍が仕舞われている。
「これは東宮様の御衣。完成したのですね」
「はい。言われた仕事は済ませました。それより、見て欲しいものがあるのです」
 葵は衣を裏返し、禍々しい黒糸が縫われている箇所を明石に見せる。
「この黒糸はおそらく『呪詛縫い』だと思われます。東宮様のお命が狙われています。もしかしたら、帝の黄櫨染の御衣にも仕込まれているかもしれません。重陽の節句前に全ての御衣をお改め下さい」
 葵の真摯な訴えを明石の命婦は静かに聞いていたが、その顔に焦りや驚きの色は一切なかった。
「葵、よく気がつきましたね。そなたに褒美をあげましょう」
「褒美などいりません。それより、早く御衣をお改め下さい」
「相変わらず無欲ですね。でも、そういう所が秋定殿と一緒で虫唾が走ります」
 そう口にすると、明石の口元が恐ろしく歪んだ。
「明石様は父を知っているのですか?」
「ええ、よく知っていますよ。私は秋定殿の弟子だったのですから。あの男は術の力を自分だけのものにしようとして、呪詛縫いを封印しようとしたのです。だけど私は独学で呪詛縫いを覚えたのです! 人を意のままに操る呪詛縫いこそが最強の縫い祓い士には相応しい力です。そう思いませんか?」
 (まさか明石様が呪詛縫いを! すぐ白蓮様にお知らせしなければ)
 そう思い、葵が立ちあがると、明石は「まだ帰しませんよ」と言って手を叩く。
 すると几帳の奥に隠れていた帯刀が現れ、葵の腕を掴んだ。
「葵、今度こそ逃がさないぞ」
「帯刀様!」
 興奮した帯刀の口元に牙が這え、葵は悲鳴を上げそうになるが、その寸前で帯刀の手で塞がれた。
 そんな葵を明石は冷たい瞳で見つめる。
「葵、あなたにはまだ大事な役割が残っています。重陽の節句で東宮を呪詛した罪を被ってもらいますよ。父親と同じ罪で裁かれて嬉しいでしょ? もうすぐあの世で秋定殿に会えますよ」
 明石がそう言った瞬間、葵は首の後ろに激しい痛みを感じ、意識を失った。

(……寒い。ここはどこ?)
 葵が目を覚ますと、そこは埃と湿気を含んだカビの匂いがする場所だった。
 部屋の高窓から微かに差し込んだ明かりで、葵はここが牢のような場所だとわかる。
 狭い密室には葵以外誰もいなかった。
 板敷の床から起き上がり、葵は木の扉を全力で叩いた。
「出して下さい! 明石様! 帯刀様!」
 扉にしがみつき、必死で叩くが、沈黙が返ってくるだけだった。
 葵は額にじっとりとした嫌な汗をかきながら、絶望に包まれた。
(明石様は本気で私に呪詛縫いの罪を被せるつもりなんだ。きっと、十年前も父に濡れ衣を着せ、犯人に仕立てあげたんだ。やっぱり父は帝を呪詛していなかった)
 真実がわかり、葵の目に悔し涙が浮かぶ。
(父は無実なのに、処刑をされた。母だって父が生きていれば病に倒れることはなかった。明石様が憎い。だけど、牢に閉じ込められて、何もできない。重陽の節句までに白蓮様にこのことをお知らせしなければいけないのに……)
 葵はハッとした。
(松風様に貞観殿の明石様の所に行くと言ったから、明日になったら白蓮様が探してくれるかも)
 淡い期待が胸を過るが、葵はすぐに強く首を振った。
(いいえ。待っているだけでは駄目よ。どれくらい眠っていたかもわからない。もしかしたら、もう重陽の節句当日かもしれない。自分でここを出なきゃ)
 葵は扉を睨むと、勢いをつけて、全力でぶつかった。
 肩に激痛が走るが、葵は何度も体当たりする。
(絶対にここから出るんだから!)
 痛みに耐えながら、もう一度強く葵は扉に体当たりした。すると、固く閉ざされていた木の扉がわずかに軋み、隙間から黒紫色の気が漂っているのが見えた。
(動いた! でも、あの気は……呪詛縫い! 呪詛縫いの結界が張られているんだ)
 葵は袖の裏を探り、いつも持ち歩いていた竹筒を取り出す。中には父の形見の銀針と、白糸が入っている。
(呪詛縫いを敗れるのは縫い祓いだと白蓮様がおっしゃっていた)
 葵は針に白糸を通すと隙間に見える黒紫色の結界を縫い始める。
 葵の指先が暗闇の中で青白く光る。集中力を高めると霊力はどんどん大きくなり、やがて、呪詛縫いの結界を破った。それと同時に 浄化の炎が外側の閂を焼くのが見えた。
(今度こそ出られるはず)
 葵はもう一度、木の扉に体当たりする。今度は簡単に扉が開き、朝の陽射しに目を細めた。
 重く湿った密室から抜け出ると、そこは朝霧の残る貞観殿の中庭が広がっていた。
(もう朝? 私、一晩中閉じ込められていたの?)
 眩しさに目を細めている葵の耳に、宮中に刻を告げる太鼓の重々しい音が届く。太鼓の音の数を数え、葵はハッとした。
(辰の刻! 今日は重陽の節句当日!)
 葵がそう思った時、宮中の儀式を行う紫宸殿(ししんでん)の方角から、式典の始まりを告げる雅楽の優美な笙の音が風に乗って微かに聞こえる。儀式の始まりを告げるその澄んだ音色は今の葵にとって絶望的な音色に聴こえた。
「急がなきゃ! あの恐ろしい呪詛の衣を東宮様がお召しになってしまう!」
 葵は痛めた右肩と腕を抱えながら、貞観殿の渡殿を全力で走り、明石の命婦の局に向かうが、局には誰もおらず、葵が持って来た黄丹の袍もどこにも見当たらなかった。
「もう東宮様の所に運ばれているんだ。東宮様のお命が危ない!」
 葵は袴の裾をさっと持ち上げると、夢中で走り出した。
(白蓮様の大切な東宮様は私が絶対に守る!)
 その思いを胸に抱き、右肩の痛みも忘れ、貞観殿を飛び出る。
 常寧殿の角を曲がり、次いで承香殿の脇へと差し掛かると、静かだった北側の殿舎とは一変し、笙や太鼓の音が大きく聴こえてくる。儀式を行っている紫宸殿はもうすぐそこだった。

 紫宸殿の前庭には、色鮮やかな位袍を纏った公卿たちが立ち並び、重陽の節句を祝う菊の花が庭を埋めるように咲いていた。その中に黄丹の袍を纏った長身の東宮の姿を見つけ、葵は叫んだ。
「東宮様! その衣は呪詛縫いが施されております!」
 しかし、葵の声は雅楽の音色でかき消され、誰にも届いていないようだった。
 東宮が纏う黄丹の袍からは禍々しい黒紫色の気がじわじわと溢れ出し、東宮の体を蝕むように絡みつていくのが葵の目にははっきりと見えた。
(このままじゃ、東宮様のお命が!)
 声を張り上げても届かないのなら、この身で止めるしかない。
 葵は右肩の痛みを抱えながら、公卿たちの間を縫って、東宮の前へと勢いよく飛び出した。
「東宮様! その衣は呪詛されております! 今すぐお脱ぎ下さい!」
 突如として現れた葵の存在に、式典の場が騒然となる。
 公卿たちが息を呑み、警護の武者たちが一斉に刀に手を伸ばした。その緊迫した空気の中、東宮は葵の顔を見て叫んだ。
「刀を引け、その者は私の大切な方だ!」
 高らかに響く東宮の声を聞いて、葵は驚きでいっぱいになった。
 黄丹の袍に身を包む長身の東宮・暁仁は――白蓮だった。
「……白蓮様!」
「説明は後だ。葵、無事であったか」
 暁仁が葵に駆け寄ろうとした時、黄丹の袍から流れ出る黒紫色の気が暁仁を呪縛し、暁仁は胸を押さえ、その場に膝をつく。
「白蓮様!」
 葵が駆け寄ろうとした時、「この者が東宮様を呪詛したのです!」という叫び声が背後からした。明石と帯刀だった。
「罪人を捕えなさい!」
 明石がそう叫ぶと、葵を囲んでいた武者たちが葵を取り押さえる。
「白蓮様!」
 葵は暁仁に向かって叫んだ。
「その者に触れるな!」
 暁仁がそう叫んだ時、黄丹の袍の胸元から青白い光が放たれ、黒紫色の気を打ち消してゆく。そして暁仁の体を縛っていた黒紫色の気が全て消え、暁仁は浄化の青白い光に包まれた。その姿は周囲の者を圧倒する程、神々しかった。
「私の術が!」
 明石は思わずそう叫んだ。
「その者が呪詛をした犯人だ。捕えろ!」
 明石に向かって暁仁が叫ぶと、すぐに武者の者たちに明石は取り押さえられた。
「放せ! 貞観殿の明石の命婦だぞ! 呪詛したのはそこの小娘だ!」
 明石は本性を現した醜い表情で、叫んだ。
 傍らにいた帯刀も牙を剥き、鬼の力を発動させようとしたが、暁仁が袖から取り出した呪符の力で封じられ、武者たちに取り押さえられた。
「なぜだ。なぜ私の術が効かぬ!」
 武者たちに取り押さえられながら叫ぶ、明石に暁仁は近づき、衣の内側に仕舞っていた古い絹の布で作られたお守りを見せた。
 葵の目にも古びたお守りが入る。その瞬間、葵の心臓は強く打った。
(なぜ白蓮……東宮様が蓮にあげたお守りを持っているの?)
 葵はまさかと思いながら、明石に詰め寄る暁仁の鼻筋の通った横顔を見つめた。
「葵が作ってくれたこのお守りがそなたの術を破ったのだ」
「そんな馬鹿な……! 秋定の娘ごときに私の術が破れるなんて……」
「そなたにはたっぷりと罪を償ってもらうぞ。藤原秋定殿に濡れ衣を着せた証拠はもうこの手に掴んだ。もはや言い逃れはできぬ。連れて行け!」
 暁仁がそう命令をすると、成景が先導して、明石と帯刀を連行して行く。
 葵は二人が連れて行かれる様子を眺めながら、ようやく父の無念が晴らせることに安堵する。
 公卿たちが一連の騒動にざわつく中、暁仁は真っすぐ葵の元へと歩み寄った。
「葵」
 目の前に立った暁仁にそう呼ばれ、葵の胸が大きく跳ねる。
 女官姿の暁仁も麗しかったが、髪を上げ、冠を被り、装束を身に纏った姿は、凛々しく葵の胸をときめかせる。
「白蓮……いいえ、東宮様……」
「無事で良かった。よくぞ私の元へ駆けつけてくれた。そなたには救われてばかりだ」
「いいえ、私は何も」
「そなたが守ってくれたのだ」
 そう言って、暁仁は先ほどのお守りを葵に見せる。
 それは他家に行く蓮の為に、葵が父に縫い祓いの縫い方を教えてもらい、父と一緒に縫った物だった。
「それは……蓮にあげたお守りです。なぜ東宮様がお持ちなのですか?」
「私の幼名は『蓮』。姉様、お久しぶりでございます」
(……蓮!)
 葵はこれ以上ないほど大きく目を見開いた。
「本当に蓮なのですか?」
 涙交じりの声で訊ねると、暁仁が頷いた。
「そうです。姉様。大切な話とはこのことを伝えたかったのです。秋定殿の汚名を返上するまでは、正体を明かせず、すみませんでした」
「いえ! 蓮が生きていて良かった!」
 葵は思わず暁仁に抱き着いた。
「姉様、もう離れません。ずっと姉様の側にいます。どうか私の妃になって下さい」
 葵は突然の告白に目を見開いた。
 二人を見ていた公卿や武者たちも東宮の言葉に大きくどよめく。
「東宮様、皆様が見ています」
 動揺した葵がそう伝えると、暁仁は静かに微笑んだ。
「構わん。私の気持ちは決まっている。もう一度言う。葵、私の妃になってくれ」
「妃って……だって蓮は東宮様で……」
 さすがに東宮から告白をされ、葵は戸惑ってしまう。
 暁仁の妃になるということは、将来、この国の国母になるという重責を担うことだ。
「あ、あの、少し考えさせて下さい」
「良い返事を待っているぞ」
 暁仁はそう言って、葵の頬に口づけた。
 さらに周囲にはどよめきが広がり、この年の重陽の節句は秋定の潔白が晴れたことと、突如現れた将来の東宮妃の存在を皆に印象づけるものであった。