後宮の針姫

四

 葵が麗景殿で白蓮の女官として勤め出して五日が経っていた。
 その日の朝もいつも通りの刻限に目を覚まし、赤袴に小袖、単の上に桜色の袿を羽織り、身支度をしっかりと整え、白蓮の御寝所へと向かう。
「白蓮様、お召し替えのお手伝いに参りました」
 御簾の外から声をかけると、「入れ」というやや眠そうな白蓮の声がした。
「失礼します」
 御簾をくぐると、部屋の中央に畳二畳分ほどの御帳台が置かれていた。四隅の漆塗りの柱から垂れる真っ白な薄絹の向こうに、白蓮はまだいるようだった。
「葵、こちらへ」
 そう声を掛けられ、葵は持っていた水桶や洗面の道具を置き、薄絹の中を覗き込んだ。すると、いきなり手を引っ張られる。
「きゃっ」
 御帳台の中に引っ張り込まれた葵が目にしたのは、葵の隣で横になる白い寝間着姿の白蓮だった。
 間近で白蓮の整った顔を目にして、葵の心臓は朝から鼓動を速めてしまう。
「……白蓮様、お戯れをお止め下さい」
 寝台から慌てて起き上がろうとすると、また手を強く引っ張られた。
「私はそなたが可愛くて堪らないのだ」
 クスリと微笑んだ白蓮の瞳は葵を本当に愛しそうに見つめていた。
 白蓮のような高貴な方からなぜそのような目で見つめられるのか葵はわからなかった。ただ、毎朝こうして御帳台の中へ引っ張り込まれてしまう。寝起きの白蓮は昼間の凛々しい姿とは変わり、恋人に向けるような甘い表情をするから、葵も戸惑ってしまう。
「葵、今日は一日中、二人で御寝台の中で書物でも読んでいようか」
「白蓮様、それは困ります。松風様に叱られます。ちゃんと起きて下さい」
 頬を真っ赤にする葵を見て、白蓮は「そなたの頬は林檎のようだ」と言いながら、葵の頬に触れる。
 長い指が葵の頬を包み込むように触れて、また葵はドキドキでいっぱいになった。
「びゃ、白蓮様……お戯れをお止め下さい」
「そんなに可愛い顔をされては止められない。もっと葵に悪戯をしたくなる」
 そう言われて葵は困ってしまう。
「白蓮様、成景様がお待ちになっております」
 御簾の外から松風の声がして、葵は思わず「ひゃっ」と声をあげた。
 白蓮とのやり取りを聞かれていたと思うと恥ずかし過ぎる。
「すぐ行く」
 白蓮は松風にそう答え、葵の耳元に囁いた。
「続きはまた明日」
 艶のある声で言われて、葵はカアッと全身が熱くなるのを感じた。

(また今朝も白蓮様のお戯れを止められなかった。どうして白蓮様は私にこんな真似をするのかしら)
 白蓮の部屋を雑巾がけしながら、葵はフッと息をついた。
 白蓮は今、午前の勤めでいなかった。その間に白蓮の部屋を掃除するのが葵の日課になっている。
「葵、いますか」
 御簾の外から松風に呼ばれ、葵は背筋を伸ばした。
 毎朝、白蓮と戯れていることを注意されるのかと思った。
「はい。松風様」
「明石の命婦という方がいらしてます」
(……明石様が!)
 葵は雑巾を置いて、御簾の外に出た。
 そして松風に連れられて、客人をもてなす部屋に連れて行かれる。
 部屋に入ると、柔らかな笑みを浮かべた明石の命婦が座っていた。
 縫物所では帯刀の典侍からいつも葵を庇ってくれた温かな存在である。
 葵は久しぶりに明石の顔を見て嬉しくなる。
「明石様! よくぞお越しになりました」
「久しぶりですね。葵が麗景殿に移ってからどう過ごしているか心配で、様子を見に来ました」
 明石の優しい言葉に葵の胸は温かくなった。
「気にかけていただき、ありがとうございます。白蓮様や松風様をはじめとする麗景殿の皆様にはとても良くしていただいております。本当に私には勿体ない待遇で過ごさせていただいております」
「それは本当に良かったです。葵が元気そうで安堵いたしました」
(明石様はやはりお優しい方だわ)
「ところで葵に一つ頼みがあるのですが」
 そう言って、明石は脇に置いていた紫色の布に包んだ黒漆の箱を葵の前に差し出す。
「葵の耳にも入っていると思いますが、帯刀様が縫物所をお辞めになり、今年の重陽の節句で帝や皇太子殿下がお召しになる大事な御衣の仕立てが滞っているのです。縫物所の者は手がいっぱいで、葵の手を借りたいのです」
 葵は意外な申し出に瞬きをする。
「私の……ですか」
「ええ。あなたの丁寧な仕事ぶりを私はよく知っています。葵なら任せられると思いました。この衣の裾と袖口の縫い上げを、重陽の節句前日までに仕上げて欲しいのです。誰にも邪魔されないよう、この麗景殿で縫うといいでしょう。皇太子様に献上する時は葵の名前を出そうと思います。きっと名誉ある仕事になると思いますよ」
(皇太子様の御衣を私が……!)
 大きな仕事に葵は息を呑みこんだ。
「そのような大切な仕事、本当に私でいいのですか? それに私の名前を出すなんて、勿体のうございます」
 明石はフフッと優しく微笑んだ。
「誰もが手柄を立てたがる中で、あなたは本当に奥ゆかしいのですね」
「私の父は明石様も知っている通り、菊花の政変で紫泉帝様を呪詛したとされる藤原秋定です。その娘の私が東宮様の御衣を縫うとなれば波風が立ちましょう。私の名前など出さない方がいいと思うのです」
 波風が立てば明石にも白蓮にも迷惑がかかると葵は思った。
「藤原秋定の娘だから、あなたに頼みたいのです。立派な御衣を縫い上げれば、あなたの名誉の挽回になりますよ。これ以上、お父様の罪であなたが肩身の狭い思いをするのは私も嫌なのです。実力のある者はちゃんと評価されるべきです」
 明石の言葉に葵は目頭が熱くなった。
「明石様、そこまで私のことを考えて下さったのですね!」
「私は葵のことを妹のように思っているのですよ。ですから、頼みます」
 明石は葵の右手を両手で握りしめた。
(そこまで言って下さる明石様のお役に立ちたい!)
「わかりました。お引き受けいたします」
「ありがとう。助かります。きっと白蓮様も葵が東宮様の御衣を仕立てることにお喜びになるでしょう。何と言っても白蓮様は東宮様の想い人なのですから」
(白蓮様が東宮様の想い人……!)
 その言葉に葵の心は自分でも驚くほど、大きく揺れた。
「それ本当なのでございますか?」
 葵は思わず前のめりになった。
「ええ。東宮様の側近である、成景様が頻繁にこちらに通っているでしょう? 成景様が白蓮様と東宮様の橋渡しをしているそうですよ。恋文でも届けているのでしょう。葵、麗景殿に来られて幸運なのですよ。将来の中宮様のお側にいるのですから」
(……将来の中宮様)
 喜ばしいことなのに、なぜか葵の胸はチクリと痛んだ。

 明石が帰った後は、葵は松風の部屋に呼ばれた。
「明石の命婦様のご用は何だったのですか?」
 そう聞かれて、葵は東宮様の御衣の仕上げを頼まれたことを打ち明けた。
「それは大変名誉な仕事ですね」
 松風は穏やかな笑みを浮かべた。
「あの、東宮様は、よくこちらにお渡りになっているのでしょうか?」
 東宮様のお名前を出したついでに、葵は気になっていたことを口にした。
「ええ。お忍びでお越しになります。言い忘れましたが、お見掛けしたら、お声は掛けず、頭を下げて、やり過ごして下さい。くれぐれもお顔を見てはなりませんよ。失礼にあたりますから」
「承知いたしました」
「呼び止めてすみませんでした。もう下がってよいですよ」

 松風の部屋を後にした葵は、胸の奥に重たい痛みを抱えながら渡殿を歩いた。
(白蓮様は、東宮様の想い人……そして将来の中宮様になられるお方)
 そう思った瞬間、ため息が漏れる。
 白蓮のあの類まれなる美しさと気品は后妃として帝の隣に立つのは相応しいと頭の中ではわかっている。けれど、悲しさに胸が押し潰されそうになる。それどころか白蓮を独占できる東宮様に嫉妬心のようなものを抱き、葵は自分の気持ちが恐ろしくなった。
(東宮様に嫉妬心を抱くなんて、どうかしている。それに白蓮様は女性の方なのに、私は殿方に抱くような気持ちでいる。きっと白蓮様が私を可愛がって下さるから、勘違いしているのよ。早くこの気持ちを忘れなきゃ)
 葵は自分を戒めるように両手でパチンと頬を打った。
(しっかりしなきゃ。白蓮様は将来の中宮様になられるお方、これまで以上にしっかりお支えしなければ)
 そう気持ちを切り替えると、葵は足早に自室へ向かい、明石の命婦から渡された黒塗りの箱を開けた。中には梔子と紅花を重ね塗りした鮮やかな赤みのある橙色の衣が仕舞われていた。それは皇太子しか着ることが許されない黄丹(おうに)の袍(ほう)だった。
「なんて美しい色!」
 葵はしばし衣を見つめ、丁寧に箱から取り出した。
「白蓮様の大切な方の御衣。一生懸命に縫わせていただこう」
 重陽の節句は二日後に迫っていた。
 葵は針道具を持ち出すと、早速、心を込めて縫い始める。
 ひと針、ひと針、丁寧に糸を縫い付けながら、白蓮への思慕の念がどんどん大きくなっていく。
 優しく葵に話しかける白蓮。秋定の無実を信じると言った白蓮。
 泣きじゃくる葵を抱きしめてくれた白蓮。毎朝、御帳台の中に葵を引っ張り込む白蓮……。
 これまでのことが浮かび、葵の目は涙でいっぱいになった。
(私、どうしたの……)
 自分でも抑えられない感情に囚われ、葵は胸が痛くて堪らなかった。
 何度涙を拭っても縫い目が溢れる涙で歪んでしまう。
 気持ちを集中させようとすればするほど、白蓮の顔が浮かび、葵は針を置いた。
(気持ちを静めなければ)
 少し宮中を歩いて来ようと思い、御簾の外に出た時、こちらに向かって渡殿を歩く長身の直衣姿の殿方が目についてしまう。
(あれはきっと……東宮様!)
 葵はその場に伏せ、東宮がお通りになるのを待った。
 ひたひたと足音が近づいてくる。そして、足音が葵のすぐ近くで止まった。
(東宮様が今目の前にいらっしゃる! 絶対に顔を上げてはいけない)
 松風からの言いつけを守り葵は床に頭を擦り付けるようにして伏せていた。
 高貴な方の気配に全身が緊張で震える。
 息を殺す葵の頭上で東宮が静かに息をつく気配を感じた。何か言葉をかけられるかと身構えたが、また静かな足音が響き、葵から遠ざかっていく。
 葵が顔を上げた時には白蓮の御寝所へ向かう東宮の後ろ姿が見えた。
 ほんの僅かだが、その姿から圧倒的な高貴さを感じ、葵は畏れ多い気持ちでいっぱいだった。
 葵は東宮の姿を見て、白蓮への思慕は全て捨てようと決め、再び自室に戻り、黄丹の袍を手に取り、縫い始めた。

*

 その夜。麗景殿の塗籠の部屋で東宮・暁仁は成景から報告を受けていた。
 厚い土壁に囲まれた密室の中、揺れる灯火が黒漆の文机とそこに積み上がった古文書を静かに照らしていた。
「暁仁様、葵様の代わりに縫物所へ遣わした女官より、報告が入りました。こちらの衣が縫物所の奥の納戸から出て参りました」
 成景が暁仁の前に置いた紫の布包みをそっと解く。中から現れたのは経年でかすかに色あせているものの、一目で極上品とわかる美しい黄褐色の黄櫨染(こうろぜん)の御衣。
「これは……まさか」
 暁仁の切れ長の目が大きく見開かれる。
 成景は静かに頷いた。
「帝しか着ることが許されていない黄櫨染の御衣でございます。おそらく秋定殿が紫泉帝に献上し、事件直後に姿を消したあの御衣かと」
 暁仁は衣を手に取り、じっくりと確かめた。
 幼い日の記憶が過る。秋定の屋敷で見たのは確か黄櫨染の御衣だった。
 衣の裏側を見ると、書物で見た縫い払いの刺繍があった。
「間違いないこれは秋定殿が紫泉帝に献上した御衣だ」
「やはりそうでしたか。縫物所の最奥、納戸奥の葛籠(つづら)の底に隠されるように閉まってあったそうです」
 暁仁は居たたまれない思いでいっぱいになり、文机を強く叩いた。
「十年間、ずっと縫物所の納戸に隠されていたというのか……!」
 暁仁の無念さに同調するように成景も悔しそうに頷いた。
「我らの捜索の手が伸ばせなかった所です。発見できたのは葵様のおかげです」
「縫物所は帯刀が取り仕切っていたな。十年前は秋定殿の下で働いていた」
「秋定殿を裏切り、御衣をすり替えたのかもしれません」
「ああ、だが、他に関係している者もいるかもしれん。今、縫物所にいる人間で、秋定殿の下で働いていた者を探すんだ」
「御意」
 一礼して下がりかけた成景に暁仁はふと思い出したように問い掛けた。
「松風から聞いたが、今日、明石の命婦が葵を訪ねて来たそうだ。重陽の節句の準備で忙しい中、訪ねて来たのは何か匂わないか?」
 成景が頷く。
「明石の命婦を調べてみます」
「頼んだぞ。私も葵に聞いてみる」

*

 夜遅く、葵の部屋では灯心の炎が揺れていた。その明かりの傍らで葵は明石の命婦に頼まれた黄丹の袍に針を入れていた。
(どうか東宮様と白蓮様のお幸せが続きますように。白蓮様が幸せでありますように)
 そう胸の内で願いながら葵が丁寧に衣を縫い始めると、葵の指先は青白く光り出した。
 父から教わった縫い祓いの術が自然と出ていた。
「『縫い祓いとは針と糸を使って乱れた気を整え、破れた魂のほつれを縫い合わせる業』」
 白蓮に教えてもらった言葉を繰り返し口にしながら、衣を縫っていると、自然と葵の気持ちも落ち着いてくる。
 縫い祓いの力で、葵の乱れた心も整えられているのかもしれない。
「本当に不思議な力」
 葵がそう呟いた時、御簾の外から声がした。
「葵、起きているか?」
「はい、白蓮様」
 葵は針を収め、衣を置くと、御簾を上げて入って来た白蓮に視線を向け、背筋を正した。
「夜分遅くにすまない。針仕事をしていたのか?」
 葵の正面に座った白蓮は葵の手元に視線を落とした。
「はい。重陽の節句でお召しになる東宮様の御衣です。今日、明石の命婦様から頼まれまして、急ぎ縫っているところです」
 葵の言葉を聞いて、白蓮は考えるように葵の膝の上の衣を見つめた。
「それは東宮の御衣か」
「はい。白蓮様の大切な東宮様の御衣です。心を込めて縫わせていただいております。白蓮様は将来の中宮になられる方だと聞きました。そんな白蓮様にお仕えすることが出来て、本当に良かったと思っております」
 白蓮への思慕を隠すあまり、葵は普段よりも饒舌になってしまう。
 勢いよく話す葵を白蓮はぽかんと見つめ、それから微笑んだ。
「それは葵の本心か? 私が東宮の妃となることを葵も嬉しく思うのか?」
 思いがけない問いかけに葵は大きな瞳を揺らした。
「も、もちろんでございます。白蓮様ほどお美しく気高い方は東宮様のお隣がお似合いでございます。そういえば今日、白蓮様が留守の時に東宮様が白蓮様の御寝所に入って行かれるのをお見掛けしましたが、白蓮様は東宮様とお会いできましたか?」
 葵は揺れる心を押し込め、昼間の出来事を口にする。
 白蓮は少しだけ考えるような表情を浮かべ、葵を見つめた。
「東宮様は貸していた書物を返しに来ただけだ。だからすぐにお帰りになったようだ」
(東宮様、すぐにお帰りになったんだ。全く気が付かなかった)
「そうでしたか。東宮様が白蓮様のお部屋にいるとずっと思っていたので、今日はお部屋に近づかないようにしておりました」
「葵に気を遣わせたな。すまない」
「いえ。後ろ姿でしたが東宮様の高貴なお姿を目にすることが出来て、良かったです。本当に東宮様は素敵な方ですね。白蓮様と並ぶ姿を見てみたいです」
 そう口にしながら、葵の胸は千切れそうだった。そんな葵を白蓮は真剣な眼差しで見つめていた。
「そなたはやはり嘘が下手だな」
 白蓮は葵の頬にそっと触れた。
 温かく大きな手に包まれて、葵は肩をビクッとさせ、逃げるように視線を逸らす。
「嘘ではございません。白蓮様と東宮様はお似合いのご夫婦になると思っております」
「なぜそのような苦しそうな顔をするのだ」
「……苦しそうな顔などしておりません」
 葵が反発するように答えると、腕を強く引っ張られ、あっという間に白蓮に抱きしめられた。葵の鼻先は衣越しの白蓮の肩に当たり、高貴な薫物の香りを吸い込んだ。白蓮が纏う香りはいつだって葵の胸をざわつかせる。白蓮が女性だとわかっていても、殿方に感じるような気持ちになってしまう。葵は白蓮に抱きしめられながら、どうにもならない恋心を自覚した。
(私、白蓮様のことが好き……)
 そう思った瞬間、喉の奥が熱くなり、涙ぐみそうになったが、唇を噛みしめて堪える。
「……お戯れはおやめください」
 葵は白蓮の腕から逃れようとするが、白蓮は放してくれない。
 葵の小さな背中を包む腕には力がこめてられていた。
「そなたが不安そうな顔をするから心配なのだ。葵、私はあなたが可愛くて仕方がない」
「私は白蓮様にそのように思っていただけるような人間ではございません」
(そうよ。私は白蓮様の大切な東宮様に嫉妬するような卑しい人間なのよ。もしも、私の胸の内を知ったら、白蓮様は私を恐ろしく思うかもしれない)
「そんなことはない。葵は私の大事な人だ」
 白蓮の優しい声が葵の耳元で響く。
「いつも私は葵を想っている」
 熱を孕んだ瞳で見つめられ、葵の胸が熱くなる。
(……白蓮様、なぜそのような目で見るのです)
「葵」
 白蓮の顔が近づき、葵の額に柔らかな唇が押し当てられた。
 それはまるで恋人にするような甘い口づけだった。
「これは私がそなたを大事に想う印だ。重陽の節句が終わったら、葵に大切な話がある」
「大切なお話?」
 葵の問いかけに白蓮は優しく微笑み、抱きしめていた腕を解いた。
「邪魔したな。ちゃんと眠るのだぞ」
 白蓮が御簾の外に出て行く。
 葵は額に残る白蓮の微かな温もりを確かめるようにそっと指先で触れた。額に生々しく残る口づけの余韻は女同士の親愛のものにしては熱を帯びている気がした。
(白蓮様、どうして、愛おしそうに私を見るのですか? あなた様には東宮様がいらっしゃるのではないですか? 私の心をかき乱すのはなぜですか?)
 次々と白蓮に聞きたいことが溢れ、葵はどうかしてしまいそうだった。
(白蓮様は……女の方なのに……)
 自分の抱いた気持ちは一生、白蓮には告げられないと思った。
(今の私に出来ることは東宮様の黄丹の袍を縫うこと)
 葵は再び、東宮の御衣を手に取り、針を入れる。
(あれ……?)
 縫っていて、葵は一か所だけ入っている黒糸が気になった。
(なぜこんな所に黒糸が?)
 そう思い、糸に触れた瞬間、指先から腕に伝うビリッと痺れるような衝撃を感じて、針を落としそうになった。
「これはまさか……呪詛の糸?」
 青ざめた顔で衣を確認すると、先日白蓮から聞いた『呪詛縫い』という言葉を思い出した。
「呪詛縫いは呪いの糸で他者の魂を強引に縛り上げ、人を操る術。紫泉帝も呪詛縫いされた御衣を着て、お倒れになったとおっしゃっていた。なぜ東宮様の御衣に? まさか重陽の節句で東宮様を誰かが呪詛しようと……」
 葵は背筋が冷たくなった。
 すぐに明石の命婦にこのことを伝えなければならないと思った。東宮様の御衣だけではなく、帝の御衣のも呪詛縫いが仕込まれているかもしれない。
(明日、明石様にお会いしなければ)