後宮の針姫

三

 朝になり目を覚ました葵は、見慣れない部屋の光景に戸惑っていた。
 明らかにいつも下働きの二十人の女たちと雑魚寝をしている大部屋とはまるで違う。
 肌触りのいい絹の寝具に、薄っすらと漂う薫物の甘い香り。さらには、几帳で囲まれた畳の寝台は身分の高いお方が使うものだ。
(一体ここはどこ?)
 葵は必死で昨夜の記憶を手繰り寄せる。
(確か帯刀様が……鬼になって、それで白蓮様が現れて……)
 月光に照らされた白蓮の神秘的な姿を思い出して、葵は跳ねるように寝台から飛び起きた。
(ここは……まさか、白蓮様の御寝所!)
「お目覚めになりましたか?」
 御簾の外から落ち着いた女官の声が聞こえ、葵は肩をビクッと小さく揺らした。
「は、はい!」
 緊張気味に返事をすると、御簾をくぐって葵の母親くらいの年齢の女官が入って来た。
「松風でございます。この麗景殿を任されております」
 麗景殿と聞いて、葵は大きく動揺した。
 内裏に佇む七殿五舎の一つであり、后妃や上級女官たちがお住まいになっている宮殿だった。下働きの葵にとっては、足を踏み入れることすら畏れ多い場所である。
(なんて畏れ多い場所にいるの! すぐにお暇しなければ)
「申し訳ございません。すぐに出て行きますので」
 葵は床にひれ伏し、松風に深く頭を下げた。
「そんなに畏まらなくても大丈夫です。白蓮様からあなた様のことを丁重にもてなすように仰せつかっておりますゆえ。白粥の準備が出来ております。今運ばせますから」
 松風が静かに手を打つと、控えの女官が湯気立つお椀を乗せたお膳を恭しく運んで来た。
 後宮に入ってからは、狭い部屋で下働きの女官たちと冷めた飯をかき込むのが常だった葵にとって、こうして寝所まで温かいお粥が運ばれてくる手厚さは、なおさら畏れ多く、身が縮まってしまう。
「あ、ありがとうございます」
 お膳を置いてくれた女官に向かって、葵は深くお辞儀をした。
「冷めないうちにお召し上がりください」
 松風に促され、葵は手を合わせてからお粥をいただいた。
 昨夜は夕餉を食べていなかったこともあり、空腹の胃に粥が優しく染みる。
 こんなに美味しいお粥を食べたのは幼い日以来だったかもしれないと思うと、葵は目頭が熱くなり、涙が滲んでくる。
「お口に合いませんでしたか?」
 心配そうに覗き込む松風に、葵は粥の入った椀を置き、首を横に振った。
「いいえ。このような温かなご馳走をいただいたのは、あまりに久しぶりだったので、嬉しくて。美味しいです」
 涙を浮かべながら葵がそう口にすると、松風は慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
「ご苦労をされて来たのですね。差し支えなければ、お身の上をお聞きしてもよろしいでしょうか?」
 身の上と言われて、葵はドキリとした。
 父、藤原秋定のことを話せば罪人の娘という目で見られるかもしれないと思うと、葵はぎゅっと唇を噛みしめ、俯いた。
「……話すほどの身の上ではございませんので」
 葵がそう返答すると、松風はそれ以上訊ねてくることはなかったので、葵は安堵した。
 再び粥を食べながら、葵は鏡のことを思い出す。
(お借りした鏡、ちゃんと白蓮様の所に戻っているかしら。それだけでも知りたいし、昨夜のお礼も直接お伝えしたい)
「あの、白蓮様にお会いしたいのですが」
 粥を食べ終わると松風にそう切り出した。
 松風が少し考えるように目を細めたから、自分のような身分のものがお会いできる方ではないのだと悟った。しかし、それでも、世話になった礼は伝えたい。
「こんなに優しくもてなしていただき、何もお伝えせぬまま立ち去るのは失礼かと思いまして……それに、白蓮様からお借りした大切な鏡が、無事にお手元に戻っているかも知りたくて」
 葵が必死な様子でそう口にすると、御簾の外でクスクスと笑う声がした。
「元気そうだな」
 そう言って、御簾を押し上げて、中に入って来たのは深藍の袿を颯爽と着こなした白蓮だった。
 神々しい程の美しさを纏う白蓮を目の前にして、葵の頬は熱くなる。
「びゃ、白蓮様、昨夜は危ないところを助けていただき、誠にありがとうございました」
 葵は床に手をつき、深々とお辞儀をした。
 あまりにも白蓮が美麗で、直視することができなかったのだ。
「それから、鏡も貸していただきありがとうございました。あの、白蓮様の鏡を帯刀様に預けたのですが、お受け取りになりましたでしょうか?」
 頭を下げたまま葵が聞くと、「顔を上げなさい」という白蓮の声がして、葵はおどおどとしながら顔を上げ、白蓮に視線を向けるが、やはり直視できず、白蓮の白い首元に視線を落とした。
 いつの間にか松風の姿はなく、白蓮と二人きりだった。
「もう頬の脹れは引いたようだな。良かった」
「は、はい。おかげ様で」
「鏡だが、帯刀からは受け取っていない。まあ、鬼になるような輩だから、自分の懐にでも入れたのだろう」
 それを聞いて、葵は真っ青になった。
 大切な手鏡を失わせてしまったのは自分の軽率な行動のせいだ。
「申し訳ありません! 私のせいです。私に償いをさせて下さい」
 葵の言葉を聞くと、意外そうに白蓮は目を丸くした。
「償い? そうだな」
 白蓮が考えるように腕を組む。
「はい。何でもいたします」
 葵がそう口にすると、白蓮は美しい眉を少しだけ険しくさせる。
「『何でもいたします』だなんて、簡単に言ってはいけないよ」
「簡単ではございません。本当に何でもする所存です。大切な鏡を私のせいで失くしてしまったのですから」
 葵が強い覚悟を浮かべた目で白蓮を見ると、白蓮は僅かに頬を緩ませた。
「落ち着きなさい。まだ私はそなたの名前も知らない」
「葵です」
 白蓮は息を呑み、切れ長の目を見開いた。
「……葵? そなたの名前は葵というのか?」
「はい。植物の『葵』という字です」
「葵のお父様は?」
 父のことを訊かれ、葵は押し黙る。
(父のことを言えば、白蓮様も私を軽蔑するかもしれない。それに罪人の娘を麗景殿に泊めたのだから、白蓮様にご迷惑がかかる)
 そう思うと葵は本当のことが言えなかった。
「どうした?」
 黙ったままの葵を白蓮は優しく見つめた。
「……えーっと、あの、父は田舎で暮らしております。農家でして」
 白蓮に迷惑をかけたくないという思いから葵は嘘をついた。
 葵の言葉を聞いて、白蓮は落胆したように息をついた。
「……そうか。田舎にいらっしゃるのか。では、もう一つ聞きたいことがある。昨夜、葵は特別な力を使っていたな。葵の指先が光っていたのを、私もこの目で見た。あれは何だ?」
 白蓮に優しく聞かれ、葵は血の気が引いていく。
(縫い祓いの力のことを話せば、私の父が謀反を働いた藤原秋定だと知られてしまう……)
「あれは……申し訳ございません! お話しできません!」
「なぜだ?」
「それは……父から誰にも話してはいけない秘密の術だと言われているからです」
 嘘ではなかった。人前でこの術を使ってはいけないと葵は秋定に言われたのだ。
「葵に術を教えたのは、お父様か?」
「……はい」
「そなたの父というのは……」
 白蓮はそこまで口にして、言葉を止めた。
「いや、なんでもない。葵のお父様は田舎で暮らしているのだから、私が知っている方とは違うはずだ」
(……知っている方! 白蓮様はやっぱり父のことを知っているんだ。絶対に言えない)
 必死で動揺を隠す葵を見つめ、白蓮はふっと柔らかな笑みを浮かべた。
「手鏡の償いを決めた。今日から私専属の女官として、麗景殿で働いてもらうぞ」
 思いがけない申し出に葵は目を見開いた。
(白蓮様の専属女官! しかもこの立派な麗景殿で、私のようなものが働くなんて、却ってご迷惑になる。ちゃんとお断りしなきゃ)
「でも、私は縫物所で仕事がありますから」
「それは私の方で、葵の代わりの女官を手配しよう」
「ですが、私のような下働きの者が麗景殿のような立派な宮殿で働くのは、誠に畏れ多いことです。それだけはご容赦くださいませ」
 葵は慌てた様子で床にひれ伏した。
 自分のような罪人の娘がこれ以上、温かな恩恵を受けるのは分不相応であり、もし、父のことが麗景殿の女官たちに知られることになったら、白蓮の評判に傷がつき、ご迷惑がかかると思った。
「そなたは先ほど、『何でもする』と言ったではないか。それは嘘だったのか?」
「いえ、決してそのようなことは……」
「ならば決まりだ。今日から葵には私の側にいてもらう。松風、いるか?」
 白蓮が呼ぶと、御簾の外で控えていた松風が「はい」と返事をした。
「今日から葵は麗景殿で暮らす。葵の部屋はここだ。すぐに身の周りの物を用意して欲しい。それから、女官たちにもそのように伝えておくように」
「かしこまりました」
 松風はそう返事をすると、立ち去った。
 白蓮の言葉に葵はますます恐縮してしまう。
(こんな立派な部屋を私に与えて下さるなんて、申し訳なさ過ぎる。これでは鏡を失くした償いにならない)
「白蓮様、私にこの部屋はもったいないです。私は大部屋で構いませんので」
「ダメだ。葵は今日から私の女官なのだから、私の近くで控えてくれなければ困る」
「ですが、他の方に示しがつかないのでは?」
 麗景殿で働く女官たちのことを思うと、葵は居たたまれなかった。
「そのような心配には及ばない。ここの者は私に従順なのだ。私の決めたことに逆らう者などいないだろう。私はそなたの特別な能力に興味があるのだ」
「……特別な能力?」
「そなたが帯刀に襲われる原因になった力だ。あれは私が研究している『縫い祓い』の術だ。私に知っていることを全部教えて欲しい!」
 前のめりになった白蓮は好奇心旺盛な瞳を浮かべた。葵はそんな白蓮の姿が少年のように見えた。
「そう言われましても……私が知っているのは基本的な縫い方だけで、『縫い祓い』という術がどんなものかは詳しくは知らなくて」
 葵が秋定から縫い祓いの術を教わったのは幼い頃だったので、術の細かい利用法までは知らなかった。
「では、そなたは『縫い祓い』の術がどんな意味を持つか知りたくはないか?」
 そう問われて、葵は胸が高鳴るのを感じた。
「……知りたいです。あの、白蓮様、教えて下さいますか?」
 白蓮がゆっくりと頷いた。
「もちろん。私は葵に『縫い祓い』の概念を教えよう。そして、葵は術者としてそれを活かして欲しい。私の望みは葵が『縫い祓い士』として、一人前になることだ」
「……縫い祓い士?」
「衣を縫うことで術を発動させる術士のことだ。京の都の中でも一番強い術の力を持っていたのが、宮内省の縫殿寮で縫殿頭をしていた藤原秋定という者だ」
 父の名前を聞いた瞬間、葵の指先から一気に血の気が引き、鼓動が激しく鳴り出した。
(やはり、白蓮様はお父様のことを知っていた……!)
「顔色が悪いが、大丈夫か?」
「いえ、あの、藤原秋定様のお名前を聞いて、『菊花の政変』のことがよぎりまして」
 葵は白蓮があの事件のことをどう思っているか知りたくて、あえて自分から話題にした。
(白蓮様も父が謀反を働いたと思っているのなら、お側にはいられない)
「藤原秋定が献上した御衣で紫泉帝が呪詛された事件だな」
 白蓮は静かにそう口にすると、遠い目をして御簾の向こうへと視線を遣った。
「世間では、秋定殿が帝を害しようとした大逆人だと言われているが、私は違うと思っている」
 葵の心臓がドクンっと大きく跳ねた。
 俯いていた顔を思わず白蓮の方に向けると、悲しげな目をしていた。
「秋定殿が遺した『縫い祓い書』には、この術は人を幸せにする為に使うものだと書かれていた。そのようなことを書く方が、呪詛などという禍々しいものに手を染めるはずがない。秋定殿は……誰かの悪意によって、謀反の濡れ衣を着せられたのだと私は思っている」
 確信に満ちた白蓮の声が、葵の胸に強く響く。
 自分と同じように父の無実を信じてくれている人が白蓮であったことが嬉しくて堪らなかった。
「白蓮……様……ありがとうございます。ありがとうございます……ありがとう……」
 ぽろぽろと溢れ出した涙とともに葵は礼を繰り返した。
 ありがたくて、ありがたくて、胸がいっぱいだった。
「……そのようなことを仰って下さった方は、白蓮様が初めてでございます」
 葵は袖で涙を拭うと、床に両手をつき、頭を下げた。
「先ほど、田舎に家族がいると言ったのは嘘です。私の父も母ももうこの世にはおりません」
 父の無実を信じている白蓮にこれ以上嘘はつきたくないと思った。
「私は、藤原秋定の娘、葵でございます」
 葵がそう告げた瞬間、葵に近づいた白蓮が葵を強く抱きしめた。
「白蓮様!」
 突然の熱い抱擁に葵は息を呑んだ。
 背中に回された白蓮の腕の圧倒的な力強さを感じて、葵の耳元を鼓動が激しく叩く。
 さらには白蓮の衣から漂う薫物の香りの奥に、どこか雄々しさを感じて、葵の頬は一気に熱くなった。
(白蓮様、どうしてこんなにも激しく、私を……)
「この十年苦しかっただろう。よく耐えて生きてくれた」
 微かに震える白蓮の声に、葵の目にはまた涙が溢れた。
(なんてお優しい言葉をかけて下さるのだろう……)
「白蓮様……白蓮様……」
 涙に声を詰まらせながら、葵は白蓮の名前を呼び続けた。
 その度に白蓮は「うん」と優しく返事をし、葵のこの十年の孤独を労うように背中を撫でてくれた。
 父の死後、誰かにこうして抱きしめてもらえることなど一度もなかった。冷たい侮蔑に晒され続けた身に、白蓮の包み込むような温もりが葵の小さな体に染みわたり、葵はとうとう白蓮の腕の中で泣き崩れた。白蓮はそんな葵を優しく抱きしめ続けるのだった。

*

 夜の静寂が内裏を包み込む頃。
 貞観殿の最奥にある分厚い壁に隠された塗籠の密室は不吉な黒紫色の気に包まれていた。
「白蓮め……! 余計な邪魔を……!」
 苛立ちをぶつけるように荒々しく壁を叩くのは帯刀の典侍だった。
 昨夜、鬼の力を発動させながらも白蓮の呪符によって胸を貫かれた身体にはまだ痛みが残っていた。
「白蓮の尚侍が陰陽師まがいのことが出来るのは意外でしたね」
 帯刀の足元で小さな灯火の光を浴びながら刺繍枠に向かう明石の命婦がフフッと不気味な笑みを浮かべる。
 彼女の手には研ぎ澄まされた針と、禍々しさを放つ黒糸が握られていた。
「しかし、鬼の姿を見られたのは大失態でしたよ。帯刀」
 そう口にし、明石が刺繍枠に嵌められた布に黒糸を通すと、帯刀は両手で胸を押さえ、苦しそうに床に崩れる。
「明石様……申し訳ございません……どうか、今一度……私に葵を仕留める機会を下さいませ」
「葵は麗景殿で白蓮に保護されています。そう簡単には手だしはできなくなりました」
「では、このまま葵を放っておくのですか?」
 帯刀の質問にまた明石はブスッと布に黒糸を通す。
「うっ!……明石様……お許し下さい」
 帯刀が床でのたうち回る。
 それを見て明石は冷笑を浮かべた。
「どうですか? 私の呪詛縫いの力は」
「明石様以上の術師はこの世に存在しません」
 明石は帯刀の言葉を聞くと、黒糸を抜いた。
 その瞬間、術が解けた帯刀は苦しみから解放される。
「そうです。私が一番です。『縫い祓い』も、『呪詛縫い』も使える私が最高の術師です。藤原秋定を処分した今、私だけが使える術でなければならないのです」
「はい。その通りでございます。中宮様も明石様の術を頼りになさっておいでです」
「秋定の血を受け継ぐ、葵は邪魔です。『縫い祓い』の力に目覚めぬうち完全に摘み取っておかなければ」
 明石は眉間に深く縦皺を刻む。
「でしたら、明石様、父親と同じ目に遭わせてやるのはどうでしょう? もうすぐ重陽の節句です」
 帯刀の言葉に明石は意地の悪い笑みを浮かべた。
「なるほど。それもありですね。中宮様から皇太子を呪詛するように言われています。葵を犯人に仕立てあげますか」
「ええ、そうしましょう」
 明石と帯刀は目配せをすると、二人は楽しげに笑い出した。