序章
都に屋敷を構える藤原秋定は、従五位下の官位を持ち、帝の御衣や御物の調達・お祓いを一手に司る『縫殿頭』という要職に就いていた。そして、彼には葵という幼い一人娘がいた。
「ねえ、母様、父様はまだなの?」
葵はいつになくそわそわと父の帰りを待っていた。宮中からの使いが、本日は大切な客人を連れて帰ると告げていたからだ。葵は客が来るのが好きだった。「秋定の娘、葵です」と挨拶をすれば、まだ幼いのに賢いと大人たちに褒められるからだ。
「もうすぐお戻りになりますよ」
母が優しく微笑んだその時、「旦那様がお帰りです」という下女の声が響き、葵はパッと顔を輝かせて表に駆けて行った。門前に停まった牛車の御簾が上がり、葡萄色の直衣姿の父が下りてくる。
「お父様、お帰りなさいませ!」
「ただいま、葵。今日から家で預かることになった蓮だ。私の従姉妹の子でな。まだ五つだ」
そう言って父に続いて牛車から降りて来たのは、深藍の上等な絹の狩衣を纏った小さな男の子だった。
(わぁ! お人形さんみたいに綺麗な子……!)
それが蓮に対する葵の第一印象だった。
「蓮、こちらは私の娘の葵だ。蓮より二歳年上なので、姉様だと思って頼りなさい」
父の口から『姉様』という言葉が出て、一人っ子の葵は目を輝かせた。
「蓮、姉様をよろしくね。姉様が寂しくないように一緒にいてあげるからね」
それから毎日、葵は蓮が寂しくならないように側にいた。
初めは無口で大人しかった蓮だったが、葵の気を引こうと悪戯をするようになり、二人は毎日のように屋敷を駆け回り、喧嘩と仲直りを繰り返して本当の姉弟のように絆を深めていった。
しかし、蓮が秋定の家に引き取られてから一年経った頃、蓮は再び他家に出されることになった。
「蓮は葵の大切な弟です。他家に蓮を出すなら、私も一緒に出して下さい」
秋定にそう頼み込むが、葵の願いは聞き届けられなかった。
一週間後には蓮はこの家を出て行く。その事実は八歳の葵にはどうしようもなかった。
だから葵は父から習ったばかりの『縫い祓い』の縫い方で蓮のために御守りを縫った。
葵の家系は代々、針仕事に霊力を込めて災いを遠ざける『縫い祓い』の能力が受け継がれていた。
「蓮、これを持って行って」
蓮が他家へ引き取られていく日、葵は袂から、小さな絹の布で仕立てたお守りを取り出した。
縫い目は揃っておらず、刺繍も上手くはなかったが、葵が蓮の無事を祈りながら必死で針を動かした手作りの品だった。
「……姉様」
蓮は大切そうに両手でお守りを受け取ると、大きな瞳からぽろぽろと大粒の涙を零した。
「泣かないで。蓮。きっと、また会えるから……」
葵も涙ぐみながら、自分の着物の袖で蓮の涙を拭きとった。
「……姉様、必ず姉様を迎えに来ますから、それまで待っていて下さいますか?」
蓮の言葉に葵は大きく頷いた。
「蓮を待っています」
それが幼い日に葵が蓮と会った最後だった。
その直後の重陽の節句で、秋定が仕立て、献上した御衣により、紫泉帝が呪い殺されそうになる『菊花の政変』が勃発し、秋定は身に覚えのない謀反の罪で処刑され、一族は没落。葵もまた流転の末、後宮の下級女官へと身を落とすことになったのだった。
都に屋敷を構える藤原秋定は、従五位下の官位を持ち、帝の御衣や御物の調達・お祓いを一手に司る『縫殿頭』という要職に就いていた。そして、彼には葵という幼い一人娘がいた。
「ねえ、母様、父様はまだなの?」
葵はいつになくそわそわと父の帰りを待っていた。宮中からの使いが、本日は大切な客人を連れて帰ると告げていたからだ。葵は客が来るのが好きだった。「秋定の娘、葵です」と挨拶をすれば、まだ幼いのに賢いと大人たちに褒められるからだ。
「もうすぐお戻りになりますよ」
母が優しく微笑んだその時、「旦那様がお帰りです」という下女の声が響き、葵はパッと顔を輝かせて表に駆けて行った。門前に停まった牛車の御簾が上がり、葡萄色の直衣姿の父が下りてくる。
「お父様、お帰りなさいませ!」
「ただいま、葵。今日から家で預かることになった蓮だ。私の従姉妹の子でな。まだ五つだ」
そう言って父に続いて牛車から降りて来たのは、深藍の上等な絹の狩衣を纏った小さな男の子だった。
(わぁ! お人形さんみたいに綺麗な子……!)
それが蓮に対する葵の第一印象だった。
「蓮、こちらは私の娘の葵だ。蓮より二歳年上なので、姉様だと思って頼りなさい」
父の口から『姉様』という言葉が出て、一人っ子の葵は目を輝かせた。
「蓮、姉様をよろしくね。姉様が寂しくないように一緒にいてあげるからね」
それから毎日、葵は蓮が寂しくならないように側にいた。
初めは無口で大人しかった蓮だったが、葵の気を引こうと悪戯をするようになり、二人は毎日のように屋敷を駆け回り、喧嘩と仲直りを繰り返して本当の姉弟のように絆を深めていった。
しかし、蓮が秋定の家に引き取られてから一年経った頃、蓮は再び他家に出されることになった。
「蓮は葵の大切な弟です。他家に蓮を出すなら、私も一緒に出して下さい」
秋定にそう頼み込むが、葵の願いは聞き届けられなかった。
一週間後には蓮はこの家を出て行く。その事実は八歳の葵にはどうしようもなかった。
だから葵は父から習ったばかりの『縫い祓い』の縫い方で蓮のために御守りを縫った。
葵の家系は代々、針仕事に霊力を込めて災いを遠ざける『縫い祓い』の能力が受け継がれていた。
「蓮、これを持って行って」
蓮が他家へ引き取られていく日、葵は袂から、小さな絹の布で仕立てたお守りを取り出した。
縫い目は揃っておらず、刺繍も上手くはなかったが、葵が蓮の無事を祈りながら必死で針を動かした手作りの品だった。
「……姉様」
蓮は大切そうに両手でお守りを受け取ると、大きな瞳からぽろぽろと大粒の涙を零した。
「泣かないで。蓮。きっと、また会えるから……」
葵も涙ぐみながら、自分の着物の袖で蓮の涙を拭きとった。
「……姉様、必ず姉様を迎えに来ますから、それまで待っていて下さいますか?」
蓮の言葉に葵は大きく頷いた。
「蓮を待っています」
それが幼い日に葵が蓮と会った最後だった。
その直後の重陽の節句で、秋定が仕立て、献上した御衣により、紫泉帝が呪い殺されそうになる『菊花の政変』が勃発し、秋定は身に覚えのない謀反の罪で処刑され、一族は没落。葵もまた流転の末、後宮の下級女官へと身を落とすことになったのだった。


