「おかえり〜、リュウくん」
扉を閉めると同時に背後から投げかけられたゆるい声。竜星の二つ上の兄、星弥だ。二十二歳の兄は十八歳の頃からホストをしており、今くらいの時間から寝るのが常である。
黒髪に金色の瞳。背は竜星といい勝負で少し低いくらいだろうか。高校の体育着である白い横線が二本入った緑色のジャージの上に、可愛らしいペンギンのイラストが描かれたTシャツを愛用しており、風呂上がりなのだろうか少し髪の毛が濡れていた。
「……ただいま、兄さん」
二年前からこのマンションで二人暮らしをしており、その前までは親戚の家を転々としていた。竜星が五歳の時に両親が事故で他界し、後に父方の祖母に引き取られたわけだが、その数年後に病気で祖母が亡くなり、兄弟は親戚の家をたらい回しにされてしまう。
母方の祖父母が引き取りたいと名乗り出てくれたものの、二人も面倒はみれないと娘夫婦が猛反対したため、結局そういうことになってしまったのだ。以降、星弥が高校を卒業するまで、二人は時に酷い扱いを受けながらも支え合いながら生きてきた。
「今日は夕方からバイトだっけ?」
「……五時から」
「そっか、頑張ってね。俺は今から寝る〜」
星弥はホストの中でも二部営業と呼ばれる勤務形態で、明け方の四時五時くらいから昼前まで働いているのだ。一部営業が夕方から深夜までで、それぞれ客層が違う。
二部営業はほとんどが夜のお仕事をしている女性のため、太客が多い。個人の単価が高いということもあり集中してお金を稼げるわけだが、生活リズムは心配になるくらい狂いまくっている。
「……兄さん、俺が就職したらホストは辞めるんだよな?」
「うん? まあ、俺ももう二十二歳だし、長くてもあと二年ってとこかな〜」
「……俺のせいで、いつもごめん」
竜星は星弥が自分のためにずっと無理をしていることを知っていた。両親や祖母が残してくれたお金は必要最低限だけ使い、生活費や光熱費、家賃は星弥が支払っている。
専門学校に行くための資金は、アルバイトをして稼いだお金で用意しようと思っていたが、それを知った星弥が全部出してくれたのだ。
「リュウくん、そこは"ごめん"じゃなくて、"ありがとう"の方が兄ちゃんは嬉しいな〜」
「……ありがとう、兄さん」
「よしよし、俺の弟は今日も素直で可愛くてイケメンだな〜」
頭を撫でて満面の笑顔でそんなことを言ってくる星弥。きょうだいでここまで性格が違うのは、もしかしたら珍しくもないのかもしれない。
普段からホストとして女性と接している星弥だが、仕事以外の時間もほとんど休みはなかった。
話のネタを絶やさないために色んなジャンルの本を読んだり、ニュース番組を録画して常に新しい情報を頭に入れたり。体調管理や体型維持のために食事に気をつけたり、ジムに行ったり。とにかくちゃんと休めているのか心配だ。
優秀で誰からも慕われていた兄が、手っ取り早くお金を稼ぐために選択したホストという職業に対して、竜星は偏見などなかった。しかし、自分のせいで星弥は色んなことを諦めてしまったのではないかという負い目が、ずっとあった。いっそ、不平不満を吐き出してくれたらいいのに、とさえ思う。
両親が生きていたら、自分がいなかったら。良い大学に行って、企業に勤めて、結婚して、普通の生活をしていたはずだ。
「兄さんは、後悔……してない? 俺のせいで、自分が犠牲になってること」
竜星は撫でられたままの状態で俯いてしまう。どうしてそんなことを口にしてしまったのだろうと、自分でも驚いていた。ずっと訊きたかったことでもあるが、その答えを聞くのが怖かったのもある。
「犠牲だなんて思ってないし、思ったことすらないよ。これは俺が自分で選んだことだからね」
昔はちゃんと笑えていた弟。両親が亡くなってからは笑わなくなってしまった。優しくしてくれた祖母も亡くなって、ますます感情表現が乏しくなっていく弟。守らなきゃと思った。唯一の家族を。それが"お兄ちゃん"としての自分の役目なのだと。
「可愛い弟を見捨てて、自分のために生きるなんて選択肢、俺には最初からなかったよ」
くしゃくしゃと照れくさそうに竜星の髪の毛を強く撫でまわし、おやすみ〜と自分の部屋に逃げていった星弥。残された余韻に、竜星は胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
疑っていたわけではない。否定されたかったわけでもない。欲しい言葉を惜しみなくくれる兄に応えられない自分が。
いつだって、どうしようもなく大嫌いだった。



