月日が経ち、調理系の専門学校を卒業した。母方の祖母の影響で洋菓子作りに興味があったのだ。葵は調理学校を卒業する前から、高校の先輩である斎宮にこれから開業する予定のカフェで、厨房を担当しないかと誘われていた。
向井斎宮。親が大手企業の取締役で、その息子の一人である斎宮は関連企業に就職していたが、この度起業することになったらしい。準備は進めておくからとだけ言われ、断る理由もなかったので、それまで自分の腕を磨くためにもホテルで見習いとして一年ほど働くことにした。
凪砂もまた、美容師になりたいという夢を叶え、マンションの近くの美容院に就職した。
学生の時とは違い、お互いの仕事もあって一緒にいる時間は自ずと減っていく。すれ違いつつも同じ部屋に住んでいるおかげで、顔を合わせないという日はなかった。
「向井先輩、昔から葵と仲良かったもんな」
前に言っていたカフェが完成し、二ヶ月後にはオープンできるという知らせが届いた。それに合わせて葵はホテルに退職届を出し、時間が空いた時はオープンの手伝いをしに行っていた。
その頃の凪砂は酷く疲れた顔をしていることが多く、美容院が大変なんだろうくらいに葵は思っていた。けれどもだんだんと嫌味な言葉や、辛辣な言葉を口にするようになり、オープンの一週間前にある出来事が起こった。
「葵は……俺のこと、本当に好き?」
「どうしたの? 顔色悪いし……最近変だよ?」
仕事も休みがちで、塞ぎ込んでいることが多い。葵はなるべく傍にいるようにしていたが、カフェのオープンも近くそちらに時間を割かれて、一人にしてしまうことも少なからずあった。
「俺は、葵にとって邪魔な存在? 足枷? もう、必要ない?」
「どうしてそう思うの? 俺にとって凪砂は大切な恋人だよ」
凪砂は何も話してくれないが、おそらく仕事で何かあったのだろう。大きな美容院で先輩の美容師も数人いると聞いた。
あんなに明るくて素直だった凪砂がこんな風に変わってしまったのは、就職してから少し経ってからだ。雑用ばかりだけど早く一人前になりたいと目を輝かせていたのに、今はその光さえ失われている。
「やっぱり、男同士って周りから見たら気持ち悪いのかな? 親にも言えない恋人って本当に恋人? 俺……別に同性が好きなわけじゃないよ。葵が好きなだけ、なのに」
「誰かになにか言われたの?」
葵はベッドの上で膝を抱えて蹲っている凪砂をそっと抱き寄せて、子どもをあやすように背中をぽんぽんと撫でた。凪砂はまっすぐで嘘が付けない。職場でなんの気なく自分のことを話してしまったのかもしれない。誰もが人と違う思考の異物を受け入れられるわけではないと、知っていたはずなのに。
「大丈夫。凪砂は俺が守るって言ったでしょ」
「……俺たち、別れよ」
背中を撫でていた手が止まる。そのひと言は、葵にとって何よりも重かった。今まで何度となく言われてきた言葉。そのどれよりも重く鋭い刃は、葵の心を凍てつかせた。
どうして他人に左右されなくてはならないのか。自分たちが好き合っていればそれで満足だった。けれども凪砂は違っていたのかもしれない。
「俺、もう疲れちゃったよ……」
その声は酷く震えていて。
きっと涙で濡れていた。
「…………わかった」
そう言いながらも納得はしていなかった。別れたくなんてない。けれども、凪砂がそうしたいなら、と今までと同じようにそう答えるしかなかったのだ。途端、凪砂は力いっぱい葵の胸を押して自分から遠ざけた。
「そういうところ、だよ」
「…………ごめん」
「俺にとって葵は、最初で最後の恋だって……そう、思ってたんだけどな」
凪砂、と葵は名前を呼ぼうとしたが、そのひと言さえ呑み込む。涙でぐしゃぐしゃになった凪砂の笑顔。そんな風にしてしまったのは自分なのだと。
数週間後、二人で過ごした部屋はなにもなくなっていた。凪砂がいないこの部屋はもういらない。ここに留まっても彼を思い出してしまうから。
カフェに近い斎宮が所有するマンションを借り、新しい生活が始まる。凪砂に何度かメッセージを送ったが、返信はなく既読の文字だけが浮かんだまま。とにかく生きていてくれさえいればいいと、その後も時折短いメッセージを送り続けた。たとえ返事が返って来ることはなくても。
もう二度と、誰かを愛することはない。
あの時、引き止められなかったのが答え。
凪砂が言ったように、これが最初で最後の恋だと、自分自身もそう思っていたはずなのに。
「君が俺を慕ってくれているのは、知ってる。でも俺は、君が思っているような人間じゃない。優しくもないし、良い人間でもない」
それでも。
「君が君でいてくれたから、俺は……もう一度、少しだけ、勇気を出してみようって思ったんだ。こんな話、君に聞かせるようなものじゃないってわかっていたけれど。それくらい、俺にとって今の君の存在は、大きなものになってしまったみたい」
ただのモブだなんて言わせない。
「これから先もずっと、俺と一緒にいて欲しい」
それを言葉にしてしまったら、困らせてしまうとわかっていながら。もう二度と離したくないと、そう思ってしまったのだ。



