午後五時五十五分。
おはようございます……、と竜星がのそりと姿を現した。頭ひとつ分は背の高い竜星は、長い前髪から覗かせた金眼でましろを見下ろしてくる。何事だろうかとましろも負けじとじっと見上げてみたが特に何かが生まれるわけでもなく……。
「竜星くん、おはよう」
「……おはよう、伊波」
この二ヶ月の間にちょっとだけだが竜星とも仲良くなれた。ましろは「竜星くん」で竜星は「伊波」と呼び合うまでに。だが他のみんなと違い、竜星はあまり自分のことは話さないため、仲良くというのは少し語弊があるかもしれない。
「竜星くん、新しいメニューのメニュー表見た?」
「……いや」
「これなんだけど、めちゃくちゃ可愛いよね!」
「……そうだな」
ましろはカウンターの上に置いてあるラミネートされたA4サイズのメニュー表を竜星に掲げて、にっと嬉しそうに笑った。竜星の表情はこの間一ミリも変化がなかったわけだが、ましろはまったく気にする様子もなく。
「これね、朱莉さんと一緒に考えたんだ。もちろん、描いたのは朱莉さんだけどね」
朱莉の希望により、朱莉先輩から朱莉さんに呼び方が変わった。時間が合えばデートの下見は今でもやっていて、この街のデートスポットは制覇したと言っても過言ではない。作戦会議は『喫茶びいどろ』で、朱莉の祖父との関係も良好だ。
「これ……環さんが描いたんですか?」
ぽつり、と雛希が呟く。カウンターの上にもう一枚置いてあったメニュー表を両手で大事そうに持ち、覗き込むように視線を落とす。心なしか灰色の瞳が輝いて見える。
「竜星くん、今日から入った小鳥遊雛希さんだよ」
「……見たことがある、気がする」
二人の会話など耳に入っていないようで、雛希は挨拶をするのも忘れてメニュー表を隅から隅までガン見している。
「みんな、お疲れさま。小鳥遊さんと伊波くん、葵は時間で上がっていいよ」
「斎宮さん、ちょっと!」
斎宮が顔を出すなり、一葉が猛スピードでカウンターに回り込んで来てそのまま押し戻すようにスタッフルームに消えていった。
「どうしたんだい、一葉?」
「どうしたんだい、一葉? じゃないって!」
こそこそと声のトーンは落としていても焦りはじゅうぶんに伝わっているはずなのに、斎宮はいつもの如くわかっているのかいないのかさっぱりわからない。一葉は今日の出来事を端折りながらも的確に伝える。小鳥遊雛希のことを自分に任せて欲しいと言ったましろに対しての、葵のあの表情。
「あの子が一悶着起こす前に、なんとかしないとマズイかも」
「そう言われても……ひと月だけの契約だからね。何も起こらないことを祈るしか」
「葵がヤバいかも……俺にはわかる」
「いくら葵でも、女子高生相手に大人気ないことはしないだろう」
それは過大評価しすぎだと一葉は思う。なんなら一番大人気ないまである。雛希がましろに絡み離れた後、見計らったかのように厨房から出てきたのを一葉は見逃さなかった。途中で介入しなかったのはわざとだろうが、その後のましろの反応は想定外だったはず。
「バイトくんとあの子のシフトずらせない? 時間だけでも被らないようにするとか」
「それはさすがに無理だよ」
フォローもできて教えるのも上手いましろと新人バイトのシフトは被って当然で、これをずらすと朱莉と竜星になってしまう。
「葵には私から言っておくよ。あまりイジメちゃダメだよって」
「いや、別に新人イジメしてるわけじゃないんで。それはそれで誤解される」
問題は、葵がましろにどの程度執着しているか。
「フラストレーション溜まりまくって、無茶しないか心配というか。それによってバイトくんが葵から離れて行ったら、それこそ昔の二の舞というか」
過去の出来事から、他人を自分の近くに置くことをしないようにしていた葵が、斎宮の頼みとはいえ、容易に断れるはずのルームシェアを承諾したのはなぜか。心境の変化はどこで起こったのか。一葉にはわからなかった。
「これは俺と朱莉ちゃんがどうこうよりも、それ以上の問題だと思う」
一番の爆弾は葵だ。しかも時限爆弾。いつ爆発するかわからない、最悪の事態になる前に。その原因になり得るモノはさっさと退場してもらうか、静かにしていてもらうのが良いというのに。そうはならないのが現実なのである。



