幸せを約束したあなたと幸せにはなれないみたいだ
──俺が幸せにするから。絶対に。
そう言ってくれたあなたは、この世から消えようとしていた。
「朝陽〜。おはよー。着替えるで〜。ゆっくり目覚ましてな」
「ん。おはよ。僚太。ねむいよ〜」
「着替え終わるまで寝てていいけど、だんだんな」
産まれつき障がいがある私は、彼に着替えさせてもらうところから1日が始まる。
「はい、腕通すで〜。もうすぐ終わるから起きや」
朝陽はウトウトとしながらも、僚太の慣れた手つきに身を委ねていた。毎朝繰り返されるこの穏やかな時間が、ふたりの日常であり、確かな絆の証だった。
「よし、着替え完了。遅刻すんで?もう……」
僚太はそう言って、朝陽の頭を優しくポンと撫でた。その大きな温かい手が朝陽は大好きだった。
「車いす乗るで。ちゃんとつかまってな?」
車いすへの移乗も、僚太にかかれば軽々と、そして痛くないように細心の注意を払って行われる。
「朝ごはん、今日はスープ温め直すだけやからな。すぐに用意するわ」
「ありがとう。僚太のスープ、マジで美味いから、いつも楽しみなんだよね」
「マジで?嬉しいわ」
私たちが最初に出会ったのは、私が大学を卒業し、数ある選択肢の中から僚太の働く会社へと飛び込んだのがきっかけだった。
ピカピカのスーツに身を包んだ新入社員たちが緊張の面持ちで並ぶ執務室に、朝の朝礼を告げる凛とした声が響きわたる。
「今日から新年度です!新しい仲間を迎える大事な日、皆さんの元気な顔が見られて嬉しいわ。それでは今年の新入社員の皆さん、前方に出て順番に自己紹介をお願いします」
社長は、スタイリッシュなパンツスーツを着こなし、一人ひとりの顔をまっすぐ見据えながら温かくもキリッとした笑顔を向けた。その堂々とした佇まいは社内全体を自然と引き締め、同時に不思議な安心感を与えてくれる存在だった。
順番に同期たちがそれぞれの抱負を語っていく。そして、いよいよ私の番がやってきた。動悸が高鳴るのを必死に抑えながら、車いすのブレーキがしっかりとかかっていることを確かめて、私はそっと息を吸い込んだ。
「大崎 朝陽です。皆さんになるべく迷惑かけないように頑張るのでよろしくお願いします」
どこか萎縮してしまったような私の挨拶に、社長は優しくも力強いまなざしを向け、少しだけ歩み寄ってきた。そして、心強いトーンでこう告げたのだった。
「大崎さん、そんなに身構えなくて大丈夫よ。うちの会社はね、お互いの個性を尊重してフォローし合うのがモットーなんだから。安心して力を発揮してね。それじゃあ、座席は……藍原さんの隣の席ね?」
「あ、はい!」
社長の指示にうなずくと、執務室の窓際からパッと明るい笑顔が向けられた。
すると、手招きする藍原さん。いや、僚太がいた。
「おーい、こっちやで。緊張せんと気楽にいこな」
そう言って優しく手招きしてくれる。
同期の視線が集まる中、私はドキドキと高鳴る胸を抑えながら、車いすを動かして彼の隣へと進んでいく。慣れないオフィスの床の感触と、新しい環境への不安で手に汗がにじむ。
「よろしくな、大崎さん。困ったことがあったら何でも言ってや」
席に着くなり、僚太は小声でそう囁いてくれた。その気負いのない、どこか人懐っこい笑顔を見たとき、張り詰めていた緊張の糸がふっと緩むのを感じた。
挨拶を終え、配られた書類の束をめくりながら、新しい仕事、そして新しい人間関係が始まる高揚感に包まれる。このときの私はまだ知らなかった。この出会いが、私の世界をこれほどまでに鮮やかに染め上げ、そして切なさを孕んだ運命へとつながっていくことなんて。
それからの日々は、私の想像をはるかに超えてめまぐるしく、そして温かいものだった。
隣の席になった僚太は、仕事の進め方を丁寧に教えてくれるだけでなく、社内の設備やバリアフリーの動線まで、さりげなく、かつ決して過剰にならない絶妙な距離感でサポートしてくれた。車いすでの移動に戸惑っていると、いつも絶妙なタイミングで「ちょっと手伝うわ」と声をかけてくれる。その優しさは同情や義務感なんかではなく、ひとりの人間としての純粋な思いやりからくるものだとすぐに分かった。
お昼休みになると、同期や他の部署の社員たちも自然と私たちのデスクの周りに集まってくるようになった。
「大崎さん、今日の書類作成のフォーマット、すごく見やすかったよ」
「ほんまやな。大崎さんは仕事が丁寧で助かるわ」
僚太が楽しそうに笑いながら私の肩を軽く叩く。その横顔を見るたびに、胸の奥がキュッと締め付けられるような、甘くて温かい痛みが広がった。いつしか私は、この隣にいる人の存在なしではいられないほど、彼に惹かれていっていた。
仕事帰りにふたりで駅までの並木道を歩く時間も、かけがえのないものになっていった。夕暮れのオレンジ色の光が、私たちの影を長く引き伸ばす。
「なぁ大崎さん、今度休みの日にさ、新しくできた駅前のカフェに行かへん?バリアフリーのテラス席もあるねん」
「本当ですか?行きます!行きたいです!たまには外で飲むのもいいですよね」
「よっしゃ、決まりな。楽しみにしててや」
屈託のない笑顔でそう言ってくれる僚太を見上げながら、私は心の底から思っていた。
——この人と出会えて本当によかった。この穏やかで幸せな時間が、ずっとずっと続いていけばいいのに、と。
けれど、心のどこかで微かな不安も渦巻いていた。
私に芽生えたこの特別な感情は、ただの「同僚」や「支える側と支えられる側」という関係を超えてしまっている。もしこの気持ちを伝えてしまったら、今の心地よい関係すら壊れてしまうかもしれない。そんな臆病な自分が、いつだって私を足止めしていた。
ある日、オフィスに残された静寂の中、ディスプレイの青白い光だけが私の顔を照らしていた。
人差し指一本でキーボードを叩く私のスピードは、どうしても他の人より遅くなってしまう。周りのみんなが定時で帰っていく中、私一人だけがデスクに取り残されていた。山積みになったデータ入力の画面を見つめ、思わずため息が漏れる。
「まだこんなにある……」
焦りと悔しさで、目頭が熱くなり、ぽろりと涙がこぼれそうになったその時だった。不意に、軽やかな足音が近づいてくる。
「なにひとりで残業してんの?」
顔を上げると、そこに立っていたのは、僚太だった。仕事終わりのネクタイを少し緩めた姿のまま、心配そうに私の顔を覗き込んでいる。
「あ、藍原さん、お疲れ様です……。その、仕事が全然終わらなくて……私、どうしてもパソコン打つの遅いから……」
震える声で言い訳をする私に、僚太は困ったような、でもどこか優しい目を向けた。
「俺、手伝うで。席代わってくれへん?」
「い、いいです!私の仕事なので、自分でやらないと……」
申し訳なさと情けなさで、慌てて首を横に振る私。けれど僚太は優しく微笑むと、私の車いすの背もたれにそっと手を添えた。
「ええよ、水くさいこと言うなや。困ったときはもっと頼ってや?」
「あ……ありがとうございます……」
先輩の温かい言葉に、張り詰めていた糸がプツリと切れて、涙が出そうになるのを必死にこらえた。僚太は手際よく隣の椅子を引き寄せると、キーボードの前に自然に座った。
少しでもこの気まずさと緊張を和らげたくて、私は潤んだ目を瞬かせながら、ずっと気になっていたことを口にした。
「あの、藍原さんって……その、話し方を聞いてると、関西の方なんですか?」
私の問いかけに、僚太はふっと楽しそうに笑った。
「そやで?実は去年まで大阪支社におったんやけどさ、そこでの売り上げが良すぎて、なぜか俺だけ本社に来るよう言われてん」
「そうなんですね……。じゃあ、本社に慣れるのも大変だったんじゃないですか?」
私が尋ねると、僚太はキーボードを叩く手を一度止め、少し遠くを見るように苦笑いを浮かべた。
「最初はそりゃもう大変やったよ。方言は直すように言われるわ、オフィスの雰囲気はピリピリしてるわで。『やばいとこに飛ばされたな』って本気で思ったもん。でもまぁ……」
そこで言葉を切ると、僚太はふっと優しく私の方を向いた。
「こうして大崎さんみたいなええ後輩に出会えたから、結果オーライやけどな」
その真っ直ぐな言葉と、からかうような、でも温かい響きを含んだ笑顔に、私の心臓が大きく跳ねた。顔が一気に熱くなり、慌てて視線をパソコンの画面へと戻す。暗いオフィスの中で、自分の頬が赤くなっているのが自分でもわかった。
「からかわないでください……先輩」
照れ隠しにそう呟くと、僚太は「ほんとのことやのに」と楽しそうに笑い声をあげた。
それから、僚太は驚くほど手際よく私の残りの作業を片付けてくれた。私が人差し指で何分もかかっていた入力が、彼の慣れた手つきにかかればあっという間に終わっていく。その横顔をこっそり盗み見ながら、私は胸の奥がキュッと締め付けられるのを感じていた。
仕事が終わる頃には、夜の帳がすっかり降りていた。
「よし、これで全部完了!お疲れさん、大崎さん」
「本当に……ありがとうございました。藍原さんがいなかったら、今頃どうなっていたか……」
「ええねん、好きな人のためならなんでもしてやるよ」
「好きな人……?」
不意に紡がれたその言葉に、私の思考が完全に停止した。今、先輩はなんて言ったんだろう。聞き間違いかもしれないと、私は驚きで見開いた目で僚太を見上げる。
僚太はキーボードから手を離すと、まっすぐに私を見つめた。その瞳には、ふざけている様子など少しもなく、ただ真剣な熱だけが宿っていた。
オフィスには、私たちの他には誰もいない。静まり返った空間の中で、自分の心臓の音がうるさいほど大きく響いていた。
「……驚かせてごめんな。でも、ずっと隠してるつもりなんてなかったんよ」
僚太はゆっくりと立ち上がり、私の車いすの前にしゃがみ込んだ。同じ目線に合わせてくれたその大きな手が、私の震えている手をそっと包み込む。
「初めて会社で朝陽を見たときから、ずっと気になってた。仕事に真っ直ぐで、一生懸命で、笑った顔がすごく可愛いなって。気づいたら、俺の視線はいつも朝陽を追ってたんや」
「藍原さん……っ」
「先輩後輩とか、障がいがあるとか、そんなん関係ない。俺は、ひとりの女性として朝陽が好きやねん。俺と付き合ってほしい。……ちゃんと言葉にして、好きって伝えたかった」
あふれそうになっていた涙が、今度こそ止まらなくなって、ぽろぽろと頬を伝い落ちた。怖かった。こんな私だから、誰かを好きになることも、誰かに愛されることもどこかで諦めていた。だけど、目の前にいるこの人は、私のすべてを受け止めようとしてくれている。
「私も……私もです。藍原さんのこと、ずっと……」
言葉にならない想いを絞り出すように、私は震える声で答えた。
僚太は愛おしそうに微笑むと、私の涙をそっと親指で拭ってくれた。そして、優しく抱きしめられる。その温もりを感じたとき、私の世界は鮮やかな光に包まれた。
この瞬間、私は世界で一番幸せだった。
ふたりで付き合い始めてからの毎日は、夢のように眩しかった。
休日はどちらかの家でまったりと映画を見たり、僚太が腕を振るって美味しいご飯を作ってくれたりした。私の身体のことを考えて、いつも負担にならないよう一番に気遣ってくれる。外に出かけるときは、車いすの動線を考えて完璧なデートプランを立ててくれる。
「ほら、ここの景色めっちゃ綺麗やで」
「本当だ……ありがとう、僚太」
人目を気にして小さくなっていた私の世界を、僚太はいつも大きく、温かく広げてくれた。彼の大きな手につかまり、隣を並んで進むだけで、私はどんな困難だって乗り越えられるような気がしていた。私をこんなにも愛してくれる人がいる。それだけで、生きていく理由としては十分すぎた。
とある休日の午後。
「ほら、朝陽。こっち持っててや」
大きなエコバッグを両手に抱えた僚太が、楽しそうに振り返る。ここは駅から少し離れた、静かな住宅街にある開放的なスーパーだった。
私は僚太の言葉にうなずきながら、車いすを……ではなく、今日はふたり並んで歩く練習を兼ねて、歩行器を使ってゆっくりと歩いていた。車いすを離れて歩くのは少し怖かったけれど、僚太がすぐ隣に控えて、いつでも支えられるように手を差し出してくれているから、不思議と心強かった。
「今日の夜ごはんな、朝陽が『食べたい』って言うてたトマト煮込み作るで。材料、ちゃんと新鮮そうなの選んだからな」
「ほんとう?やったあ。僚太のつくるご飯、お店のよりずっと美味しいもん」
「そりゃどうも。料理男子なめんなよ」
得意げに笑う横顔が、眩しくて仕方がなかった。
出会った頃はあんなに緊張していたのに、今ではこうして休日に一緒にスーパーで買い出しをして、他愛もないことで笑い合っている。これが恋人同士になるということなのだと、実感するたびに胸が甘く疼いた。
「あ、これ美味しそう」
私が棚の端に見つけた小さなクッキーの箱に手を伸ばそうとすると、少し背伸びをしなければ届かない。それを察した僚太が、すっと素早く手を伸ばして代わりに取ってくれた。
「はい、お買い上げ〜。甘いもん食べて、今夜も映画観るで」
「うん!観る観る。何にする?」
「それは帰ってからのお楽しみや」
私の背中にそっと添えられる大きな手のひらから、じんわりと温かさが伝わってくる。その体温を感じるだけで、不安でいっぱいだった私の世界は、いつの間にかこんなにも色鮮やかで安全な場所に変わっていた。
私と僚太は、お互いに足りないところを補い合うようにして生きている。私ができないことは彼が笑って引き受けてくれて、彼が疲れたときは私がその背中をそっと包み込みたい。そうやって、これから何十年も、ふたりで並んで歳を重ねていくのだと、このときの私たちは本気で信じて疑わなかった。
夕暮れ時の帰り道、つないだ手のひらから伝わる熱が、まるで私たちの未来の温かさそのもののようで、私はぎゅっとその手を握りしめ返した。
ふたりで過ごす日常のすべてが、永遠に続く奇跡のように尊かった。
ふたりの交際が始まってしばらく経った頃、私たちは自然な流れで一緒に暮らし始めた。
オフィスの近くにある、段差の少ない小さなアパート。そこで過ごす毎日は、これまでの孤独を嘘のように溶かしていくものだった。
「朝陽、お風呂の湯加減どうや?」
「うん、ちょうどいいよ。ありがとう、僚太」
毎日の生活にはどうしても手助けが必要で、お風呂の移乗や身支度の手伝いを僚太は嫌な顔ひとつせず、当たり前のように引き受けてくれた。優しく抱え上げられるたびに、彼の腕の温もりと、私を大切に扱ってくれる誠実さが肌を通して伝わってくる。支えられることに引け目を感じていた私の心は、彼の愛に包まれるうちに、少しずつ柔らかくほどけていった。
「はい、お着替え完了。今日も一日お疲れ様、朝陽」
「僚太も、お仕事お疲れ様」
そんな穏やかな同棲生活が始まって半年が過ぎた。
仕事が休みの土曜日、僚太は「今日は特別な場所に行くで」と言って、私を車いすに乗せ、見慣れない海沿いの公園へと連れ出した。夕暮れ時の空は、茜色から深い藍色へと移り変わり、目の前には波の音が心地よく響いている。
「わぁ……すごく綺麗……」
車いすを停めてもらったその場所は、視界いっぱいに海と夕焼けが広がる特等席だった。風が少し冷たかったのか、私が小さく身震いしたのに気づいて、僚太は自分のジャケットをそっと私の肩にかけてくれた。
「寒くないか?」
「うん、すごく温かい。ありがとう、僚太」
ふと見上げると、僚太はいつになく真剣な顔で私を見つめていた。その大きな手が、私の膝の上に置かれた冷えた手をそっと包み込む。
「朝陽。同棲して、毎日こうして隣にいてくれて、俺は本当に幸せやねん」
「……私もだよ。僚太と一緒になってからの毎日が、人生で一番宝物だもん」
私の言葉に、僚太は愛おしそうに微笑んだ。そして、ゆっくりと自分のポケットから小さな箱を取り出し、私の目の前でひざまずいた。
「……初めて会った日から、ずっとずっと思っとった。足が動こうが、動かんが関係ない。俺は、朝陽の全部が愛おしい。この先もずっと、隣で朝陽の手を握って、笑い合っていたいねん」
カチリと音を立てて、箱の蓋が開く。中には、夕日の光を受けて控えめに、けれど美しく輝く朝陽が憧れていたブランドのずっと欲しかった指輪が納められていた。
「俺と結婚してくれ。ずっと、朝陽の隣で支えさせてほしい。俺が幸せにするから。絶対に」
波の音と潮風の匂いの中、真っ直ぐに向けられたその瞳には、嘘偽りのない永遠の誓いが宿っていた。涙が一筋、頬を伝い落ちる。胸がいっぱいで、声にならない想いを絞り出すように、私は何度も首を縦に振った。
「……うん、よろしくお願いします。私もりょうたとずっと一緒にいたい……ふたりで幸せになろっ……?」
僚太は嬉しそうに微笑むと、震える私のお薬指にそっと指輪を通してくれた。そして、立ち上がって優しく私を抱きしめる。
耳元で聞こえる心臓の音と、包み込んでくれる温もり。
この瞬間、私たちは永遠を誓い合った。あの残酷な運命の歯車が動き出すだなんて思いもせずに、私たちはただ、幸せの絶頂にいた。
——なのに。
あんなにも確信していたはずの未来は、ある日を境に静かに、けれど圧倒的な力で音を立てて崩れ始めていった。
違和感は、ほんの些細なことから始まった。
一緒に買い物をしているとき、急に僚太がその場にうずくまり、頭を押さえて顔を歪ませたこと。
「どうしたの、僚太?」と慌てて尋ねると、彼は冷や汗を流しながら「何でもない、ちょっと貧血気味なだけやから」と無理に笑ってみせた。
そのときは私も、仕事の忙しさからくる疲れだろうと深く考えなかった。
だけど、それが何度も繰り返されるようになり、僚太の笑顔の裏に隠された影が、だんだんと濃くなっていった。
病院での検査結果を聞かされた日のことは、今でも鮮明に覚えている。
待合室の冷たい空気の中で、僚太から告げられた病名は、私たちの未来を打ち砕くには十分すぎる残酷なものだった。
「……そっか。治らん病気やったわ」
僚太はそう言って、私を悲しませまいといつものように笑ってみせた。でも、その瞳の奥には隠しきれない絶望と恐怖が揺れていた。
私は生まれつきの障がいを抱え、これまでも、これからも誰かの支えなしでは生きられない。そんな私を愛してくれた彼は今、私よりも残酷な運命に引き裂かれようとしている。
私が支えられる側だったはずなのに。
どうして、一番守りたい人が壊れていくの。
「幸せを約束したあなたと幸せにはなれないみたいだ」
心の底から零れ落ちたその言葉を飲み込みながら、私は震える手で、僚太の冷たくなりかけた手を強く握りしめた。
「俺が幸せにするから。絶対に」
そう言ってくれたあなたの声が、耳の奥で何度も反響する。
病室の窓から差し込む夕日が、ベッドの上で眠るように目を閉じる僚太の横顔を赤く染めていた。
「……嘘つき、だよ」
誰もいない静かな病室に、私の震える声だけが溶けていく。
検査を重ねるたびに、僚太の体から熱が奪われていくようだった。日に日に細くなっていく指、私を安心させようと無理をして作る笑顔、そして――突然訪れる、意識の混濁。
運命はあまりにも残酷で、不条理だった。私は生まれつきの障がいを抱え、彼に手を引いてもらい、支えてもらうことでようやくこの世界に立つことができていた。それなのに、いざという時、私は彼の痛みを半分こすることも、病の進行を止めることもできない。
ただ無力に、彼の大きな手が冷たくなっていくのを見守ることしかできなかった。
「私が……私さえ健康な体だったら。僚太にこんな負担をかけなければ、あなたが一人で病気を抱え込んで苦しむこともなかったかもしれないのに……」
自分を責める言葉が、とめどなく溢れては消える。
ベッドの傍らに置かれた車いすのタイヤが、夕暮れの光を冷たく反射していた。私は自分の意思の弱い足を見つめ、そして目の前の愛しい人を見つめる。
二人の未来を約束したあの夜。私たちは、ずっと一緒に年を重ねて、お互いの足場になりながら生きていくのだと信じて疑わなかった。
それなのに、あなたが先に逝こうとしている。
「行かないで、僚太……。私を置いて、一人でどこにも行かないでよ……」
張り詰めていた糸がプツリと切れ、私は彼の手の甲に自分の額を押し付けた。涙が彼のシーツを濡らし、あたたかな体温の残り香が、これから訪れる冷酷な現実を突きつけてくる。
病院の白い天井を見つめる僚太の呼吸は、かすかに、そして浅く乱れていた。心電図モニターの規則正しい電子音が、静まり返った病室にただ冷たく響いている。
窓際に置かれた電動車いすの上で、私は両手でしっかりとひじ掛けを握りしめていた。生まれつきの脳障がいによって動かない足を乗せたステップが、微かに震えている。医師から余命宣告を受けてから、病室の空気がずっと重く凍りついていた。
「……っ……」
あふれてきた涙がぽろぽろと頬を伝い、私は唇を噛み締めた。車いすを動かしてすぐにでもベッドのそばに行きたいのに、思うように力を入らない体がもどかしい。
その時、布団の上にぐったりと横たわっていた僚太の手が、まるで何かを手繰り寄せるように、ゆっくりと持ち上がった。ひどく痩せ細った指先が、私の頬へと真っ直ぐに伸びてくる。
「っ……!」
「あ、さひ……なに泣いてるん……?」
かすれきった、かろうじて聞き取れるほどの低い声だった。私は息を呑み、潤んだ目を大きく見開く。
「だって、僚太……! もうすぐ、いなくなっちゃうんだよ……?」
「死なへん……言うたやろ……俺はここにいるで……」
「こんなに苦しそうじゃん……! 息をするのも、やっとのくせに……!」
私の震える声を聞きながら、僚太は痛みをこらえるように眉をひそめた。それでも、必死に絞り出すような声で言葉を続ける。
「朝陽、よく聞け……苦しいけどな……愛する人のためなら……人間はな、もっと頑張れんねん……」
「バカ……! 僚太のバカ……! そんなこと言わないでよ、ほんっとにバカ……!」
「バカで結構……俺は朝陽の前では、ずっとバカや……」
僚太の腕が、力尽きたようにゆっくりとベッドの上へと落ちていった。その指先が、最後に私の手の甲を優しくかすめる。モニターの音が静かな部屋に響き続ける中、二人はただお互いの姿を見つめ合っていた。
「朝陽……おいで……ギリギリまで寄せられるか?」
僚太が絞り出すようなかすれた声でそう言った。その瞳は濁ることなく真っ直ぐに朝陽をとらえていて、少しでも近くに行きたいという強い意志が宿っていた。
私は震える手で電動車いすのコントローラーを握りしめた。ウィィンと小さなモーター音が病室の静寂を切り裂くように響き、車いすはベッドの縁へと音もなく進んでいく。タイヤがベッドの脚にぶつかる手前でピタリと止まり、これ以上は進めないという限界の位置まで寄った。
「……うん、寄れた……」
私が潤んだ目を上げると、僚太は痛む体を無理やり起こすように、上半身をわずかに持ち上げた。点滴のチューブや呼吸器の管が引っ張られ、モニターの電子音がわずかに早くなる。それでも僚太は構わずに、震える両腕を精一杯伸ばして朝陽の体をしっかりと引き寄せた。
「っ……!」
朝陽の小さな体が、僚太の胸元へとすっぽり収まる。その瞬間に伝わってきたのは、以前よりもずっと骨っぽく、頼りなく痩せ細ってしまった体温だった。耳元では、尋常ではない早さで打たれている心臓の鼓動が生々しく響いている。
長い闘病生活のなかで感染症のリスクや体力の限界から、こうして肌を合わせることは何ヶ月も許されていなかった。
「……抱きしめてくれたの、いつぶり……?」
私の声は小さく掠れ、僚太のシャツの胸元を涙の染みで濡らしていく。あふれてくる感情をもう抑え込むことはできず、私は声を殺しながら子供のように泣きじゃくった。
「いつぶりやろな……すっかり忘れしもたわ……ごめんな、こんなんなって、俺が支えなあかんのに……」
僚太はかすかに笑いながら、まるで壊れ物を扱うように、愛おしそうに私の背中をゆっくりと撫でた。その大きな手が背中を滑るたびにかつての強さが幻のように消えていくけれど、伝わってくる愛の深さは少しも変わっていなかった。
「ううん……バカ……僚太のバカ……もっと触ってよ……もっと……」
「あほやなぁ……これ以上離れられへんくらい、ぎゅうしてるやろ……」
僚太の腕に込められた力は少しずつ弱まっていき、やがてその重みはすべて私の体へと預けられた。それでも二人は離れることなく、ただお互いの温もりを確かめ合うように、静かな病室の中で寄り添い続けていた。
僚太の胸元に顔をうずめたまま、朝陽はやり場のない想いを震える声に乗せた。動かない体に代わって、せめてこの腕で彼の背中を強く抱きしめたいのに、指先はただ僚太の病衣の布地をきつく握りしめることしかできない。
「私、僚太じゃなきゃ無理なの……! 僚太のいない世界なんて、そんなの生きていけないよ……!」
切実な叫び声が、静まり返った病室の壁にぶつかって消えていく。残された時間が刻一刻と削られていく恐怖と、目の前で消えかけている大切な人を失う絶望が、朝陽の胸を激しくかき乱した。電動車いすの上で不自由な体をもつ自分を、どんなときも一人の女性として愛し、守り続けてくれたのは僚太だけだった。車いすのひじ掛けに縛られたような日常の中でも、彼の隣にいさえすれば、世界はいつも温かかった。
「……知ってる……俺もや……」
僚太はかすかに息を吸い込み、朝陽の背中に添えていた腕に、いま出せる限りの精一杯の力をぐっと込めた。その声はひどく掠れていたけれど、どこまでも深く、確かな響きを持っていた。
「知ってるなら……もっと生きてよ……私のそばにいてよ……」
「俺も……ずっとそうしたかった……朝陽の隣で、ずっと笑っていたかった……」
僚太の瞳から、静かに一筋の涙がこぼれ落ちた。それは朝陽の髪にぽたりと落ち、お互いの涙が混ざり合う。苦しみに満ちた病室の中で、二人の世界だけがゆっくりと時間を止めていた。
「僚太……」
「朝陽、よく聞いてな……。俺がもし動けなくなっても、お前の前からいなくなるわけやない。お前の記憶にも、この心にも、俺はずっとおるから……」
「やだ……そんなのいらないよ……! 思い出なんかいらない! 本物の僚太に触りたいの……! こうやって抱きしめてほしいの……!」
子どもように泣きじゃくる朝陽の頭を、僚太は愛おしそうに、ゆっくりと優しく撫でた。その手のひらの温もりが少しずつ薄れていくのを、僚太は肌で感じ取っていた。
「わがままやなぁ……ほんまに、泣き虫やな……」
僚太は苦しそうに、けれど慈愛に満ちた笑みを浮かべた。これ以上声を出すのも苦しいはずなのに、彼は最後の力を振り絞るように、朝陽の耳元へと顔を寄せる。
「愛してるで、あさひ……」
「私も……っ、りょうた、愛してる……!」
二人の体がさらに強く引き寄せられ、呼吸が重なり合う。モニターの電子音が規則正しく時を刻む中、朝陽はもう二度と離さないと誓うように、僚太の胸元に顔をうずめたまま、ただひたすらに泣き続けていた。
あの夜の強く抱きしめ合った温もりから数日後、僚太の病状はさらに急変し、その顔には無機質な酸素マスクがしっかりと固定されていた。
肺の機能は自力では追いつかず、人工呼吸器のチューブを繋がなければ命を繋ぐこともできない。点滴のルートが這う腕は痛々しいほど細くなり、声を出すことはもちろん、わずかな身動きすらも今の彼にとっては耐え難いほどの重労働になっていた。
私は車いすをベッドの縁に寄せ、その冷たく乾きかけた手を両手でしっかりと握りしめていた。ただ胸が上下するだけの彼の姿を見ているだけで、喉の奥がヒリヒリと痛み、視界が絶望でにじんでいく。
その時だった。
「……あさひ……」
耳を澄ませなければ聞こえないほど、かすれた、乾いた声がマスクの向こうから漏れた。
はっと顔を上げると、僚太はうっすらと瞼を持ち上げ、私の手をわずかに握り返そうとしていた。そして、その震える指先が、自分の顔を覆う酸素マスクのストラップへと這うように伸びた。
「っ……やめて……! 僚太、何するの……!」
反射的に私は彼の細い腕を両手で掴み、必死に押し返した。パニックで心臓が激しく波打つ。
「……だいじょうぶ、や……これくらい……」
「大丈夫じゃないじゃん……! 息ができなくなるよ、死んじゃうよ……!」
喉から絞り出すような私の声に、僚太は痛みに歪む顔のまま、いつもの不器用で、けれど愛おしい笑みをほんの少しだけ浮かべた。
「……おれ、わかるねん……。せやから、さいごくらい……やりたいこと、させてや……?」
「やだ、そんなの……! 死んじゃやだ……!」
「……あさひ、きす、してくれへん……? 俺からの最後のプレゼントや……」
その願いを聞いた瞬間、堪えていた涙の堰が完全に切れた。
「……ばか……こんなの、ずるいよ……っ。そんなの欲しくない、僚太が生きててよ……!」
「頼む……あさひ……」
「いやだ、外さないで……!」
「ええから……最後くらい、言うこと聞いてや……」
僚太は震える手で自ら酸素マスクのゴムを外し、ベッドの脇へと落とした。途端に、彼の喉からゴクリと荒い息が漏れ、空気を求めるように胸が激しく上下する。
「僚太っ……! 早く、マスクつけて……!」
「もうええねん……。こうしないと、お前の顔……ちゃんと見えへんから……」
「そんなこと言わないで……! お願い、苦しいでしょ……?」
「ううん……今が一番、幸せやよ。……な、あさひ」
「嫌だ……こんなの……」
泣きじゃくる私の頬に、僚太は震える手を伸ばそうとしたけれど、その力すらもう残っていなかった。彼は優しく微笑むと、掠れた声で私に告げた。
「ええから目、つぶりや……?」
「……っ……やだ……」
「いいから、はよ……」
「僚太……っ」
震えるまぶたをそっと閉じると、すぐ近くに彼の熱を感じた。
冷たく乾きかけた彼の唇が、そっと重なる。お互いの涙の塩辛さが混ざり合い、言葉などなくても、私たちがどれほど深く愛し合っていたのかが皮膚を通じて流れ込んでくる。それは永遠を願うにはあまりにも残酷で、けれど人生で一番温かい、切ないキスだった。
「……愛してるで、あさひ……」
「私も……僚太、愛してる……っ! ずっと、ずっと大好き……!」
唇を離した直後、僚太の体からすべての力がすっと抜けた。
あれほど荒かった呼吸が急速に弱まり、心電図のモニターの電子音が、ゆっくりと、しかし確実に、その間隔を広げていく。
「僚太……? 僚太、嘘でしょ……? 嘘って言ってよ、僚太っ……!」
「あさひ……」
「ここにいるよ、僚太……! 目を開けて、私を見て……!」
「……ありがとな……」
私の必死の呼びかけに、彼はもう二度と応えなかった。
それでも、その顔は不思議なほど穏やかで、まるで長い夢から覚めた子どものように安らかだった。モニターの音が単調な一筋の線へと変わる静寂の中、私は冷たくなっていくその胸元に顔をうずめ、もう二度と動かない人を求めて、ただひたすらに泣き続けた。
彼のくれた愛を胸に、私は今日も車いすのタイヤを回す。
朝の光がカーテンの隙間から差し込む部屋は、あの頃と少しも変わらない。低いテーブルの上には、あの人が丁寧に淹れてくれたコーヒーのカップが、ぽつんと置かれている。
「……おはよ、僚太」
声に出しても、もう返事はない。
けれど、目を閉じれば、すぐにあの大きな温かい手が私の頭を優しく撫でてくれる気がするのだ。
あの日、病室で交わした最後の約束。
「泣いてばかりおらんと、前を向いて生きるって……約束してくれへんか?」
あれほど残酷だと思った言葉が、今では私をこの世界に繋ぎ止める唯一の光になっている。彼なしの世界で生きるのは、今でも時々息が詰まるほど寂しい。足が動かないことへの不便さよりも、彼のぬくもりがない現実の冷たさに心が折れそうになる夜だってある。
それでも、私は俯かない。
彼が命を削ってまで私に残してくれた「幸せになる」という未来を、途中で投げ出すわけにはいかないからだ。
「見ててね、僚太。私、ちゃんと生きるから」
一人で車いすに乗り込み、新しい靴を履くように、新しい一日へと漕ぎ出す。
風が心地よく頬を撫で、街のざわめきが未来の足音のように響いていく。
世界は時としてあまりにも不条理で、愛する人をも奪っていく。
それでも、私はあなたに愛された記憶を抱きしめて、この足で――心で、今日を生きていく。
幸せを約束したあなたと、もう同じ時間を生きることはできない。
だけど、あなたのくれた愛があるから、私はきっと、幸せになれる。
──俺が幸せにするから。絶対に。
そう言ってくれたあなたは、この世から消えようとしていた。
「朝陽〜。おはよー。着替えるで〜。ゆっくり目覚ましてな」
「ん。おはよ。僚太。ねむいよ〜」
「着替え終わるまで寝てていいけど、だんだんな」
産まれつき障がいがある私は、彼に着替えさせてもらうところから1日が始まる。
「はい、腕通すで〜。もうすぐ終わるから起きや」
朝陽はウトウトとしながらも、僚太の慣れた手つきに身を委ねていた。毎朝繰り返されるこの穏やかな時間が、ふたりの日常であり、確かな絆の証だった。
「よし、着替え完了。遅刻すんで?もう……」
僚太はそう言って、朝陽の頭を優しくポンと撫でた。その大きな温かい手が朝陽は大好きだった。
「車いす乗るで。ちゃんとつかまってな?」
車いすへの移乗も、僚太にかかれば軽々と、そして痛くないように細心の注意を払って行われる。
「朝ごはん、今日はスープ温め直すだけやからな。すぐに用意するわ」
「ありがとう。僚太のスープ、マジで美味いから、いつも楽しみなんだよね」
「マジで?嬉しいわ」
私たちが最初に出会ったのは、私が大学を卒業し、数ある選択肢の中から僚太の働く会社へと飛び込んだのがきっかけだった。
ピカピカのスーツに身を包んだ新入社員たちが緊張の面持ちで並ぶ執務室に、朝の朝礼を告げる凛とした声が響きわたる。
「今日から新年度です!新しい仲間を迎える大事な日、皆さんの元気な顔が見られて嬉しいわ。それでは今年の新入社員の皆さん、前方に出て順番に自己紹介をお願いします」
社長は、スタイリッシュなパンツスーツを着こなし、一人ひとりの顔をまっすぐ見据えながら温かくもキリッとした笑顔を向けた。その堂々とした佇まいは社内全体を自然と引き締め、同時に不思議な安心感を与えてくれる存在だった。
順番に同期たちがそれぞれの抱負を語っていく。そして、いよいよ私の番がやってきた。動悸が高鳴るのを必死に抑えながら、車いすのブレーキがしっかりとかかっていることを確かめて、私はそっと息を吸い込んだ。
「大崎 朝陽です。皆さんになるべく迷惑かけないように頑張るのでよろしくお願いします」
どこか萎縮してしまったような私の挨拶に、社長は優しくも力強いまなざしを向け、少しだけ歩み寄ってきた。そして、心強いトーンでこう告げたのだった。
「大崎さん、そんなに身構えなくて大丈夫よ。うちの会社はね、お互いの個性を尊重してフォローし合うのがモットーなんだから。安心して力を発揮してね。それじゃあ、座席は……藍原さんの隣の席ね?」
「あ、はい!」
社長の指示にうなずくと、執務室の窓際からパッと明るい笑顔が向けられた。
すると、手招きする藍原さん。いや、僚太がいた。
「おーい、こっちやで。緊張せんと気楽にいこな」
そう言って優しく手招きしてくれる。
同期の視線が集まる中、私はドキドキと高鳴る胸を抑えながら、車いすを動かして彼の隣へと進んでいく。慣れないオフィスの床の感触と、新しい環境への不安で手に汗がにじむ。
「よろしくな、大崎さん。困ったことがあったら何でも言ってや」
席に着くなり、僚太は小声でそう囁いてくれた。その気負いのない、どこか人懐っこい笑顔を見たとき、張り詰めていた緊張の糸がふっと緩むのを感じた。
挨拶を終え、配られた書類の束をめくりながら、新しい仕事、そして新しい人間関係が始まる高揚感に包まれる。このときの私はまだ知らなかった。この出会いが、私の世界をこれほどまでに鮮やかに染め上げ、そして切なさを孕んだ運命へとつながっていくことなんて。
それからの日々は、私の想像をはるかに超えてめまぐるしく、そして温かいものだった。
隣の席になった僚太は、仕事の進め方を丁寧に教えてくれるだけでなく、社内の設備やバリアフリーの動線まで、さりげなく、かつ決して過剰にならない絶妙な距離感でサポートしてくれた。車いすでの移動に戸惑っていると、いつも絶妙なタイミングで「ちょっと手伝うわ」と声をかけてくれる。その優しさは同情や義務感なんかではなく、ひとりの人間としての純粋な思いやりからくるものだとすぐに分かった。
お昼休みになると、同期や他の部署の社員たちも自然と私たちのデスクの周りに集まってくるようになった。
「大崎さん、今日の書類作成のフォーマット、すごく見やすかったよ」
「ほんまやな。大崎さんは仕事が丁寧で助かるわ」
僚太が楽しそうに笑いながら私の肩を軽く叩く。その横顔を見るたびに、胸の奥がキュッと締め付けられるような、甘くて温かい痛みが広がった。いつしか私は、この隣にいる人の存在なしではいられないほど、彼に惹かれていっていた。
仕事帰りにふたりで駅までの並木道を歩く時間も、かけがえのないものになっていった。夕暮れのオレンジ色の光が、私たちの影を長く引き伸ばす。
「なぁ大崎さん、今度休みの日にさ、新しくできた駅前のカフェに行かへん?バリアフリーのテラス席もあるねん」
「本当ですか?行きます!行きたいです!たまには外で飲むのもいいですよね」
「よっしゃ、決まりな。楽しみにしててや」
屈託のない笑顔でそう言ってくれる僚太を見上げながら、私は心の底から思っていた。
——この人と出会えて本当によかった。この穏やかで幸せな時間が、ずっとずっと続いていけばいいのに、と。
けれど、心のどこかで微かな不安も渦巻いていた。
私に芽生えたこの特別な感情は、ただの「同僚」や「支える側と支えられる側」という関係を超えてしまっている。もしこの気持ちを伝えてしまったら、今の心地よい関係すら壊れてしまうかもしれない。そんな臆病な自分が、いつだって私を足止めしていた。
ある日、オフィスに残された静寂の中、ディスプレイの青白い光だけが私の顔を照らしていた。
人差し指一本でキーボードを叩く私のスピードは、どうしても他の人より遅くなってしまう。周りのみんなが定時で帰っていく中、私一人だけがデスクに取り残されていた。山積みになったデータ入力の画面を見つめ、思わずため息が漏れる。
「まだこんなにある……」
焦りと悔しさで、目頭が熱くなり、ぽろりと涙がこぼれそうになったその時だった。不意に、軽やかな足音が近づいてくる。
「なにひとりで残業してんの?」
顔を上げると、そこに立っていたのは、僚太だった。仕事終わりのネクタイを少し緩めた姿のまま、心配そうに私の顔を覗き込んでいる。
「あ、藍原さん、お疲れ様です……。その、仕事が全然終わらなくて……私、どうしてもパソコン打つの遅いから……」
震える声で言い訳をする私に、僚太は困ったような、でもどこか優しい目を向けた。
「俺、手伝うで。席代わってくれへん?」
「い、いいです!私の仕事なので、自分でやらないと……」
申し訳なさと情けなさで、慌てて首を横に振る私。けれど僚太は優しく微笑むと、私の車いすの背もたれにそっと手を添えた。
「ええよ、水くさいこと言うなや。困ったときはもっと頼ってや?」
「あ……ありがとうございます……」
先輩の温かい言葉に、張り詰めていた糸がプツリと切れて、涙が出そうになるのを必死にこらえた。僚太は手際よく隣の椅子を引き寄せると、キーボードの前に自然に座った。
少しでもこの気まずさと緊張を和らげたくて、私は潤んだ目を瞬かせながら、ずっと気になっていたことを口にした。
「あの、藍原さんって……その、話し方を聞いてると、関西の方なんですか?」
私の問いかけに、僚太はふっと楽しそうに笑った。
「そやで?実は去年まで大阪支社におったんやけどさ、そこでの売り上げが良すぎて、なぜか俺だけ本社に来るよう言われてん」
「そうなんですね……。じゃあ、本社に慣れるのも大変だったんじゃないですか?」
私が尋ねると、僚太はキーボードを叩く手を一度止め、少し遠くを見るように苦笑いを浮かべた。
「最初はそりゃもう大変やったよ。方言は直すように言われるわ、オフィスの雰囲気はピリピリしてるわで。『やばいとこに飛ばされたな』って本気で思ったもん。でもまぁ……」
そこで言葉を切ると、僚太はふっと優しく私の方を向いた。
「こうして大崎さんみたいなええ後輩に出会えたから、結果オーライやけどな」
その真っ直ぐな言葉と、からかうような、でも温かい響きを含んだ笑顔に、私の心臓が大きく跳ねた。顔が一気に熱くなり、慌てて視線をパソコンの画面へと戻す。暗いオフィスの中で、自分の頬が赤くなっているのが自分でもわかった。
「からかわないでください……先輩」
照れ隠しにそう呟くと、僚太は「ほんとのことやのに」と楽しそうに笑い声をあげた。
それから、僚太は驚くほど手際よく私の残りの作業を片付けてくれた。私が人差し指で何分もかかっていた入力が、彼の慣れた手つきにかかればあっという間に終わっていく。その横顔をこっそり盗み見ながら、私は胸の奥がキュッと締め付けられるのを感じていた。
仕事が終わる頃には、夜の帳がすっかり降りていた。
「よし、これで全部完了!お疲れさん、大崎さん」
「本当に……ありがとうございました。藍原さんがいなかったら、今頃どうなっていたか……」
「ええねん、好きな人のためならなんでもしてやるよ」
「好きな人……?」
不意に紡がれたその言葉に、私の思考が完全に停止した。今、先輩はなんて言ったんだろう。聞き間違いかもしれないと、私は驚きで見開いた目で僚太を見上げる。
僚太はキーボードから手を離すと、まっすぐに私を見つめた。その瞳には、ふざけている様子など少しもなく、ただ真剣な熱だけが宿っていた。
オフィスには、私たちの他には誰もいない。静まり返った空間の中で、自分の心臓の音がうるさいほど大きく響いていた。
「……驚かせてごめんな。でも、ずっと隠してるつもりなんてなかったんよ」
僚太はゆっくりと立ち上がり、私の車いすの前にしゃがみ込んだ。同じ目線に合わせてくれたその大きな手が、私の震えている手をそっと包み込む。
「初めて会社で朝陽を見たときから、ずっと気になってた。仕事に真っ直ぐで、一生懸命で、笑った顔がすごく可愛いなって。気づいたら、俺の視線はいつも朝陽を追ってたんや」
「藍原さん……っ」
「先輩後輩とか、障がいがあるとか、そんなん関係ない。俺は、ひとりの女性として朝陽が好きやねん。俺と付き合ってほしい。……ちゃんと言葉にして、好きって伝えたかった」
あふれそうになっていた涙が、今度こそ止まらなくなって、ぽろぽろと頬を伝い落ちた。怖かった。こんな私だから、誰かを好きになることも、誰かに愛されることもどこかで諦めていた。だけど、目の前にいるこの人は、私のすべてを受け止めようとしてくれている。
「私も……私もです。藍原さんのこと、ずっと……」
言葉にならない想いを絞り出すように、私は震える声で答えた。
僚太は愛おしそうに微笑むと、私の涙をそっと親指で拭ってくれた。そして、優しく抱きしめられる。その温もりを感じたとき、私の世界は鮮やかな光に包まれた。
この瞬間、私は世界で一番幸せだった。
ふたりで付き合い始めてからの毎日は、夢のように眩しかった。
休日はどちらかの家でまったりと映画を見たり、僚太が腕を振るって美味しいご飯を作ってくれたりした。私の身体のことを考えて、いつも負担にならないよう一番に気遣ってくれる。外に出かけるときは、車いすの動線を考えて完璧なデートプランを立ててくれる。
「ほら、ここの景色めっちゃ綺麗やで」
「本当だ……ありがとう、僚太」
人目を気にして小さくなっていた私の世界を、僚太はいつも大きく、温かく広げてくれた。彼の大きな手につかまり、隣を並んで進むだけで、私はどんな困難だって乗り越えられるような気がしていた。私をこんなにも愛してくれる人がいる。それだけで、生きていく理由としては十分すぎた。
とある休日の午後。
「ほら、朝陽。こっち持っててや」
大きなエコバッグを両手に抱えた僚太が、楽しそうに振り返る。ここは駅から少し離れた、静かな住宅街にある開放的なスーパーだった。
私は僚太の言葉にうなずきながら、車いすを……ではなく、今日はふたり並んで歩く練習を兼ねて、歩行器を使ってゆっくりと歩いていた。車いすを離れて歩くのは少し怖かったけれど、僚太がすぐ隣に控えて、いつでも支えられるように手を差し出してくれているから、不思議と心強かった。
「今日の夜ごはんな、朝陽が『食べたい』って言うてたトマト煮込み作るで。材料、ちゃんと新鮮そうなの選んだからな」
「ほんとう?やったあ。僚太のつくるご飯、お店のよりずっと美味しいもん」
「そりゃどうも。料理男子なめんなよ」
得意げに笑う横顔が、眩しくて仕方がなかった。
出会った頃はあんなに緊張していたのに、今ではこうして休日に一緒にスーパーで買い出しをして、他愛もないことで笑い合っている。これが恋人同士になるということなのだと、実感するたびに胸が甘く疼いた。
「あ、これ美味しそう」
私が棚の端に見つけた小さなクッキーの箱に手を伸ばそうとすると、少し背伸びをしなければ届かない。それを察した僚太が、すっと素早く手を伸ばして代わりに取ってくれた。
「はい、お買い上げ〜。甘いもん食べて、今夜も映画観るで」
「うん!観る観る。何にする?」
「それは帰ってからのお楽しみや」
私の背中にそっと添えられる大きな手のひらから、じんわりと温かさが伝わってくる。その体温を感じるだけで、不安でいっぱいだった私の世界は、いつの間にかこんなにも色鮮やかで安全な場所に変わっていた。
私と僚太は、お互いに足りないところを補い合うようにして生きている。私ができないことは彼が笑って引き受けてくれて、彼が疲れたときは私がその背中をそっと包み込みたい。そうやって、これから何十年も、ふたりで並んで歳を重ねていくのだと、このときの私たちは本気で信じて疑わなかった。
夕暮れ時の帰り道、つないだ手のひらから伝わる熱が、まるで私たちの未来の温かさそのもののようで、私はぎゅっとその手を握りしめ返した。
ふたりで過ごす日常のすべてが、永遠に続く奇跡のように尊かった。
ふたりの交際が始まってしばらく経った頃、私たちは自然な流れで一緒に暮らし始めた。
オフィスの近くにある、段差の少ない小さなアパート。そこで過ごす毎日は、これまでの孤独を嘘のように溶かしていくものだった。
「朝陽、お風呂の湯加減どうや?」
「うん、ちょうどいいよ。ありがとう、僚太」
毎日の生活にはどうしても手助けが必要で、お風呂の移乗や身支度の手伝いを僚太は嫌な顔ひとつせず、当たり前のように引き受けてくれた。優しく抱え上げられるたびに、彼の腕の温もりと、私を大切に扱ってくれる誠実さが肌を通して伝わってくる。支えられることに引け目を感じていた私の心は、彼の愛に包まれるうちに、少しずつ柔らかくほどけていった。
「はい、お着替え完了。今日も一日お疲れ様、朝陽」
「僚太も、お仕事お疲れ様」
そんな穏やかな同棲生活が始まって半年が過ぎた。
仕事が休みの土曜日、僚太は「今日は特別な場所に行くで」と言って、私を車いすに乗せ、見慣れない海沿いの公園へと連れ出した。夕暮れ時の空は、茜色から深い藍色へと移り変わり、目の前には波の音が心地よく響いている。
「わぁ……すごく綺麗……」
車いすを停めてもらったその場所は、視界いっぱいに海と夕焼けが広がる特等席だった。風が少し冷たかったのか、私が小さく身震いしたのに気づいて、僚太は自分のジャケットをそっと私の肩にかけてくれた。
「寒くないか?」
「うん、すごく温かい。ありがとう、僚太」
ふと見上げると、僚太はいつになく真剣な顔で私を見つめていた。その大きな手が、私の膝の上に置かれた冷えた手をそっと包み込む。
「朝陽。同棲して、毎日こうして隣にいてくれて、俺は本当に幸せやねん」
「……私もだよ。僚太と一緒になってからの毎日が、人生で一番宝物だもん」
私の言葉に、僚太は愛おしそうに微笑んだ。そして、ゆっくりと自分のポケットから小さな箱を取り出し、私の目の前でひざまずいた。
「……初めて会った日から、ずっとずっと思っとった。足が動こうが、動かんが関係ない。俺は、朝陽の全部が愛おしい。この先もずっと、隣で朝陽の手を握って、笑い合っていたいねん」
カチリと音を立てて、箱の蓋が開く。中には、夕日の光を受けて控えめに、けれど美しく輝く朝陽が憧れていたブランドのずっと欲しかった指輪が納められていた。
「俺と結婚してくれ。ずっと、朝陽の隣で支えさせてほしい。俺が幸せにするから。絶対に」
波の音と潮風の匂いの中、真っ直ぐに向けられたその瞳には、嘘偽りのない永遠の誓いが宿っていた。涙が一筋、頬を伝い落ちる。胸がいっぱいで、声にならない想いを絞り出すように、私は何度も首を縦に振った。
「……うん、よろしくお願いします。私もりょうたとずっと一緒にいたい……ふたりで幸せになろっ……?」
僚太は嬉しそうに微笑むと、震える私のお薬指にそっと指輪を通してくれた。そして、立ち上がって優しく私を抱きしめる。
耳元で聞こえる心臓の音と、包み込んでくれる温もり。
この瞬間、私たちは永遠を誓い合った。あの残酷な運命の歯車が動き出すだなんて思いもせずに、私たちはただ、幸せの絶頂にいた。
——なのに。
あんなにも確信していたはずの未来は、ある日を境に静かに、けれど圧倒的な力で音を立てて崩れ始めていった。
違和感は、ほんの些細なことから始まった。
一緒に買い物をしているとき、急に僚太がその場にうずくまり、頭を押さえて顔を歪ませたこと。
「どうしたの、僚太?」と慌てて尋ねると、彼は冷や汗を流しながら「何でもない、ちょっと貧血気味なだけやから」と無理に笑ってみせた。
そのときは私も、仕事の忙しさからくる疲れだろうと深く考えなかった。
だけど、それが何度も繰り返されるようになり、僚太の笑顔の裏に隠された影が、だんだんと濃くなっていった。
病院での検査結果を聞かされた日のことは、今でも鮮明に覚えている。
待合室の冷たい空気の中で、僚太から告げられた病名は、私たちの未来を打ち砕くには十分すぎる残酷なものだった。
「……そっか。治らん病気やったわ」
僚太はそう言って、私を悲しませまいといつものように笑ってみせた。でも、その瞳の奥には隠しきれない絶望と恐怖が揺れていた。
私は生まれつきの障がいを抱え、これまでも、これからも誰かの支えなしでは生きられない。そんな私を愛してくれた彼は今、私よりも残酷な運命に引き裂かれようとしている。
私が支えられる側だったはずなのに。
どうして、一番守りたい人が壊れていくの。
「幸せを約束したあなたと幸せにはなれないみたいだ」
心の底から零れ落ちたその言葉を飲み込みながら、私は震える手で、僚太の冷たくなりかけた手を強く握りしめた。
「俺が幸せにするから。絶対に」
そう言ってくれたあなたの声が、耳の奥で何度も反響する。
病室の窓から差し込む夕日が、ベッドの上で眠るように目を閉じる僚太の横顔を赤く染めていた。
「……嘘つき、だよ」
誰もいない静かな病室に、私の震える声だけが溶けていく。
検査を重ねるたびに、僚太の体から熱が奪われていくようだった。日に日に細くなっていく指、私を安心させようと無理をして作る笑顔、そして――突然訪れる、意識の混濁。
運命はあまりにも残酷で、不条理だった。私は生まれつきの障がいを抱え、彼に手を引いてもらい、支えてもらうことでようやくこの世界に立つことができていた。それなのに、いざという時、私は彼の痛みを半分こすることも、病の進行を止めることもできない。
ただ無力に、彼の大きな手が冷たくなっていくのを見守ることしかできなかった。
「私が……私さえ健康な体だったら。僚太にこんな負担をかけなければ、あなたが一人で病気を抱え込んで苦しむこともなかったかもしれないのに……」
自分を責める言葉が、とめどなく溢れては消える。
ベッドの傍らに置かれた車いすのタイヤが、夕暮れの光を冷たく反射していた。私は自分の意思の弱い足を見つめ、そして目の前の愛しい人を見つめる。
二人の未来を約束したあの夜。私たちは、ずっと一緒に年を重ねて、お互いの足場になりながら生きていくのだと信じて疑わなかった。
それなのに、あなたが先に逝こうとしている。
「行かないで、僚太……。私を置いて、一人でどこにも行かないでよ……」
張り詰めていた糸がプツリと切れ、私は彼の手の甲に自分の額を押し付けた。涙が彼のシーツを濡らし、あたたかな体温の残り香が、これから訪れる冷酷な現実を突きつけてくる。
病院の白い天井を見つめる僚太の呼吸は、かすかに、そして浅く乱れていた。心電図モニターの規則正しい電子音が、静まり返った病室にただ冷たく響いている。
窓際に置かれた電動車いすの上で、私は両手でしっかりとひじ掛けを握りしめていた。生まれつきの脳障がいによって動かない足を乗せたステップが、微かに震えている。医師から余命宣告を受けてから、病室の空気がずっと重く凍りついていた。
「……っ……」
あふれてきた涙がぽろぽろと頬を伝い、私は唇を噛み締めた。車いすを動かしてすぐにでもベッドのそばに行きたいのに、思うように力を入らない体がもどかしい。
その時、布団の上にぐったりと横たわっていた僚太の手が、まるで何かを手繰り寄せるように、ゆっくりと持ち上がった。ひどく痩せ細った指先が、私の頬へと真っ直ぐに伸びてくる。
「っ……!」
「あ、さひ……なに泣いてるん……?」
かすれきった、かろうじて聞き取れるほどの低い声だった。私は息を呑み、潤んだ目を大きく見開く。
「だって、僚太……! もうすぐ、いなくなっちゃうんだよ……?」
「死なへん……言うたやろ……俺はここにいるで……」
「こんなに苦しそうじゃん……! 息をするのも、やっとのくせに……!」
私の震える声を聞きながら、僚太は痛みをこらえるように眉をひそめた。それでも、必死に絞り出すような声で言葉を続ける。
「朝陽、よく聞け……苦しいけどな……愛する人のためなら……人間はな、もっと頑張れんねん……」
「バカ……! 僚太のバカ……! そんなこと言わないでよ、ほんっとにバカ……!」
「バカで結構……俺は朝陽の前では、ずっとバカや……」
僚太の腕が、力尽きたようにゆっくりとベッドの上へと落ちていった。その指先が、最後に私の手の甲を優しくかすめる。モニターの音が静かな部屋に響き続ける中、二人はただお互いの姿を見つめ合っていた。
「朝陽……おいで……ギリギリまで寄せられるか?」
僚太が絞り出すようなかすれた声でそう言った。その瞳は濁ることなく真っ直ぐに朝陽をとらえていて、少しでも近くに行きたいという強い意志が宿っていた。
私は震える手で電動車いすのコントローラーを握りしめた。ウィィンと小さなモーター音が病室の静寂を切り裂くように響き、車いすはベッドの縁へと音もなく進んでいく。タイヤがベッドの脚にぶつかる手前でピタリと止まり、これ以上は進めないという限界の位置まで寄った。
「……うん、寄れた……」
私が潤んだ目を上げると、僚太は痛む体を無理やり起こすように、上半身をわずかに持ち上げた。点滴のチューブや呼吸器の管が引っ張られ、モニターの電子音がわずかに早くなる。それでも僚太は構わずに、震える両腕を精一杯伸ばして朝陽の体をしっかりと引き寄せた。
「っ……!」
朝陽の小さな体が、僚太の胸元へとすっぽり収まる。その瞬間に伝わってきたのは、以前よりもずっと骨っぽく、頼りなく痩せ細ってしまった体温だった。耳元では、尋常ではない早さで打たれている心臓の鼓動が生々しく響いている。
長い闘病生活のなかで感染症のリスクや体力の限界から、こうして肌を合わせることは何ヶ月も許されていなかった。
「……抱きしめてくれたの、いつぶり……?」
私の声は小さく掠れ、僚太のシャツの胸元を涙の染みで濡らしていく。あふれてくる感情をもう抑え込むことはできず、私は声を殺しながら子供のように泣きじゃくった。
「いつぶりやろな……すっかり忘れしもたわ……ごめんな、こんなんなって、俺が支えなあかんのに……」
僚太はかすかに笑いながら、まるで壊れ物を扱うように、愛おしそうに私の背中をゆっくりと撫でた。その大きな手が背中を滑るたびにかつての強さが幻のように消えていくけれど、伝わってくる愛の深さは少しも変わっていなかった。
「ううん……バカ……僚太のバカ……もっと触ってよ……もっと……」
「あほやなぁ……これ以上離れられへんくらい、ぎゅうしてるやろ……」
僚太の腕に込められた力は少しずつ弱まっていき、やがてその重みはすべて私の体へと預けられた。それでも二人は離れることなく、ただお互いの温もりを確かめ合うように、静かな病室の中で寄り添い続けていた。
僚太の胸元に顔をうずめたまま、朝陽はやり場のない想いを震える声に乗せた。動かない体に代わって、せめてこの腕で彼の背中を強く抱きしめたいのに、指先はただ僚太の病衣の布地をきつく握りしめることしかできない。
「私、僚太じゃなきゃ無理なの……! 僚太のいない世界なんて、そんなの生きていけないよ……!」
切実な叫び声が、静まり返った病室の壁にぶつかって消えていく。残された時間が刻一刻と削られていく恐怖と、目の前で消えかけている大切な人を失う絶望が、朝陽の胸を激しくかき乱した。電動車いすの上で不自由な体をもつ自分を、どんなときも一人の女性として愛し、守り続けてくれたのは僚太だけだった。車いすのひじ掛けに縛られたような日常の中でも、彼の隣にいさえすれば、世界はいつも温かかった。
「……知ってる……俺もや……」
僚太はかすかに息を吸い込み、朝陽の背中に添えていた腕に、いま出せる限りの精一杯の力をぐっと込めた。その声はひどく掠れていたけれど、どこまでも深く、確かな響きを持っていた。
「知ってるなら……もっと生きてよ……私のそばにいてよ……」
「俺も……ずっとそうしたかった……朝陽の隣で、ずっと笑っていたかった……」
僚太の瞳から、静かに一筋の涙がこぼれ落ちた。それは朝陽の髪にぽたりと落ち、お互いの涙が混ざり合う。苦しみに満ちた病室の中で、二人の世界だけがゆっくりと時間を止めていた。
「僚太……」
「朝陽、よく聞いてな……。俺がもし動けなくなっても、お前の前からいなくなるわけやない。お前の記憶にも、この心にも、俺はずっとおるから……」
「やだ……そんなのいらないよ……! 思い出なんかいらない! 本物の僚太に触りたいの……! こうやって抱きしめてほしいの……!」
子どもように泣きじゃくる朝陽の頭を、僚太は愛おしそうに、ゆっくりと優しく撫でた。その手のひらの温もりが少しずつ薄れていくのを、僚太は肌で感じ取っていた。
「わがままやなぁ……ほんまに、泣き虫やな……」
僚太は苦しそうに、けれど慈愛に満ちた笑みを浮かべた。これ以上声を出すのも苦しいはずなのに、彼は最後の力を振り絞るように、朝陽の耳元へと顔を寄せる。
「愛してるで、あさひ……」
「私も……っ、りょうた、愛してる……!」
二人の体がさらに強く引き寄せられ、呼吸が重なり合う。モニターの電子音が規則正しく時を刻む中、朝陽はもう二度と離さないと誓うように、僚太の胸元に顔をうずめたまま、ただひたすらに泣き続けていた。
あの夜の強く抱きしめ合った温もりから数日後、僚太の病状はさらに急変し、その顔には無機質な酸素マスクがしっかりと固定されていた。
肺の機能は自力では追いつかず、人工呼吸器のチューブを繋がなければ命を繋ぐこともできない。点滴のルートが這う腕は痛々しいほど細くなり、声を出すことはもちろん、わずかな身動きすらも今の彼にとっては耐え難いほどの重労働になっていた。
私は車いすをベッドの縁に寄せ、その冷たく乾きかけた手を両手でしっかりと握りしめていた。ただ胸が上下するだけの彼の姿を見ているだけで、喉の奥がヒリヒリと痛み、視界が絶望でにじんでいく。
その時だった。
「……あさひ……」
耳を澄ませなければ聞こえないほど、かすれた、乾いた声がマスクの向こうから漏れた。
はっと顔を上げると、僚太はうっすらと瞼を持ち上げ、私の手をわずかに握り返そうとしていた。そして、その震える指先が、自分の顔を覆う酸素マスクのストラップへと這うように伸びた。
「っ……やめて……! 僚太、何するの……!」
反射的に私は彼の細い腕を両手で掴み、必死に押し返した。パニックで心臓が激しく波打つ。
「……だいじょうぶ、や……これくらい……」
「大丈夫じゃないじゃん……! 息ができなくなるよ、死んじゃうよ……!」
喉から絞り出すような私の声に、僚太は痛みに歪む顔のまま、いつもの不器用で、けれど愛おしい笑みをほんの少しだけ浮かべた。
「……おれ、わかるねん……。せやから、さいごくらい……やりたいこと、させてや……?」
「やだ、そんなの……! 死んじゃやだ……!」
「……あさひ、きす、してくれへん……? 俺からの最後のプレゼントや……」
その願いを聞いた瞬間、堪えていた涙の堰が完全に切れた。
「……ばか……こんなの、ずるいよ……っ。そんなの欲しくない、僚太が生きててよ……!」
「頼む……あさひ……」
「いやだ、外さないで……!」
「ええから……最後くらい、言うこと聞いてや……」
僚太は震える手で自ら酸素マスクのゴムを外し、ベッドの脇へと落とした。途端に、彼の喉からゴクリと荒い息が漏れ、空気を求めるように胸が激しく上下する。
「僚太っ……! 早く、マスクつけて……!」
「もうええねん……。こうしないと、お前の顔……ちゃんと見えへんから……」
「そんなこと言わないで……! お願い、苦しいでしょ……?」
「ううん……今が一番、幸せやよ。……な、あさひ」
「嫌だ……こんなの……」
泣きじゃくる私の頬に、僚太は震える手を伸ばそうとしたけれど、その力すらもう残っていなかった。彼は優しく微笑むと、掠れた声で私に告げた。
「ええから目、つぶりや……?」
「……っ……やだ……」
「いいから、はよ……」
「僚太……っ」
震えるまぶたをそっと閉じると、すぐ近くに彼の熱を感じた。
冷たく乾きかけた彼の唇が、そっと重なる。お互いの涙の塩辛さが混ざり合い、言葉などなくても、私たちがどれほど深く愛し合っていたのかが皮膚を通じて流れ込んでくる。それは永遠を願うにはあまりにも残酷で、けれど人生で一番温かい、切ないキスだった。
「……愛してるで、あさひ……」
「私も……僚太、愛してる……っ! ずっと、ずっと大好き……!」
唇を離した直後、僚太の体からすべての力がすっと抜けた。
あれほど荒かった呼吸が急速に弱まり、心電図のモニターの電子音が、ゆっくりと、しかし確実に、その間隔を広げていく。
「僚太……? 僚太、嘘でしょ……? 嘘って言ってよ、僚太っ……!」
「あさひ……」
「ここにいるよ、僚太……! 目を開けて、私を見て……!」
「……ありがとな……」
私の必死の呼びかけに、彼はもう二度と応えなかった。
それでも、その顔は不思議なほど穏やかで、まるで長い夢から覚めた子どものように安らかだった。モニターの音が単調な一筋の線へと変わる静寂の中、私は冷たくなっていくその胸元に顔をうずめ、もう二度と動かない人を求めて、ただひたすらに泣き続けた。
彼のくれた愛を胸に、私は今日も車いすのタイヤを回す。
朝の光がカーテンの隙間から差し込む部屋は、あの頃と少しも変わらない。低いテーブルの上には、あの人が丁寧に淹れてくれたコーヒーのカップが、ぽつんと置かれている。
「……おはよ、僚太」
声に出しても、もう返事はない。
けれど、目を閉じれば、すぐにあの大きな温かい手が私の頭を優しく撫でてくれる気がするのだ。
あの日、病室で交わした最後の約束。
「泣いてばかりおらんと、前を向いて生きるって……約束してくれへんか?」
あれほど残酷だと思った言葉が、今では私をこの世界に繋ぎ止める唯一の光になっている。彼なしの世界で生きるのは、今でも時々息が詰まるほど寂しい。足が動かないことへの不便さよりも、彼のぬくもりがない現実の冷たさに心が折れそうになる夜だってある。
それでも、私は俯かない。
彼が命を削ってまで私に残してくれた「幸せになる」という未来を、途中で投げ出すわけにはいかないからだ。
「見ててね、僚太。私、ちゃんと生きるから」
一人で車いすに乗り込み、新しい靴を履くように、新しい一日へと漕ぎ出す。
風が心地よく頬を撫で、街のざわめきが未来の足音のように響いていく。
世界は時としてあまりにも不条理で、愛する人をも奪っていく。
それでも、私はあなたに愛された記憶を抱きしめて、この足で――心で、今日を生きていく。
幸せを約束したあなたと、もう同じ時間を生きることはできない。
だけど、あなたのくれた愛があるから、私はきっと、幸せになれる。
