思い返せば、オレは自分の人生を肯定したことが無い。
オレが今まで深く関わってきた人物のほとんどは、身勝手で欲に塗れた汚い人間だらけだった。もう他人を信じることなどやめようと誓った。それなのに。
「教えてほしいんだ、剛のこと」
伊美時音。お前を始めとする簡薙村の人間たちは、違った。他者への思いやりが、相手を尊重する心が、確かに存在していた。初めて心というものに触れた感覚に陥った。
オレは、人生をやり直せるのだろうか。この簡薙村で。
いいや、やり直すしかないんだ。
「…分かった。オレが今まで経験したことを教える」
自分自身の再起を願い、これまでの人生を語ることにした。
オレは東京都心のとある何でもない一家の元に次男として生まれた。上村剛。それがオレの”最初の”名前だった。長男はオレより5つ年上で、勉強から運動、更には書道や音楽といった芸術の才能まである、絵に描いたようなエリートだった。
無理もない。上村家の両親はどちらも都心の一流企業で働いている。自分の子供にも同じような道を歩ませたいという身勝手な思いから、オレと兄は幼い頃から勉強だけでなく多種多様な習い事を強いられてきたのだ。
「エリートになれば人よりも幸せな人生を歩めるんだ。今から努力すれば絶対に報われるぞ」
エリートだの人より幸せな人生だの、そんな空虚な言葉が両親の口癖だった。今のオレだったら「幸せは人と比べるモノじゃない、オレの人生を勝手に決めるな!」と反論したのかもしれない。だがしかし、当時のオレはまだ世界を知らない、純粋無垢な子どもだったのだ。親の言うことが正しいのだと信じて止まなかった。
オレと兄は、明確に何かが違かった。
親から理不尽に押し付けられる習い事や宿題の数々を要領よくこなし、多方面の才能を磨き続けた兄。
親から理不尽に押し付けられる習い事や宿題の数々に押しつぶされ、習い事はおろか勉強さえ平均以下の結果しか出せなかったオレ。
オレが本来享受するはずだった才能を全部兄に奪われたんじゃないかと思ってしまうほどに、オレは両親の期待に応えられなかった。すると当然だが両親からの扱いにも差が生まれる。両親から期待の眼差しを向けられて積極的にお金を投資された兄と、汚い泥でも見るかのような視線を浴びせられてぞんざいな扱いを受けたオレ。その所為なのか元々の人間性なのかは分からないが、オレは小学校でも友達を作ることができなかった。人に勝手に期待の眼差しを向けられ、結果が出せなければ怪訝そうな目つきを向けられる。それがオレの中でトラウマになっていた。
唯一の救いは、その兄が両親の見ていないところで俺に優しくしてくれたことだった。宿題を教えてくれたりお菓子を一緒に食べたり、オレの兄は出来損ないの弟を救済する温かな人間性すら持っていたのだ。
そこでオレは負けを悟った。今からオレが血の滲むような努力をしたとして、絶対にこの兄に並ぶことは無い。だったらもう諦めよう。親から冷徹な視線を送られる日々を耐えしのごう。
そうやってオレは現実から目を背けた。
そんな日々に転機が訪れたのは、オレが小学校5年生に上がろうとしていたときだった。
3月半ば、オレと兄は学校の春休み真っ最中。オレは部屋で宿題をしていた。
「ちょっと出かけてくるから、留守番頼んだよ」
両親と兄が何やら出かけるようだった。習い事で何やらイベントがあるのだろうと勝手に考えた。もうオレは兄が何の習い事を続けているのかは把握していなかったが。
すると家の中にはオレ独りになる。束の間の幸せな時間だ。自分を虐げる者は誰もいない。家の中に独りのこの時間だけが、生を実感できる。オレの本質は、孤独と共にあった。
家の中で独りになった途端にオレは宿題を投げ出して床に寝転んだ。誰からの視線も気にせずにいられるのだ、宿題などやっていては勿体ない。
寝転んだままでいると睡魔が襲ってきた。どうせ親たちはすぐには帰ってこないだろうと思い、オレは睡魔に身を預けた。
うたた寝から覚めた時、オレは妙な違和感を覚えた。
体を起き上がらせて窓の外に目をやると、外はとっくに暗くなっていたのだ。オレが寝始めたのは午後1時頃だったから…かなりの時間寝てしまったことになる。そして問題なのはそこでは無く…この時間になっても親たちが帰ってきていないことだった。あぁ、帰りの時間くらいは聞いておけば良かった。このままでは夕飯も自分で準備しなければならない。
親たちが帰ってこないまま時計は午後の8時を回った。流石に空腹を我慢できなかったため適当にカップ麺を作って腹に入れた。この時間まで帰ってこないとなると、幸せどころか違和感を感じてしまう。今までにこんな遅い時間まで帰ってこないことは殆ど無かったから。
まさか両親が兄もろとも事故にあっているのだろうかなんて考えたりもした。だが、あいにく小学生だったオレは携帯電話を持っていなかったし、家に固定電話が置いてあるわけでもなかったため連絡はしなかった。近所の人から電話を借りるという選択肢もあったが、当時のオレはそこまで頭が回らなかった。きっと兄だったらそこまで頭が回っていたのだろうが。
結局、その日親たちが帰ってくることは無かった。一抹の不安を胸に抱えながら入眠する。夜が明けた翌日も、帰ってこなかった。その翌日も、更にその翌日も。
正直、この辺のことはよく覚えていない。脳は自分に都合の良い記憶を書き換えるみたいな話があるが、オレはそれを真実だと追っている。本当に、思い出せないのだ。家族がいきなり消え無駄に広い家に独り取り残された孤独感も、長くの間親の支配から逃れられたことによる僅かながらの安息感も、「当時の自分はこう思っていたのだろうな」程度の客観的な認識しかなく、連続した幼少期の記憶の中でそこだけがぽっかりと穴が空いてしまっていた。
再び記憶が鮮明になり始めるのは、オレが児童養護施設に入れられた後の話だ。
オレの家族は行方不明になったとされ、気づけばオレは施設で保護されていた。施設の中にはオレと同じくらいの年の人、一回り大きな中高生、小学校にすら上がっていなさそうな子まで様々な人がいた。十人十色の未成年たちが暮らしていたが、そんな彼らは共通して一部の感情が欠落したような表情をしていた。施設に引き取られるような人間だ、その裏には色んな物語があるんだろうというのは当時のオレも子供ながらに察していた。しかし、オレは自分がその”物語”を持っている側の人間だとは思わなかった。行方不明になった家族はそう遠くないうちに見つかり戻ってくるだろう、しばらくすればあの家での息苦しい生活に戻るのだろうと漠然と信じていた。
施設での暮らしが始まって3か月ほどが経った。勉強も運動も生活も施設の中だけで完結するため、施設内の人間関係はかなり大事なものになってくる。そのため、新入りのオレに声をかけてくれる子の1人や2人はいた。だがしかし、オレは相変わらず他人から失望の目を向けられることを恐れて差し伸べてくれた手をことごとく振り払った。結局施設に入った後も孤独を貫いた。孤独以外の生き方を知らなかったのだ。
とはいえ、別に他の子から奇異の視線を向けられ続けるという訳では無かった。オレが他者との関係を嫌う人だと悟った瞬間から周りが距離を置き始めるからだ。ずっとオレを腫れ物扱いする両親がいた家とは違い、ここでは距離を置かれるだけで済んだ。正直、家よりも施設の方がよっぽど生きやすかった。あぁそうか。結局オレも、”物語”を持つ側の人間だったのだな。
希望も無ければ絶望すら無い。虚無の日々を過ごしている中でオレは家族の安否を知ることになる。
「上村くん、ちょっと良いかな?」
ある日、施設の管理人から声を掛けられた。管理人が子どもに直々に声を掛けてくることは珍しい。オレが管理人の姿を見たのも入所した時以来だった。
「…何ですか」
管理人は初老の男で、穏やかな笑顔が特徴的な人だと思った。他人の悲しみに親身になって寄り添ってくれそうな、そんな印象を受けた。彼は遠慮気に答える。
「君のお父さんやお母さんが今どこにいるのか、分かったんだ」
この時、オレの錆びついた感情が久々に動いた。
「…どうして」
「私たちと警察の間で、ずっと調べていたんだ。ある日突然姿を消した君の家族のこと。随分と時間がかかってしまったのだけど、やっと分かった。それで…もし君が真実を知ることを拒まないのだったら、教えてあげたいと思ってね」
「……」
よくよく考えれば当たり前の話なのだが、オレの家族の行方はずっと捜索されていたようだった。なるほど、家族の行方が分かったということはオレも家族の元に逆戻りか。息苦しい生活の再来を考えると心が痛んだ。
「家族は、どこにいるんですか」
「落ち着いて聞いてね、君の家族は…今、ドイツにいるんだ」
文字通り、当時のオレには言葉の意味が分からなかった。
「…ドイツ?それって、どこ?」
管理人はオレの返答を予測していたかのように地図を取り出した。当時のオレがちょうど施設で勉強していた日本地図…ではなく、それはより大きな、世界地図だった。
「日本がどこにあるか、分かるかな?」
管理人は優しい口調でオレに問うてくる。見慣れない地図を隅々まで見渡し、やっと見慣れた形の日本列島を見つける。
「ここ」
「その通りだね」
「日本が、小さい」
「うん。もしかしたらまだ習っていないかもしれないけれど、この世界には日本より大きな国がいっぱいあるんだ」
無言で地図を見つめる。アメリカくらいは理解できたが、その他の国は知らないものばかりだった。
「それで、地図で言うところのここらへん、日本からうんと離れたここ」
そう言って指差したのは、ドイツだった。
「……ここ?」
「ここに君の家族がいるんだ」
頭の中を疑問符が埋め尽くす。
「なん、で」
事の詳細を、当時のオレでも分かるように噛み砕いて説明してくれた。
結論から言うと、オレの両親はドイツでベンチャー企業を立ち上げていた。開発内容はよく分からないが、すごくハイレベルな事業なのだと悟った。それこそ、外国でなければいけないような事業。警察の調査の結果、それが分かった。
事の全容が見えてきた。オレの両親は、あの日「ちょっと出かけてくるから、留守番頼んだよ」などと平気で嘘を吐き、オレを家に残したままドイツへ渡航した。きっとオレの知らない間で話は進んでいたのだろう。持ち前の頭の良さを生かして入念に計画を建て、オレに一切そのことを悟らせずに、忽然と日本から消えた。
では何故オレを置いていったのか。それはオレが両親の期待を越えられない出来損ないだったからだ。家庭内で蔑んだ目を向けられ続けたようなオレが訳も分からずドイツに付いていったところでお荷物になるだけだ。一流企業を辞めてベンチャー企業の経営に転換するということは収入が前よりも不安定になるということであり、そんな中で出来損ないのオレを養うというのは重荷とでも考えたのだろう。だから、オレを捨てた。それだけのことだ。
常識的に考えてあり得ない行為だとは思う。曲がりなりにも10年近く育ててきた子を、自分のキャリアの為に一切の躊躇いなく切り捨てる。オレの安否すら分からない状況で、のうのうと新生活の準備を整えている。その姿は充足的な人間が不器用に想像する物語の悪役のようだった。現実的にあり得ない、空想上でしか許されない人の心を捨てた怪物。
それでもオレの両親は、この現実世界で間違いなく怪物だった。仕事のことしか眼中に入っておらず、完膚なきまでの能力主義。能力が低ければ例え家族であろうと淘汰される。人の命を簡単に投げ捨てる人間の屑。
両親のことは元々嫌いだったから、今更になっても「やはりそういう人間だったんだな」程度の感想しか出てこない。一つ気がかりがあるとするならば、兄のことだった。
残念ながら、兄も両親と共にドイツへ行ってしまった。持ち前の能力で両親から期待されていただけある。彼は両親から認められたのだ。すなわち…兄もオレを捨てることを拒まなかったということになる。
兄がオレを捨てることに反対して抗議していた可能性もゼロでは無い。というか、普通はそうする。おそらく、兄なりに親に抗議しようとしたがやはり最終的に親には逆らえなかったのだろう。それは何となく想像できる。腹が立った。オレが今までの人生で唯一心を開いた兄さえも奪っていく両親に。
おそらくオレを捨てたことが明るみになった両親は企業経営どころではなくなるだろう。だが、そんなことはどうでもよかった。
オレの体の中に、屑の家系の血が流れ込んでいる。その事実が、どうしても許せない。この先何かの間違いでオレが幸せな人生を送れたとして、それでもオレは屑の息子であるという事実から抜け出せない。これは呪いだ。
いっそのこと死のうかと、そう考えるようになった。養護施設に大切な人間がいるわけでもない、友達もいない、オレが一番好きだった兄はオレが一番嫌いだった人間に奪われた。このまま生きながらえて何の意味がある。
死んだら生まれ変わって、屑の家系の血を洗い流した後新しく生き直そう。そうだ、それが良い。
それからというもの施設の隅で楽な死に方を考える日々が始まった。施設のパソコンでも借りて調べれば死ぬ方法など簡単に出てきたのだろうが、施設のパソコンの検索履歴が職員に監視されていたからできなかった。人に相談できる内容でもないし相談できる人もいない。オレは死に方を自分の頭で考えるしかなかった。
そこからしばらく月日が流れ、一般的な学校で言うところの小学6年の終盤あたりに差し掛かったある冬の日。オレはいよいよ自殺を図ろうとしていた。
何度も考えた結果、施設を抜け出して近くの高層ビルまで行きその屋上から飛び降りるのが一番手っ取り早いと結論付けた。オレが入っているのが都会の養護施設だったおかげですぐ近くに高層ビルは山ほどあった。オレの作戦が着々と練りあがっていく。
作戦決行の前日、オレは驚くほどぐっすり眠ることができた。そして、夢を見た。
夢の中でオレは英雄だった。どのようにしてか世界の危機を救って、その代償に死にかけている英雄。周りには英雄を称える人がいて、死にかけの英雄は最期に言葉を放つ。この先の未来の平和は任せたぞ、と。
そこで目が覚めた。人生最後の夢にしては、随分とおめでたい夢だと思う。オレは英雄なんかとは対極の存在であるはずなのに、夢の中でオレは人から愛される英雄だった。心のどこかで、オレもああなりたがっていたのだろうか。ずっと孤独を貫いてきて孤独を愛したつもりでいたのに、オレの深層心理は人との関わりを求めていたのだろうか。
馬鹿馬鹿しい。どのみち、今日で終わりだ。早朝の皆がまだ寝ている時間にこっそりと施設を抜け出す。玄関の扉まで来た時。
「おや上村君、どうかしたのかい?」
背筋が一瞬で凍る。管理人め、こんな時間から起きていたのか。
「えっと…ちょっと外の空気吸いたくて」
「そうかそうか。そうだ、君に重要な話があってね。外の空気を吸った後でいいから、管理人室に来てくれないかな?」
「あ、はい…」
それだけ言い残し、管理人は歩いていった。咄嗟に返事をしてしまったが、オレは今から人生を終わらせようとしているのだ。とんだ邪魔が入ってしまった。
施設の外に出る。雪が積もる玄関先を何ともなしに見つめる。オレは迷っていた。このまま何も言わずに自殺するか、管理人の話を聞くか。どうせ死ぬなら何を聞いても無駄だという開き直った思考と、死ぬ前に話の内容くらいは確かめても良いなという気持ちがせめぎあっていた。
5分くらいその場で考え、決断を下す。オレは施設の中へと戻る。話の内容を確かめたい好奇心が、ほんの僅かに上回ったのだ。管理人室に戻る決断をする。これは、オレの人生をひっくり返す決断だった。
管理人室は暖房が稼働しており、とても暖かかった。それだけで何故か安心感を覚えてしまう。
「来てくれてありがとう上村君。君に大事な話があるんだ」
そう言って管理人は、数枚の資料を見せてきた。それを時間をかけて目を通す。
「君のことを、養子として引き取りたいという夫婦がいるんだ」
養子という言葉の意味を、そこで初めて理解した。ようするにオレは、施設を離れて他人の夫婦の子になる可能性がある。
その夫婦の顔写真を見せて貰った。真っ先に、「優しそうだな」と思った。写真はいくらでも加工ができるし、写真の顔が本性を現しているとは限らない。だけれど、この時のオレは何故かこの夫婦のことを疑わなかった。
オレの両親は家庭内でオレに向けて蔑んだような目つきをしてきたが、他所では一切それを出さなかった。それでも、両親の他所行きの顔はどこか歪だった。どす黒い本性が蓋をしてもほんの僅かに溢れていた。おそらく他の人は気付かないレベルに者であると思うが、オレは確実にそれを感じ取っていた。つまるところ、人間の本性はその顔に現れる。
しかし、この夫婦の写真からはそれが感じられなかったのだ。
「ここから遠く離れた場所で住んでいる方だから、君が自分の環境をリセットするには絶好の機会だとは思う。だけれど…無理はしないでほしいんだ。ここで君がこの話を無かったことにしたとしても私たちは君のことを施設でこれからも世話し続ける。君が生きたい道を選んでほしいと思ってね」
家族から捨てられた一件があるからか、管理人は慎重に言葉を選んでいるようだった。確かに、正直家族という形そのものにトラウマがある。オレにとって、愛で溢れていてお互いに支えあうような円満な家族の形は絵空事のように思えるのだ。オレにとって親がすべてを支配していて、期待に沿えなかったら惨い仕打ちを受けるのは当たり前。それが家族。
だからこそ…家族という存在は恐怖。それでも…オレは施設で今の生活を続ける?そんな人生に何の意味がある?
「…オレ、分かんないです。家族っていう存在が怖くて怖くて、それでも今迷いがあるんです」
しどろもどろになりながらも自分の思いの丈を伝える。
「迷うのは無理もない。だけど…これだけは覚えておいて欲しいんだ。人生の中で幸せな時間が長くは続かないのと同じで…不幸な時間もまた、ずっと続くわけではないんだと僕は思う。新たな家族に迎えられた時…不幸になる確率も勿論あるし、それと同じくらい、いや、それ以上に幸せになる確率もあるんじゃないかな」
管理人の言葉が質量を伴って胸に響く。不幸の裏には幸せがある。今と同じ以上の不幸を被る可能性と同時に、今までの人生を返上するくらいの幸せを掴める可能性も確かに存在している。オレたちの未来は…1秒先だって何が起こるか分からないのだ。その先の未来で…オレは自分の人生に意味を見出せるようになるかもしれない。
ここまで考えてはっとする。オレは無意識に自分の人生に意味を見出そうとしていた。そうか、オレは…オレの心は…。
生きたいと、願っていたんだ。
オレは賭けてみることにした。この大都会から遠く離れたとある夫婦の元で、オレを捨てた家族も殺伐とした養護施設も何もかもを忘れて人生をやり直す。
「…分かった。僕たちも君の決断を応援するよ。上村君の人生に幸福が訪れますように」
決意を示すと、管理人は笑顔で承諾してくれた。そこから急速に養護施設の退所と新生活の準備が始まる。とはいえ特にオレは何もすることが無く、面倒な手続きやら何やらは大人たちが対応してくれた。それにより、施設で小学校の学修過程を終わらせたらすぐに引っ越しをし、春から引っ越し先の中学校に通うこととなった。
そこからの施設生活は光の速さで過ぎていった。春から新生活が待っているということもあり、日々が退屈ではなくなった。これはオレにとって大きな変化だった。
やがて雪解けの春が来て施設での学修過程を全て終える。遂に…オレは施設を退所する日を迎えた。
施設の子供たちから盛大に見送られる…わけもなく、管理人と共に2人で引っ越し先を目指して出発した。(公共交通機関を乗り継ぐ必要があるため管理人が付き添ってくれることになった)
他の子供がここを退所する様子を今まで何回か見てきて、その時は同級生が見送りをしていたような記憶があるが…オレが孤独を貫き通した所為でオレを見送る同級生は誰もいなかった。歩きながら考える。体に刷り込まれた孤独を、新たな環境で振り払うことなどできるのだろうか。結局オレは新たな環境でも1人ぼっちになってしまうのではないか。引っ越し当日になって急速に現実を考えるようになった。
思考は止まらない。今度は何故夫婦がわざわざオレを引き取ろうと思ったのかを考えるようになった。養護施設が常に養子の引き取り手を募集していることは知っている。しかし、わざわざ遠く離れた場所の養護施設を選んだこと、その中でよりにもよって人間関係の構築が不得意なオレを選んだこと、何も分からない。
思考が空転したまま電車や新幹線を乗り継いでいく。電車も新幹線も初めての経験だった。窓の外の移ろう景色を見る度に、あの環境を捨てることができたんだという実感が湧いてきた。そうだ、オレは…親から蔑まれ、捨てられ、愛を与えることも与えられることもしないまま無為に日々を消化し続けた12年間と決別するんだ。
新幹線で3時間、電車で1時間半、バスで1時間という正気の沙汰ではない移動を乗り越えて、山の中にある一つの村へと辿り着く。ここにオレを引き取ってくれる夫婦がいる。
狭苦しい大都会から遠く離れた一つの村。ここで第二の人生を始めようと誓った。
その村の名は…簡薙村。
オレが今まで深く関わってきた人物のほとんどは、身勝手で欲に塗れた汚い人間だらけだった。もう他人を信じることなどやめようと誓った。それなのに。
「教えてほしいんだ、剛のこと」
伊美時音。お前を始めとする簡薙村の人間たちは、違った。他者への思いやりが、相手を尊重する心が、確かに存在していた。初めて心というものに触れた感覚に陥った。
オレは、人生をやり直せるのだろうか。この簡薙村で。
いいや、やり直すしかないんだ。
「…分かった。オレが今まで経験したことを教える」
自分自身の再起を願い、これまでの人生を語ることにした。
オレは東京都心のとある何でもない一家の元に次男として生まれた。上村剛。それがオレの”最初の”名前だった。長男はオレより5つ年上で、勉強から運動、更には書道や音楽といった芸術の才能まである、絵に描いたようなエリートだった。
無理もない。上村家の両親はどちらも都心の一流企業で働いている。自分の子供にも同じような道を歩ませたいという身勝手な思いから、オレと兄は幼い頃から勉強だけでなく多種多様な習い事を強いられてきたのだ。
「エリートになれば人よりも幸せな人生を歩めるんだ。今から努力すれば絶対に報われるぞ」
エリートだの人より幸せな人生だの、そんな空虚な言葉が両親の口癖だった。今のオレだったら「幸せは人と比べるモノじゃない、オレの人生を勝手に決めるな!」と反論したのかもしれない。だがしかし、当時のオレはまだ世界を知らない、純粋無垢な子どもだったのだ。親の言うことが正しいのだと信じて止まなかった。
オレと兄は、明確に何かが違かった。
親から理不尽に押し付けられる習い事や宿題の数々を要領よくこなし、多方面の才能を磨き続けた兄。
親から理不尽に押し付けられる習い事や宿題の数々に押しつぶされ、習い事はおろか勉強さえ平均以下の結果しか出せなかったオレ。
オレが本来享受するはずだった才能を全部兄に奪われたんじゃないかと思ってしまうほどに、オレは両親の期待に応えられなかった。すると当然だが両親からの扱いにも差が生まれる。両親から期待の眼差しを向けられて積極的にお金を投資された兄と、汚い泥でも見るかのような視線を浴びせられてぞんざいな扱いを受けたオレ。その所為なのか元々の人間性なのかは分からないが、オレは小学校でも友達を作ることができなかった。人に勝手に期待の眼差しを向けられ、結果が出せなければ怪訝そうな目つきを向けられる。それがオレの中でトラウマになっていた。
唯一の救いは、その兄が両親の見ていないところで俺に優しくしてくれたことだった。宿題を教えてくれたりお菓子を一緒に食べたり、オレの兄は出来損ないの弟を救済する温かな人間性すら持っていたのだ。
そこでオレは負けを悟った。今からオレが血の滲むような努力をしたとして、絶対にこの兄に並ぶことは無い。だったらもう諦めよう。親から冷徹な視線を送られる日々を耐えしのごう。
そうやってオレは現実から目を背けた。
そんな日々に転機が訪れたのは、オレが小学校5年生に上がろうとしていたときだった。
3月半ば、オレと兄は学校の春休み真っ最中。オレは部屋で宿題をしていた。
「ちょっと出かけてくるから、留守番頼んだよ」
両親と兄が何やら出かけるようだった。習い事で何やらイベントがあるのだろうと勝手に考えた。もうオレは兄が何の習い事を続けているのかは把握していなかったが。
すると家の中にはオレ独りになる。束の間の幸せな時間だ。自分を虐げる者は誰もいない。家の中に独りのこの時間だけが、生を実感できる。オレの本質は、孤独と共にあった。
家の中で独りになった途端にオレは宿題を投げ出して床に寝転んだ。誰からの視線も気にせずにいられるのだ、宿題などやっていては勿体ない。
寝転んだままでいると睡魔が襲ってきた。どうせ親たちはすぐには帰ってこないだろうと思い、オレは睡魔に身を預けた。
うたた寝から覚めた時、オレは妙な違和感を覚えた。
体を起き上がらせて窓の外に目をやると、外はとっくに暗くなっていたのだ。オレが寝始めたのは午後1時頃だったから…かなりの時間寝てしまったことになる。そして問題なのはそこでは無く…この時間になっても親たちが帰ってきていないことだった。あぁ、帰りの時間くらいは聞いておけば良かった。このままでは夕飯も自分で準備しなければならない。
親たちが帰ってこないまま時計は午後の8時を回った。流石に空腹を我慢できなかったため適当にカップ麺を作って腹に入れた。この時間まで帰ってこないとなると、幸せどころか違和感を感じてしまう。今までにこんな遅い時間まで帰ってこないことは殆ど無かったから。
まさか両親が兄もろとも事故にあっているのだろうかなんて考えたりもした。だが、あいにく小学生だったオレは携帯電話を持っていなかったし、家に固定電話が置いてあるわけでもなかったため連絡はしなかった。近所の人から電話を借りるという選択肢もあったが、当時のオレはそこまで頭が回らなかった。きっと兄だったらそこまで頭が回っていたのだろうが。
結局、その日親たちが帰ってくることは無かった。一抹の不安を胸に抱えながら入眠する。夜が明けた翌日も、帰ってこなかった。その翌日も、更にその翌日も。
正直、この辺のことはよく覚えていない。脳は自分に都合の良い記憶を書き換えるみたいな話があるが、オレはそれを真実だと追っている。本当に、思い出せないのだ。家族がいきなり消え無駄に広い家に独り取り残された孤独感も、長くの間親の支配から逃れられたことによる僅かながらの安息感も、「当時の自分はこう思っていたのだろうな」程度の客観的な認識しかなく、連続した幼少期の記憶の中でそこだけがぽっかりと穴が空いてしまっていた。
再び記憶が鮮明になり始めるのは、オレが児童養護施設に入れられた後の話だ。
オレの家族は行方不明になったとされ、気づけばオレは施設で保護されていた。施設の中にはオレと同じくらいの年の人、一回り大きな中高生、小学校にすら上がっていなさそうな子まで様々な人がいた。十人十色の未成年たちが暮らしていたが、そんな彼らは共通して一部の感情が欠落したような表情をしていた。施設に引き取られるような人間だ、その裏には色んな物語があるんだろうというのは当時のオレも子供ながらに察していた。しかし、オレは自分がその”物語”を持っている側の人間だとは思わなかった。行方不明になった家族はそう遠くないうちに見つかり戻ってくるだろう、しばらくすればあの家での息苦しい生活に戻るのだろうと漠然と信じていた。
施設での暮らしが始まって3か月ほどが経った。勉強も運動も生活も施設の中だけで完結するため、施設内の人間関係はかなり大事なものになってくる。そのため、新入りのオレに声をかけてくれる子の1人や2人はいた。だがしかし、オレは相変わらず他人から失望の目を向けられることを恐れて差し伸べてくれた手をことごとく振り払った。結局施設に入った後も孤独を貫いた。孤独以外の生き方を知らなかったのだ。
とはいえ、別に他の子から奇異の視線を向けられ続けるという訳では無かった。オレが他者との関係を嫌う人だと悟った瞬間から周りが距離を置き始めるからだ。ずっとオレを腫れ物扱いする両親がいた家とは違い、ここでは距離を置かれるだけで済んだ。正直、家よりも施設の方がよっぽど生きやすかった。あぁそうか。結局オレも、”物語”を持つ側の人間だったのだな。
希望も無ければ絶望すら無い。虚無の日々を過ごしている中でオレは家族の安否を知ることになる。
「上村くん、ちょっと良いかな?」
ある日、施設の管理人から声を掛けられた。管理人が子どもに直々に声を掛けてくることは珍しい。オレが管理人の姿を見たのも入所した時以来だった。
「…何ですか」
管理人は初老の男で、穏やかな笑顔が特徴的な人だと思った。他人の悲しみに親身になって寄り添ってくれそうな、そんな印象を受けた。彼は遠慮気に答える。
「君のお父さんやお母さんが今どこにいるのか、分かったんだ」
この時、オレの錆びついた感情が久々に動いた。
「…どうして」
「私たちと警察の間で、ずっと調べていたんだ。ある日突然姿を消した君の家族のこと。随分と時間がかかってしまったのだけど、やっと分かった。それで…もし君が真実を知ることを拒まないのだったら、教えてあげたいと思ってね」
「……」
よくよく考えれば当たり前の話なのだが、オレの家族の行方はずっと捜索されていたようだった。なるほど、家族の行方が分かったということはオレも家族の元に逆戻りか。息苦しい生活の再来を考えると心が痛んだ。
「家族は、どこにいるんですか」
「落ち着いて聞いてね、君の家族は…今、ドイツにいるんだ」
文字通り、当時のオレには言葉の意味が分からなかった。
「…ドイツ?それって、どこ?」
管理人はオレの返答を予測していたかのように地図を取り出した。当時のオレがちょうど施設で勉強していた日本地図…ではなく、それはより大きな、世界地図だった。
「日本がどこにあるか、分かるかな?」
管理人は優しい口調でオレに問うてくる。見慣れない地図を隅々まで見渡し、やっと見慣れた形の日本列島を見つける。
「ここ」
「その通りだね」
「日本が、小さい」
「うん。もしかしたらまだ習っていないかもしれないけれど、この世界には日本より大きな国がいっぱいあるんだ」
無言で地図を見つめる。アメリカくらいは理解できたが、その他の国は知らないものばかりだった。
「それで、地図で言うところのここらへん、日本からうんと離れたここ」
そう言って指差したのは、ドイツだった。
「……ここ?」
「ここに君の家族がいるんだ」
頭の中を疑問符が埋め尽くす。
「なん、で」
事の詳細を、当時のオレでも分かるように噛み砕いて説明してくれた。
結論から言うと、オレの両親はドイツでベンチャー企業を立ち上げていた。開発内容はよく分からないが、すごくハイレベルな事業なのだと悟った。それこそ、外国でなければいけないような事業。警察の調査の結果、それが分かった。
事の全容が見えてきた。オレの両親は、あの日「ちょっと出かけてくるから、留守番頼んだよ」などと平気で嘘を吐き、オレを家に残したままドイツへ渡航した。きっとオレの知らない間で話は進んでいたのだろう。持ち前の頭の良さを生かして入念に計画を建て、オレに一切そのことを悟らせずに、忽然と日本から消えた。
では何故オレを置いていったのか。それはオレが両親の期待を越えられない出来損ないだったからだ。家庭内で蔑んだ目を向けられ続けたようなオレが訳も分からずドイツに付いていったところでお荷物になるだけだ。一流企業を辞めてベンチャー企業の経営に転換するということは収入が前よりも不安定になるということであり、そんな中で出来損ないのオレを養うというのは重荷とでも考えたのだろう。だから、オレを捨てた。それだけのことだ。
常識的に考えてあり得ない行為だとは思う。曲がりなりにも10年近く育ててきた子を、自分のキャリアの為に一切の躊躇いなく切り捨てる。オレの安否すら分からない状況で、のうのうと新生活の準備を整えている。その姿は充足的な人間が不器用に想像する物語の悪役のようだった。現実的にあり得ない、空想上でしか許されない人の心を捨てた怪物。
それでもオレの両親は、この現実世界で間違いなく怪物だった。仕事のことしか眼中に入っておらず、完膚なきまでの能力主義。能力が低ければ例え家族であろうと淘汰される。人の命を簡単に投げ捨てる人間の屑。
両親のことは元々嫌いだったから、今更になっても「やはりそういう人間だったんだな」程度の感想しか出てこない。一つ気がかりがあるとするならば、兄のことだった。
残念ながら、兄も両親と共にドイツへ行ってしまった。持ち前の能力で両親から期待されていただけある。彼は両親から認められたのだ。すなわち…兄もオレを捨てることを拒まなかったということになる。
兄がオレを捨てることに反対して抗議していた可能性もゼロでは無い。というか、普通はそうする。おそらく、兄なりに親に抗議しようとしたがやはり最終的に親には逆らえなかったのだろう。それは何となく想像できる。腹が立った。オレが今までの人生で唯一心を開いた兄さえも奪っていく両親に。
おそらくオレを捨てたことが明るみになった両親は企業経営どころではなくなるだろう。だが、そんなことはどうでもよかった。
オレの体の中に、屑の家系の血が流れ込んでいる。その事実が、どうしても許せない。この先何かの間違いでオレが幸せな人生を送れたとして、それでもオレは屑の息子であるという事実から抜け出せない。これは呪いだ。
いっそのこと死のうかと、そう考えるようになった。養護施設に大切な人間がいるわけでもない、友達もいない、オレが一番好きだった兄はオレが一番嫌いだった人間に奪われた。このまま生きながらえて何の意味がある。
死んだら生まれ変わって、屑の家系の血を洗い流した後新しく生き直そう。そうだ、それが良い。
それからというもの施設の隅で楽な死に方を考える日々が始まった。施設のパソコンでも借りて調べれば死ぬ方法など簡単に出てきたのだろうが、施設のパソコンの検索履歴が職員に監視されていたからできなかった。人に相談できる内容でもないし相談できる人もいない。オレは死に方を自分の頭で考えるしかなかった。
そこからしばらく月日が流れ、一般的な学校で言うところの小学6年の終盤あたりに差し掛かったある冬の日。オレはいよいよ自殺を図ろうとしていた。
何度も考えた結果、施設を抜け出して近くの高層ビルまで行きその屋上から飛び降りるのが一番手っ取り早いと結論付けた。オレが入っているのが都会の養護施設だったおかげですぐ近くに高層ビルは山ほどあった。オレの作戦が着々と練りあがっていく。
作戦決行の前日、オレは驚くほどぐっすり眠ることができた。そして、夢を見た。
夢の中でオレは英雄だった。どのようにしてか世界の危機を救って、その代償に死にかけている英雄。周りには英雄を称える人がいて、死にかけの英雄は最期に言葉を放つ。この先の未来の平和は任せたぞ、と。
そこで目が覚めた。人生最後の夢にしては、随分とおめでたい夢だと思う。オレは英雄なんかとは対極の存在であるはずなのに、夢の中でオレは人から愛される英雄だった。心のどこかで、オレもああなりたがっていたのだろうか。ずっと孤独を貫いてきて孤独を愛したつもりでいたのに、オレの深層心理は人との関わりを求めていたのだろうか。
馬鹿馬鹿しい。どのみち、今日で終わりだ。早朝の皆がまだ寝ている時間にこっそりと施設を抜け出す。玄関の扉まで来た時。
「おや上村君、どうかしたのかい?」
背筋が一瞬で凍る。管理人め、こんな時間から起きていたのか。
「えっと…ちょっと外の空気吸いたくて」
「そうかそうか。そうだ、君に重要な話があってね。外の空気を吸った後でいいから、管理人室に来てくれないかな?」
「あ、はい…」
それだけ言い残し、管理人は歩いていった。咄嗟に返事をしてしまったが、オレは今から人生を終わらせようとしているのだ。とんだ邪魔が入ってしまった。
施設の外に出る。雪が積もる玄関先を何ともなしに見つめる。オレは迷っていた。このまま何も言わずに自殺するか、管理人の話を聞くか。どうせ死ぬなら何を聞いても無駄だという開き直った思考と、死ぬ前に話の内容くらいは確かめても良いなという気持ちがせめぎあっていた。
5分くらいその場で考え、決断を下す。オレは施設の中へと戻る。話の内容を確かめたい好奇心が、ほんの僅かに上回ったのだ。管理人室に戻る決断をする。これは、オレの人生をひっくり返す決断だった。
管理人室は暖房が稼働しており、とても暖かかった。それだけで何故か安心感を覚えてしまう。
「来てくれてありがとう上村君。君に大事な話があるんだ」
そう言って管理人は、数枚の資料を見せてきた。それを時間をかけて目を通す。
「君のことを、養子として引き取りたいという夫婦がいるんだ」
養子という言葉の意味を、そこで初めて理解した。ようするにオレは、施設を離れて他人の夫婦の子になる可能性がある。
その夫婦の顔写真を見せて貰った。真っ先に、「優しそうだな」と思った。写真はいくらでも加工ができるし、写真の顔が本性を現しているとは限らない。だけれど、この時のオレは何故かこの夫婦のことを疑わなかった。
オレの両親は家庭内でオレに向けて蔑んだような目つきをしてきたが、他所では一切それを出さなかった。それでも、両親の他所行きの顔はどこか歪だった。どす黒い本性が蓋をしてもほんの僅かに溢れていた。おそらく他の人は気付かないレベルに者であると思うが、オレは確実にそれを感じ取っていた。つまるところ、人間の本性はその顔に現れる。
しかし、この夫婦の写真からはそれが感じられなかったのだ。
「ここから遠く離れた場所で住んでいる方だから、君が自分の環境をリセットするには絶好の機会だとは思う。だけれど…無理はしないでほしいんだ。ここで君がこの話を無かったことにしたとしても私たちは君のことを施設でこれからも世話し続ける。君が生きたい道を選んでほしいと思ってね」
家族から捨てられた一件があるからか、管理人は慎重に言葉を選んでいるようだった。確かに、正直家族という形そのものにトラウマがある。オレにとって、愛で溢れていてお互いに支えあうような円満な家族の形は絵空事のように思えるのだ。オレにとって親がすべてを支配していて、期待に沿えなかったら惨い仕打ちを受けるのは当たり前。それが家族。
だからこそ…家族という存在は恐怖。それでも…オレは施設で今の生活を続ける?そんな人生に何の意味がある?
「…オレ、分かんないです。家族っていう存在が怖くて怖くて、それでも今迷いがあるんです」
しどろもどろになりながらも自分の思いの丈を伝える。
「迷うのは無理もない。だけど…これだけは覚えておいて欲しいんだ。人生の中で幸せな時間が長くは続かないのと同じで…不幸な時間もまた、ずっと続くわけではないんだと僕は思う。新たな家族に迎えられた時…不幸になる確率も勿論あるし、それと同じくらい、いや、それ以上に幸せになる確率もあるんじゃないかな」
管理人の言葉が質量を伴って胸に響く。不幸の裏には幸せがある。今と同じ以上の不幸を被る可能性と同時に、今までの人生を返上するくらいの幸せを掴める可能性も確かに存在している。オレたちの未来は…1秒先だって何が起こるか分からないのだ。その先の未来で…オレは自分の人生に意味を見出せるようになるかもしれない。
ここまで考えてはっとする。オレは無意識に自分の人生に意味を見出そうとしていた。そうか、オレは…オレの心は…。
生きたいと、願っていたんだ。
オレは賭けてみることにした。この大都会から遠く離れたとある夫婦の元で、オレを捨てた家族も殺伐とした養護施設も何もかもを忘れて人生をやり直す。
「…分かった。僕たちも君の決断を応援するよ。上村君の人生に幸福が訪れますように」
決意を示すと、管理人は笑顔で承諾してくれた。そこから急速に養護施設の退所と新生活の準備が始まる。とはいえ特にオレは何もすることが無く、面倒な手続きやら何やらは大人たちが対応してくれた。それにより、施設で小学校の学修過程を終わらせたらすぐに引っ越しをし、春から引っ越し先の中学校に通うこととなった。
そこからの施設生活は光の速さで過ぎていった。春から新生活が待っているということもあり、日々が退屈ではなくなった。これはオレにとって大きな変化だった。
やがて雪解けの春が来て施設での学修過程を全て終える。遂に…オレは施設を退所する日を迎えた。
施設の子供たちから盛大に見送られる…わけもなく、管理人と共に2人で引っ越し先を目指して出発した。(公共交通機関を乗り継ぐ必要があるため管理人が付き添ってくれることになった)
他の子供がここを退所する様子を今まで何回か見てきて、その時は同級生が見送りをしていたような記憶があるが…オレが孤独を貫き通した所為でオレを見送る同級生は誰もいなかった。歩きながら考える。体に刷り込まれた孤独を、新たな環境で振り払うことなどできるのだろうか。結局オレは新たな環境でも1人ぼっちになってしまうのではないか。引っ越し当日になって急速に現実を考えるようになった。
思考は止まらない。今度は何故夫婦がわざわざオレを引き取ろうと思ったのかを考えるようになった。養護施設が常に養子の引き取り手を募集していることは知っている。しかし、わざわざ遠く離れた場所の養護施設を選んだこと、その中でよりにもよって人間関係の構築が不得意なオレを選んだこと、何も分からない。
思考が空転したまま電車や新幹線を乗り継いでいく。電車も新幹線も初めての経験だった。窓の外の移ろう景色を見る度に、あの環境を捨てることができたんだという実感が湧いてきた。そうだ、オレは…親から蔑まれ、捨てられ、愛を与えることも与えられることもしないまま無為に日々を消化し続けた12年間と決別するんだ。
新幹線で3時間、電車で1時間半、バスで1時間という正気の沙汰ではない移動を乗り越えて、山の中にある一つの村へと辿り着く。ここにオレを引き取ってくれる夫婦がいる。
狭苦しい大都会から遠く離れた一つの村。ここで第二の人生を始めようと誓った。
その村の名は…簡薙村。


