本当の僕を知っているのは、あなただけ

「今日は、眼鏡……掛けないんですね」

 電車に揺られながら、隣に座る櫂の顔を覗き込む。いつも大学に行くときは伊達眼鏡を掛けていたのに、今日は綺麗な顔がさらされている。眼鏡がないと、普段は主張しない垂れ目が一層櫂の魅力を引き立てていた。
 今日はサークルしかない土曜日。櫂と一緒に家を出ることができる、貴重な日だった。

「……眼鏡がないと不満なの?」
「そんな、こと……」
「どれだけ俺が絢世を見てきたと思ってるの? むくれてるのくらいわかるよ」

 櫂にそう言い当てられて、僕は背中を背もたれに着けて足元に視線を落とした。櫂の言う通りだ。眼鏡を掛けるかどうかなんて、本人が好きに決めていいことだとわかっているはずなのに、僕は。

「眼鏡……」
「うん?」
「眼鏡がないと、櫂くんの顔がみんなに見えちゃうから……他の人も好きにならないか、心配です」

 素直に言葉にしてみると、なんて稚拙な感情なんだろう。櫂の素顔は自分だけが知っていたいだなんて。僕はなんだか恥ずかしくなって「やっぱり何でもないです」と手を振ってみたけれど、焼け石に水。
 なぜか満足そうに微笑んだ櫂は、鞄からいつもの伊達眼鏡を取り出してゆっくりかけて見せた。

「ほら、これでいい?」
「う……はい」
「その顔が見たくて、今日は家から掛けて来なかった」

 どうやら僕は櫂に意地悪をされていたらしい。それがわかり、そっぽを向くと、櫂が小さく笑った。


 サークルでの俺たちの距離は何も変わらなかった。変わったことといえば、なぜか次の舞台も僕の衣装はすべて櫂が作ることになっていることくらいか。
 次の本番は来年の新入生歓迎会。文化祭が終わって一か月、まだ台本も決まるかどうかというところなのに、なぜかそれだけは決まってしまっていた。
 しかも、台本の候補はどれも僕好みの作品ばかり。これも櫂のせいだった。

「衣装や小道具を制作しやすそうな世界観の台本を何本かピックアップしたので、この中から選んでいただけませんか」
「お、気が利くな! そうするよ」

 櫂から差し出された冊子を、坂本は何も疑わずに受け取った。
 両想いになった日から、櫂は僕への気持ちを隠さなくなった。当然、人前でいちゃいちゃとくっついてくるようなことはなかったが、僕に寄せられる部分は全力で寄せてくる。

「和智、和智もこの台本から選ぶ感じでいいか?」
「あ、うん。俺は台本についてはよくわからないから、坂本たちに任せるわ」

 実際は、僕が口を出したらオタクだということがばれてしまいそうで嫌だっただけなのだけれど、それを知ってか知らずか、坂本は「おーけー」と軽い返事をして、それ以上何も言ってはこなかった。
 いつも通りのサークル。けれど、その中には僕の絶対的な味方がひとりいる。そのことが、とても心強くて、僕はいつもより幾分か気を張らずに過ごすことができていた。
 キャラを作ることは変わらないはずなのに、素の僕を心の底から受け入れてくれている櫂がいる。それは大きな安心材料だ。

 ***

「ねぇ、櫂くん」
「んー?」

 ベッドの上でごろんと横たわって本を読む櫂の上に、覆いかぶさるように寝転がる。櫂の骨ばった関節や肩が当たって少し痛かったが、それすらも幸せに変わっていく。
 温かい。部屋着を通して伝わってくる櫂の熱が心地いい。
 両想いになってから、僕と櫂は、櫂の部屋で逢瀬を重ねた。最初は隣に座ることすら緊張して、何も言葉が出ないほどだったのに、何度も二人きりで過ごすうち、上に乗っかることすらできるようになってしまった。

 僕は何も変えなかった。金髪も、いくつも開いたピアスも、大学へ行く際のコンタクトも。櫂が僕を全面的に受け入れてくれたことで、僕は『和智絢世』を演じる必要性が分からなくなり、すべてをやめてしまおうかと思ったのだけれど、止めたのは他でもない櫂だった。
 今の僕も、僕が頑張ってきた証だから。全部、丸ごと愛してみせるから、そのままで。そう言って、抱きしめられ、僕は外見を戻すことを止めることにした。

 櫂の首元に顔を埋めると、少し甘い、櫂特有の香りがして、頭がぽわぽわする。それが幸せの匂いだと知ったのは、つい最近のことだった。

「櫂くん、あの……お父さんと、薫子さんのことなんですけど」
「うん、なに?」
「やっぱり、僕たちのこと不審に思ってないかな……って」

 父や薫子から直接何かを言われることはなかったが、毎日のように櫂の部屋に入り浸っている僕を不思議に思っているかもしれない。
 それに、これから先も櫂と一緒にいることを選ぶのであれば、いつかは父や薫子にも打ち明けなければならなくなるだろう。
 それが、僕にはとても怖かった。父が、薫子が、櫂と僕の関係を認めなかったら、僕たちは引きはがされてしまうのだろうか。せっかく、一生一緒にいられたら、そう思える人ができたのに。
 僕の考えを見透かしたのか、櫂が腕を後ろに回して僕の頭をくしゃっと撫でた。優しくて、少し不器用な大きな手。

「大丈夫。時が来たら俺が伝えるよ。絢世が心配することじゃない」
「そうですかね……でも……」
「もし、母さんや大輔さんに反対されたら、駆け落ちでも、する?」

 櫂がどこまで本気なのかはわからない。だが、駆け落ちを視野に入れるほど僕との関係を真剣に考えてくれているのだと思うと、心の底から温かいものが溢れ出してくる。

「駆け落ち、してくれるんですか……?」
「絢世は、嫌?」

 櫂がぐるりと仰向けになり、僕を腹の上に引っ張り上げる。櫂の鼓動が伝わってくる。少し早くて、大きな鼓動。

「嫌じゃない、嫌じゃないです。櫂くんと一緒にいたいです……」
「俺も、同じ気持ちだよ」
 
 そっと抱きしめられて、頭の中がぽわぽわする。幸せな心地の中で、僕は櫂の腕に抱かれながら、そっと目を閉じた。

 ***

「絢世、悪い。父さんな、今日の夜、会食になってしまったんだ」

 二十歳の誕生日、当日。いつもより早く起きた僕に、父は申し訳なさそうにそう告げた。もう僕もいい大人だ、そんなことで文句を言うほど幼稚ではない。それでも、少し残念な気持ちはあった。

「ううん、大丈夫ですよ。お仕事、頑張ってください」
「悪いな、行ってくる」

 慌ただしく家を出ていく父の背中を見送りながら、ダイニングテーブルの席に着く。目の前にはトーストとミネストローネ、ハムエッグ。薫子と櫂が来てから、朝食もしっかり食べる習慣がついた。
 先に座っていた櫂が、チーズの乗ったトーストをひとくち。だが、すぐに皿の上に戻してしまった。何か気に食わなかったのか。そう思いながら、スープを飲もうとスプーンを手に取る。
 だが、その手は、口元に温かいものを運ぶ前に止まってしまった。

「じゃあ、絢世の今日、俺に頂戴」
「え……」
「元々大輔さんと過ごす予定だったなら、空いてるでしょ?」

 予定はない。けれど、恋人になって初めて迎える誕生日、二人きりというのはどうにも緊張してしまう。
 少し返事に迷ったが、特別な日にしたいと、櫂がそう言ってくれているのだとしたら、僕はその気持ちに応えたい。
 
「……空いています」
「じゃあ、俺が予約するね。夜、俺と一緒に外食しよ」

 櫂の言葉に、薫子が「ずるい、私も……」と言いかけたが、櫂に睨まれて、溜息を吐いた。こういうことは薫子と櫂の間にはよくあるのか、薫子はそれ以上何も言わなかったが、僕にはなんだか可哀想に思えて「今度はご一緒しましょう」と口にしていた。
 それだけで薫子は機嫌をよくして家事に戻っていったが、今度は櫂が不満そうに大きく溜め息を吐いて、僕を見つめたまま、冷め始めたスープを啜る。僕は居心地の悪さを感じながらも、空中で止まっていた冷たくなったスープを口に運んだ。


 夜。櫂が連れてきてくれたのは、創作料理のおしゃれなお店だった。建物はカフェのようだが、メニューは簡単なコース料理がメインになっている、ディナーが楽しめそうな、雰囲気のある場所だ。
 普段ファストフードやファミレスしか行かない僕は、緊張で身を固くしながら、櫂の向かいに座った。

「ごめん、もっと余裕があればいいところに連れて行きたかったんだけど」
「いえいえ! 僕にとっては、すごくおしゃれなところで……」
「気に入った?」

 櫂が嬉しそうにそう聞いてくるので、僕は慌てて頷いた。気後れしてしまうところはあったが、店内はゆったりとした音楽がかかっていて、お客さんも大騒ぎしている人はおらず、小さな話し声が心地いいほどだ。
 過ごしやすい雰囲気が、そこには確かにあった。
 僕の反応を見て、櫂は満足げに座りなおして、メニュー表をこちらに差し出してきた。コースは四種類ほどあったが、横文字ばかりで僕にはなにがなんだか分からない。
 困ってしまって櫂に視線を向けると、櫂は優しく微笑んで、メニュー表を長い指で差した。

「上から、魚料理、鶏料理、豚料理、牛料理のコース。飲み物とスープは選べるよ。絢世は……二十歳になったから、お酒でもいい」
「お酒は、遠慮しておきます。もしかしたら、櫂くんに迷惑をかけちゃうかもしれないですし」

 そう答えると、櫂は、どこか少しほっとしたような顔をした。その真意はわからないが、僕はコースを決めるために櫂の指が置かれたままのメニュー表に手を伸ばす。こつりと指が当たった瞬間、ぱっと櫂が手を引いた。嫌だっただろうか。

「僕、牛肉にします」
「わかった。すみません、注文いいですか」

 櫂が手を上げて、こちらへ来たウェイターさんへ牛料理のコースふたつ、アップルジュース、オレンジジュース、それによくわからない横文字のスープを注文した。
 ウェイターが去ると、櫂の瞳が再びこちらを向く。それはどこかキラキラして、何かを期待しているようだった。

「俺、絢世がいたからあのサークルに入ったんだ」
「へ?」

 思いもかけない告白に、裏返った声が出た。僕がいたから? 顔見知りでもなかったはずだけれど。

「新歓の時に演技する絢世がとても輝いて見えて、裏方として支えたいと思った。裁縫や、多少の小物作りくらいは得意だったから」
「新歓の時って……」

 まだ進級したての僕には大した役は与えられなくて、埋もれてしまうような端役だった。台詞も、数えるほどしかなかった記憶がある。それでも、そんな僕を今と同じように真っ直ぐな目で見つめて、何かを見出してくれたんだろうか。

「その時は、まだ好きだったわけではないけれど、絢世の傍で支えたかった。だから、今は本当に幸せだよ」
「……櫂、くん」

 上手く言葉が出ない。何か返さなければと思うのに。
 口を噤んだままどれくらいたっただろう。やっと重い口を開くと同時に前菜が運ばれてきて、会話はいったん休止となってしまった。


 美味しい食事を堪能して、残すところはデザートのみとなったころ。僕の目の前に、大きな手が差し出された。その中には、小さな黒い紙箱が収まっている。
 どうしたらいいのか分からなくて櫂を見上げると、彼は真剣な瞳で僕を見つめていた。

「お誕生日おめでとう、絢世。でも、プロポーズには、まだ早いと思ってる」
「櫂、くん……? 一体、なにを……」
「だから、これでプロポーズの予約をさせてほしい。絢世にプロポーズする資格を持っているのは俺だけだって、思いたいから」

 開けられた箱の中には、控えめに黒く輝くジェットのピアスが入っていた。それはまるで、櫂の瞳の輝きを映したようだ。

「綾瀬の分は、俺の瞳の色。俺の分は、絢世の瞳の色で作った」
「俺の分……って」

 手元のピアスから視線を上げると、櫂が長い髪をかき上げた。そこには、透明感のある灰色の石が嵌ったピアスが照明を受けてキラキラと輝いていた。

「ぴ、ピアス……っ」
「開けたよ、このために。ブラックダイヤモンドっていう石なんだ。これでお揃いでしょ」

 櫂の言葉からは、確かな覚悟を感じて、僕は口を噤んでしまった。ピアスを開けるなんて、僕にとってはすごく勇気がいることだったのに、櫂は僕とお揃いにするために、こんなにあっさりと。
 それに……今までずっと揶揄われてきた、人とは違う瞳の色を、こんなふうに愛してもらえるとは思っていなかった。大嫌いだった自分の瞳を、大切にしてもらえる日が来るだなんて。
 ひと呼吸おいてから、櫂の手元からピアスを受け取ると、普段つけたままになっているシルバーのピアスを外して、櫂の手作りピアスを嵌めた。冷たくて、少し重い。

「どう、でしょうか」
「うん、似合ってる。これでいつでも一緒だね。社会人になったら、改めてプロポーズするから」
「……櫂、くん」
「その時は、大輔さんや母さんにもちゃんと報告しよう」

 僕の耳に手を伸ばして、幸せそうにそう呟く櫂に、僕もまた心を温かいもので満たされながら、大きな彼の手に自分の手を重ねた。