本当の僕を知っているのは、あなただけ


 こんこん、こん。帰宅後、無言のまま食事を終えて、それぞれ風呂にも入った。櫂はもう自室にいるはずだ。そんな確信のもと、僕は彼の部屋のドアをノックした。
 押しかけているようで迷惑かもしれない。途中でそう感じてしまって、最後は消え入るような音しか出すことはできなかったが、それでも櫂には十分聞こえていたらしい。間髪入れずにドアが開き、櫂が顔を覗かせる。眼鏡は掛けていなかった。

「あの……今、いいですか?」
「いいよ。約束してたでしょ。……入って」

 大きく扉が開かれて、櫂の部屋に入る。僕が中に入ったのを見届けると、櫂はすぐにドアを閉めて鍵をかけた。今から僕が話そうとしていることを、もしかしたら察しているのかもしれない。
 櫂の部屋はソファなどはなく、学習机とベッド、本棚があるのみ。以前、櫂を起こすために入ったときと同じく、モノトーン調でまとめられた、落ち着いた部屋だった。
 どうしよう、座る場所がない。床にでも座ればいいだろうか。邪魔にならないように、と壁際に身を寄せると、櫂がベッドを指差した。

「そこ。ベッド、座っていいから」
「え……あ、うん。ありがとうございます」

 言われるがまま、櫂のベッドに腰掛けると、ふわっと彼の匂いがした。少し甘くて、愛おしい香り。それになんだか泣きそうになってしまって、慌てて頭を振ると、櫂に目を向ける。
 櫂は、学習机とセットになっている椅子を僕の向かいに引っ張ってくると、そこに腰掛けた。ジェットの瞳と、視線が絡み合う。
 沈黙。
 自分の気持ちを打ち明けるのであれば、今しかない。そんなことは十二分にわかっているはずなのに、言葉が出てこない。怖い。櫂に嫌われたくない。やっぱり、何も言えなかったら、僕は……。
 そんなことをぐるぐると考え、視線を手元に落とすと、無言に耐えかねたように櫂が口を開いた。

「……夜は眼鏡なんだ?」
「あ……そう、なんです。高校まではずっと眼鏡だったんですが、大学ではコンタクトを使うようにしていて。……櫂くんこそ、今はコンタクトですか?」
「あぁ、裸眼。普段、伊達眼鏡だから」
「え……っそ、そうなんですね」

 たわいもない話だ。でも、櫂と普通に話せている。しばらく気まずかった時期もあったけれど、またこうして話すことができていることが何よりも嬉しい。

「どうして、伊達眼鏡を……?」
「顔を見られたり、目を見つめられるのが好きじゃないから」

 眼鏡をかけていない櫂の顔をじっと見ていることを責められたのかと、一瞬息が詰まる。足元を向いていた黒い瞳がこちらを向くが、そこに責めるような色はなかった。悪いことをしたわけでもないのに、緊張して背筋が伸びる。
 しばらくの沈黙。僕から口を開くことはできなくて、じっと櫂を見つめていると、ようやく彼が呟くようにして話し始める。

「今日の演技、本当によかった。でも──」
「でも?」
「絢世の演技は、他の誰かに向けたもののように見えた。絢世には、誰か恋焦がれている人がいるんじゃないかって」

 櫂の言葉に、息が止まりそうになった。まさか、僕の演技でそこまでばれていたなんて。他のメンバーやお客さんの目にも不自然に映っていたらどうしよう。そんな不安が分かったのか、櫂はすっと膝の上に置かれていた僕の手を握った。
 温かくて、大きな手が、ゆっくりと僕の指を撫でていく。不思議と心が落ち着いて、口から息が漏れる。

「大丈夫。気づいたのは、ずっと絢世を見てた俺だけ」
「僕……僕、は……」
「うん」

 視線を床に落とす。櫂は、僕を急かさなかった。ただ黙って、僕の手を撫でながら、言葉で紡がれるのを待っていた。
 心臓がうるさい。口から今にも飛び出してきてしまいそうだ。ここまでひとりの人のことばかりを考えるのは生まれて初めてだった。ぎゅっと櫂の手を握り返して、思い切り息を吸い込む。ゆっくり息を吐き出して、櫂の顔を見上げる。
 櫂に変化は見られない。特段緊張している様子もなかった。だが、心なしか指先が冷たい。もしかして、櫂も僕のこと──。
 そんな期待も後押しして、僕はついに、櫂に告白していた。

「僕、櫂くんが好きです」
「……本当に?」
「うん、櫂くんが好きなんです。本当の僕を受け入れてくれたことが一番大きかったけど。もう、櫂くんに見せていない僕はいません。でも、櫂くんは、どんな時も揺らがずに隣にいてくれたから……だから」

 僕の言葉を聞いて、櫂はぱっと僕の手を離した。突然温もりがなくなって戸惑っていると、櫂が立ち上がって僕の身体に圧し掛かるようにして抱きしめてきて、僕はベッドの上にひっくり返ってしまった。
 体の上に櫂の上半身が乗って、重くて息ができない。それでも、僕を抱きしめて小さく体を震わせる彼を退かすことはできなくて、そっと背中と頭を撫でてやる。
 さらさらの黒髪は癖もなく指に吸い付いてきて、それが愛おしい人のものだと思うとたまらなく幸せな気持ちになった。

「……本当は、ずっとこうしたかった。まぁ……本番前に、抱きしめたけど」
「櫂、くん」
「好きだ。ずっと、一生懸命な絢世を見てた。ずっとずっと、思いきり抱きしめたかった」

 ずっと、僕を見ていてくれた。一生懸命だったと言ってくれた。そして、そんな僕のことを、櫂が好きだと言ってくれた。その事実が、ひとつ残らず嬉しくて、僕は熱くなる頬をそのままに、視界を潤ませる。
 目をこすりたいのに、叶わない。だが、櫂に強く抱きしめられて、眼鏡がずれ、ぽろりと零れた涙はやがて櫂の服に吸収されていった。
 櫂は、僕の上から体を退けると、隣に寝転がった。ベッドから投げ出された足は触れたまま、僕は櫂と向き合う。眼鏡をきちんと掛けなおすと、櫂が珍しく頬を桜色に染めているのがわかった。
 そんな彼の様子にぼぅっと視界をジャックされていると、櫂の大きな手が伸びてきて、僕の頬に触れた。少し冷たい指先は、幸せで熱くなった僕の頬の熱を奪っていく。

「義兄弟になったときは、もうだめかと思った。家族になってしまったら、その先はもうないんじゃないかって」
「……はい」
「俺は絢世が言ったとおり、いつも素でいるけれど、その分自分らしくないって我慢してきたこともある」

 櫂に酷く当たってしまった時のことを思い返しながら、小さく頷く。八つ当たりしても、櫂はぶれなかった。僕にひどい言葉を浴びせることもなかった。
 血の繋がっていない家族になった時だって、櫂は表情ひとつ変えなかった。だが、その裏にはこんな葛藤があったなんて。

「……我慢してきたことって?」
「さっきも言ったけど、抱きしめたり……キス、とか。俺みたいな愛想のない男が急にそんなこと言いだしたら、絢世も怖がるかと思って」
「キス……してくれるんですか?」

 僕の問いに、櫂はしばらく目をぱちくりと瞬いていたが、やがて小さな声で「いいの?」と問い返してきた。
 櫂がしたいのなら、僕に断る理由なんてひとかけらもないのに。
 家族に対してなんという感情を抱いてしまったんだろうと、何度も諦めようと思った。櫂はきっと僕なんて眼中にはないのだと、血の繋がりのない家族として受け入れてもらえればそれだけで十分だと何度も心の中で反芻した。
 でも、違った。家族になったから諦めなきゃいけないんじゃない。家族になっても、僕はやっぱり櫂がいい。

「いいですよ、キスしてください……櫂くん」
「……絢世」

 櫂の腕が、僕の腰に回されて、ぐっと引き寄せられる。目の前には、綺麗に整った、何度見ても見慣れない顔。
 僕の頬に触れていた手が僕の眼鏡を取り去って、ぼやぼやの視界の中、櫂の瞳だけが輝いている。櫂の顔が近づいてきて、どうしたらいいのかわからず固まっていると、目を閉じた櫂が僕の唇にそっと触れた。
 長い睫毛が眼前で上下している。

「ん……っ」
「ん、絢世、目、閉じて……」

 一瞬唇が離れる。その指示に従って目を閉じると、一拍置いて、僕の吐き出した息はすべて櫂に吸い込まれていってしまった。
 これが幸せというものなのだろうか。そんなことを痺れる頭でぼんやりと考えながら、僕は櫂に身を委ねた。