本当の僕を知っているのは、あなただけ

 もう何日、口を利いていないんだろう。あの夜、気になる人がいると伝えたきり、櫂との会話はなかった。なにが櫂にとって引っかかったのか僕にはわからなかった。
 まさか、櫂も本当に僕のことが……なんて、都合のいいことを考えなくもなかったが、そんなわけがないだろうと、浮ついた気持ちはいつも自分で打ち消すようにしていた。
 僕と櫂はすれ違ったままだったが、文化祭はどんどん近づいてきて、練習も佳境に差し掛かる。

「ん」
「あ、あり、がとう……」

 レースリボンを掴んだ大きな手が目の前に差し出される。やはり、会話という会話はない。リボンを受け取ると、目を合わせることもなく、櫂は衣裳部屋を出て行ってしまった。
 あと何回、櫂が作ってくれたこの衣装に袖を通せるんだろう。この気まずい状況のまま本番を迎えるのはどうにも後ろめたい。
 そもそも、僕はこんなに中途半端な気持ちのまま舞台に立って大丈夫なんだろうか。そんな不安が頭を支配しようとして、僕は慌てて頭を振った。今は、ただ、本番だけを。練習してきたすべてを出し切って、演劇を成功させることだけを考えよう。
 小さく気合いを入れなおして、僕はマーカーと赤ペンですっかり汚れた台本を床に置き、坂本の元へ向かった。


 小さく口の中で転がしたつもりだった台詞は、存外大きな声で稽古部屋を震わせた。シーンは、主人公の皇子が恋した町娘を追いかけ、自分の気持ちを伝えようとして上手くいかないところ。

「どうして……どうして僕じゃいけないんだ。僕はなんだってする、君のためならなんだってできるのに──!」

 脳裏にちらつくのは櫂のことばかり。櫂のためなら、僕だって。でも、きっと櫂が選ぶのは僕ではなくて、綺麗な女性なんだろう。そんな心の叫びが口から零れ落ちてしまったのだと思う。

「カット! 今の良かったじゃん、なんかあった? 好きな人でもできたか」

 僕の肩に手を置いて、そう揶揄ってくる坂本の手を払い、僕はどっかり椅子に座り込んだ。

「そんなんじゃないよ。気のせいでしょ」

 上手く流せただろうか。心臓がばくばくしている。台詞につい熱が入ってしまったのは自分でもわかっていたが、素直にそうですと言うこともできない。だって、櫂に気づかれてしまったら、僕は、この気持ちは。
 ぎゅうっと胸を押さえて、僕は体を丸めた。今はただ、この鼓動が過ぎ去るのを待つことしかできなかった。


 あ、疲れてる。
 練習の合間、トイレに行くついでに準備室を覗くと、櫂が溶けていた。椅子の上に伸びるようにして体を預け、その足は無造作に投げ出されている。こういう時の櫂は、糖分不足で反応が鈍い。
 そんなことを知っているのは、一緒に暮らしている僕だけかもしれない。
 櫂とはほとんど会話がないこんな状況ではあるけれど、裏方が溶けていていいわけがない。それに、会話がないからと言って冷たくされているわけでも、ないがしろにされているわけでもないし。僕も、僕にできることはしなきゃ。
 今にも椅子と同化しそうな櫂にはなにも聞かずに稽古部屋を出ると、生協へと足を向けた。


「はい、あーん」
「ん、あ……」

 素直に口を開けた櫂にチョコレートを食べさせる。彼が好んで食べるブラックチョコレートをひとかけら。もぐもぐと無言で咀嚼して、白い喉が動くのを見届けると、僕はパウチに入ったラムネとレモンの絵が描かれている乳飲料を彼の腹の上に置いた。
 どちらも、普段から櫂が好んで口にするものだ。自分の腹上から床に向かって転がっていくラムネとジュースを慌てて抱え、櫂が体を起こす。自分の手の中を一瞥して、僕に視線を移した。
 なにか文句を言われるのかと一瞬身構えたが、櫂は今までの気まずさがなかったかのように口を開いた。

「……よく覚えてるな、俺の好みなんて」
「別にそんな、普通じゃない? たまたまだよ」
「……ふぅん。ありがと。チョコも残り頂戴」

 大きな手が僕に向かって差し出される。そこにチョコレートの箱を置くと、櫂は満足げに微笑んだ。その顔があまりに綺麗で愛しくて、顔が熱くなる。想像していた以上に自然に会話できたことで、ほっとしたせいもあったのかもしれない。
 急いで視線を逸らしながら、先ほどの櫂の言葉が頭の中で反芻された。
 もしかして、家族の好みを完全に把握しているのって、普通じゃなかったのかも。確かに、僕は父の好きなものなんて知らない。唐揚げが出てくると少し喜ぶことを知っている程度で、普段、何を食べ、何を飲んでいるのかなんて分かろうと思ったこともない。
 やりすぎちゃった……?
 不安に心臓が暴れだしそうになるのを深呼吸で抑え込みながら、準備室を出る。不審に思われなかっただろうか。上手く流せていたかな。
 頬を両手で覆いながら出てきた僕を不思議に思ったのか、坂本がこちらへ寄ってきたが、何か言われる前に「なにもないよ」と告げると、それ以上は言及してこなかった。

 ***

 本番直前。あと三十分もすれば、僕は舞台袖で待機しているだろう。
 衣裳の最終チェックをする櫂の邪魔にならないように、ゆっくりと息を吐き出す。正面の姿見で自身のメイクされた顔を見つめ、徐々に視線を落としていく。僕のズボンの裾を引っ張るようにしてほつれの確認をしている櫂が、そこに蹲っていた。
 下から、徐々に確認箇所が上に移動してきて、やがて整った顔立ちと対面する。顔が火照ってしまいそうになるが、真剣な表情をしている櫂を前に、そんなところは見せられないと腹筋に力を入れた。

「……うん、問題ないね」
「大丈夫そうですか」
「ほつれもないし、本番の途中で破れてしまうようなこともないと思う。まぁ、その時は俺のせいにしていいよ」

 冗談なのか真剣に言っているのかわからないまま頷くと、僕の顔を真っ直ぐな目で見つめていた櫂が、不意に僕の身体を抱き寄せた。密着した上半身が、熱い。櫂の眼鏡のテンプルが、首元に触れて冷たかった。

「櫂、く……?」
「頑張って。大丈夫、俺はずっと努力するあんたを見てた」

 背中を撫でる手が、温かくて優しい。櫂なりの激励だろうか。普段だったらその行動の意味を問い詰めていたかもしれないが、本番前でいっぱいいっぱいだった僕は、何も言わずに小さく頷いた。

「……うん、ありがとうございます。櫂くんがいてくれて、本当によかったです」
「……っ、ん」

 僕の言葉に、櫂は一瞬言葉に詰まったようだった。だが、すぐに体を離して、僕の身体を回れ右させた。僕からは櫂のことが見えなくなる。目の前には、本番に通じる扉。彼はいったい、どんな顔をしているんだろう。

「よし。……いってらっしゃい」

 今更、舞台が怖くなったと振り返ることは許されない。ぽんと背中と押され、僕は緊張と櫂の温もりを感じたまま、舞台に向かって歩き出した。


 幕が上がり、本番が始まる。舞台に立つと、眩しい照明の中、たくさんの視線がこちらに向いていることを意識して、一瞬頭が真っ白になってしまった。
 なにをしているんだ、和智絢世。今まで、散々陽キャを演じてきたじゃないか。演じることがあんなに日常だったはずなのに。
 焦って視線を泳がせると、観客席の脇でじっと僕を見つめている櫂と目が合った。視線が絡んで、離れなくなる。それはまるで、僕に落ち着けと言っているようで。
 そうだ、今は、僕じゃない。今の僕は皇子。町娘に恋をする、等身大の皇子なんだ。

「──美しい娘だ。私に、名を教えてはくれないだろうか」

 声は震えてはいなかった。舞台の上にいる全員が、ひとつの町の人間と化している。僕には、その高揚感が今までに味わってきたどの演劇の成功よりも甘美に感じられた。
 この舞台のために、僕は演技を続けてきたのかもしれない。そう思えるほど、幸せだった。
 だが、どうしても、一点だけ、僕は役に入り込めないでいた。町娘に恋をしているはずなのに、僕の脳裏に浮かんでくるのはいつも櫂の姿ばかりで、僕はつい櫂への気持ちを叫んでいるような錯覚に陥ってしまう。

「どうして……どうして僕じゃいけないんだ。僕はなんだってする、君のためならなんだってできるのに──!」

 本音だった。櫂のためなら、僕は、なんだって──。そこまで考えて、心の中で頭を振る。それは演技が終わった後で考えよう。今の僕は皇子。一国の皇子なんだから。


 お疲れ、よかったよ、と裏方からの労いの声が飛ぶ中、準備室に戻った僕はまずメイクを落としにかかった。普段何も塗らない顔に乗せられたファンデーションは重く感じ、早く解放されたいとまで思ってしまう。
 だが、ここまで顔に塗られたものを気にしているのはどうやら僕だけのようで、演者の女の子からはそのままのメイクで帰る、などと話しているのが聞こえたほどだった。
 メイク落としで綺麗に顔をふき取って、軽く洗顔すると、今度は衣裳を脱ごうと衣裳部屋に移動した。
 そこでは坂本がちょうど着替えていて、邪魔にならないように気をつけながら、僕もその隣で服を脱ぎ始める。
 重厚に作られた皇子の服は、何枚も重ねられていて、脱ぐときにも手間がかかる。だが、その一枚一枚を櫂が手作りしてくれたと思うと、脱ぐことが少し惜しく感じるほどだった。

「お疲れ」

 いつの間に近づいてきたのか、すぐ後ろから櫂の声がして、僕の上着をはぎ取っていく。

「おぉ。和智も纐纈もお疲れ」

 坂本の労いに答える間もなく櫂が僕にまた手を伸ばした。されるがままに衣装を脱いでいくと、櫂の腕はあっという間にいっぱいになってしまった。
 一枚ずつハンガーにかけていく後ろ姿を見ながら、胸元のレースリボンと格闘していると、坂本にポンポンと肩を叩かれる。

「俺は先の片づけに参加してくるから、お前も着替え終わったら手伝えよ」
「お、おぅ、分かった」

 僕の返事を聞いてにっと笑った坂本は、そのまま衣裳部屋から出ていった。ぱたんと扉が閉じて、小さな部屋の中は僕と櫂の二人きりになる。

「櫂くんも、お疲れさまでした。初めての本番は、どうでしたか」

 ようやく解けたリボンを渡しながら声をかけると、櫂はちらりと僕を見た後、しばらく黙ったまま口を開こうとしなかった。もしかして、演劇に疲れてしまっただろうか。それとも、あまり達成感を得られなかったとか。
 懸命にやったつもりだったが、力不足だったかもしれない。そう思い、不安に駆られながら櫂を見つめると、小さな声で、僕にしか聞こえないように、櫂が言葉を紡いだ。

「和智さんの……絢世の演技が見られて、その手助けができて、満足してる。近くで応援できてよかった」
「それって──」

 初めて名前で呼ばれて胸が高鳴る。それって、いったいどういう意味で言ってるんだと詳しく問い詰めたくなるのをぐっと我慢した。家に帰った後、いくらでも聞くことができるんだから。
 今日で、僕のこの秘めた気持ちも、はっきりさせて、きちんと清算したい。
 それはどうしようもなく勇気がいることではあったが、いつまでも自分の気持ちをもやもやさせたまま抱えているのも限界だった。それに、櫂の、僕に対する気持ちをきちんと知りたい。

「──ううん、なんでもないです。その代わり、帰宅後、櫂くんの時間が欲しいんですけど、僕にくれませんか」
「……時間くらい、いくらでも」
「ありがとうございます。じゃあ、片づけの手伝いに行きましょうか」
 
 櫂の言葉に、口元が緩んでしまいそうになるのを必死に堪えながら、衣裳部屋のドアに足を向ける。櫂はまだ衣装の世話をしていたが、僕を止めるでもなく「うん」と返事をした。