本当の僕を知っているのは、あなただけ

 薫子の前では、僕はずっと素のままでいた。ただ、取り繕う時間がなかったというだけだったが、僕の素が大人には受けたのか、礼儀正しいと褒められることもあった。
 珍しく一限があり、早朝に階下に降りると、薫子が朝食を作っているところだった。父はネクタイを傍らにおいて、タブレットで経済ニュースを読んでいる。

「お、おはようございます……」

 普段こんな時間には起きないので、少し躊躇しながらも挨拶すると、父と薫子の視線がぱっとこちらを向いた。父はそのあとすぐに「……あぁ」と返事をして視線を僕から外したが、薫子は弓なりに瞳を笑ませ、僕に向かって口を開いた。

「おはよう、絢世くん。悪いんだけど、櫂を起こしてきてもらってもいい? 大丈夫、怒られないから。寝起きは少し不機嫌かもしれないんだけど」
「ぼ、僕がですか?」
「もう朝ご飯できちゃうから、お願い」

 手を合わせて申し訳なさそうな顔をされると、それを断ることは僕にはできなかった。今降りてきたばかりの階段をまた上り、櫂の部屋の前に立つ。櫂が越してきて以来、一度も入ったことがないのに、寝ている間に入ってしまっていいんだろうか。
 躊躇する気持ちもあったが、やがて階下から何かを焼く音が聞こえてきて、時間がないと悟り、ドアノブに手をかけた。

「お邪魔しまーす……」

 小さな声で囁くように話しかけながらドアを静かに開く。櫂の部屋は真っ暗で、足を踏み込むとこつんと何かが当たった。
 目を凝らすと、櫂が普段大学に持ってきているショルダーバッグが無造作に置かれていた。ベロンと大きく開いた口からはルーズリーフが覗いている。視線を上げると、開きっぱなしのノートパソコンが目に入った。
 昨日遅くまでレポートでもやっていたんだろうか。
 櫂は、モノクロのベッドの中で未だに夢の中。小さく寝息を立てる櫂にそっと近づく。眼鏡を外している櫂の顔はとても綺麗に整っていて、心臓がとくんと小さな音を立てた。
 顔に熱が集まる感覚、熱くて思わず自分を手で仰いだが、収まらなかった。だが、ベッドの隣で棒立ちしているのもまずいだろうと思って、カーテンを開けると、僕は布団の上から櫂の身体を揺すった。

「櫂くん、朝ですよ。櫂くん」
「ん、うぅ……」

 整った唇から呻き声が溢れて、寝返りを打つ。こちらを向いた櫂の睫毛は小さく震えていて、少し息を呑んでしまった。この綺麗な寝顔を、このままにしておきたい。起こしてしまうのはもったいない。
 そんな気持ちがありつつ、僕はまた彼の肩を手で掴んで揺らす。

「櫂くん、櫂くん」
「ん、ぁ……だれ、」
「僕です。絢世。もう朝ですよ。薫子さんが呼んでいます」
「ん、分かった……」

 機嫌が悪いかもと言われたが、そんな様子もなく、櫂は袖口で目をこすって立ち上がった。ふあ、と大きな欠伸をして、おもむろにスウェットを脱ぎ始める彼から目を離すことができず、じっと見つめていると、ボクサーパンツ一枚になった櫂がふと手を止めた。

「なに見てんの。まだなんか母さんからの伝言でもあった? 義兄さん」
「あっいや、その……っな、なんにもないです」

 慌てて顔の前で手を振って、櫂の部屋を出る。後ろ手でドアを閉めながら、ばくばくする心臓を落ち着かせるため、ゆっくり息を吐き出す。
 見てしまった。櫂の下着姿を。すっかり見入ってしまって、じっと見つめてしまった。自分が恥ずかしくて、僕は熱くなった顔を冷ますように何度も襟をつまんで前後に動かし、風を送る。
 櫂が出てくるまでに平静を取り戻さなきゃ。そんな焦りを抱えたまま、今度はゆっくり階段を下り始めた。

 ***

 レポートを書くために帰宅すると、櫂はまだ帰宅していなかった。キッチンでは薫子が夕食の支度をしてくれている。手伝うことはないと言われてしまったので、自室に戻った。 
 ノートパソコンを立ち上げて、机に向かっていると、すぐに階段を上がってくる足音がした。この足音は、櫂だ。父より軽く、薫子より静か。まあ、そんなことを考えなくとも、二階には僕と櫂の部屋しかないのだけれど。
 櫂の足音が聞こえると、僕の部屋の戸が開くわけでもないのに、なぜか居住まいを正してしまう。鏡を覗き込んで、髪を整えることもある。別に櫂と鉢合わせることなんてほとんどないのに。

「……僕、なにしてるんでしょうか」

 鏡の向こうから、僕が自嘲気味に笑いかけてくる。同居人の気配を気にするのは当然だと言われてしまえば、そうかもしれない。だが、僕は今まで父の足音にここまで気を配ったことはなかったし、家の中で身なりを気にしたこともない。
 年の近い兄弟がいれば、当然なんだろうか。
 櫂を意識しすぎてしまう自分がなんだか自分ではないような気がして、僕は櫂の部屋から聞こえてくる生活音を耳にしながら、気にしないように音楽をかけた。


 櫂との生活にすっかり慣れてきたころ。サークルでいつも通り練習に励んでいると、休憩になった途端、坂本に絡まれた。だが、特別に何か用があったわけではないようで、朝食を食べたか、というなんでもない雑談から、本番の小物をどう配置するか、衣装は今のまま確定でよいのか、などの確認事項まで話が広がっていく。
 衣裳の着心地について話していると、話は不意に櫂のことに移り変わった。衣裳を作ってくれたのが櫂だったから。ただそれだけで櫂の話が出ただけなのに、僕はサークル内で彼のことを誰よりも知っているという自負で口が止まらなくなってしまった。

「纐纈って、口数少ないよな。最初なんて絶対怒ってると思ってたわ」
「そうかなぁ……? 櫂くん、慣れてくると結構よく話してくれるよ、寝起きも機嫌悪くないし」
「寝起き?」
「うん、それに……」

 ……それに、僕のことをこのキャラだからではなく、素も含めて丸ごと受け入れてくれている。

「それに? なんだよ」
「いや、なんでもない。櫂くん、料理もできるし、手先器用だし、俺としてはすごく尊敬してる」
「ふうん、なんか……和智、楽しそうに話すんだな、纐纈のこと」
「へ……っ!? い、いや、そんなことないだろ。普通だよ、普通」

 坂本の揶揄うような言葉に慌てて頭を振ると、一層楽しそうに笑われる。櫂と一緒に暮らしているとは言っていないので、不審に思われたかもしれない。
 震える瞳で、笑顔を顔に張りつけながら坂本を見つめていると、彼がなにか言おうと口を開いた瞬間、裏方に呼ばれてしまったので、会話はお開きになる。短く返事をして、坂本は準備室の方へと移動していった。
 僕、そんなにおかしな反応をしていただろうか。そんなに櫂のことを喋っていただろうか。揶揄われるほど、楽しそうに。
 坂本の背中を見送ったまま、落ち着かない気持ちでぼぅっと準備室への戸を見つめていたが、そこから櫂が出てきた瞬間、ぱっと目を伏せた。今、櫂と目を合わせたら、平静でいられないかもしれない。
 そんな不安から目を逸らしてしまったが、櫂は何も言わずの僕の隣を通り過ぎていった。どうか、おかしいと思われていませんように。


「あの、好き……なんですけど」
「え?」

 稽古部屋の片づけをしていると、つんつんと袖を引かれた。振り返ると、文化祭の間だけ手伝いに来てくれている、裏方担当の女の子が立っていた。申し訳ないことに、名前すら覚えていない。

「えっと……ごめん、なにが、かな」
「和智さん、私、和智さんが好きなんです。付き合ってもらえませんか」

 全然嬉しくない。綺麗に整えられたハーフアップの茶髪に、大きなくりくりした瞳。以前の僕なら、喜んで飛びついていたかもしれない。しかし、今は何の喜びもなかった。むしろ、その女の子の向こうで動きを止めている櫂の方が気になってしまう。
 櫂はどう思っただろうか。それとも、僕に何かがあっても特に気にはしないだろうか。もし櫂が告白されたとしたら、僕はどう反応するだろう。告白してくれているのは目の前の女の子なのに、僕の頭の中は櫂で占拠されている。

「和智さん?」
「あ、あぁ……ごめんね。今は目の前のことに精一杯で、恋人とか考えられないんだ」
「そう、ですか……」

 露骨にがっかりする女の子に何か声をかけるべきか迷っていると、大きな手が伸びてきて、畳んだ椅子を五脚ほどまとめて渡される。驚いて櫂を見上げると、今までに見たことがないほど冷たい目で見つめられた。

「……櫂、くん」
「片づけて。あんたも、くだらないことしてないで動いて」
「は、はい……!」

 櫂に睨みつけられた女の子が逃げるように準備室の方へ消えていった。珍しく舌打ちなどして、去っていく櫂の背中を見つめる。明らかに、不機嫌。怒っていたのだろうか。まさか、僕が告白されたから?
 いや、義兄弟なのにそんなわけないじゃないか。櫂が僕の恋愛事情を気にかけているはずがない。もしかして、その女の子のことが好きだった、とか? いや、でも明らかに怒りをぶつけていたしそれもしっくりこないような……。
 もやもやとしたものを抱えたまま、僕は抱えた椅子を片づけるために稽古部屋の端へ向かって歩き出した。


「……恋人、作るの」
「んん……っ」

 突然の櫂からの質問に喉を詰まらせそうになりながら、お茶で口の中のものを流し込む。今日の夕食は櫂が作った肉じゃがだった。薫子は女子会に行ったらしく、父はまだ仕事から帰宅しない。

「どうして、そんなこと……っ」
「今日、告白されてたから。義兄さんも満更でもないのかなって」
「ぼ、僕……僕は、気になる方が、いるので」

 半分嘘で、半分本当。僕の言葉に、櫂は目を細めて品定めでもするようにじろりとこちらを見つめる。
 櫂の前ではずっと素でいたいという気持ちがあって、最近はすっかり気を抜いていたが、鋭い視線を向けられると背筋が伸びる。どことなく居心地の悪さを感じながら、じゃがいもを口に運ぶと、もう食べ終わった櫂がかちゃりと箸を置いた。

「誰からの告白だったら受け入れるの?」
「そ、れは……」
 
 気になっている人。気を許せる人。素の僕を受け入れてくれる人。そんな人、ひとりしか思い浮かばなくて、僕は口を噤んだ。櫂はそんな僕の様子をしばらく眺めていたが、やがて飽きたのか、食べ終わった皿を持って立ち上がった。
 それを引き留めることもできなくて、僕は櫂の背中を見送ることしかできなかった。


 隣の部屋から、時折溜息のようなものが漏れ聞こえてくる。課題でもやっているんだろう。
 僕は、夕食以降何も手につかず、布団に包まってベッドの上で体を横たえていた。
 僕の櫂へのこの気持ちは兄弟愛なんかじゃない。そんな言葉では片づけられないほど、重くて自分から引きはがせない感情。
 櫂に恋人ができなければいいのに。僕を義兄としてずっと大切にしてくれたらいいのに。二人きりの世界で、もっと、もっと親しくなれたらいいのに。……僕のことを、恋人にしてくれたらいいのに。

「……っは、はぁ……」

 跳ね起きて、詰まった息を吐き出す。僕は何を考えていた? いったい、僕は、櫂に向かってなんて感情を持ってしまったんだろう。家族になったばかりで浮かれてるんじゃないのか。家族なのにこんな気持ちを持つのはおかしい。
 でも。でも、僕はこの気持ちを嘘にはしたくない。捨てたくない。

「……どうしたらいいんだろう」

 深いため息を吐きながら、自分の膝に顔を埋める。いけないと分かっているのにこの気持ちをどうしたらいいのか分からない。
 明日から、櫂にどう接したらいいんだろう。

「……はぁ、あぁ」

 呻き声をあげながら、僕はまた布団に潜り込んだ。