「父さん、再婚することにしたんだ」
「え……。そ、そうなんですか。よかったですね、おめでとうございます」
珍しく早く帰宅した父と、カレーを前に食卓を囲んでいると、突然そんな報告を受けた。
僕の家は父子家庭だ。物心ついた頃には僕の親は父だけで、僕にとってはそれが当たり前だった。母は僕が産まれて間もなく息を引き取った、と聞かされたのは成人した時だから、ほんの二年ほど前のことだった。母がいなくて苦労をしたと感じたこともないし、再婚してほしいと思ったこともない。
だが、父が幸せになるというのなら話は別だ。昔から、仕事に家事に育児に、僕に不自由をさせないようにと駆けずり回ってくれていた父が、やっと自分の幸せを考えてくれたのだ。驚きはしたが、反対する理由はない。
「どんな人なんですか? 僕がいても、大丈夫……なんでしょうか」
大学生の子がいるというのは、結婚するとなったらどうなんだろう。成人済みだから手を離れていると考えるか、大きな子供がいるからと忌避感を示されるのか。
僕の言葉に、父は少し驚いたように丸い目で僕を見た後、お皿に視線を戻した。
「……そんな心配はしなくていい。あちらにも、大学生のお子さんがいる」
「そうなんですか?」
「お前の一個下の男の子だそうだ。名前は、確か……櫂くん、だったかな」
櫂? 僕の知っている櫂はひとりだけだ。だが、そう珍しい名前でもないし、他の人かもしれない。カレーを食べる手を止めたまま、じっと何かを考えこむ僕を不思議に思ったのか、父がこちらに視線を向ける。
「苗字、は……その、再婚相手の方のお名前はなんていうお名前です?」
「あぁ、纐纈薫子さんだ」
纐纈櫂。同姓同名の人はそう多くないように感じる。まさか、本当に、あの櫂くんが僕の義弟に……?
サークルで会った時ですらあんなにいろいろ考えて接しているのに、家でまで一緒に過ごすことになったら、僕はどうなってしまうんだろう。そもそも、僕はいいとして、櫂は僕のことを家族と認めてくれるんだろうか。
「絢世? どうかしたか。……やっぱり、再婚には反対だったか?」
「いえいえ、そんなわけないでしょう。お父さんの決めた人なら、僕も賛成です」
口ではそう答えたものの、櫂とひとつ屋根の下でやっていけるんだろうか。本当に父の言う櫂が、僕の知っている櫂だったら。せっかく少し仲良くなってきたところなのに、櫂とのこれからの関係を考えだしたらきりがない。
だが、考え込む僕をじっと見つめる視線が痛くて、もうお腹は空いていないのに、味のないカレーを頬張って喉に流し込んだ。
***
本当に、僕が知っている櫂だった。
父に「纐纈さんたちが来られたから、玄関でお迎えしなさい」と自室の戸を叩かれて階段を降りると、スーツケースと大きな荷物を手にした櫂と、父より五歳は年下じゃないかと感じる女性が玄関先に立っていた。
僕と目が合うと、櫂は一瞬目を見開いたが、すぐにその視線は父の方へと移っていく。
「あぁ、来たか。これが、うちの息子の絢世」
「ふふ、こんにちは」
「あ、は、はじめまして……」
薫子の挨拶に慌てて頭を下げると、父が珍しく声を弾ませながら二人をリビングへと上げる。僕は何も呼びかけられず、リビングについていくことができずに立ち尽くした。
これから、いったいどんな顔をして櫂と毎日会えばいいんだろう。櫂にとって、僕はどんな存在になっているんだろうか。
上手く言葉にできないようなもやもやに心を支配されながら、僕は黙って自室に戻ることを選んだ。ぎし、と軋む板の音だけが、楽しそうなリビングから聞こえてくる声をかき消してくれた。
櫂の部屋は僕の隣が割り当てられた。もともとは、父が子供は二人欲しいと言って作ったが、すっかり物置部屋になっていた場所。再婚が決まった時に整理したのか、櫂が引っ越してきた時には綺麗な空き部屋になっていた。
だが、だからと言って僕と櫂が仲睦まじくしているかと言われると、そういうわけではない。数日一緒に暮らしたものの、朝は一限が多い櫂の方が大抵早く家を出ていて会うことはなかったし、学年が違い、授業が被っているわけでもないから、会うのはサークルくらい。
今までとそう変わらない。そう、思っていたのに。
「あ……おかえり」
「え……か、薫子さんは?」
六限まで授業を受けて帰宅すると、キッチンの明かりだけが灯っていた。だから、てっきり父か薫子が食事を用意していると思っていたのに、鍋の前に立っているのは櫂ひとり。
櫂は鍋をかき混ぜながら、僕の方を向いて頭の先からつま先まで確認するように見て、小さく溜息を吐いた。まるで、何かに安心するように。
「あの二人なら、たまには息抜きがしたいってデートに行ってる。帰りが遅かったから、心配……じゃない、俺が飯、作ったから」
「あ、ありがとう、ございます……。料理、得意なんですか?」
「いや、別に……必要に駆られてっていうか。母さん、帰り遅かったし」
今まで、夕食を共にしたことはあったが会話なんてなかったのに。それに、心配って言った? 僕のことを?
「鞄置いて、手くらい洗ってきなよ。和智さん……は変か、えっと……」
「好きに呼んでください。お互い苗字も変わっていないので、和智でも大丈夫で──」
「義兄さん、とか」
ひゅっと息を飲み込んだ。それは、櫂が僕のことを家族として認めたという動かぬ証拠。僕はまだ、櫂が自分の義弟になることを認められていないどころか、彼にどう思われるのかということばかり気にしてしまっているというのに。
これでいいのか。このまま、素をさらしたままの僕を自分の家族と認めてくれるのか。
少しの不安は残ったものの、あとは僕次第なのかもしれない。戸惑うような感情もありつつ、僕は小さく頷いた。
「好きに、呼んでもらえれば……」
「ふ―ん、そ。……まぁ、外では気をつける」
コンロの火を消し、シチュー皿を手に取った櫂は「義兄さん、もうご飯にするよ」と優しい声で言った。
***
櫂との関係は日々変化していった。とはいえ、変化していったのは家庭内の関係の方だけだ。校内ですれ違っても目が合うことはなかったし、サークルでは今までと何の変化もなく、必要な時にだけ「和智さん」と呼ばれて業務連絡をされるだけ。
家ではたくさん話してくれる分、外での櫂との関係に不満はなかったが、その温度差で風邪を引きそうだった。
それに加えて、僕は僕で、家では素を出しているが、学校ではキャラを作っている状態が続いている。それは苦痛ではなかったが、本当の僕を知っている人が近くにいることで、ところどころ、ぼろが出つつあった。
「和智、ちょっと台詞の確認がしたいんだけど」
櫂に破れた衣装が直ったから見てほしいと言われ、確認していたところ、突然坂本に呼びかけられ、僕はつい、いつもの調子で答えてしまった。
「はい、どこですか?」
「? え……っと、お前、和智だよな? なんでそんなしゃべり方……」
「あぁ! いや、その……何でもないんだ、昨日見た映画の主人公の口調が移っちゃってさぁ」
あはは、と誤魔化すように手を振って笑う僕を、櫂は黙ってじっと見つめている。坂本は少し不思議そうな顔をしたものの、それ以上言及することなく「ま、そういうこともあるか」と言って流してくれた。
「じゃ、稽古部屋に来てくれ」
「うん、すぐ行く!」
衣裳部屋を出ていく坂本の背中を見送りながら小さく溜息を吐く。
学校と家でキャラを使い分けることに限界がきていることはとっくにわかっていた。櫂が僕と親しくなってきてくれたころから、疲れを感じ始めてしまったから。しかし、今更すべてを脱ぎ捨てて素の自分だけをさらすわけにはいかない。
「僕、少し行ってきますね」
「……ん」
櫂は小さく頷いただけで何も言わなかった。だが、こちらをじぃっと見つめる黒い瞳に、今の状態をどことなく責められているような気がして、僕は何も言わずに櫂から視線を外した。
「え……。そ、そうなんですか。よかったですね、おめでとうございます」
珍しく早く帰宅した父と、カレーを前に食卓を囲んでいると、突然そんな報告を受けた。
僕の家は父子家庭だ。物心ついた頃には僕の親は父だけで、僕にとってはそれが当たり前だった。母は僕が産まれて間もなく息を引き取った、と聞かされたのは成人した時だから、ほんの二年ほど前のことだった。母がいなくて苦労をしたと感じたこともないし、再婚してほしいと思ったこともない。
だが、父が幸せになるというのなら話は別だ。昔から、仕事に家事に育児に、僕に不自由をさせないようにと駆けずり回ってくれていた父が、やっと自分の幸せを考えてくれたのだ。驚きはしたが、反対する理由はない。
「どんな人なんですか? 僕がいても、大丈夫……なんでしょうか」
大学生の子がいるというのは、結婚するとなったらどうなんだろう。成人済みだから手を離れていると考えるか、大きな子供がいるからと忌避感を示されるのか。
僕の言葉に、父は少し驚いたように丸い目で僕を見た後、お皿に視線を戻した。
「……そんな心配はしなくていい。あちらにも、大学生のお子さんがいる」
「そうなんですか?」
「お前の一個下の男の子だそうだ。名前は、確か……櫂くん、だったかな」
櫂? 僕の知っている櫂はひとりだけだ。だが、そう珍しい名前でもないし、他の人かもしれない。カレーを食べる手を止めたまま、じっと何かを考えこむ僕を不思議に思ったのか、父がこちらに視線を向ける。
「苗字、は……その、再婚相手の方のお名前はなんていうお名前です?」
「あぁ、纐纈薫子さんだ」
纐纈櫂。同姓同名の人はそう多くないように感じる。まさか、本当に、あの櫂くんが僕の義弟に……?
サークルで会った時ですらあんなにいろいろ考えて接しているのに、家でまで一緒に過ごすことになったら、僕はどうなってしまうんだろう。そもそも、僕はいいとして、櫂は僕のことを家族と認めてくれるんだろうか。
「絢世? どうかしたか。……やっぱり、再婚には反対だったか?」
「いえいえ、そんなわけないでしょう。お父さんの決めた人なら、僕も賛成です」
口ではそう答えたものの、櫂とひとつ屋根の下でやっていけるんだろうか。本当に父の言う櫂が、僕の知っている櫂だったら。せっかく少し仲良くなってきたところなのに、櫂とのこれからの関係を考えだしたらきりがない。
だが、考え込む僕をじっと見つめる視線が痛くて、もうお腹は空いていないのに、味のないカレーを頬張って喉に流し込んだ。
***
本当に、僕が知っている櫂だった。
父に「纐纈さんたちが来られたから、玄関でお迎えしなさい」と自室の戸を叩かれて階段を降りると、スーツケースと大きな荷物を手にした櫂と、父より五歳は年下じゃないかと感じる女性が玄関先に立っていた。
僕と目が合うと、櫂は一瞬目を見開いたが、すぐにその視線は父の方へと移っていく。
「あぁ、来たか。これが、うちの息子の絢世」
「ふふ、こんにちは」
「あ、は、はじめまして……」
薫子の挨拶に慌てて頭を下げると、父が珍しく声を弾ませながら二人をリビングへと上げる。僕は何も呼びかけられず、リビングについていくことができずに立ち尽くした。
これから、いったいどんな顔をして櫂と毎日会えばいいんだろう。櫂にとって、僕はどんな存在になっているんだろうか。
上手く言葉にできないようなもやもやに心を支配されながら、僕は黙って自室に戻ることを選んだ。ぎし、と軋む板の音だけが、楽しそうなリビングから聞こえてくる声をかき消してくれた。
櫂の部屋は僕の隣が割り当てられた。もともとは、父が子供は二人欲しいと言って作ったが、すっかり物置部屋になっていた場所。再婚が決まった時に整理したのか、櫂が引っ越してきた時には綺麗な空き部屋になっていた。
だが、だからと言って僕と櫂が仲睦まじくしているかと言われると、そういうわけではない。数日一緒に暮らしたものの、朝は一限が多い櫂の方が大抵早く家を出ていて会うことはなかったし、学年が違い、授業が被っているわけでもないから、会うのはサークルくらい。
今までとそう変わらない。そう、思っていたのに。
「あ……おかえり」
「え……か、薫子さんは?」
六限まで授業を受けて帰宅すると、キッチンの明かりだけが灯っていた。だから、てっきり父か薫子が食事を用意していると思っていたのに、鍋の前に立っているのは櫂ひとり。
櫂は鍋をかき混ぜながら、僕の方を向いて頭の先からつま先まで確認するように見て、小さく溜息を吐いた。まるで、何かに安心するように。
「あの二人なら、たまには息抜きがしたいってデートに行ってる。帰りが遅かったから、心配……じゃない、俺が飯、作ったから」
「あ、ありがとう、ございます……。料理、得意なんですか?」
「いや、別に……必要に駆られてっていうか。母さん、帰り遅かったし」
今まで、夕食を共にしたことはあったが会話なんてなかったのに。それに、心配って言った? 僕のことを?
「鞄置いて、手くらい洗ってきなよ。和智さん……は変か、えっと……」
「好きに呼んでください。お互い苗字も変わっていないので、和智でも大丈夫で──」
「義兄さん、とか」
ひゅっと息を飲み込んだ。それは、櫂が僕のことを家族として認めたという動かぬ証拠。僕はまだ、櫂が自分の義弟になることを認められていないどころか、彼にどう思われるのかということばかり気にしてしまっているというのに。
これでいいのか。このまま、素をさらしたままの僕を自分の家族と認めてくれるのか。
少しの不安は残ったものの、あとは僕次第なのかもしれない。戸惑うような感情もありつつ、僕は小さく頷いた。
「好きに、呼んでもらえれば……」
「ふ―ん、そ。……まぁ、外では気をつける」
コンロの火を消し、シチュー皿を手に取った櫂は「義兄さん、もうご飯にするよ」と優しい声で言った。
***
櫂との関係は日々変化していった。とはいえ、変化していったのは家庭内の関係の方だけだ。校内ですれ違っても目が合うことはなかったし、サークルでは今までと何の変化もなく、必要な時にだけ「和智さん」と呼ばれて業務連絡をされるだけ。
家ではたくさん話してくれる分、外での櫂との関係に不満はなかったが、その温度差で風邪を引きそうだった。
それに加えて、僕は僕で、家では素を出しているが、学校ではキャラを作っている状態が続いている。それは苦痛ではなかったが、本当の僕を知っている人が近くにいることで、ところどころ、ぼろが出つつあった。
「和智、ちょっと台詞の確認がしたいんだけど」
櫂に破れた衣装が直ったから見てほしいと言われ、確認していたところ、突然坂本に呼びかけられ、僕はつい、いつもの調子で答えてしまった。
「はい、どこですか?」
「? え……っと、お前、和智だよな? なんでそんなしゃべり方……」
「あぁ! いや、その……何でもないんだ、昨日見た映画の主人公の口調が移っちゃってさぁ」
あはは、と誤魔化すように手を振って笑う僕を、櫂は黙ってじっと見つめている。坂本は少し不思議そうな顔をしたものの、それ以上言及することなく「ま、そういうこともあるか」と言って流してくれた。
「じゃ、稽古部屋に来てくれ」
「うん、すぐ行く!」
衣裳部屋を出ていく坂本の背中を見送りながら小さく溜息を吐く。
学校と家でキャラを使い分けることに限界がきていることはとっくにわかっていた。櫂が僕と親しくなってきてくれたころから、疲れを感じ始めてしまったから。しかし、今更すべてを脱ぎ捨てて素の自分だけをさらすわけにはいかない。
「僕、少し行ってきますね」
「……ん」
櫂は小さく頷いただけで何も言わなかった。だが、こちらをじぃっと見つめる黒い瞳に、今の状態をどことなく責められているような気がして、僕は何も言わずに櫂から視線を外した。

