本当の僕を知っているのは、あなただけ

 文化祭が近づくにつれて、練習は厳しく、大変なものになっていった。
 昨年も大変だった記憶はあるが、僕はまだ一年生だったため大した役をもらっていたわけではなく、先輩たちを見守るばかりだったので、この忙しさを体感するのは初めてだった。
 授業が終わったら時間ができたメンバーから集まって、ひたすら練習。平日では演者全員が集まれる日は少ないとのことで、土日も坂本が決めた日は集まる。
 夜遅くまで声を出して、くたくたになった後に裏方の作業を手伝うことも多々あった。
 裏方の手が回っていないということは頭では十二分に理解していたものの、体力を使った後に細かい作業をしなければならない状況は、いつの間にか僕を追い込んでいっていたらしい。
 自分のキャラを保つことが少しずつ難しくなっていき、坂本や他のメンバーの前で敬語が出てしまいそうになることもあった。心の余裕がなくなっていく中でも、一緒に作業している櫂はいつもと変わらない表情で黙々と作業をしていた。
 その様子に、羨望のような感情も芽生える一方で、苛立ちを覚えてしまう自分もいた。


「お前はいいよな、素でいられるんだから」

 つい、力が入って強い口調でそうぶつけてしまった。
 それは、ただの嫉妬だった。普段も演じ続けなければならない僕にとって、その苦労なく飄々と作業する櫂が羨ましかっただけだ。その分苦労も少ないのだろうと決めつけるような気持ちもあったことは否定できない。
 だが、それを本人にぶつけてしまうつもりはなかった。しんどさから、二人きりになったからと言って気が抜けて、口から本音が零れ落ちてしまったことに、僕が一番驚いていたように思う。
 八つ当たりをしてしまった。その事実に、すぐに自己嫌悪が追いかけてくる。まるで櫂が悪いかのような発言をしてしまった。櫂だって大変な中で、いつも通り作業をしてくれているだけなのに。
 櫂はすぐには何も言い返してこなかった。こんなふうに、忙しさに負けて後輩を責め立てるなんて、最低の行為だ。呆れられてしまっただろうか。そんなことをぐるぐる考えていると、櫂は作業の手を止めて、ぽつりと呟くように答える。

「……素でいる方が楽ってわけでもない」

 不器用な返事。だが、その言葉には僕にはわからない櫂の苦労が隠れているような気がした。キャラを作っていないからこその辛さは、櫂にもあったのだろう。僕だって、素でいるより良いと思って、今、陽キャを演じているのだから。

「そう、ですよね……ごめんなさい」

 僕の小さな謝罪は彼に届いたのだろうか。何も言わずに作業に戻る横顔を見て、僕は聞こえないように自分に溜息を吐いた。

 ***

 僕はその日以来、なんとなく櫂を避けるようになった。八つ当たりしてしまって気まずかったのもある。練習が激化していったこと、裏方仕事が仕上がってきたことも手伝って、二人きりになるようなことはなかった。
 だが、いつまでもそのままというわけにはいかなかったらしい。
 事件が起こったのは、リハーサルの直前。本番通りの衣装を着て、軽く体をひねり、伸びをした。……途端。
 ビッと鋭い音がして、胸元に布の端が当たるような感覚がした。おかしい。今回着る衣装はすべて詰襟のかっちりしたものだったはずなのに、そんなところに布の切れ目があるはずがない。
 恐る恐るそこに触れて、襟と胸の部分の間に大きな裂け目があることがわかった。何度か触れて、衣装を引っ張って目でも確認したが、間違いない。
 せっかく作ってもらった衣装を、直前で破いてしまった。

「ど、どうしよう」

 震える声が自然と口から零れ落ちる。僕の衣装を手掛けてくれたのは櫂だ。もう何日も気まずくて口を利いていないのに、衣装を破いてしまったなんて言えるだろうか。軽いパニックを起こしながら胸もとを手で覆うようにして鏡の前に移動しようと振り返ると、目の前に櫂が立っていた。

「あ、ぁ、櫂く……」
「……あぁ、破れたの」
「ごめ、ごめん、なさい」
 
 僕の声が届いているのかいないのか、櫂はそれ以上何も言わずに衣裳部屋の奥へ向かっていってしまう。僕はその背中を無言で見つめることしかできなかった。
 櫂の様子には、先日までの気まずさなんてひとかけらも残っていないように感じて、気にしていた僕が馬鹿だったのかもしれないと思えるほどだった。
 櫂はしばらく屈んでごそごそと紙袋を探っていたが、やがて立ち上がってこちらに向き直った。その手には小さな裁縫セットとレースリボンが握られている。

「……ちゃんとは直せないから」

 櫂の言葉にこくこくと頷くと、僕が着たままの衣装を温かい手が軽く引っ張る。動いたら針が刺さるかもしれない。そう思って動かないように息を詰めながらじっとしていると、徐々に櫂の顔が近づいてくる。
 息が当たってくすぐったいくらいの距離だ。ぎゅうっと手を握りしめて耐えていると、ぷつんと糸が切れる音がして、櫂の顔が離れていく。実際は十分もかかっていないかもしれないが、僕にとってはとてつもなく長かったように思う。
 詰めていた息を吐き出すと、今度はレースリボンを襟の裏にかけられて、少し高いところにある顔を見上げた。普段は長い前髪や黒縁眼鏡で隠れていて意識したことはなかったが、近距離で改めてみるととても顔が整っていて、目を逸らした。
 何も後ろめたいことはないはずなのに、櫂のことをかっこいいと感じてしまった自分が恥ずかしくて下を向く。
 胸元では器用にレースリボンが結ばれていき、ぽんと肩を叩かれる。裂け目は、見事にボリュームのあるレースリボンに隠れて見えなくなっていた。お礼を言わなければと、櫂の顔を見上げる。

「うん、こっちの方がいい」
「え……」
「あ、呼ばれてる。間に合ってよかった。行ってきなよ」

 ふわりと微笑む櫂の表情に見惚れていると、そう言って回れ右させられた。背中を押され、転びかけながら衣裳部屋を出る。先ほどの櫂が忘れられなくて、頭を振る。そんなことを意識している場合じゃなかった。
 準備室に移ると、僕を呼ぶ坂本の声がようやく聞こえる。
 奥の部屋にいたのに、作業に夢中になっていたはずなのに。これが聞こえていたなんて耳がいいんだな……。妙な関心をしながら、僕は慌てて稽古部屋に移動した。

 ***

 少しずつ、少しずつ、櫂の前で素の自分を曝け出すことが増えていた。それは、櫂が僕という存在を受け入れてくれたせいもあったが、思った以上に彼の隣の居心地がよかったせいかもしれない。
 本当にこのままでいいんだろうか。僕は、自分から望んで陽キャを演じていたはずなのに、こんなふうに甘えてしまって。心のどこかで呆れられていたりしないだろうか。
 どうしてこんなに不安になるのかは自分でもわからなかったが、きっと『人から嫌われたくない』自分の性格の問題だろうと思う。

「……昨日は、ごめんなさい。それに、先日も……ひどい言葉をぶつけてしまったから」
「ん? ……あぁ、いいよ別に。気にしてない」

 丸まった背中に零すように謝罪すると、櫂は作業の手を止めてこちらを振り返った。眼鏡が反射して、その表情は見て取れない。彼は、今の今までそんなことは忘れていたかのように、そんなこともあったね、と呟いて作業を再開する。
 今日は、メイク道具の整理や掃除をしているようだ。普段、化粧とは無縁の僕は、メイク道具に詳しくはないけれど、真剣な櫂の横顔を見ているのは悪くない。
 僕に割り振られた仕事は何もないのに、帰宅するのはもったいないような気がして、じっと彼を見つめていると、ふいに溜息を吐かれた。

「なにか用? なんで帰らないわけ?」
「べ、別になんでもないです。けど、まだ時間ありますし……」
「はぁ……。そう」

 嫌な気持ちにさせてしまっただろうか。いくら親密になれてきたとはいえ、見つめ過ぎたかもしれない。視線を逸らすと、櫂は僕に対して興味を失ったのか、メイク道具を抱えて立ち上がった。
 衣裳部屋の方に移動していく彼の気配を感じながら、これ以上見つめることはできなくて、太腿の上で組んだ自分の手に視線を落とす。
 ただの後輩だ。熱心に作業をする彼を尊敬していたし、後輩の仕事が気になっただけ。別に変な意味があったわけではないし。
 そんな言い訳じみたことを何度も頭の中で反芻しながら、僕は櫂が準備室に戻ってくるのを待った。終電まではまだまだある。もう少し、櫂のことを見ていたい。
 どことなく落ち着かないまま、そわそわと何度も扉に視線を送る僕は、彼の目からどんなふうに映っていただろう。だが、そんなことも考えられないほど、僕の頭の中は櫂でいっぱいだった。