求められているのは、陽キャの僕。そんなことは嫌というほどわかっている。
僕は、僕が作り出した明るく元気な『和智絢世』を演じることを楽しんでもいたが、常に少しだけ気を張り続けていないといけないということに疲れも感じていた。
それでも、今更キャラを崩すこともできなくて。
「和智! お前最近遅刻しがちじゃないのか」
後ろからガッと首に腕を回され、背筋に力が入る。身を固くした僕に、声の主が気づいた様子はない。慌てて体から力を抜いて、返事をしなければと口を開いた。
「そ、そうかぁ? ごめ、わるいわるい」
突然のことに対しては、たまにキャラが出ないことがある。それでも、僕がこのキャラを捨てることはないだろう。
実際の陰キャな僕なんて、誰にも必要とされていないのだろうから。
振り向くと、演劇サークル団長をしている坂本が白い歯を見せて笑っていて、僕もつられて愛想笑いを浮かべた。
生まれながらにして陽キャの坂本たちに、僕は溶け込めているだろうか。
坂本の腕を首から外しながら、前触れなく開いた入口の戸に目を向けると、櫂が息を切らせて入ってきたところだった。
この部屋には時計がないので時間はわからないが、僕が遅刻しがちと言われたくらいだから、もう集合時間はとっくに過ぎているのかもしれない。
あまりイメージになかったが、走ってくるほど演劇に真剣なんだな、と荷物を抱えたまま準備室へ入っていく櫂を見送る。すると、同じくそれを見ていたらしい坂本が「俺たちも準備するか」と息を吐いて、僕はようやく解放された。
裏方を任されているメンバーはみな準備室に引っ込んでしまったので、稽古部屋に残ったのは演者だけ。大きなサークルではないので演者も決して多くはないが、声出しをすれば稽古部屋が声で飽和する程度には満たされていた。
声出しは好きだ。自分の声が、稽古部屋の広い空間に反射して返って来るのが心地いい。
僕は自分が好きになれなくてわざわざキャラを作ったりしているが、人より通るこの声は、演者にとっては武器になる。
外郎売の口上を口にしながら、斜め上、天井の角を見つめるように頭を上げる。喉が潰れなくて話しやすいからなのだが、不意に目の前の戸が開いて、口が止まった。そちらを見ると、櫂が準備室から出てきたところだった。
準備が終わったのだろうか。稽古部屋の隅に座り、じっとこちらを見つめてくる、ジェットのような瞳と目が合ってしまい、声出しをするのがどことなく恥ずかしくなってしまう。
しかし、文化祭本番ではもっと多くのお客さんの前で声を出さなくてはならないのだ。恥ずかしいなんて言っている場合じゃない。
息を吸いなおし、外郎売の続きを、少し震える声で続けながら声出しをしていると、ややあって坂本が大きく二回手を叩いた。口を噤んで音のした方に向き直ると、坂本が大きく腕を振った。
「個別の声出し止め。今日は練習を多くやりたいから、声出しはここまでとします。各自台本を持って再集合」
坂本の言葉に、稽古部屋のあちこちから「はい」と返事が聞こえてくる。僕もそれにかき消されないように返事をした。
「で、纐纈。見てたよな。声出し、どうだった?」
「え……っと」
坂本に突然話を振られ、櫂は戸惑った様子だったが、やがて顔を上げた。その瞳がこちらを向いているような気がして、心臓がドキッと高鳴る。坂本に感想を聞かれたのだから、そちらを向いているだろうし、僕のことを見ているはずがないのに。
すべてを見透かすような綺麗な黒に見つめられているのではないかと思うと、どこか緊張してしまう。
「和智……先輩の声が、一番響いていて。綺麗だと思いました」
おそらく、坂本が聞きたかったのはそういうことではない。滑舌がどうだったか、声量がどうだったかという感想を期待していたんだろうと思う。だが、櫂はただ僕を褒めたのみ。
櫂はまだ入団して日が浅い。望んだ答えが出てこなくても仕方がないと思ったのか、坂本は「そうか」と答えただけで、それ以上追及しなかった。
……褒められた。櫂に、みんなの前で。これ以上ないほど真っ直ぐに、僕だけが。
そのことが堪らなく嬉しくて、心が温かいもので溢れてくる。つい口元が緩んでしまっていることを自覚して、僕は意識的に口を引き結んだ。
台本合わせが始まると、櫂はすぐに準備室の方へと戻っていった。さっきは何の用があってこちらに来ていたんだろうか。
文化祭までまだ日があるとはいえ、気は抜けない。僕はいつの間にか台詞の波に攫われて、夢中になっているうちに、時間が経っていたらしい。
坂本が休憩しようと言い出して、気が抜けたのか、じんわりと疲れを感じて、椅子に座ったまま天井を見上げた。立ち上がる気にもなれず、そのままぼぅっとしていると、坂本が水の入ったペットボトルを持って僕の視界いっぱいに入り込んできた。
「……なんだよ」
「水分を摂った方がいいぞ、喉痛めるぞ」
「ん、ありがと」
ペットボトルを受け取り、水をひとくち。すると、先ほどまで別の団員が座っていた椅子に前後逆にドカッと座り、坂本が僕と対峙した。
ただ雑談がしたいだけなのだろうが、陽キャに見つめられるのは心臓に悪い。居心地の悪さを感じながら坂本の顔を見つめると、彼はにぃっと笑みを浮かべたまま口を開いた。
「和智って、高校生の時どんな人間だった? 今でも友達と連絡取ったりする?」
「え、」
言葉に詰まる。喉に声が貼りついて、奇妙な音がひとつだけ出た。
高校時代と言われて、脳裏に浮かぶのは思い出したくないことばかり。今の僕とは駆け離れた姿を、もし坂本が知ったらどう思うんだろう。でも、事実を明かすような勇気は僕にはない。
できるのは、ただ誤魔化すことだけ。
「和智?」
「い、まと……あんまり変わらないかな。高校時代の友達とはあまり連絡取ってないかも。今の生活が充実しててさ!」
上手く誤魔化せただろうか。僕の土台が揺らぐ。今の自分のキャラが薄っぺらく、危ういものに感じてしまう。
僕がたったひとりで作り上げた理想的な姿。それは酷く儚くて、坂本が一言否定したら消し飛んでしまうようなものだった。それでも、僕にとっては、大切な、世を忍ぶ仮の姿。今更止めることなんてできない。
僕はぐるぐる考えてしまっていたが、坂本がそれ以上追及してくることはなかった。興味がなくなったのか「ふーん」と軽く流されて、坂本は椅子から立ち上がった。別のメンバーと話しに行くつもりらしい。
引き留める元気もなく、僕は前屈みになって、自分の足元を見つめたまま溜息を吐いた。酷く疲れた。でも、それは坂本に話しかけられたからではなく、過去の自分と今の自分の差を改めて感じてしまったからだ。
それでも、僕は今のキャラを崩したくない。時間をかけて作り上げてきたものを大切にしたいから、今は、まだ。僕は頑張れる。
気合を入れるために自分の頬を一発叩いて、顔を上げると、なぜかすぐ近くに立っていた櫂と目が合った。いつからそこに居たのだろうか。
櫂は、僕を見つめたまま何か言いたげに口を開いたが、ふっと目をそらして何も言わないまま準備室の方へ戻っていってしまった。何か用があったのかと聞きたかったが、わざわざ追いかけてまで問うのはおかしいだろう。
僕はそのまま、坂本が台本合わせの再開を宣言するまで、呆けたまま準備室の扉を見つめていた。
「付き合わせてごめん」
櫂からの突然の謝罪に、僕は首を傾げた。ついさっきまで、小道具の塗装をしながら普通に話していたはずなのに、なぜ急に謝罪をされるのかわからなかったからだ。
裏方の子が塗装の匂いで気分を悪くしてしまい、先に帰したのが二時間ほど前だったか。たまたま予定がなかった僕が手伝いに手を上げただけなのだから、櫂が気にするようなことはなかったと思う。
「大丈夫ですよ、僕が手伝いたかっただけなので」
「……その話し方」
「え、ぁ……」
指摘されるまで自覚がなかった。何時間も一緒に作業していて、すっかり自然体になってしまっていただけの話だ。でも、それが僕には致命傷だった。
櫂の前だと気が抜けてしまう。今日は櫂が、おそらく彼にしては饒舌に話してくれた影響もあったかと思うが、先日もそうだった。アクシデントがあったとはいえ、素の僕が出てしまうのは櫂と二人きりのとき。
どうして櫂といるといつもの僕でいられないんだろう。
「いえ、別に。和智さんが話しやすいならそれでいいんじゃないですか」
「ご、めんなさい」
「謝ることじゃないでしょう。話し方なんて楽なようにすればいいと思うし」
「……櫂くんも、楽なように話していいですよ。ため口の方が楽でしょう」
僕の言葉に、櫂は少しだけ目を見開いて僕を見つめた後、くしゃりと自分の髪をかき上げた。結ばれた髪が少しほどけて、はらりと落ちる。
自重するように笑って「ありがとう」と言われる。今度は僕が目を丸くする番だった。櫂が笑っているところを見てしまった。それが僕には衝撃で、しばらく心臓の鼓動が跳ねたまま、落ち着かなかった。
僕は、僕が作り出した明るく元気な『和智絢世』を演じることを楽しんでもいたが、常に少しだけ気を張り続けていないといけないということに疲れも感じていた。
それでも、今更キャラを崩すこともできなくて。
「和智! お前最近遅刻しがちじゃないのか」
後ろからガッと首に腕を回され、背筋に力が入る。身を固くした僕に、声の主が気づいた様子はない。慌てて体から力を抜いて、返事をしなければと口を開いた。
「そ、そうかぁ? ごめ、わるいわるい」
突然のことに対しては、たまにキャラが出ないことがある。それでも、僕がこのキャラを捨てることはないだろう。
実際の陰キャな僕なんて、誰にも必要とされていないのだろうから。
振り向くと、演劇サークル団長をしている坂本が白い歯を見せて笑っていて、僕もつられて愛想笑いを浮かべた。
生まれながらにして陽キャの坂本たちに、僕は溶け込めているだろうか。
坂本の腕を首から外しながら、前触れなく開いた入口の戸に目を向けると、櫂が息を切らせて入ってきたところだった。
この部屋には時計がないので時間はわからないが、僕が遅刻しがちと言われたくらいだから、もう集合時間はとっくに過ぎているのかもしれない。
あまりイメージになかったが、走ってくるほど演劇に真剣なんだな、と荷物を抱えたまま準備室へ入っていく櫂を見送る。すると、同じくそれを見ていたらしい坂本が「俺たちも準備するか」と息を吐いて、僕はようやく解放された。
裏方を任されているメンバーはみな準備室に引っ込んでしまったので、稽古部屋に残ったのは演者だけ。大きなサークルではないので演者も決して多くはないが、声出しをすれば稽古部屋が声で飽和する程度には満たされていた。
声出しは好きだ。自分の声が、稽古部屋の広い空間に反射して返って来るのが心地いい。
僕は自分が好きになれなくてわざわざキャラを作ったりしているが、人より通るこの声は、演者にとっては武器になる。
外郎売の口上を口にしながら、斜め上、天井の角を見つめるように頭を上げる。喉が潰れなくて話しやすいからなのだが、不意に目の前の戸が開いて、口が止まった。そちらを見ると、櫂が準備室から出てきたところだった。
準備が終わったのだろうか。稽古部屋の隅に座り、じっとこちらを見つめてくる、ジェットのような瞳と目が合ってしまい、声出しをするのがどことなく恥ずかしくなってしまう。
しかし、文化祭本番ではもっと多くのお客さんの前で声を出さなくてはならないのだ。恥ずかしいなんて言っている場合じゃない。
息を吸いなおし、外郎売の続きを、少し震える声で続けながら声出しをしていると、ややあって坂本が大きく二回手を叩いた。口を噤んで音のした方に向き直ると、坂本が大きく腕を振った。
「個別の声出し止め。今日は練習を多くやりたいから、声出しはここまでとします。各自台本を持って再集合」
坂本の言葉に、稽古部屋のあちこちから「はい」と返事が聞こえてくる。僕もそれにかき消されないように返事をした。
「で、纐纈。見てたよな。声出し、どうだった?」
「え……っと」
坂本に突然話を振られ、櫂は戸惑った様子だったが、やがて顔を上げた。その瞳がこちらを向いているような気がして、心臓がドキッと高鳴る。坂本に感想を聞かれたのだから、そちらを向いているだろうし、僕のことを見ているはずがないのに。
すべてを見透かすような綺麗な黒に見つめられているのではないかと思うと、どこか緊張してしまう。
「和智……先輩の声が、一番響いていて。綺麗だと思いました」
おそらく、坂本が聞きたかったのはそういうことではない。滑舌がどうだったか、声量がどうだったかという感想を期待していたんだろうと思う。だが、櫂はただ僕を褒めたのみ。
櫂はまだ入団して日が浅い。望んだ答えが出てこなくても仕方がないと思ったのか、坂本は「そうか」と答えただけで、それ以上追及しなかった。
……褒められた。櫂に、みんなの前で。これ以上ないほど真っ直ぐに、僕だけが。
そのことが堪らなく嬉しくて、心が温かいもので溢れてくる。つい口元が緩んでしまっていることを自覚して、僕は意識的に口を引き結んだ。
台本合わせが始まると、櫂はすぐに準備室の方へと戻っていった。さっきは何の用があってこちらに来ていたんだろうか。
文化祭までまだ日があるとはいえ、気は抜けない。僕はいつの間にか台詞の波に攫われて、夢中になっているうちに、時間が経っていたらしい。
坂本が休憩しようと言い出して、気が抜けたのか、じんわりと疲れを感じて、椅子に座ったまま天井を見上げた。立ち上がる気にもなれず、そのままぼぅっとしていると、坂本が水の入ったペットボトルを持って僕の視界いっぱいに入り込んできた。
「……なんだよ」
「水分を摂った方がいいぞ、喉痛めるぞ」
「ん、ありがと」
ペットボトルを受け取り、水をひとくち。すると、先ほどまで別の団員が座っていた椅子に前後逆にドカッと座り、坂本が僕と対峙した。
ただ雑談がしたいだけなのだろうが、陽キャに見つめられるのは心臓に悪い。居心地の悪さを感じながら坂本の顔を見つめると、彼はにぃっと笑みを浮かべたまま口を開いた。
「和智って、高校生の時どんな人間だった? 今でも友達と連絡取ったりする?」
「え、」
言葉に詰まる。喉に声が貼りついて、奇妙な音がひとつだけ出た。
高校時代と言われて、脳裏に浮かぶのは思い出したくないことばかり。今の僕とは駆け離れた姿を、もし坂本が知ったらどう思うんだろう。でも、事実を明かすような勇気は僕にはない。
できるのは、ただ誤魔化すことだけ。
「和智?」
「い、まと……あんまり変わらないかな。高校時代の友達とはあまり連絡取ってないかも。今の生活が充実しててさ!」
上手く誤魔化せただろうか。僕の土台が揺らぐ。今の自分のキャラが薄っぺらく、危ういものに感じてしまう。
僕がたったひとりで作り上げた理想的な姿。それは酷く儚くて、坂本が一言否定したら消し飛んでしまうようなものだった。それでも、僕にとっては、大切な、世を忍ぶ仮の姿。今更止めることなんてできない。
僕はぐるぐる考えてしまっていたが、坂本がそれ以上追及してくることはなかった。興味がなくなったのか「ふーん」と軽く流されて、坂本は椅子から立ち上がった。別のメンバーと話しに行くつもりらしい。
引き留める元気もなく、僕は前屈みになって、自分の足元を見つめたまま溜息を吐いた。酷く疲れた。でも、それは坂本に話しかけられたからではなく、過去の自分と今の自分の差を改めて感じてしまったからだ。
それでも、僕は今のキャラを崩したくない。時間をかけて作り上げてきたものを大切にしたいから、今は、まだ。僕は頑張れる。
気合を入れるために自分の頬を一発叩いて、顔を上げると、なぜかすぐ近くに立っていた櫂と目が合った。いつからそこに居たのだろうか。
櫂は、僕を見つめたまま何か言いたげに口を開いたが、ふっと目をそらして何も言わないまま準備室の方へ戻っていってしまった。何か用があったのかと聞きたかったが、わざわざ追いかけてまで問うのはおかしいだろう。
僕はそのまま、坂本が台本合わせの再開を宣言するまで、呆けたまま準備室の扉を見つめていた。
「付き合わせてごめん」
櫂からの突然の謝罪に、僕は首を傾げた。ついさっきまで、小道具の塗装をしながら普通に話していたはずなのに、なぜ急に謝罪をされるのかわからなかったからだ。
裏方の子が塗装の匂いで気分を悪くしてしまい、先に帰したのが二時間ほど前だったか。たまたま予定がなかった僕が手伝いに手を上げただけなのだから、櫂が気にするようなことはなかったと思う。
「大丈夫ですよ、僕が手伝いたかっただけなので」
「……その話し方」
「え、ぁ……」
指摘されるまで自覚がなかった。何時間も一緒に作業していて、すっかり自然体になってしまっていただけの話だ。でも、それが僕には致命傷だった。
櫂の前だと気が抜けてしまう。今日は櫂が、おそらく彼にしては饒舌に話してくれた影響もあったかと思うが、先日もそうだった。アクシデントがあったとはいえ、素の僕が出てしまうのは櫂と二人きりのとき。
どうして櫂といるといつもの僕でいられないんだろう。
「いえ、別に。和智さんが話しやすいならそれでいいんじゃないですか」
「ご、めんなさい」
「謝ることじゃないでしょう。話し方なんて楽なようにすればいいと思うし」
「……櫂くんも、楽なように話していいですよ。ため口の方が楽でしょう」
僕の言葉に、櫂は少しだけ目を見開いて僕を見つめた後、くしゃりと自分の髪をかき上げた。結ばれた髪が少しほどけて、はらりと落ちる。
自重するように笑って「ありがとう」と言われる。今度は僕が目を丸くする番だった。櫂が笑っているところを見てしまった。それが僕には衝撃で、しばらく心臓の鼓動が跳ねたまま、落ち着かなかった。

