大学デビューと聞いて、何を思い浮かべるだろう。
明るい金に染められた髪? ちゃらちゃらしたピアス? それとも分厚い黒縁眼鏡からコンタクトへの変更だろうか。
その典型的な大学デビューをすべて果たしたのが、僕、和智絢世だった。
大学の最寄り駅を出て、演劇サークルの稽古部屋へ向かう道すがら、僕は自身の頬を両手で叩いた。まだ寝ぼけている自分に喝を入れるように、そして、今日も無事陽キャを演じられるように。
「よし」
普段より高いトーンを意識して声を出し、今日も何とか乗りきらなければと、ぐっと奥歯を嚙み締めた。
大学デビューを決めたのは、入学直前だったから、もう一年以上前になる。
何か大きなきっかけがあった訳ではない。ただ、自分を大きく変えるためのいいチャンスだと感じただけだ。
僕の認識が正しければ、虐められたことはなかったように思う。だが、一軍の男子から揶揄われたり、いじられたりすることは日常茶飯事だった。
地味な容姿、他の人とは違う灰色に反射する瞳、分厚い黒縁眼鏡、普通より少しできる程度の平凡な成績、壊滅的な運動神経。そのどれもが思春期の男子にとっては格好の的だったらしい。
「お前、その変な色の目、直して来いって言っただろ?」
「ごめん、なさい……。でも、これは本当の僕の目の色で──」
「口答えすんのかよ、生意気だぞ」
そんなやり取りは、今でも簡単に思い出すことができてしまう。毎日のように聞いた、ひどい言葉の数々。
いじる方からすればただの日常的な会話だったのかもしれないが、悪く言われれば言われるほど、僕は卑屈になっていった。その影響で下ばかり向いて、同じく日陰の住人をしていた友人とだけ話すようになってしまった。
どうせ自分には人と仲良くする才能なんてない。嫌な思いをしていても、今の状況に甘んじることしかできない。本気でそう信じていた。
だが、雑誌でたまたま大学デビューの文字を見た時、その言葉にときめきを感じてしまったのだ。
大学デビューなら、自分にもできるかもしれない。演じることは苦手じゃない。外見を変えることで自分を変えられるのであれば、もしかすると僕が夢にまで見ている、明るく、楽しい大学生活を過ごすことができるかも。
それに、僕が今まで一度も経験したことがない恋愛を、大学で楽しむことができるかもしれない。
そんな一縷の望みに託して、僕は髪を金に染めるために美容院の予約を入れようとスマホを手に取った。
上手くやれているという自信はある。今の僕はきっと以前とは同じ人物に見えないだろう。だが、上手くやれていると自覚する度、いつまでこれを続けなければならないんだろうとも思ってしまう。
まるで出口のないトンネルを歩いているようだ。大学を卒業したところで、今度は就職が待っている。突出した能力のない僕では、トリッキーな働き方を選ぶことも難しいだろうから、社会から逃げることはできそうもない。
演劇サークルの演者を任されて一年、演じることに慣れてきてはいるものの、私生活もすべて演じ続けなければいけない今の状況が自分の負担になっていることもまた事実だった。
***
稽古部屋に踏み込むと、中は既にすっかりブルーシートがセッティングされていて、小道具制作の現場になっていた。
そういえば、今日は衣装も採寸するって言ってたっけ。サークル内では買った衣装でいいじゃないかという意見もあったが、文化祭に向けて世界観を作り上げるためにもと、裏方が製作することになったことは記憶に新しい。
確か、裁縫が得意で器用な裏方の子が入ったとか。僕はまだ会ったことがないけれど、クオリティの高い舞台が作れるようになるなら大歓迎だ。
ブルーシートの上に鞄を置いたらきっと邪魔になってしまうだろう。荷物を裏に置こうと稽古部屋と隣接している準備室に移動すると、途端ばっと腕を掴まれた。反射的に顔を上げると、見慣れない、長身で黒髪をひとつに束ねた男が立っている。
この人、確か裏方として入団したての──。
「……和智さん、でしたよね。ちょっとこっち」
「え、ぁ……っちょ、ちょっと」
ぐいぐいと手を引かれ、連れて来られたのは衣裳部屋。その奥に立たされて、手が離れていく。腕が急激に冷えて、そこで初めて彼の手が見た目以上に温かかったことを知った。
「えっと……たしか、纐纈櫂くん?」
先日耳にしたばかりの名前を何とか思い出し、口にする。だが、櫂からの反応はとても薄かった。
メジャーを片手に僕の肩の幅を測りながら、ちらりと黒い瞳をこちらに向けただけ。宝石のジェットのような眼は、僕のところに留まることはなく、すぐに僕の体へと落ちていく。肯定か否定かすら、定かではない。
だが、そんな反応に負けていては陽キャとは言えないだろう。僕は自分を奮い立たせて、めげることなくもう一度口を開いた。なるべく明るく、元気に。それが僕だと思ってもらえるように。
「ぼ……俺、和智絢世! これからよろしくね、櫂くん」
櫂の反応は依然として薄い。軽く頷いただけで、それ以上は何もなかった。こういうノリは苦手だっただろうか。それとも僕に興味が全くないのか。ちょっと失敗したかもしれない。
だが、そんなことでへこたれてはいられない。誤魔化すように笑顔を顔に貼りつけると、僕は何も気にしていないかのように首を傾けた。櫂が僕のことを気に掛ける様子はなかったが、少しでも自分の心を慰めるために。
櫂に苦手な人認定されていないといいのだけれど。そんな不安な気持ちで僕の採寸を進める彼に視線を落とすと、メジャーの先がちくりと足首を刺した。突然の刺激に思わず飛び上がってしまい、彼の手を蹴り上げてしまう。
「い……っご、ごめんなさい、当たってしまって……! 僕は大丈夫ですが、櫂くんは大丈夫ですか……?」
櫂の方へ手を差しながら身を屈める。だが、こちらを見つめる真っ黒な瞳に、体が強張った。思わず出てしまった敬語に、しまった、と口を噤む。前屈みになってしまった姿勢を戻しながら、視線を逸らす。
だが、櫂は少し僕に目を向けただけで、何も言わずに採寸を再開した。いつもと口調が違うことに突っ込まれなかったことに安堵しつつ、少し拍子抜けだ。
僕とまだ初対面だったから気にならなかっただけだろうか。それとも、やっぱり僕自身に全く興味がないとか。
そう考えると、少しだけ胸が痛んだが、なぜそんな気持ちになるのかが僕にはわからなかった。
今のはさすがに気をつけないと。同学年の人が聞いたら明らかに違和感を持たれてしまうだろう。だが、今のは少し油断しただけだ、次はきっと上手くやれるはず、という確信めいた感情も心に溢れていた。
明るい金に染められた髪? ちゃらちゃらしたピアス? それとも分厚い黒縁眼鏡からコンタクトへの変更だろうか。
その典型的な大学デビューをすべて果たしたのが、僕、和智絢世だった。
大学の最寄り駅を出て、演劇サークルの稽古部屋へ向かう道すがら、僕は自身の頬を両手で叩いた。まだ寝ぼけている自分に喝を入れるように、そして、今日も無事陽キャを演じられるように。
「よし」
普段より高いトーンを意識して声を出し、今日も何とか乗りきらなければと、ぐっと奥歯を嚙み締めた。
大学デビューを決めたのは、入学直前だったから、もう一年以上前になる。
何か大きなきっかけがあった訳ではない。ただ、自分を大きく変えるためのいいチャンスだと感じただけだ。
僕の認識が正しければ、虐められたことはなかったように思う。だが、一軍の男子から揶揄われたり、いじられたりすることは日常茶飯事だった。
地味な容姿、他の人とは違う灰色に反射する瞳、分厚い黒縁眼鏡、普通より少しできる程度の平凡な成績、壊滅的な運動神経。そのどれもが思春期の男子にとっては格好の的だったらしい。
「お前、その変な色の目、直して来いって言っただろ?」
「ごめん、なさい……。でも、これは本当の僕の目の色で──」
「口答えすんのかよ、生意気だぞ」
そんなやり取りは、今でも簡単に思い出すことができてしまう。毎日のように聞いた、ひどい言葉の数々。
いじる方からすればただの日常的な会話だったのかもしれないが、悪く言われれば言われるほど、僕は卑屈になっていった。その影響で下ばかり向いて、同じく日陰の住人をしていた友人とだけ話すようになってしまった。
どうせ自分には人と仲良くする才能なんてない。嫌な思いをしていても、今の状況に甘んじることしかできない。本気でそう信じていた。
だが、雑誌でたまたま大学デビューの文字を見た時、その言葉にときめきを感じてしまったのだ。
大学デビューなら、自分にもできるかもしれない。演じることは苦手じゃない。外見を変えることで自分を変えられるのであれば、もしかすると僕が夢にまで見ている、明るく、楽しい大学生活を過ごすことができるかも。
それに、僕が今まで一度も経験したことがない恋愛を、大学で楽しむことができるかもしれない。
そんな一縷の望みに託して、僕は髪を金に染めるために美容院の予約を入れようとスマホを手に取った。
上手くやれているという自信はある。今の僕はきっと以前とは同じ人物に見えないだろう。だが、上手くやれていると自覚する度、いつまでこれを続けなければならないんだろうとも思ってしまう。
まるで出口のないトンネルを歩いているようだ。大学を卒業したところで、今度は就職が待っている。突出した能力のない僕では、トリッキーな働き方を選ぶことも難しいだろうから、社会から逃げることはできそうもない。
演劇サークルの演者を任されて一年、演じることに慣れてきてはいるものの、私生活もすべて演じ続けなければいけない今の状況が自分の負担になっていることもまた事実だった。
***
稽古部屋に踏み込むと、中は既にすっかりブルーシートがセッティングされていて、小道具制作の現場になっていた。
そういえば、今日は衣装も採寸するって言ってたっけ。サークル内では買った衣装でいいじゃないかという意見もあったが、文化祭に向けて世界観を作り上げるためにもと、裏方が製作することになったことは記憶に新しい。
確か、裁縫が得意で器用な裏方の子が入ったとか。僕はまだ会ったことがないけれど、クオリティの高い舞台が作れるようになるなら大歓迎だ。
ブルーシートの上に鞄を置いたらきっと邪魔になってしまうだろう。荷物を裏に置こうと稽古部屋と隣接している準備室に移動すると、途端ばっと腕を掴まれた。反射的に顔を上げると、見慣れない、長身で黒髪をひとつに束ねた男が立っている。
この人、確か裏方として入団したての──。
「……和智さん、でしたよね。ちょっとこっち」
「え、ぁ……っちょ、ちょっと」
ぐいぐいと手を引かれ、連れて来られたのは衣裳部屋。その奥に立たされて、手が離れていく。腕が急激に冷えて、そこで初めて彼の手が見た目以上に温かかったことを知った。
「えっと……たしか、纐纈櫂くん?」
先日耳にしたばかりの名前を何とか思い出し、口にする。だが、櫂からの反応はとても薄かった。
メジャーを片手に僕の肩の幅を測りながら、ちらりと黒い瞳をこちらに向けただけ。宝石のジェットのような眼は、僕のところに留まることはなく、すぐに僕の体へと落ちていく。肯定か否定かすら、定かではない。
だが、そんな反応に負けていては陽キャとは言えないだろう。僕は自分を奮い立たせて、めげることなくもう一度口を開いた。なるべく明るく、元気に。それが僕だと思ってもらえるように。
「ぼ……俺、和智絢世! これからよろしくね、櫂くん」
櫂の反応は依然として薄い。軽く頷いただけで、それ以上は何もなかった。こういうノリは苦手だっただろうか。それとも僕に興味が全くないのか。ちょっと失敗したかもしれない。
だが、そんなことでへこたれてはいられない。誤魔化すように笑顔を顔に貼りつけると、僕は何も気にしていないかのように首を傾けた。櫂が僕のことを気に掛ける様子はなかったが、少しでも自分の心を慰めるために。
櫂に苦手な人認定されていないといいのだけれど。そんな不安な気持ちで僕の採寸を進める彼に視線を落とすと、メジャーの先がちくりと足首を刺した。突然の刺激に思わず飛び上がってしまい、彼の手を蹴り上げてしまう。
「い……っご、ごめんなさい、当たってしまって……! 僕は大丈夫ですが、櫂くんは大丈夫ですか……?」
櫂の方へ手を差しながら身を屈める。だが、こちらを見つめる真っ黒な瞳に、体が強張った。思わず出てしまった敬語に、しまった、と口を噤む。前屈みになってしまった姿勢を戻しながら、視線を逸らす。
だが、櫂は少し僕に目を向けただけで、何も言わずに採寸を再開した。いつもと口調が違うことに突っ込まれなかったことに安堵しつつ、少し拍子抜けだ。
僕とまだ初対面だったから気にならなかっただけだろうか。それとも、やっぱり僕自身に全く興味がないとか。
そう考えると、少しだけ胸が痛んだが、なぜそんな気持ちになるのかが僕にはわからなかった。
今のはさすがに気をつけないと。同学年の人が聞いたら明らかに違和感を持たれてしまうだろう。だが、今のは少し油断しただけだ、次はきっと上手くやれるはず、という確信めいた感情も心に溢れていた。

