彼女が彼の彼女であること

 朝、葉月からメッセージが届いた。

[今日は病院だから学校休むね]

俺は、すぐに返信をした。

[一緒に行こうか?]
[一人で大丈夫]

胸騒ぎがした。

[病院が終わったら連絡して]
[わかった]

メッセージでのやり取りでは、わかりようもないけれど、何となく暗く感じた。もちろん、病院なんて楽しい場所じゃない。それに、自分の病気と向き合わなくてはならない。だとしたら、そこに一人でいる必要なんてないのに。どうして葉月は、俺と一緒にいることを選ばなかったのだろう。電話を掛けるか数分迷って、結局掛けなかった。考え過ぎ―――そう思った。ところが、学校が終わっても葉月から連絡は来なかった。

 葉月の家に行った。インターホンを鳴らし、しばらく待つも誰も出てこない。そもそも、家の中に人がいる気配すら感じない。葉月に電話を掛けてみても留守番電話に切り替わってしまう。メッセージは、もう何度も送っているけれど返信がない。不安がどこまでも募っていく。葉月が通う病院すら、俺は知らない。このまま家に帰る気にはなれず、河川敷へと向かった。

 河川敷に着くと、階段に座った。背の高い草が風に揺れ、その隙間から光を反射してきらきらと輝く川面が見える。その光をぼーっと眺めていると、珍しいトンボを見つけた。今までに見たことのない、羽が朱色のトンボ。もっと近くで見ようと立ち上がった。そして、川の前まで行くと、トンボは逃げるように向こうへと飛んでいく。それを必死に目で追っていると―――そこに葉月がいた。

 一瞬、何を見ているのかがわからなかった。

 葉月は川の中を歩いている。水位は葉月の腰の辺りまで来ている。あのトンボを追って川に入ったとは到底思えない。ここはそういった浅瀬の川ではない。じゃあ一体、葉月は何をしているのだろう。短い時間の中で色んな考えが頭を駆け巡る。

 服が濡れることも気にせずに歩いていく葉月。その足取りはただ、川に入っていくのを目的としていた。

 信じられなかった。認めたくなかった。昨日、俺たちはここで、ずっと一緒にいることを約束した。それなのに。

 葉月は―――死のうとしている。

 俺は川に飛び込んだ。そして、葉月を呼んだ。

「葉月!!」

振り返った葉月は、今までに見たことがない顔をしていた。瞳から―――光が抜け落ちていた。

「いいか!そこから動くな!」
 
 俺は足を取られながら葉月のもとへと走った。水が膝を越え、腰まで迫ってくる。何度も転びそうになりながら、ようやくその手を掴んだ。

「葉月⋯⋯戻ろう」
「⋯⋯」

手を引き、岸の方へと連れて行く。鼻をすする音が、後ろから聞こえてくる。

「どうして⋯⋯葉月」

『そういう女の子をやっていただけ』と言って欲しかった。でも、耳に届くのは葉月の震える声―――。

「嬉しかった。千歳君と結婚できるんだって思ったら、幸せだった」
「じゃあ、どうして⋯⋯」

 岸に上がると葉月はその場に崩れ落ちた。そして、肩を大きく揺らしながら、溜め込んでいた思いを吐き出した。

「怖いの!病気に殺されていくのが怖くて仕方がないの!千歳君と一緒にいて、嬉しいことがあって、幸せだなって思うたびに、そのすぐ隣では病気が私の命を奪おうとしている」

震える唇から、言葉は途切れ途切れに零れていく。

「私は強くないから、幸せだと感じると死ぬのが怖くなる。私は欲張りだから、生きることに執着して、死を受け入れることができなくなる。だから、病気に殺されるくらいなら、病気にこの幸せを奪われるくらいなら―――」

葉月は、その小さな手をぎゅっと握ると胸に当てた。

「ここにある幸せな気持ちを持ったまま、自分でこの命を終わらせたい」

 あの時、葉月が「別れよう」と言ったのは、自分がこうなってしまうことを知っていたからなんだ。俺は―――何もわかっていなかった。葉月を失いたくなくて、ずっと一緒にいようと言った。結婚しようと伝えた。けれどそれは、葉月を苦しめることだった。

「葉月⋯⋯」

心がぶっ壊れそうになる。だけど―――もう、あとには戻れないんだ。どうしても俺は、葉月と離れることを選べない。

 葉月は黙ったまま、下を向いている。俺は、その背中に手を回した。

「その気持ちも全部、俺にくれない?」
「千歳君⋯⋯」

たぶん、「お前のことなんか好きじゃないから別れよう」そう撥ね付けるのが正解なのかもしれない。でも―――それができないんだ。わかっていても、無理なんだ。

 葉月の声が耳に届く。

「これが、本当の私⋯⋯」

そう話す葉月は、今にも消えてしまいそうな顔をしていた。

「全部、本当の葉月だよ。今の葉月も、今まで俺が見てきた葉月も」
「そういう女の子をやっていただけだよ。本当の私なんて、こんなに弱くて、情けなくて。千歳君に好きになってもらえるような子じゃない」
「なら尚更、俺が傍にいなきゃね」

 葉月は俺にしがみつくと、声を上げて泣いた。

 女に泣かれるのがとにかく嫌だった。一秒でも早くそこから立ち去りたかった。けど、さすがにそこまでのクズにはなれなかった。だからそんな時は、頭の中で好きな漫画の最終話を思い出して、泣き止むのを待った。

 でも、今は違う。

 俺は葉月の体を抱き寄せた。乱れる呼吸も、上下に大きく揺れる体も、耳に響くその泣き声も。大切で大切で堪らない。このまま葉月の全部をこの身体に取り込んで、閉じ込めてしまいたいと思った。

「葉月、ずっと一緒にいよう」
「うん」

 それから五日後―――葉月は死んだ。病気が、葉月の命を奪っていった。