彼女が彼の彼女であること

 奈々華からの電話は別れ話ではなく、来月行われる文化祭に来ないか、という誘いだった。俺は「行けたら行く」などと曖昧な返事をした。

 別れ話じゃなくて良かったとほっとしている。奈々華という彼女がいることで、葉月との距離をうまく取れる気がした。

***

 葉月と付き合ってからの日々は忙しかった。朝は七時半に葉月の家に迎えに行き、一緒に登校する。昼は葉月が作ってきた弁当を小野寺と三人で食べ、放課後は、葉月がバイトの日以外は三人で過ごした。学校が休みの日には、どこかで待ち合わせをしてデートをし、週に一度は電話を繋いだまま眠った。葉月がしたいことをする―――そんな日々は、不思議と苦痛ではなかった。むしろ、楽しいとすら思えた。

 朝、ベッドから起き上がるとスマホにメッセージが届いた。

[ごめん、熱が出て今日は学校休む]

それは、葉月からの連絡だった。

[大丈夫なの?]
[ただの風邪だよ。病気とは関係ないから心配しないで]

葉月の返信に安心していると、追加のメッセージが届いた。

[放課後、小野寺君と一緒にお見舞いに来て]

きっとこれも、経験しておきたいことの一つなのだろうと思い、[わかった]と返信すると、何を買って持って行こうかを考えた。

 葉月のいない学校は、放課後までが異様に長く感じた。昼休みに小野寺と一緒にパンを買って屋上で食べている時、俺は気になっていることを遠慮なく質問した。

「お前ってさ、まだあそこから飛び降りようとか考える訳?」

小野寺は、「葉月ちゃんから訊いたの?」と尋ねてきた。俺は、あの日のことを小野寺に話した。

「あの日、お前が来る前から俺、ここにいたから。ちょうどこの場所でパン食べてたらお前が入ってきて、いきなりフェンスよじ登ってさ」
「全部⋯⋯見てたの?」
「うん」

あの日のことを思い出して恥ずかしくなったのか、小野寺は下を向き、バツが悪そうにパンをかじっていた。そんな小野寺の姿に少しほっとした。今のところ、飛び降りる気はないらしい。他人に無関心だった俺が、こんな感情を抱くなんて、間違いなく葉月に感化されている。

 小野寺に自殺の理由は訊かなかった。聞いたところで、俺にできることなんて何もないから。ちなみに、小野寺に俺たちが付き合っていることは報告していない。そもそも、これはただの“ごっこ”だから、報告する必要もない。

 放課後、帰り支度をしていると、クラスの女子三人組の会話が耳に入ってきた。

「そう言えば、葉月って今日何で休んだの?」

遅刻して一時間目が始まる頃に学校に来た美鈴(みすず)は、ホームルームに参加していないため、事情を知らないようだった。

「風邪引いて熱出したみたいだよ」

麗奈(れいな)がそう答えると、結(ゆい)が「ずっと休んでいればいいのに」と呟いた。すると美鈴が「あいつ、先生に好かれようとして愛想笑いするじゃん。あれ、イラッとするんだよね」そう言うと、麗奈が「わかる!」と声を上げた。

昨日もその前の日も、こいつらは葉月と仲良さそうに話していた。

「しかもあいつ、最近やたら体育の授業サボるのなに?」
「汗かいてるところ男子に見られるの嫌なんじゃない?」
「あぁ。いかにも男子の目を気にしてそうだもんね」
「本当、それ」


陰でこんなことを言われているのが、何だかやりきれなかった。天真爛漫で、社交的で、明るい葉月は、いつも男女問わず誰とでも仲良く話していた。だから、嫌っているやつらがいるなんて思いもしなかった。葉月には、このことを知ってほしくないと思った。

***

 小野寺と俺は、コンビニで甘いヨーグルトやプリンなどを買うと葉月の家に行った。

 インターホンを鳴らすと、葉月の声が聞こえてくる。

「ちょっと待ってね」

玄関が開き、そこにはパジャマ姿の葉月がいた。

「体調はどう?」
「午前中、病院に行って薬もらって、それからずっと寝てたから何かボーッとする」

俺は葉月の額に手を当てた。手には平熱ではない体温が伝わってくる。

「熱あるね」
「なかったら困るよ」
「そういうことじゃなくて」

葉月は可笑しそうに笑うと「どうぞ」と中に入るよう促す。そして、二階の部屋に案内された。

 葉月の部屋は意外にもシンプルで、カーテンもラグマットもベッドカバーも全部紺色で統一され、落ち着いた空間となっている。

「適当に座って」

女の部屋に初めて入ったのか、小野寺は緊張した様子でドアのすぐ前に座った。

「適当にって言ったけど、小野寺君、こっちに座ってよ」

葉月がラグマットの上を叩くと小野寺は「はい」と言って立ち上がった。

 俺は買ってきた物をテーブルの上に出した。

「食べられそうなものある?」
「飲み物が欲しいかな。これがいい」

葉月はペットボトルのフルーツジュースを手に取るとベッドの上に座った。

「お見舞いに来てくれてありがとう。二人の顔を見たら元気になってきたよ」

葉月は、飲み物を口にするとベッドに入った。

「私が眠ったら帰って」そう言って目を閉じる。これも、葉月がやってみたかった事の一つなのだろう。

「わかった」
「あっ会話はしてて。二人の声を聞きながら寝たいの」

俺と小野寺は目を合わせると、何を話そうか考える。どうせ小野寺から話すことはない。とりあえず天気の話でもしようかと思ったその時、小野寺が口を開いた。

「あの⋯⋯トイレに行きたいんだけど⋯⋯」

トイレって⋯⋯。

葉月は目を開けると、「階段を降りて右だよ。洗面所はそのすぐ脇」と言って目を閉じる。

「お借りします」

小野寺が部屋を出ていくと、葉月が声を掛けてきた。

「ねぇ千歳君。風邪って人にうつすと治るって、あれ、本当かな?」

そんな訳がない。否定しようと葉月の方を向いた。毛布に包まる葉月と目が合う。いつもと違う弱そうな葉月の目を見たら、俺の口からはまるで違う言葉が出ていた。

「試してみようか?」
「えっ⋯」

 俺は膝立ちになると、目だけしか出ていない葉月に近づき、毛布を掴んだ。葉月はじっと俺を見たまま何も言わない。毛布を引き下げると、唇を一文字に結ぶ葉月。そして、毛布の端をぎゅっと握る。緊張なんてしない葉月の、初めてのそれを見て、もう少しからかってやりたくなった俺は、自分で言うのも何だけど、相当性格が悪い。顔を近づけ毛布の中に手を入れると、葉月の首に触れた。じんわりとかいた汗は、熱のせいなのか、それとも俺のせいなのか。葉月の体に力が入っているのを感じながら、俺は首の下に手を差し込むと、反対の手をヘッドボードへ伸ばし、さっき葉月が口をつけた飲み物を取った。

 ペットボトルの蓋を開けると、「これで、うつるんじゃない?」そう言って口を付けた。すると、葉月が手を伸ばす。

「それ、飲みたい」

ペットボトルを差し出すと、これもやりたいことの一つだったのか、躊躇することなく口を付けた葉月。俺はその姿をじっと見ていた。

 不思議だった。たかが一つの飲み物を二人で飲んだだけなのに―――なにか重要なものを共有したような気分になった。