彼女が彼の彼女であること

 五限が始まり、数学の坪井(つぼい)が教室に入って来た。坪井は去年、この青凪(あおなぎ)高校に赴任してきたらしく、その時の自己紹介で、自分の名前ではなくイケメン俳優の名前を名乗って大滑りして以降、生徒たちになめられているらしい。後ろの席の平沢が、わざわざ俺に教えてくれた。

「じゃあ、この問題誰か解いてみろ」

坪井が黒板を指すと、さっきまで少し騒がしかった教室が静まり返る。

「誰か、わかる人」

全員、わざと目を合わせないように下を向いたり、窓の外を見たりしている。まるで、坪井と目が合ったら負けというゲームでもしているようだ。

坪井は肩をすくめると、「こんな問題簡単だろ?先生でも解けるぞ」と、渾身の冗談を口にするも、教室は静まり返ったまま。鳥肌が立ちそうになったその時、笑い声が聞こえてきた。

 それは、葉月だった。葉月は、本当に可笑しそうに笑うと、「わたし、解けます」と言って手を上げた。俺は葉月が書く妙に整った数字を眺めながら、奈々華(ななか)のことを思い出していた。

 三橋(みつはし)奈々華。それは、一年前から付き合っている俺の彼女。でも今は―――俺の友人、湊(みなと)とも付き合っている。俺がこっちに転校してからすぐに二人は付き合い始めたと、もう一人の友人、大和(やまと)から聞いた。二人には黙っていて欲しいと、謎の口止めをされているため、一応知らないふりをしている。けれど、たまに思う。俺は一体なにをしているのだろうと。

 放課後―――。葉月は急いで帰り支度をすると教室を出て行った。俺は連絡がないかスマホを確認した。すると、奈々華からメッセージが届いていた。

[今日の夜、電話で話せる?]

きっと、別れ話に違いない。そうだとして、奈々華は湊と付き合っていることを俺に言うだろうか。

[いいよ。そっちのタイミングで電話してきな]
[わかった]

 奈々華とのやり取りが終わり、廊下に出ると、葉月と小野寺が一緒にいた。何やら楽しそうに話す葉月。一方、小野寺は無表情。二人の会話というより、葉月が何を話しているのかが気になって、ゆっくりと脇を通り過ぎる。

 放課後の喧騒の中、葉月の声に意識を集中させた。

「楽しいよ。ボールが当たった瞬間、スカッとするんだよ。だから行こうよバッティングセンター!」

バッティングセンター?思わず葉月を見た。すると目が合った。

「あっ!千歳君も行かない?バッティングセンター」

女子からバッティングセンターに誘われる日が来るとは思わなかった。

 小野寺じゃないけど、真顔になる俺。傍観している分には面白いけれど、いざ当事者になると戸惑う。この純粋な笑顔がそうさせる。裏のない真っ直ぐな、どこまでも透明で、向こうが透けて見えそうなくらい陰りのない綺麗な笑顔。「やめてくれ」と言いたくなる。俺は、そんな笑顔を向けてもらえるような人間ではない。

「ねっ!行こうよ。バイト代入ったし奢るよ〜」

何故か俺は小野寺を見た。すると小野寺も俺を見る。まさかこいつに助けを求めるとは。お互い心の中で「どうする?」と言っている。

 葉月は俺たちの顔を交互に覗き込む。俺は耐えきれず「行くか」と言っていた。

「じゃあ、決まり!」

葉月が歩き出すと、俺たちはその後ろをついて行った。
 
 バッティングセンターに着くと葉月は迷うことなく奥に進む。

「こっちこっち」

まるで自分の部屋に入るように、三つ目の打席に入っていくと、機械に硬貨を押し込んだ。そして、迷わず最高球速を選択すると、バットを手に打席に立つ。

「最初にホームランを出した人に、コンビニで好きなもの奢ることにしよう!」

そう言って、葉月はバットを構えると、到底女子とは思えない豪快なスイングでボールを打ち返す。完璧に芯を捉えた、軽くて心地のいい金属音が辺りに響く。打球は勢いよく飛んでいき、ホームランの的のすぐ脇をかすめた。

「惜しい」

思わず声を漏らすと、隣に座る小野寺が「僕、ボール打ったことない」と呟く。何を返していいか分からず、無視をする形になってしまった。

 葉月が打つボールは、何度もホームランの的付近に飛んで行った。けれど、当たることはなかった。

「一回もホームラン出したことないんだよ」

そう言って葉月は俺たちの方を振り向くと、バットの先を小野寺に向けた。

「次、小野寺君!」
「僕、最後でいい」
「じゃあ、千歳君!」

断ることを許さない真っ直ぐな目に負けて、ベンチから立ち上がる。葉月は機械に硬貨を入れると、当たり前に最高球速のボタンを押した。

「いや、何で一番早いのにすんの?」
「同じ料金だよ?早いほうが何か得じゃん!」

「どういう理屈だよ」と突っ込む前に、葉月は俺にバットを渡すとさっさと打席を出ていった。

適当にやればいいかと打席に立つも、バットを振る前にボールは後ろのネットに当たる。

「えっ?」

後ろからは葉月の「もう始まってるよ?」という声が聞こえてきて思わず「いや、わかってるけど?」なんて言い返していると、またバットを振り損ねてしまう。

「ちゃんとボール見なきゃだよ」
「速いってこれ」
「大丈夫!慣れるから」

意外にもスパルタな葉月を黙らせようと、打つことに意識を集中させた。

 飛び出してきたボールを目で追いながらタイミングを合わせ、バットを振り抜いた。芯を捉えた感触が手に伝わってくる。ボールは勢いよく飛んでいくも、的には当たらない。

後ろからは葉月の「当たった!」とはしゃぐ声が聞こえてくる。葉月が飛び跳ねているのが横目に見えた。こんなことで、そこまで喜べるなんて俺には理解不能だ。

 その後も、ボールをバットに当てることはできたものの、ホームランを出すことはできなかった。

「じゃあ、次は小野寺君!」

葉月は機械に硬貨を入れると、やっぱり最高球速のボタンを押す。

「僕、一回もやったことないんだけど…」

小野寺が小さな声でそう言うと、葉月は「ボールをしっかり見て打てばいいんだよ」と、ざっくりとした説明をするとバットを渡した。小野寺はバットの持ち方もわからないのか、独特の持ち方で構える。そして、ボールが飛んできた瞬間、慌ててバットを振った。けれど、まるでタイミングが合わない。見事に空振りをし、体がよろける。

「小野寺君、バットの持ち方、こうだよ」

葉月はジェスチャーでバットの持ち方を教える。小野寺は葉月の手と、自分の手を見比べながら持ち方を直すけれど、悪いのは持ち方だけではない。とにかく癖があり過ぎる。何だか手首がぐにゃっとしていてバットが安定しない。打つタイミングも悪い。バットは常にボールの上を通り、打ち終わる度に体幹がなさ過ぎてよろける。正真正銘の運動音痴だ。葉月もどう教えていいのかわからないようで、「もっとバットをしっかり持って」と言うけれど、そういう問題だけではない。

 俺は空いていた隣の打席に入ると、小野寺を観察した。すると、小野寺は機械からボールが出てきた瞬間、完璧に目を閉じていた。

「目、閉じてるじゃん。それじゃあ当たる訳ないよ」
「えっ?僕、目閉じてた?」

自覚がないのが恐ろしい。

「閉じてたよ。思いっきり」

小野寺はしっかりと目を開くとバットを構える。ところが、ボールが近づいてくるとまた、目を閉じてしまう。

「だから、目を開けろ。最後までボールを見る」
「わかった」

今度は目を開けていたものの、バットを振ることを忘れる小野寺。

「マジかよ。お前って、天才なの?」

目を開けることに集中し過ぎてバットを振るのを忘れるなんて、別のところに物凄い才能があるやつの所業だ。

 その後も、小野寺のバットは一向にボールに当たらない。

「小野寺君、もっとこう脇を閉めて」

葉月と俺は、原因を見つけてはアドバイスをした。

「肩が上がってる。力抜け」

小野寺は俺たちのアドバイスを聞きながらフォームを変えていく。けれど、どういう訳か、バットを振りぬく瞬間、小野寺の形になる。

「後ろ足に体重を乗せて、ボールが来たら、前の足を踏み込むの。こういう風に」
「前の足を軸にして腰を回すんだよ」

小野寺は葉月と俺の動きを見ながらバットを振る。何となくマシにはなっているけれど、とにかくタイミングが悪い。

「俺が合図をしたら、前足を踏み込め」
「うん」

小野寺がバットを構えると、機械からボールが飛んでくる。俺は自分が打つ時よりも集中し、「今!」と大きな声を出していた。その声が葉月と重なった。

 辺りに乾いた金属音が響く。小野寺の打球は勢いよく飛んでいく。そして―――賑やかな音が鳴り響いた。小野寺の打球は、見事ホームランの的に当たった。呆然とする小野寺。それは俺と葉月も一緒だった。

「嘘だろ」
「す、凄いよ小野寺君!ホームランだよ!」
「う、うん」

 小野寺が打ったボールは最後の一球だったようで、葉月は打席に入ると小野寺の両腕を掴み「凄い!」と言って飛び跳ねる。気付けば俺は、その様子を見て笑っていた。小野寺が打ったボールがホームランの的に当たった―――ただ、それだけのことなのに、高揚感が一気に押し寄せた。そして、どうにか小野寺に打たせようと必死だったさっきの自分を思い出して、らしくないなと思った。

 「あっ!小野寺君が笑った!」

葉月は嬉しそうに声をあげる。小野寺は慌てて綻んだ頬を引き締める。すると今度は静かに葉月が言った。

「笑顔の方が似合っているよ」

その声に、その笑顔に、胸の奥がざわついた。