彼女が彼の彼女であること

 葉月は、俺と一緒にいたことを後悔しているのだろうか。俺はやっぱりあの時、葉月と別れていれば良かったのだろうか。結婚しようなんて言わないほうが良かったのかもしれない。俺は全部、間違っていたのかもしれない。最後、病院のベッドで息を引き取る時、葉月は俺に何も言葉を残さなかった。家族にだけ「ありがとう」と笑顔で言って、目を閉じた。

 俺は河川敷の階段に座ると、鞄から黄緑色のノートを取り出した。葉月が死んでからひと月が過ぎた頃、葉月の母親がこのノートを持って俺のところに来た。

 葉月の母親は、このノートを渡すべきか相当悩んだと話した。葉月の気持ちを俺に知ってほしい一方で、知ることによって俺が辛い思いをするかもしれない。そんなことを考えて、なかなか渡せなかったらしい。「見るか見ないかは、千歳君に任せるね」最後にそう言って、葉月の母親は帰って行った。

 ノートを受け取ってから二ヶ月が過ぎた。俺は答え合わせをするのが怖くて、いつまでもノートを開くことができなかった。もしも葉月を不幸にしていたら―――そう考えると、心臓を素手で握られるくらい苦しくなった。

 恐る恐るノートを開いた。そして、一ページ目を捲る。そこには、葉月が死ぬまでにやりたいことがずらりと書かれていた。達成できたものには、赤い丸がつけられている。道具を使わないで書いたとは思えない程、形の整った丸だ。

 次のページにも、やりたいことがずらりと書かれている。どれも、簡単に達成できることばかりだ。

〇朝の教室に一番乗りする。
 バッティングセンターでホームランを出す。
〇四つ葉のクローバーを見つける。
〇電車で知らない駅までいく。
 一人でファミレスに行く。
 
 次のページも、また次のページにも特別なことは一切書いていない。ところが、その次のページを捲るとそこには身に覚えのあることが書かれていた。

〇期間限定で誰かと恋人同士になる。
〇デートをする。
〇誰かと一緒に布団に潜る。
〇ハグをする。
〇キスをする。

『キスをする』の上に付いた丸は不格好だった。あの日の葉月を鮮明に覚えている。いつもなら、やりたいことが達成できた時に付けるはずの丸。それなのにこの丸は、キスをする前に付けていた。

 次のページを捲った。その瞬間、目に飛び込んできた文字に、息が止まった。それは、見開きになった左右のページの中央に、一つずつ書いてあった。まるで、特別なことのように。

〇誰かと両思いになる。
〇プロポーズされる。

 俺はしばらくの間、その文字から目が離せなかった。これを書いている時、葉月はまだ、その相手が俺になるとは知らない。どんな人を想像していたのだろう。俺はそいつに近づけたのだろうか。丸が付いた時、葉月は―――どんな気持ちだったのだろう。

 俺は、ゆっくりと息を吐くと次のページを捲った。そこからは、葉月の思いが綴られていた。

 どうしよう。恋人ができてしまった!期間限定で付き合える人が現れるなんて嘘みたい。ちょっと冷たそうな転校生。名前は千歳君。しかも千歳君には彼女がいる。お互いに好きになることは絶対にないから好都合!

 風邪をうつしたのをいいことに、勇気を振り絞って一緒に寝たいと言った。千歳君は来てくれた。二人でいっぱい咳をした。千歳君は私が咳をするたびに背中を擦ってくれた。寝息を立てながらも、手は私の背中を擦っていた。冷たい人なんかじゃなかった。

 毎日、千歳君のことを考えている。好きになってはいけないのに。

 最近、体の調子がよくない。アルバイトをやめた。でも、千歳君と一緒にいる時だけは元気になる。不思議だ!会いたい。今すぐに会いたい。

 とっくに気付いている。私は千歳君が好きだ。千歳君が好きだと文字にしただけで涙があふれてくる。そのくらい好きだ。だからもう、別れなきゃいけない。明日、伝えよう。でも、その前に千歳君とキスがしたい。でも、千歳君には彼女がいる。さすがに気が引ける。ていうか、そんなこと言う勇気がない。

 千歳君とキスをした。別れようと言った。千歳君は私を好きだと言った。彼女とも別れていた。覚悟を決めて別れを告げたのに、あっという間に気持ちがひっくり返った。

 千歳君からプロポーズされた。絶対に丸がつかないと思っていたそこに丸が付いた。涙が止まらない。嬉しいのに苦しい。幸せなのに悲しい。病気が憎くて仕方がない。助けて、千歳君。

 馬鹿なことをした。気が付いたら千歳君の腕の中にいた。生きてるって思った。子供みたいに泣いた。今は思い出すと恥ずかしい。黒歴史だ。
 
 入院した。もう、ここを出られないかもしれない。千歳君は毎日来ると言ってくれた。毎日、朝まで電話を繋いでいようと約束した。

 最後の日、もしも千歳君が傍にいたら、どんな言葉を残そうか考えている。なんかいっぱい出てきて全部言う前にピ―――ってなったら最悪だ。短くて、でも、この思いが全部伝わる言葉ないかな。もっと日本語勉強しておけばよかった。

 危なかった。言葉なんて残しちゃダメだ。そんなことをしたら、千歳君が辛い思いをしてしまう。だから、何も言わない。その代わり、ここで言う。

千歳君、大好き大好き大好き大好き大好き―――――――っ!!

いっぱいわがまま聞いてくれてありがとう。こんな私を好きになってくれてありがとう。プロポーズしてくれてありがとう。

千歳君、ずっと一緒にいよう!!ずーっとずーっと!!

 文字が書かれていたのはそこまでで、あとは最後まで真っ白なページが続いた。

 ノートを閉じた。

 すぐ傍に葉月の気配を感じる。

「葉月、大好きだよ―――ずっと一緒にいよう。ずっと…ずっと……」

 冬だというのに、春のような暖かい風が吹く。

 これから先、俺は何度もこの場所に来るだろう。そして、葉月が残してくれたこのノートを、何度も何度も読み返すだろう。そのたびに俺はこうして、ボロボロになるまで泣いてしまうんだ。

【完】