朝霧家との縁談を聞かされたのは、それから数か月後だった。
父の書斎へ呼ばれ、相手の名を聞いた瞬間、一は自分が聞き間違えたのだと思った。
「朝霧家、ですか」
「そうだ」
「……朝霧景少将の」
「他に誰がいる」
父は一の動揺に気づいていたはずだが、何も言わなかった。
「朝霧家には後継ぎが必要だ。先方から華族の家へいくつか話があり、こちらにも打診が来た」
「なぜ私なのです」
「伊吹の妹ということにしておけば不自然ではない。兄を失った家との縁を朝霧少将が無下にすることもないだろう」
その言葉に、一は父を見た。
「私を使って、朝霧家との縁を残すおつもりですか」
「不満か」
父は少しも悪びれなかった。
「家へ置いておくよりはいい。朝霧家なら身分も申し分ないし、お前の素性について余計な詮索をする者も近づきにくい。子ができれば香坂家にとっても悪い話ではない」
伊吹だった自分を殺した家が、今度は一として朝霧家へ嫁がせようとしている。
滑稽に感じるべきなのかもしれなかった。
しかし、一が考えたのは別のことだった。
景の妻になる。副官として十年も隣にいながら、一度も想像しないよう努めてきた立場である。
女であることを知られたら、彼はどんな顔をするのだろう。
騙されていたと怒るかもしれない。軍人としての信頼を裏切られたと思うかもしれない。
何より、男である伊吹と同じ人間だと気づかれれば、朝霧家だけではなく景まで香坂家の秘密へ巻き込んでしまう。
「断ることはできますか」
一が尋ねると、父は書類へ目を落とした。
「できると思うか」
答えは分かっていた。
「先方は愛情のある結婚を求めていないそうだ。家を継ぐ子が得られればよいという話だから、お前にとっても都合がいいだろう」
都合がいい。一はその言葉を頭の中で繰り返した。
確かに、夫婦として深く関わることを求められないなら、正体を隠しやすい。
景は軍務で忙しい。一に関心を持たず、役目として妻を置くだけなら、伊吹だった頃の癖に気づかれる可能性も低い。
子を産めば、それで終わる。短いあいだだけなら、朝霧景の妻として暮らせる。その考えを自覚した時、一は自分自身を恥じた。
景を欺くことになる。十年間、最も近くで仕えた相手へ、自分は死んだのだと信じ込ませたまま、その妹を名乗って妻となる。
まともなことではない。それでも、断れる話ではないのなら、少なくとも自分の中に生まれた浅ましい喜びまで否定する必要はないのかもしれなかった。
父との話を終えて自室へ戻り、包帯を外した。
剣蛸の残る掌を見ながら、朝霧景の顔を思い浮かべた。
最後に副官として会った日、景はいつものように書類を読みながら、『戻るのはいつだ』と尋ねた。
『数日で済むと思います』
一はそう答えた。
あれが、伊吹として景についた最後の嘘だった。
◇
顔合わせの日、一は両手へ包帯を巻いてから香坂家の座敷へ向かった。
景を前にして平静を保てる自信はなかったものの、実際に対面してみれば、軍府にいた頃の習慣の方が先に働いた。
背筋を伸ばす。相手の目を見る。余計なことを言わず、尋ねられたことだけに答える。
十年間、副官として染みついた振る舞いだった。
景が何度も自分を見ていることには気づいていた。
似ていると思われているのだろう。
当然だ。兄妹だから似ている、と景自身が納得してくれることだけを願った。
契約の条件を聞いた時には、むしろ安心した。
愛情を求めない。後継ぎが生まれれば離縁する。それなら、自分からも近づかなければいい。
朝霧家の妻として必要な役割だけを果たし、それ以外では距離を取る。
別れたあとには、二度と会わない。その条件なら、伊吹であった自分を最後まで隠し通せるかもしれない。
だから一は、景に二つの願いを伝えた。
必要以上に関わらないでほしい。
そして契約が終われば、自分を忘れてほしい。
だが後者だけは、約束してもらえなかった。
『忘れるかどうかまで、君に決められることではないだろう』
景らしい答えだった。
人の記憶まで契約によって縛ることはできない。それでも一は、忘れてほしかった。
伊吹を失った景が、今度は一まで記憶に残す必要はない。
朝霧家には子が残る。自分は役目を終えれば去る。景には景の人生があり、そこへ伊吹と一という二つの亡霊を残したくなかった。
だから、忘れてください、と頼んだ。
それなのに顔合わせの席では、落ちかけた茶碗へ反射的に手を出してしまった。
景の袖が盆へ触れた瞬間、考えるより先に身体が動き、右手で茶碗を受け、左手で盆を押さえていた。
軍府で何百回と繰り返した動作の延長だった。
景から、『反応がいいな』と言われた時には、背中に冷たいものが走った。
病弱だったと聞いたが、と続けられ、どうにか誤魔化したものの、景の目には明らかな疑念が残っていた。
半年程度では、十年分の身体の記憶まで消せないらしい。
一は鏡台の前で包帯を巻き直した。
今度は先ほどより丁寧に、掌の硬い部分がどこからも覗かないことを確かめる。
女中が下がった部屋には、夕暮れの光が差し込んでいた。
鏡の中にいる女は、もう軍人には見えない。
髪を伸ばし、女物の着物を着て、白い包帯で剣を握った手まで隠している。
それでも、その中には香坂伊吹として生きた十年が残っている。
消したいとは思わなかった。
景の副官として過ごした歳月は、父に命じられて男を演じていただけの時間ではない。自分で剣を振るい、自分で判断し、自分の意思で守ろうとしたものが確かにあった。
だからこそ、景には知られてはいけない。
知られれば、伊吹だった人生まで家の欺瞞へ巻き込まれてしまう気がした。
窓の外には、春の夕暮れが広がっている。
数週間もすれば、一はこの家を出て朝霧家へ嫁ぐ。
夫となるのは、十年間「閣下」と呼び続けた人である。
一は膝へ置いた両手を重ね、包帯越しに右の掌を撫でた。
景に知られないために隠している剣蛸は、今もそこにある。
香坂伊吹が確かに生きていたことを、この身体だけが忘れずに残していた。
父の書斎へ呼ばれ、相手の名を聞いた瞬間、一は自分が聞き間違えたのだと思った。
「朝霧家、ですか」
「そうだ」
「……朝霧景少将の」
「他に誰がいる」
父は一の動揺に気づいていたはずだが、何も言わなかった。
「朝霧家には後継ぎが必要だ。先方から華族の家へいくつか話があり、こちらにも打診が来た」
「なぜ私なのです」
「伊吹の妹ということにしておけば不自然ではない。兄を失った家との縁を朝霧少将が無下にすることもないだろう」
その言葉に、一は父を見た。
「私を使って、朝霧家との縁を残すおつもりですか」
「不満か」
父は少しも悪びれなかった。
「家へ置いておくよりはいい。朝霧家なら身分も申し分ないし、お前の素性について余計な詮索をする者も近づきにくい。子ができれば香坂家にとっても悪い話ではない」
伊吹だった自分を殺した家が、今度は一として朝霧家へ嫁がせようとしている。
滑稽に感じるべきなのかもしれなかった。
しかし、一が考えたのは別のことだった。
景の妻になる。副官として十年も隣にいながら、一度も想像しないよう努めてきた立場である。
女であることを知られたら、彼はどんな顔をするのだろう。
騙されていたと怒るかもしれない。軍人としての信頼を裏切られたと思うかもしれない。
何より、男である伊吹と同じ人間だと気づかれれば、朝霧家だけではなく景まで香坂家の秘密へ巻き込んでしまう。
「断ることはできますか」
一が尋ねると、父は書類へ目を落とした。
「できると思うか」
答えは分かっていた。
「先方は愛情のある結婚を求めていないそうだ。家を継ぐ子が得られればよいという話だから、お前にとっても都合がいいだろう」
都合がいい。一はその言葉を頭の中で繰り返した。
確かに、夫婦として深く関わることを求められないなら、正体を隠しやすい。
景は軍務で忙しい。一に関心を持たず、役目として妻を置くだけなら、伊吹だった頃の癖に気づかれる可能性も低い。
子を産めば、それで終わる。短いあいだだけなら、朝霧景の妻として暮らせる。その考えを自覚した時、一は自分自身を恥じた。
景を欺くことになる。十年間、最も近くで仕えた相手へ、自分は死んだのだと信じ込ませたまま、その妹を名乗って妻となる。
まともなことではない。それでも、断れる話ではないのなら、少なくとも自分の中に生まれた浅ましい喜びまで否定する必要はないのかもしれなかった。
父との話を終えて自室へ戻り、包帯を外した。
剣蛸の残る掌を見ながら、朝霧景の顔を思い浮かべた。
最後に副官として会った日、景はいつものように書類を読みながら、『戻るのはいつだ』と尋ねた。
『数日で済むと思います』
一はそう答えた。
あれが、伊吹として景についた最後の嘘だった。
◇
顔合わせの日、一は両手へ包帯を巻いてから香坂家の座敷へ向かった。
景を前にして平静を保てる自信はなかったものの、実際に対面してみれば、軍府にいた頃の習慣の方が先に働いた。
背筋を伸ばす。相手の目を見る。余計なことを言わず、尋ねられたことだけに答える。
十年間、副官として染みついた振る舞いだった。
景が何度も自分を見ていることには気づいていた。
似ていると思われているのだろう。
当然だ。兄妹だから似ている、と景自身が納得してくれることだけを願った。
契約の条件を聞いた時には、むしろ安心した。
愛情を求めない。後継ぎが生まれれば離縁する。それなら、自分からも近づかなければいい。
朝霧家の妻として必要な役割だけを果たし、それ以外では距離を取る。
別れたあとには、二度と会わない。その条件なら、伊吹であった自分を最後まで隠し通せるかもしれない。
だから一は、景に二つの願いを伝えた。
必要以上に関わらないでほしい。
そして契約が終われば、自分を忘れてほしい。
だが後者だけは、約束してもらえなかった。
『忘れるかどうかまで、君に決められることではないだろう』
景らしい答えだった。
人の記憶まで契約によって縛ることはできない。それでも一は、忘れてほしかった。
伊吹を失った景が、今度は一まで記憶に残す必要はない。
朝霧家には子が残る。自分は役目を終えれば去る。景には景の人生があり、そこへ伊吹と一という二つの亡霊を残したくなかった。
だから、忘れてください、と頼んだ。
それなのに顔合わせの席では、落ちかけた茶碗へ反射的に手を出してしまった。
景の袖が盆へ触れた瞬間、考えるより先に身体が動き、右手で茶碗を受け、左手で盆を押さえていた。
軍府で何百回と繰り返した動作の延長だった。
景から、『反応がいいな』と言われた時には、背中に冷たいものが走った。
病弱だったと聞いたが、と続けられ、どうにか誤魔化したものの、景の目には明らかな疑念が残っていた。
半年程度では、十年分の身体の記憶まで消せないらしい。
一は鏡台の前で包帯を巻き直した。
今度は先ほどより丁寧に、掌の硬い部分がどこからも覗かないことを確かめる。
女中が下がった部屋には、夕暮れの光が差し込んでいた。
鏡の中にいる女は、もう軍人には見えない。
髪を伸ばし、女物の着物を着て、白い包帯で剣を握った手まで隠している。
それでも、その中には香坂伊吹として生きた十年が残っている。
消したいとは思わなかった。
景の副官として過ごした歳月は、父に命じられて男を演じていただけの時間ではない。自分で剣を振るい、自分で判断し、自分の意思で守ろうとしたものが確かにあった。
だからこそ、景には知られてはいけない。
知られれば、伊吹だった人生まで家の欺瞞へ巻き込まれてしまう気がした。
窓の外には、春の夕暮れが広がっている。
数週間もすれば、一はこの家を出て朝霧家へ嫁ぐ。
夫となるのは、十年間「閣下」と呼び続けた人である。
一は膝へ置いた両手を重ね、包帯越しに右の掌を撫でた。
景に知られないために隠している剣蛸は、今もそこにある。
香坂伊吹が確かに生きていたことを、この身体だけが忘れずに残していた。



