【長編版】偽りの花嫁ー帝都婚姻録ー

 自分の葬儀を、自分の目で見ることになるとは思わなかった。
 もちろん、参列を許されたわけではない。
 一が閉じ込められていた部屋は表玄関から離れていたが、廊下を挟んだ向こうにある物置の小窓からなら、庭の一部と車寄せを見下ろせることを知っていた。

 葬儀が始まる前、女中が部屋を離れた隙に、一はそこまで歩いた。
 髪はまだ首へ届く程度にしか伸びておらず、女物の寝衣の上へ羽織を重ねただけの姿だった。

 小窓を少し開けると、雨と香の匂いが入り込んでくる。
 喪服姿の人々が次々と玄関へ吸い込まれていった。
 知っている顔もいた。
 軍府の将校。以前の同僚。自分より階級の低かった後輩もいれば、遠征で同じ部隊にいた者もいる。
 誰も、小窓の向こうに死んだ本人がいるとは思っていない。
 それを可笑しいと感じる余裕はなかった。

 しばらくして、一台の軍用車が門前へ停まった。
 扉が開き、黒い軍服の男が降りる。
 一は窓枠へ置いた指へ力を入れた。
 朝霧景だった。従兵が差し出した傘を受け取らず、雨の中を歩いてくる。軍帽の庇から水が落ち、短い距離を進むだけで肩が濡れていくのに、本人は気にした様子もない。

「……閣下」

 声が出た。自分でも驚き、すぐに口元を手で覆う。
 届くはずのない距離だった。それでも、その名を呼ぶこと自体が許されないように思えた。

 伊吹は死んだ。今、景が弔いに来たのは香坂伊吹という副官であり、その死を自分の目で確かめようとしている。
 ここで姿を見せれば、すべてが崩れる。

 景は真相を知れば黙っていないだろう。
 香坂家へ乗り込み、軍府へ報告し、父が何をしたのか調べようとするかもしれない。
 そうなれば、男として軍へいた自分の事実も公になる。
 景まで責任を問われる可能性がある。
 それだけは避けなければならなかった。

 一は窓から離れられないまま、葬儀が終わるのを待った。
 棺の中に何が収められていたのかは、今も知らない。
 父に尋ねても答えはなかった。
 ただ、外から見れば確かに人一人を納めた重さがあるらしく、数人の男によって棺が運ばれていくのが窓から見えた。

 参列者も後へ続いていく。
 景の姿も見えなくなった。
 それで終わったのだと思った。
 部屋へ戻ろうとした時、女中が駆け込んできた。

「一様、こちらにいらしたのですか」
「申し訳ありません。すぐ戻ります」
「いえ、それは構いませんが……朝霧少将が、まだお帰りにならないそうで」

 一は足を止めた。

「まだ?」
「墓前にお一人で残っておられると、先ほど向こうから戻った者が申しておりました。この雨ですのに、香坂家の者がお声を掛けても動かれないそうです」

 返事をすることができなかった。
 景は感情を表へ出す人ではない。部下を失うことにも慣れているし、誰かの死によって軍務を止めるような人でもない。
 伊吹が生きていた頃、一は自分が景にとって特別な存在だと思ったことなどなかった。
 副官として信頼されている自覚はあった。仕事を任され、戦場では背を預けてもらえた。それだけで十分だった。

 けれど今、景は大雨の中、自分の墓の前から帰ろうとしないという。
 一は再び小窓へ戻った。
 墓所はここから見えない。
 見えるのは雨に煙る庭と、すでに人影のなくなった車寄せだけだった。

「馬鹿な方ですね」

 口元だけで呟いた。
 こんな雨に濡れて体調を崩したらどうするのか、と以前なら叱っただろう。
 軍服を濡らしてまで死んだ副官の墓へ立ち続ける必要などない。
 明日になれば仕事がある。
 景は指揮官なのだから、死者に付き合って風邪を引いている場合ではなかった。

 それなのに、どうしようもなく嬉しかった。
 恋を返してもらったわけではない。
 景が伊吹へ抱いていたものが、男女の情でないことくらい誰より分かっている。

 それでも、自分が十年を捧げた人の中に、香坂伊吹という副官が確かに残っている。
 死んだからといって、その日のうちに仕事の記憶へ片づけられる程度の存在ではなかった。
 一は窓枠へ額を寄せ、雨の向こうを見た。

「……そんなに想ってもらえて、幸せですね」

 誰に向けた言葉なのか、自分でも分かっていた。
 香坂伊吹へ向けている。
 もうこの世にいないことになった、自分自身へ。
 同じ身体の中にいるのに、伊吹だけが景の傍に残っているように思えた。
 そのことが嬉しく、同時に少しだけ羨ましかった。

◇


 葬儀からほどなくして、父から新しい身分について説明を受けた。
 香坂家には長女がいる。
 身体が弱かったため幼少期から遠方の別邸で療養し、社交界へも出たことがない。
 その娘を、これから本邸へ戻す。

「名は」

 一が尋ねると、父は少し考えた。

「一でいい」
「一?」
「幼い頃から一の姫と呼ばれていたことにする」

 名というより、順番を示すための字だった。
 第一子。最初の姫。それだけの意味しか持たない。

「戸籍上はどうするのですか」
「こちらで整える。お前が考えることではない」

 父にとっては、それで済むのだろう。
 伊吹という男を作った時と同じように、今度は一という女を作る。
 どちらも香坂家の都合によって必要になり、必要がなくなれば消される存在なのだと考えれば、筋は通っていた。

 女としての振る舞いを教えるため、年配の女中がついた。
 着物を着る方法から歩き方、座り方、髪の結い方、茶席での所作まで、幼い娘へ教えるように一つずつ覚えさせられた。

 もっとも、華族の家で育った以上、知らないことばかりではない。軍人として宴席へ出た経験もあり、礼儀作法そのものに困ることは少なかったが、女であることを前提に求められる動きには馴染めなかった。

 歩幅を狭く。脚を開かない。重い物を持とうとしない。人前では素早く動かない。誰かに呼ばれても軍人のように振り向かない。
 剣を握っていた手は包帯で隠す。
 左肩に残る刀傷が見えない襟元のものを選ぶ。
 言いつけを守るほど、自分が少しずつ消されていくように感じる日もあった。

 それでも抵抗はしなかった。
 伊吹へ戻る道がないことは、分かっていた。