【長編版】偽りの花嫁ー帝都婚姻録ー

 その人生が終わったのは、継母が男子を産んだ日だった。
 父の再婚から数年が経ち、すでに諦めていた頃の懐妊だったため、香坂家中が沸き立った。
 正真正銘、男として生まれた嫡男。その子が産声を上げた日の夕方、一は軍府から帰ったところで父に呼ばれた。
 朝霧家での仕事が長引き、帰宅は日暮れを過ぎていた。
 軍服のまま父の書斎に入ると、机の向こうに座る父は、一の姿を上から下まで見たあと、明日から軍府に戻る必要はないと告げた。
 一は初め、言葉の意味を理解できなかった。

「休暇の申請であれば、すでに来月――」
「休暇ではない」

 父は書類から目を上げなかった。

「退役の手続きを進める。朝霧少将には、家の事情でしばらく休むと伝えておけ」
「理由を伺ってもよろしいでしょうか」
「弟が生まれた」

 それだけで説明は足りると考えている声音だった。
 一も、すぐに理解した。
 伊吹という嫡男は、もう香坂家に要らないのだと。

「私は軍に所属しております。家督を弟に譲ることと、軍を辞することは別の問題ではありませんか」
「別ではない」

 父はそこで初めて一を見た。

「お前が軍にいる理由は、香坂家の嫡男であったからだ」
「これまでの軍歴は、家の名だけで得たものではありません」
「だから何だ」

 平坦な声だった。怒鳴られた方が、まだ何かを言い返せたかもしれない。

「女が男と身分を偽り、帝国軍に十年以上所属していたと知れれば、家だけの問題では済まない。朝霧少将の副官まで務めていたとなれば、軍府の責任も問われることになる」

 一は唇を結んだ。
 それは分かっていた。自分が軍に入り続けられたのは、香坂家が一貫して「嫡男・伊吹」として扱ってきたからであり、父の協力なしには成立しなかった。

「では、軍籍だけを離れます。今後は表に出ず、家督についても弟へ――」
「伊吹という人間そのものが残っていてはならん」

 父が言葉を重ねたため、一は黙った。

「香坂伊吹は、病で死ぬことになる」
「……死ぬ?」
「すでに医師とも話はついている。しばらく療養した後、死亡届を出す」

 机の上へ置かれた父の手は、少しも震えていなかった。
 一はその手を見ながら、冗談ではないのだと理解した。

「その後、お前は女として生きろ」

 命じられた時、一が最初に考えたのは自分のことではなかった。
 明日の朝、軍府に行かなければ、景の予定が狂う。翌週には参謀本部との軍議があり、そのための資料もまだ完成していない。南方から届いた報告には確認しなければならない箇所が残っており、景は明後日までに返答すると言っていた。

「せめて引き継ぎをさせてください」
「ならん」
「朝霧少将に迷惑が掛かります」
「新しい副官が就くだろう」
「現在抱えている案件については、私しか把握していない部分があります」
「軍は一人の副官が消えた程度で止まる組織ではない」

 正論であるが、その正しさが、ひどく腹立たしかった。

「明日から自室を出るな。軍服も剣も、今夜中にこちらで預かる」

 父は話が終わったと判断したらしく、机の書類に目を戻した。
 一はしばらく立ったまま、その横顔を見ていた。
 十五年以上前、男として育てると決めたのも父である。剣を持たせたのも、軍人になるよう求めたのも、香坂家を背負えと教えたのも父だった。
 その父が今、同じ調子で女に戻れと言う。

「父上」

 呼びかけると、父は面倒そうに顔を上げた。

「私は、何だったのでしょう」

 自分でも、なぜそんなことを尋ねたのか分からなかった。
 父はしばらく一を見たあと、答えなかった。答える必要すらない問いだと考えたのかもしれない。
 その沈黙を受け取って、一は一礼した。

「失礼いたしました」

 書斎を出ると、自室の前には使用人が待っていた。
 軍刀を預かるよう命じられているという。
 一は腰の刀へ手を添えた。
 十年以上、軍服を着る時には必ずそこにあった重みであり、遠征でも戦場でも身体から離したことはほとんどない。
 鞘ごと帯から外し、使用人へ渡した。
 それが、香坂伊吹として剣へ触れた最後の日となった。


 軍府に戻らなくなってから、一は本邸の奥にある一室へ移された。
 訪問客から姿を見られずに済む場所であり、庭に面した窓も高い塀と植木に遮られている。食事は運ばれ、必要な品も女中が持ってくるため、部屋から出る理由そのものがなくなった。

 数日後、髪を伸ばすように言われた。胸を押さえるために巻いていた布も外され、女物の肌着が用意された。

 軍服は処分されたと聞いた。その中に、景から褒賞として贈られたものもあったが、返してほしいとは言わなかった。伊吹は死ぬのだから、死者の軍服だけ残しても意味がないという父の理屈を、否定する気力がなくなっていた。

 軍府から一度、使いが来た。
 朝霧少将が容体を尋ねている、と女中から聞かされた時には、部屋の外へ出そうになった。

 自分で説明したかった。少なくとも、突然仕事を投げ出したわけではないと伝えたかった。しかし、一が使者と会うことは許されず、父が「療養中につき面会できない」と返答した。

 その後、軍籍を離れる書類が提出された。
 署名欄には、一自身の筆跡を真似た名前があったらしい。
 香坂伊吹。自分の名を他人に書かれ、自分の人生から退役させられる。

 その話を聞いた時、一は怒ることさえできなかった。
 さらにひと月ほど経って、葬儀の日が決まった。

 その朝は、夜明け前から雨が降っていた。