俺にだけ注文の多い客から逃げられない


 窓の外はすっかり夕暮れで、生徒たちの賑やかな声や足音に俺の小さなため息が掻き消された。
 今日もバイトか……。なんだか今日はいつもと違うことばかり起きたせいで疲れてしまった。新商品の発売日で忙しいだろうし、いつも通りの接客ができるか心配だ。重い腰を上げたそのとき、背後から軽く肩を叩かれた。振り返ると、朝と同じ笑みを浮かべた高瀬が立っていた。

「ひいっ」

 思わず変な声が漏れた。
 どうして俺のクラスにまた来てるんだろう。なんだか胃のあたりがキリキリと痛む。なぜか嫌な予感がする。

「一緒に帰ろう」

 だから、なんで俺と? どうしてこんなに構ってくるんだろう。周囲の生徒たちから視線を感じる。早くここから脱出しなくては。
 大丈夫。俺には必殺のカードがあるのだ。その名もバイトである。

「ごめん。俺、今日バイトだから」
「そっか。じゃあ俺も一緒に行くよ」

 俺の必殺のカードはひらりと躱された。心の中で肩を落とす。
 そして、俺は逃げ場を失い、教室から連行された。

 高校から離れた場所にあるバイト先まで、高瀬は電車に乗ってついてきた。

「この前、ポテト安かったけど今日も安いの?」
「ううん。それはもう終わった。でも今日は期間限定のバーガー出てるよ」
「最近、新商品多いね。普段と違うものっておもしろいよね」

 店員としては忙しくなるし複雑である。

 高瀬は会話が途切れても気まずそうな顔一つしないで、鼻歌まで口ずさみ始める。変わったやつだな。きっと、マッツに行くのが相当楽しみなんだろう。いっそ自分が働けばいいんじゃないか。

 長い道のりを乗り越え、ようやく見えてきたマッツの看板にほっとする。いつもは魔王城のような風格をしているが、この男と離れられると思うと輝いて見えた。

「着いたから、俺行くね」
「何時までバイト? 帰りも送るよ」
「えっ? 九時までだから待たなくても……」
「いいよ。待つの好きだから」
 
 店で待ってもらうのも悪いし、帰ってくれた方がありがたい。そう言いたかったが、食い気味に断られて俺は口を噤んだ。
 バイトの制服に着替え終わり、憂鬱な気持ちを引きずりながら更衣室から出て、いつも通りレジに立つ。俺が出たことに気づくと、すぐに高瀬はレジの前へ並び始めた。

「いらっしゃいませ」
「ナゲット一つで」
「か、かしこまりました」

 同級生に接客するのって、なんだかむず痒いな……。さっきまでタメ口だったから、ぎこちない敬語になってしまう。一方、高瀬はいつもと変わらない調子で話し始めた。

「今日やっぱり人多いね」
「うん」
「頑張って。そこで待ってるから」

 そう耳打ちし、いつものレジ近くの席に座った。

 今日は毎年恒例の期間限定商品月兎バーガーが販売されたからか、夕方のマッツはいつもに比べて混んでいた。バンズにウサギの焼印が押されているのが可愛いと、SNSで話題を呼び、発売初日は列ができているくらいの人気商品だ。

 この前のポテトとは比にならないほどの客数。いつもと違う様子の店内に不安が募る。上手く接客できるか心配だ。でも今は頑張るしかない。自分を鼓舞して接客を始めた。

 しかし、現実はやはり甘くなかった。

「あのー、早くしてくれません?」
「も、申し訳ございません! もう少しお待ちください」

 やっぱりキツい! イラ立つ様子のお客さんに頭を深く下げる。逃げるようにキッチンへ入った瞬間、ため息が零れた。

 店が回らないほどの忙しさだ。普段の二倍くらい注文されるし、電話がかかってくる回数も多い。さすがに今日は、高瀬もいつものように何度も注文をしてこなかった。

「お待たせしました、月兎バーガーです」

 できあがった商品を渡したものの、お客さんは不機嫌そうに口をへの字にしたまま立ち去った。はあ、できない店員だと思われたかも。あとからクレームを入れられないといいんだけど……。落ち込む暇もなく、すぐに後ろから次の客がやってきた。その後も対応に追われているうちに、いつしかピークが過ぎて客足も落ち着いた。ようやく冷静になれたところで、先輩から声をかけられた。

「冴木くん、注文入ってるよ」
「えっ、なにかありました?」
「モバイルオーダーから注文してきたお客さんから、冴木くんに運んでほしいって」

 なにそれ? そんな指名制度、うちの店にあったか!? 俺の名字を覚えている客なんて、一人しか思い浮かばないけど……。

 とりあえず注文された月兎バーガーをトレーに置き、指定の席へ向かうと予想通りの男が腰掛けていた。

「すい」

 高瀬が俺を見て目を細める。

 やっぱり高瀬だった。モバイルオーダーですら注文が多いなんてさすが『注文の多い男』だ。軽く会釈をしてテーブルの上にトレーを置くと、高瀬の持つスマホが目に入る。

「ここ。備考欄にすいの名前書いたんだ」

 モバイルオーダーの備考欄をこんな使い方する人は見たことがない。ファストフード店で店員を指名するなんて発想、この男以外は思いつかないだろう。

「そんなとこで書けるんだ」
「うん。俺も初めてした。今日ほんとに人多いね。お疲れ様。本当はすいといつもみたいに話したかったんだけど、今日はタイミングなかったな」

 それは忙しくなくてもやめてくれ。客と長々レジでお喋りする店員なんていないだろう。苦笑いで受け流すと、高瀬がじっと俺を見た。なにかあったのか。

「な、なにか?」
「すい、忙しそうにしてたから。一瞬だけ息抜きになるかなと思って呼んだけど迷惑だった?」

 それで俺を呼んだのか。俺は首を横に振る。

「今はちょうど落ち着いてきたところだったから大丈夫」
「そっか。それならよかった」

 高瀬はそう言いながら、月兎バーガーを口に含む。

「席に来てくれるのいいね。ゆっくり話せるし。これからも指名しようかな」
「そんなホストみたいなのはちょっと」
「ふっ、すいがホストって」
「わ、笑うなよ」

 高瀬が吹き出すように笑う。失礼なやつだ。俺みたいなやつがホストなんて天地がひっくり返ってもありえないだろうけどさ。

「高瀬は似合いそうだね」
「そう? すいになら指名されたいな」

 そういう発言がホストっぽい。蕩けるような甘い笑みで、恥じらいもなく言えるところが才能かもしれない。白けた目でキャーと棒読みで言ってみると、高瀬ははにかむように笑った。そこは照れずにツッコんでくれ。

「すいはホストよりも猫カフェの店員さんとか似合いそうだね」
「猫カフェ、いいね。してみたいかも」

 猫は好きだしお世話をするのも楽しそうだ。店内は静かそうだし、向いてるかもしれない。もし家の近くに猫カフェがあったら応募してみたいな。

「すい、猫っぽいもんね」
「え、どこが?」
「ツンツンしてるし簡単に懐かないところが一緒」

 お、俺が猫? 俺、そんなにツンツンしてたかな。眉を下げたまま、俺は口を開いた。

「いや、俺は猫よりもっと地味な生き物が似合うと思うけど」
「そう? 猫みたいに可愛いのに」
「そんなことない」
「それならリスかな。小さいし、この前ご飯食べてるときも似てたし」
「え、リス……」

 地味に傷つく。俺の身長は百六十六センチと平均身長より低いが、リスレベルに小さくはない。だが、高瀬から見れば俺はそれくらいに小さく見えるのかもしれない。高瀬は少し見上げないと目が合わないくらいに身長が高い。

「高瀬は、身長何センチ?」
「百七十八」
「高いね」
「そうでもないと思うけど」

 今のセリフは俺のようなチビを敵に回すぞ。俺よりも十センチ以上高いくせに。ムッと頬をふくらませてしまうが、高瀬はなにに俺が怒ったのかは全くわかっていない様子。困ったものだ。

 呆れて視線を他へやると、時計が目に入る。やばい、もうこんな時間だ。雑談をしばらくしていたが、今はバイト中だってことすっかり頭から抜けていた。レジに人は並んでいないが、もう戻らないと。

「ごめん、俺もうそろそろ仕事戻らないといけないから」
「そっか、残念。またモバイルオーダーで呼ぼうかな」

 また頼む気か!? こんなにいちいち高瀬の元まで来て雑談していたらさすがに店長に目をつけられそうだ。

「営業妨害だから、モバイルオーダーはしばらく禁止です」

 そう言うと、高瀬のきょとんとした表情がふっと微笑んだ。



 その後、高瀬は俺の仕事が終わるまで待っていた。訪れる女性客は高瀬を一目見てキャッキャと黄色い声を上げる。なんなら逆ナンまでされていた。どんだけモテるんだ。

 そんな光景をレジ越しに遠目で眺めていると、あっという間に退勤の時間になっていた。お疲れ様です、と周囲に声をかけながら更衣室へ向かい、学校の制服に着替える。更衣室から出て周囲を見渡すと、視界には探していた高瀬ではなく、バイトの先輩がひょっこり入ってきた。

「冴木くんお疲れ。相変わらず注文の多い男はイケメンだね!」
「そうですね」

 先輩は興奮した様子だ。そろそろ顔だけじゃなくてあいつがやばい客だと引かないのだろうか。毎度の如く、レジで何度も注文される俺の様子を横で見てなにか感じてもいいと思うんだけど。今日なんてモバイルオーダーで呼び出しまでされたし。

 そんな俺の思いとは裏腹に、先輩の熱はより上がっていく。

「どうしよ、仲良くなりたいなぁ。冴木くん、注文の多い男の連絡先って持ってる? ちょっとわたしのこと紹介してよ」

 先輩は肘で俺を小突いた。連絡先は知っているが、勝手に教えるわけにはいかない。俺は小さな声で抵抗した。

「俺、そんなに仲がいいわけじゃないですし、紹介や連絡先なんて、ちょっと……」
「お願いだってー」

 先輩は小さな手で俺の手を包み、上目遣いで見上げる。白く柔らかな手が触れて鼓動が波打つ。
 ど、どうしよう。急に紹介なんてしても高瀬を困らせるだろうし、断らないと。視線を彷徨わせて言葉を探していると、突如腕を引かれた。

「なにしてんの?」

 俺と先輩の手元を冷酷な眼差しで射抜く。今までにない高瀬の鋭利な気配に身が震え背筋が凍る。
 顔を蒼白にさせる俺とは反対に、先輩は目の前の高瀬を見上げ、頬を赤らめて声を上げた。

「あ、あのっ」
「終わったなら行こ、すい」

 高瀬はまるで先輩が見えていないように言葉を遮り、俺の腕を引いたままマッツを出た。
 このまま行くの!? 気まずい……。次のバイトのとき、先輩とどう接したらいいんだ。
 頭を悩ませながら高瀬に連れられると、突然足が止まる。
 腕を掴んでいた高瀬の手が、次は俺の手のひらへ滑る。俺の細く情けない指に、骨張った指が絡められ逃げ場を塞がれる。高瀬の瞳は鋭さがまだ残っていた。

「消毒」

 どういう意味だろうか。首を傾げるが、高瀬は微笑んだままなにも言わない。何事もなかったかのように手に触れる温もりが消えた。
 意味がわからない。なにがしたいんだこいつ。けれど、俺がどれだけ考えても、高瀬の思考はきっと一生理解できないだろう。悩むだけ無駄だと判断した俺は足を進めた。

 夜の冷たい風が、俺たちの気まずい空気を表すかのように頬を撫でる。しかし、そう思っていたのは俺だけのようで、高瀬は機嫌がよさそうに切り出した。

「すいは普段家でなにしてるの?」
「アニメ見たり、ゲームしたり、かな」
「どんなアニメ?」

 一応アニメのタイトルを教えたものの、やはり高瀬は知らない様子だ。まあマイナーなアニメだし。今度見るね、なんて言ってるが、どうせ社交辞令だということはわかってる。

「アニメはいつ見るの?」
「電車の中が多いかも」
「そういえば、会ったときもイヤホン耳につけてたっけ」
「えっ、よく覚えてるね」

 思わず目を丸くする。まさかそんなところまで見ているなんて思わなかった。それに、今も覚えているなんて。俺なんて高瀬に出会った衝撃でアニメの内容はほとんど頭から飛んでしまったのに。

「すいのことなら、なんでも覚えてるよ」

 高瀬はにんまりと目を細める。別にそこまで覚えなくていいんですけど。

「そういえば、高瀬って何番線の電車乗るの? 俺は二番線なんだけど」

「俺もすいと一緒だよ」

 そろそろ高瀬とお別れかと思いきや、まだ一緒だなんてびっくりだ。

 そして、同じ電車に乗り込むと、車内は満員だった。つり革を掴みながら高瀬と向かい合わせになって立つ。今日はバイトも忙しかったし、疲れて足がふらふらする。

 電車の揺れの勢いでそのまま倒れてしまいそうだ。ぎゅっとつり革を掴み集中して立っていると、高瀬が小声で話しかけてきた。

「降りる駅ってどこ?」
「次の駅」
「じゃあ一緒だね」

 驚くほどにずっと一緒だ。てっきり高瀬は学校の近くに住んでるのかと思ったけど、そういえば朝も同じ電車に乗っていたしそんなものだろうか。そんなことを考えていると、電車が大きく揺れた。

「わっ」

 足の重心が崩れ、後ろに倒れてしまいそうになる。その瞬間、高瀬が俺の腰に腕を回す。気づけば、高瀬の胸に顔を押し当てる格好になっていた。ふわりとシャンプーの香りが鼻をくすぐる。

「大丈夫?」

「だ、大丈夫」

 きっと邪魔だろうに高瀬は嫌がる素振りもせず、むしろ腰をそっと引き寄せた。

「危ないからこのままでいて」

 耳許で囁かれた声に、返事をすることができなかった。

 ああもう、まともに電車の中でも立てないだなんて情けない。

 落ち着かない体勢のまま電車に揺られていると、到着メロディが車内に響き、俺たちは足早に電車を降りた。

「すいの家、どこら辺? 送るよ」
「送らなくていいよ。女の子じゃないし」
「すいは女の子より弱そうだから心配だよ」

 こいつ、さりげなく失礼なことを言うな。だが、さっき電車で倒れそうになった手前強く否定できない。結局、家の近くのコンビニまで送ってもらうことになった。
 人に送られることなんて初めてで不思議な感覚だ。今まで友達だったやつにもそんなことをされたことがないし、自分がしたこともなかった。イケメンって普段から行動もイケメンなのか。

「すいって結構高校から遠いところに住んでるんだね。大変じゃない?」
「そっちも同じだと……」
「はは、まあね。いつも一人で通ってるの?」

 こくりと頷く。塩谷は違う電車に乗ってるし、他に友人もいないから一人だ。いつも陽キャに囲まれて登校する男には、衝撃的だろう。ああ、自分で考えていて悲しくなってきた。

 心の中で涙する俺とは反対に、高瀬は目を輝かせて聞いてきた。

「それなら、今度から一緒に学校行かない?」
「ぐえ」

 喉が潰れたような声が出た。む、無理だ! 一緒に行くということは、高瀬だけじゃなくて、高瀬のあのキラキラフレンズも一緒ってことだろ!? 無理。無理無理。
 首を高速横振りすると、高瀬はわずかに眉を顰めて「どうして?」と聞いてきた。高瀬には、俺の気持ちがわからないだろう。
 
「だって、俺あんまり話すのとか上手くないし。俺なんかより他の人たちと話した方が楽しいでしょ」

 ネガティブな思いが口から溢れた。今日だってほとんど高瀬から話題を出して、俺がそれに答えるだけだった。自分からなにか言えばいいんだろうけど、なにも思いつかない。仮に思いついたとしても、きっとつまらない話題だ。
 こんな俺と話してもおもしろくないだろう。鬱々とした感情が俺の心を蝕み、視界が暗くなる。

「……まあ、楽しくないって思う人もいるかもね」

 ぐさりと胸に刺さる。いや、自分で言い出したことだけど、改めて言われたら傷つく。
 
「でも俺は楽しいって思った。すいは違う?」

 高瀬は屈んで俺の顔を覗く。どこか確信めいたように口元は弧を描いていた。その言葉のおかげで、まるで月が照らしたように暗闇が晴れる。
 
 違う、と言って離れるのが正解だ。高瀬と俺は生きる世界が違って、共通点も少ない。本来なら関わることのない人間だ。
 そう、トラウマを覚えたあの頃のようにまた馬鹿にされるかもしれない。
 
 だが、俺の口は思いとは反対に動いた。

「違く、ない」

 その言葉を聞き、高瀬は顔をほころばせた。

「よかった」

 月光に照らされる高瀬は、夜の闇に溶けてしまいそうなほど綺麗だった。
 高瀬はそのまま機嫌よさげに鼻歌を歌いながら歩く。変なやつ。俺と登下校するだけで喜ぶなんて、意味がわからない。けれども、高瀬のテキトーな鼻歌に揺られるように、俺の胸も軽くなった。
 一歩、二歩、と歩いたところで忘れていた存在が脳裏を過ぎる。

「そういえば、いつもの友達は? 一緒に行ってるなら、そっち優先した方がいいんじゃない?」
「あー、まあ、あいつらは俺がいてもいなくても大して変わらないだろうし」

 いやいや、絶対にあの子たちは高瀬と一緒がいいに決まってる。クラスも同じだし、仲良くしておいた方がいい。
 ていうか、俺と高瀬が一緒に登校している姿を見られたらなんか言われそうだ。『なんで雅くんがあんな陰キャと』みたいな文句を言われそう。む、無理。目立ちたくないし高瀬も馬鹿にされたりするだろうし、お互いのためを思ったらやめた方がいいんじゃ……。
 考え込んでいると、高瀬は思考を遮るように俺の顔を両手で掴んで、顔を向かい合わせにした。

「すい、あんまり他の人のこと考えないで。俺といるときは俺のこと考えて」

 急なドアップの顔面に思考が停止する。反射的に頷くと、高瀬はにっこりと口端を上げた。

「じゃあ決まりね。来週から楽しみにしてる」

 勝手に決められた。断る間もなかったし、本当に強引な男だ。こっちが不安に思っているのが、馬鹿らしく思えてくるくらい。
 隣にいる高瀬の嬉しそうな様子を見ると、不思議と不安な気持ちが消えていく。

「……ほんと、意味わかんない」

 高瀬の言動が全く想像つかなくて理解が追いつかない。だが、そんな高瀬の言動に心が動かされる自分が、一番よくわからない。
 冷たい夜風が吹く。なのに、頬の熱は冷めなかった。





「すい、おはよう」

 休みが明け、月曜日。約束の十分前に着いたが、高瀬はすでにコンビニの前で待っていた。慌てて駆け寄ると白い息が零れた。

「おはよう。遅れてごめん」
「謝らなくていいよ。待つの好きって言ったし」

 嫌な顔一つしない高瀬にほっとする。なんだかんだいいやつだ。

「これ、食べてみて」

 高瀬は、手に持っていたレジ袋から肉まんを取り出して半分に割った。

「なんで肉まん?」
「新商品のたこ焼き味の肉まん。その名もたこ焼きまん」
「た、たこ焼き味?」

 聞いたことがない味だ。見た目はただの肉まんと一緒に見えるが、中の具はお肉ではなくタコや天かす、紅生姜がぎっしり詰まっている。美味しいのかな。俺の心配を見透かしたのか、高瀬は安心させるように笑みを浮かべた。

「この前食べたら美味しくてさ、すいにも食べさせたかった」

 高瀬がそう言うなら、美味しいのかな。たこ焼きまんを受け取ると熱が皮膚に伝わる。わざわざ俺のために買ってきてくれて優しいな。

「何円だった? 払うよ」
「いいよ、これくらい。それより早く食べて」

 高瀬に急かされるまま、俺はたこ焼きまんを口に入れる。口の中にソースとタコの味が広がり、目を見開いた。

「あ、ほんとにたこ焼きだ」

 あっという間に食べ終わった俺を見て、高瀬は得意げに笑った。

「美味しいでしょ?」
「うん。美味しかった。ありがとう」

 たこ焼きと肉まんなんて合うのか訝しんでいたが、結構おいしかったな。気持ちも場も温まったところで、高瀬と雑談を交わしながら学校へ向かった。

「今日、帰りは雨降るらしいよ」
「えっ、傘忘れてきた」

 見上げた空は雲一つない澄んだ青空で、到底雨が降るとは思えない。ちゃんと天気予報見てくればよかったな。

「それなら俺、傘貸すよ」
「え、じゃあ高瀬は?」
「一緒に入って帰ればいいんじゃない?」

 ええ、それはそれでちょっと……。ありがたいけど、高瀬と一緒に傘に入るなんて絶対目立ちそうだ。ずぶ濡れになって帰るよりはいいんだろうけど。

「一緒に帰ることになるけどいいの? 今日、俺バイトないのに」
「いいよ」

 あっさり頷かれてしまった。

「どこで待ち合わせにする? 俺、教室まで迎えに行こうか」
「え、そこまでしてもらわなくてもいいって! 俺がそっち行くから」
「俺のクラス、玄関から遠いし、来てもらっても時間がもったいないと思うよ」

 高瀬はさっきみたいにすんなり頷いてくれないが、ここで俺も折れたくない。ただでさえ傘の中に入れてもらうのに、迎えに来てもらうなんて至れり尽くせりすぎて申し訳ない。それに、もしクラスになんて来られたら変に注目を浴びそうだ。高瀬の華やかな容姿は街なかでも目を惹くのだ。校内なんてそれ以上に目立つだろう。それは絶対阻止しないと。必死に対抗すると、玄関で待ち合わせという形で落ち着いた。

「時間は大丈夫? 高瀬って、部活とかしてないの?」
「してないよ。帰宅部だし」

 意外だ。高瀬みたいな陽キャって、運動部とかに入っているイメージなのに。

「すいはしてる?」
「いや、俺も帰宅部。バイトあるし」

 運動は苦手だし、文化部の中に興味がある部活もない。バイトをしてみたかったし、部活をやろうとは思わなかった。

「高瀬、部活してそうなのに意外だね」
「面倒だからね。たまに助っ人で入ったりはするけど」

 助っ人という単語に眉間に皺が寄った。絶対に運動神経がいいタイプだ。そうじゃないと助っ人になんて呼ばれない。帰宅部なのに実は運動が得意とか、一番モテるやつじゃん。

「すいは得意なスポーツとかある?」
「え、お、俺?」

 スポーツなんてどれも苦手ですが。

「……きゃ、キャッチボールとか」

 まあ、キャッチボールも上手いわけじゃないけど。ただ、人並みにできるというレベルだ。他に得意なスポーツなんて思い浮かばなかった。高瀬の反応を恐る恐る見てみると、小刻みに体を震わせていた。

「か、可愛い」

 顔を手で覆っているが俺にはわかる。絶対に手の向こうでは笑っている。なんてひどいやつなんだ。俺だって好きで運動が苦手なわけじゃないのに。怒りが思わず口から飛び出しそうだったが、ぎゅっと口を噤んで堪える。

 高瀬はひとしきり震えたあと、ようやく顔を見せた。

「それなら、いつかキャッチボールしたいな」

 爽やかに笑っているが、俺はすぐに首を振った。

「嫌だ」

 今の反応を見て、一生高瀬とキャッチボールをしないと決めた。きっと俺の投げたヘナヘナのボールを見て同じ反応をするに違いない。さっさと別の話題に変えてしまおう。

「高瀬はなんのスポーツが得意?」
「俺? うーん、別にどれもそれなりにできるけど、バスケとか?」

 どれもそれなりにできるってなんだこいつ。くそ、悔しい。やっぱり住む世界が違うと思い知らされる。

「いいな。俺も運動得意だったらよかったのに」
「一緒にする?」
「ええ、いや、遠慮しとく」

 首を振ると、高瀬は「残念」と眉を下げた。教えてもらったら上手くなれるかもしれないが、あまりにも下手すぎて高瀬を失望させるかもしれない。それか笑われるか。どっちも嫌だ。

「じゃあすい、またお昼に会おうね」

 ひらりと手を振られて、俺も小さく手を振り返す。それを見ると、高瀬は目を細めて背中を向けた。

 今まではアニメを見ながら通学していたけど、誰かと一緒に行くのもいいかも。なんて、本人には絶対内緒にしておこう。調子に乗りそうだ。



 放課後、曇天が空に広がりアスファルトを打ち付けるように雨が降る。目の前には色とりどりの傘を差した生徒たちの背中が視界に広がっていた。

「本当に雨降っちゃったな……」

 今朝、高瀬が言っていた通り、あんなに綺麗な青空が灰色に濁っていた。天気予報、ちゃんと見ていたらよかった。高瀬が傘に入れてくれなければ、びしょ濡れで帰ることになっていただろう。絶対風邪をひいてしまう。屋根の下、雨を眺めていると、高瀬が黒色の傘を持ってきた。

「高瀬、ありがとう」
「雨、すごいね。行こう」

 高瀬が傘を俺に向けてかざす。おずおずと近づき、俺は軽く頭を下げた。

「お、お邪魔します」
「ふっ、なんか家に入るみたい」

 また変なことを口走ってしまった。人の傘に入ることなんてなかったから妙に緊張してしまう。今まで誰かと同じ傘に入ったことはなかったが、こんなに近くに寄らないといけないのか。なんだか俺が入るのが申し訳なくてなかなか高瀬に近寄れない。そんな俺を見かねて、高瀬が俺の肩を引き寄せる。

「濡れるから、離れないで」

 こくりと頷き、駅へ足を進めた。傘を叩く雨音が、耳に反響する。肌寒い空気の中、隣の熱が妙に気になってしまう。

「水溜まりも多いから気をつけて」
「うん。高瀬も気にせず好きなペースで歩いていいから」
「じゃあゆっくり歩こうかな。それなら長い間一緒にいれるし」
「風邪ひくから早く帰った方がいいんじゃ」

 それもそうだね、と高瀬は呟いた。俺としては早く駅に向かって帰りたい。送ってもらうなんて迷惑で居た堪れないし、傍から見れば地味男とイケメンが相合傘なんて奇妙な光景だろう。高瀬に迷惑をかけてばかりで申し訳ない。少しでも負担を軽くできないか思案を巡らすと、一つの案を思いついた。

「俺、傘持つよ」
「気にしなくていいよ」
「悪いし、それくらいさせてください」

 敬語でお願いすると、雅は渋々といった様子で傘から手を離す。その代わりに俺が傘を持ち、いざ進もうとしたが高瀬が若干屈んでいることに気づく。精一杯高くまで上げようと、腕をピンと伸ばすが、微妙に高瀬の身長には届かない。少し爪先立ちになり、腕を震わせながら歩いていると、なぜか高瀬まで小刻みに体を震わせる。

「ご、ごめん。寒かった?」
「ううん。ふふ、可愛くて」
「え」
「腕、ぷるぷるしてる」

 高瀬は堪えきれないように笑い声を零す。く、悔しい。まさかこんなところで身長の差を実感させられてしまうなんて。俺だって別にすごく低いわけじゃないのに。ぐっ、と呻き声を押し殺す。

「やっぱり、俺が持つね」
「……お願いします」

 結局高瀬の手元に傘が戻った。その後、二人で少し早い足取りで歩くと、ようやく駅が見えてきた。電車の中へ足を踏み入れると、冷たい風が遮られる。ほっと胸を撫で下ろした。

「ありがとう。傘入れてもらえて助かった」
「全然。傘持ってきてよかった」
「最寄り駅着いたら俺一人で行くよ。悪いし、走ったら大丈夫」
「ダメ。すい、なんか走ったら転びそうだし」

 こいつ俺のことどんだけポンコツだと思ってるんだ。冗談を言っているような口調でもなく、真面目な顔で言ってるし。

 俺は、口を尖らせた。

「さすがに転びはしない」
「転ばなくてもダメ。心配だから」

 高瀬は頑なに頷かず、結局朝と同じコンビニまで送ってもらうことになった。本当に転ばないのに。

 最寄り駅に着き電車から降りると、学校付近とは違い、霧のような小雨が降っていた。これなら傘がなくても問題なさそうだ。振り返り、高瀬の表情をうかがうと、高瀬は首を横に振った。意外と厳しいやつだ。

「すい、入って」
「う、ごめん」
「だから、気にしないで。俺が入れたいだけだし。明日も雨だったらいいね」
「ええ、明日も?」

 口が引き攣ってしまう俺に対して、高瀬は笑みを浮かべた。

「だって、すいと一緒の傘で帰れるし」

 さすがに次からは俺だって傘を持っていくようにする。明日からは折りたたみ傘必須だな。そんなことを考えながら、歩いていると無事コンビニに着いた。

「すい、じゃあまた明日」
「ありがとう。ここまで送ってくれて」
「ううん。気をつけてね」
「高瀬も、気をつけて」

 高瀬はふわりと風が通り抜けるような笑みを浮かべて、背を向けた。高瀬の後ろ姿を見送っていると、肩が少し濡れていることに気づく。もしかして、俺の方に傘を傾けていたのかな。胸に波紋が広がる。

 明日、改めてお礼を言おう。揺れる胸元をぎゅっと抑えた。





 それから数週間が経ち、俺と高瀬は通学も昼食も共に過ごすようになり、徐々に距離が縮まった。最初は不釣り合いな組み合わせだし、高瀬はすぐに俺に飽きるかと思っていた。だけど、意外と仲は途切れるどころか深まっている。学校生活も特に問題ないし、なんだか順調に日々が過ぎている。

 しかし、物事、いいことばかりは続かない。事件は昼休憩に起きた。いつも通り学食へ向かおうとしたところ、急に女子が俺の机を取り囲むように集まってきたのだ。

「冴木さぁ、高瀬くんとどういう仲なの?」

 今まで関わることのなかった可愛らしい女子たちに詰め寄られる。だが、全く嬉しくない。みんな険しい顔で火花を散らすような視線をしているからだ。

「ど、どういう仲って言われても……」

 冷や汗がじんわりと額に滲む。まるで取調べを受けている気分だ。ああ、折角の休憩時間なのにどうしてこんなことに。

「最近一緒に登校してたり、学食も二人で食べてるし、相合傘までしてるし!」

 なんでそんなことまで知ってるんだ。相合傘なんて一度しかしていないのに、いつの間に見られていたんだろう。

「バイト先で会っただけで」
「それだけであんなに仲良くなる? あの絶対零度の王子様が嬉しそうにしてるの、見たことないんだけど!」

 絶対零度の王子様ってなんだ。急に謎の二つ名が出てきて困惑していると、俺の動揺が露わになっていたのか、詳しく説明してくれた。

「高瀬くんはね、いつも無表情なんだよ。どんなときもクールで、笑うことも滅多にないの」

 む、無表情? あの男が? 表情豊かと呼べるほどではないが、真顔よりも笑顔の方がよく見る気がするけど。

「それなのにすっごい表情がコロコロ変わってたし、あんなの見たことない!」
「ね。めっちゃ可愛い女子にアプローチされてもガン無視してたのに」

 ここまで女子に言われるほどの有名人だったなんて知らなかった。陰キャの情報網の狭さを思い知る。

 その後も、女子たちは高瀬の話で盛り上がる。やれ通学時に見かけたやら学年で成績一位やら。高瀬ってそんなに完璧超人なのか。勉強も運動もできて顔もいいとか、少女漫画から飛び出してきたような男だ。少しでいいから才能をわけてほしいものだ。というか、もう俺関係ないし離れていいですか。

 話がヒートアップしているうちに、忍び足で学食へ向かおうとした。

「冴木、待ちなさい!」

 うわ、見つかってしまった。渋々席へ戻り、仁王立ちの女子と向き合う。

「えっと、まだなにか?」
「どうやって高瀬くんと仲良くなったのか教えなさい!」

 そんなことを聞かれても知らないんだけど。バイトでも始めたらいいんじゃないか。俺には他に考えられる方法がない。

 瞼を閉じ、頭を悩ませていると、急に女子たちの甲高い声が悲鳴へと変わった。

「なにしてんの?」

 声がした方向へ目を向けると、気だるげな表情を浮かべた高瀬がいた。なんでここにいるんだろう。もしかして、俺が来なかったせい? 高瀬は騒がしい女子たちを全く気にも留めずこっちへやって来る。パチリ、と目が合うと、高瀬は笑みを浮かべた。その途端、歓声が沸き上がる。みんな大袈裟すぎるだろ。異様な教室の雰囲気に怯んでいると、急に手を引かれた。

「行こう」
「う、うん。待ち合わせ、遅れちゃってごめん」

 昼休憩が始まってからかなり時間が過ぎてしまった。きっと高瀬のことだからずっと俺を待っていただろう。自分のせいではないとはいえ、少し心が痛む。

「それは別に謝らなくてもいいけど」

 隣にいる高瀬は口を尖らせている。やっぱりちょっと怒っているのだろうか。

 しかし、高瀬が不満そうに呟いた言葉は俺の想像とは異なっていた。

「なんですいの周りに人いたの?」

 おまえのせいだ。思わず口から飛び出そうになったがギリギリ心の中に留めた。

「高瀬についてちょっと聞かれて」
「なにそれ。なにをすいに聞くわけ?」
「みんな高瀬と仲良くしたいみたいで、仲良くなる秘訣? みたいな」

 説明しても高瀬はさっぱり理解できていないようで納得いかない顔を浮かべている。自分の影響力を自覚していないようだ。これはなにを言ってもわかってくれなさそう。

「俺に聞けばいいのに」

 気になる人に仲良くなる方法を直接聞くのはさすがに難しいだろう。これが罪な男って言うのか。俺が言うのもあれだが高瀬は乙女心に疎いのかもしれない。

「今度からすいじゃなくて俺に言うように伝えておくから」
「いや、大丈夫。そんなに気にしてないし」

 高瀬から言うと、ますます反感を買いそうだ。俺の言葉を聞いても、高瀬は表情を曇らせたままだった。

「俺が気にする」

 不満を滲ませた声が鼓膜を揺らす。なんでこんなに気にするんだろう。不思議に感じながらも大人しく頷くと、高瀬の表情が明るくなり、その話は一旦流された。

 それから、今までと変わらず高瀬と共に過ごした。女子にいつ怒られるかと肝を冷やしたが、なぜかあの一度以降なにも言ってこないようになった。まあ、俺からなにも聞き出せる情報がないとわかったんだろう。

 ……正直それを理由に高瀬が距離感を改めてくれて、周囲から注目を浴びなくて済むかもしれないと思っていたから、ちょっぴり残念。







「ご注文をどうぞ」
「ナゲット一つ」
「ナゲットお一つですね。以上でよろしいでしょうか」

 今日もマッツのバイトで接客対応をしていた。そして、相変わらず高瀬は客として訪れている。バイトだしお決まりのセリフを口に出すが、高瀬の会話がここで終わってくれないことを知っている。

「はい。店員さんおすすめのナゲットのソースはなに?」

 ほらやっぱり。昔に比べ、高瀬の行動はだいぶ読めている。

「バーベキュー、かな。高瀬はソースつけない方がいいんだろ?」
「正解。覚えてくれたんだね」

 ほぼ毎回頼んでいるから嫌でも覚えてしまう。高瀬はナゲットを受け取り、いつもの窓際の席に腰掛けた。頬杖をつきながら、なぜかこっちを見ている。適当にスマホでも触ってくれたらいいのに。

 高瀬からの視線を意識しないように、他の客を捌くことに集中する。すると、大人数の集団がレジに現れた。男子生徒たちがなにかコソコソと話し合っている。制服を見た感じ、近くの中学に通う生徒だろうか。俺を見てニヤニヤと笑い、何人かはスマホを構えながら注文してきた。

「スマイルください」

 うわ、出た。スマイルと真逆の顔になりそうになったが、我慢だ。マッツではメニュー表にスマイルがある。価格は0円。わざわざ注文する客は多くないが、たまにこうやってからかうように注文する客もいる。

 初めてスマイルを注文されたときは困惑して固まってしまった。ちなみにその注文をしてきた客は高瀬だ。あの日のことは鮮明に覚えている。



『ハンバーガー一つ』

 その頃はまだ高瀬が客として来たばかり、そして俺もバイトを始めてから日が浅い時期だった。仕事も覚えたてで、高瀬の注文の回数にも慣れていなかった。毎日あたふたしながら対応していると、ハンバーガーを食べ終わった高瀬が再びレジへ現れた。またかよ、と思いながら注文を伺うと、聞いたことのないメニューを言われたのだ。

『コーラMサイズと、スマイル、一つ』

 高瀬は微かに頬を赤らめながら頼んできた。表情が固く、どこか緊張した面持ちだ。一方、俺は頭が真っ白になってしまった。

 す、スマイル……? たまに聞くけど、まさか俺のスマイルが注文される日が来るなんて思いもしなかった。どうしよう。え、てか、今もわりと笑顔のつもりなんだけどこれ以上の笑顔ってどうしたらいいのか。視線を彷徨わせ黙ったままでいると、後ろに他の客も並び始めた。まずい。早く対応しないと。不安が頭の中を埋め尽くし、顔が固い。頬の筋肉を無理やり動かし、重たい口角を持ち上げた。

『ど、どうぞ……』

 笑みを作ってはみたものの、目は泳ぎ、汗も大量に流れている。我ながら不審な笑みだろう。そして気になる高瀬の反応だが、なぜか注文した本人も困った顔をしていた。おまえが始めた物語だろ。高瀬は小さく『ごめん』と呟き、消えてしまった。スマイル、と端に書かれたレシートだけ俺の手元に残ったまま。

 あの苦い思い出は今でも忘れられない。だけど、俺はあの日から成長した。今ならスマートに対処ができる。こういうときのために家でスマイルの練習をしてきたのだ。俺は目の前の中学生へ向けて、練習の成果を披露する。

「かしこまりました。スマイルです」

 決まった。全く動揺せずに笑顔を作ることに成功した。胸の内に達成感が広がる。その勢いのまま、俺は次のお決まりのセリフを放った。

「他にご注文はございませんか?」

 そう言うと、目の前の中学生は明らかにがっかりと肩を落としたように見えた。そりゃあそうだろう。美人に笑ってもらえたら嬉しいだろうが、相手は地味男だ。

 しかし、聞き捨てならない言葉が落ちた。

「おもんな」

 ひどい。そっちが注文してきたから、こっちはちゃんと笑顔で応えたのになんだそれ。俺はエンターテイナーではなくただの店員なんだぞ! 俺がもしアニメの世界にいたらこめかみに怒りマークが浮かんでいただろう。

 まあ、さすがに客に文句を言うことはできない。聞こえないフリをしてやり過ごそうとしたが、今度はもう一人の生徒が口を開いた。

「すみませーん、スマイルもう一つ追加でお願いします!」

 引き攣る口角を無理やり持ち上げ、笑みを見せようとしたところで、中学生の後ろから長身の男がスッと現れた。

「あの、いつまで注文してんの? 遅いんだけど」

 高瀬はそう言いながら睨みを利かせると、中学生たちは肩を震わせた。先ほどまでの余裕のある顔とは一転して汗を流しながら逃げるように去った。彼らの後ろ姿を見てほっと一息つく。

 面倒なことにならなくてよかった。俺が安堵する一方で、高瀬はまだ不穏な空気をまとっていた。

「あいつら、すいのこと撮ってなかった? 消さないと」
「い、いやそこまでしなくても」
「無理、絶対に消す」
「うわ、ちょっと、落ち着いて」

 高瀬は中学生を追いかけようと踵を返した。俺は慌ててレジカウンターから飛び出し、その腕を掴んで引き止める。

 怒りすぎだろう。もうあいつらはどこかへ行ったし、俺は気にしていないのに。だが、高瀬の怒りはまだ収まらないのか、納得いかない顔をしている。俺はそれ以上触れないことにして、レジへ戻った。高瀬も何事もなかったようにレジの前に立ち、いつものように注文をする。

「ポテト一つ」
「ポテトお一つですね。サイズはお決まりですか?」
「Sサイズで」
「かしこまりました。ポテトSサイズですね。以上でよろしいでしょうか」
「はい……やっぱり追いかけていい?」
「ダメ」

 しぶといなこいつ。別に高瀬が注文されたわけじゃないのに気にし過ぎだろ。呆れつつ注文を受けると、高瀬はため息を零すように言葉を吐いた。

「まあ、俺も一度スマイル注文しちゃったけど」

 覚えていたのか。相変わらず記憶力がいいな。俺の脳にも、あの日の高瀬は強烈に刻まれている。

「俺にスマイルなんて頼んでもなにもおもしろくないのに、変わってるよね」
「すいの笑顔が見たかっただけだよ。逆に嫌な思いをさせちゃったけど」

 高瀬の言葉の意図が掴めず、戸惑う。高瀬は、唇の端をいたずらっぽく持ち上げた。

「まあ、今は注文じゃなくて自分で笑わせるから」

 どうしてそこまでして俺を笑わせたいんだろう。よくわからないまま、俺は口角を持ち上げてみた。

「が、頑張れ」

 そう言うと、高瀬は喜色に満ちた笑みを浮かべた。目の前の男が『絶対零度の王子様』と呼ばれているなんて信じられない。

 そうして、高瀬は満足したのか席へ戻り、俺のバイトが終わるまで大人しく待っていた。ホットコーヒーを片手にスマホをいじっている高瀬に、背後から声をかける。

「高瀬」
「すい、終わった?」
「うん。待たせてごめん」
「気にしないで」

 いつもの帰り道を二人で並んで歩き始める。街灯は少なく、月明かりだけが頼りだ。雑談をぽつぽつ交わしながら駅へ向かう。道中、高瀬が持っているスマホに目を留めた。そこに揺れるストラップを見て、ふと疑問が浮かんだ。

「そういえば、前から思ってたけどそのキツネのストラップってなにかのキャラクター?」
「ああ、遊園地のキャラだよ」

 そう言いながら、高瀬はストラップを揺らして見せる。いつもスマホにぶら下げているから少し気になっていた。男子高校生が持つには可愛らしいストラップだと思っていた。

「どこの遊園地?」
「最寄り駅の近くにあるとこ」

 その言葉を聞いた瞬間、錆びた観覧車が頭に過ぎる。胸の奥でなにかが軋んだ音がした。あそこは嫌な記憶がこびりついていて、しばらく足を運んでいない。

 小学生の頃、遊園地前で待ち合わせだと言われて誰も来なかったことがあった。もう少しで着く、と言われて待っていたのに、ずっと誰の影もなくて、一人佇んでいた。反対にキラキラと夜空を彩る星のようにきらめく観覧車や楽しそうな弾むような声が、余計に俺を惨めにさせた。

「もしよかったら、一緒に行かない?」

 よりにもよって、あの遊園地か……。高瀬の誘いを聞いてもすぐに口を開けなかった。そもそもどうして俺なんかと行きたいんだろう。俺と行っても、おもしろくないだろうに。そのとき、あの日言われた言葉が脳裏に浮かぶ。

『ほんとおもしろくないよな。場違いだってわからねえの?』

 血の気が引き、心臓が止まったような錯覚に陥る。まるで足だけが床に飲み込まれたように動けない。

 揺れる視界の向こうに、扉の隙間から笑い声が漏れる。友達だと思っていたやつらの笑みが網膜を突き刺す。突如、その輪の中にいる幼馴染の瞳に俺が映った気がして――。

「すい、大丈夫?」
「えっ」
「怖がってない? なにかあった?」

 高瀬の包み込むような声色で視界が一気に現実へ引き戻された。目の前には、眉を下げた高瀬がいた。最悪だ、また黒歴史がフラッシュバックしていた。

 やっぱり、断ったほうがいいかな。だけど、高瀬の心配そうに揺れている瞳を見ると、心が波立つ。高瀬は、俺といて楽しいと言ってくれた。だから、そんなことは言わないかな。高瀬なら、信じてみても……。

 服の裾をぎゅっと握りしめる。冷たい空気を吸い込み、俺は静かに吐き出した。

「……い、行く」
「ほんと?」

 高瀬の表情が明るくなる。その笑顔を見ると、俺まで抱えていた暗く重たい気持ちがほどけていくような気がした。

「今度の土曜日とかって空いてる?」

 頷くと、高瀬は頬をゆるめた。楽しみだと呟き、鼻歌混じりに足を進める。

 変わったやつだ。なんで俺なんかに構うんだろう。いつもいる連中と違う性格で新鮮だからかな。

「すいは、どんなアトラクションに乗りたい? 俺はすいとならなんでもいいよ」

 高瀬が楽しそうに話しかけてくる。高瀬が俺を誘う理由がわからない。けれども、その笑顔を見ると理由なんてどうでもよくなった。

「俺も、なんでもいいよ」

 期待と不安が胸の内をゆらゆらと彷徨う。だけど、不思議と怖くはなかった。