「いらっしゃいませー」
テレレ、テレレ、とポテトの揚がった音がキッチンから聞こえる。
俺は最近、有名ハンバーガー店の『マッツ』でアルバイトを始めた。コミュ障気味で人と関わるのは得意じゃないけど、採用されたからには迷惑はかけられない。マニュアルを頭に叩き込み、今日も慣れないカウンター業務を続けている。始めたばかりの頃に比べれば、基本は覚えたし落ち着いて対応できるようになってきた。幸い店の治安は悪くなく、まだこれといって厄介な客には出くわしていない。
「ナゲット一つで」
前言撤回。レジの前に現れた客の顔を見て、厄介な客とやらを思い出した。
すらりと伸びる長い四肢。艶やかな濡羽色の髪、まるで彫刻のように整った顔立ち。伏せられた切れ長の瞳には長いまつ毛が影を落としている。気だるげだが色気が滲み出るその男は、この店によく来るイケメン客だ。
基本的に客の顔は忘れてしまうが、バイトの人たちから変なあだ名で呼ばれている客のことは覚えていた。期間限定商品のピーチシェイクを販売しているときだけ訪れる筋肉隆々とした男、その名もピーチマッチョや、朝の時間帯にだけポテトを食べに来るモーニング男爵。このようなインパクトのあるあだ名をつけられた常連客がいるが、この男だけは違う。俺が唯一、自分であだ名をつけた常連客だ。
「ナゲットお一つですね。以上でよろしいでしょうか」
「はい」
注文が終わると、男は背中を向け、受け取りカウンターへ向かった。普通の客だったらこれで終わりだろう。
しかし、この男は違う。男は近くの席でナゲットを食べ終えると、もう一度レジまで来るのだ。
「ハンバーガーを一つ」
「はい。ハンバーガーですね。以上でよろしいでしょうか」
「はい。店員さんって高校生だよね。休みの日とかなにしてるの? 他にバイトってしてる?」
「え、えっと……」
注文は終わったのに、男はレジから離れようとしない。
急になに聞いてくるんだよこいつ。そんな個人情報を言えるわけないだろ。
プライベートな質問をされたときの対応マニュアルなんてないし、答え方がわからない。どうしようもなく、俺は正直に事実を答えた。
「ほ、他のバイトはしてないです。休みはだいたい寝てるだけで……」
「へえ、一緒だ」
男は口元に弧を描く。そんなことを知ってなにがおもしろいんだろう。その後もなかなかレジから離れず、俺のプライベートについて聞いてくる。
「いつも学校終わりにバイトしてるの?」
「はい」
「そう。えらいね」
「あ、ありがとうございます」
ぎこちなく俺も口角を持ち上げる。後ろで他の客が待ち始めたし、あまりここで長居はされたくない。早く帰ってくれないかな。すると、俺の思いが通じたのか、男は手を軽く振りながらレジから離れてくれた。俺は、切り替えて次の客の注文をとり始めた。
うん。今日も順調にミスなく終わりそうだ。そう思いつつ、お次のお客様、と呼びかけると、なんと待っていたのは、さっきナゲットとハンバーガーを頼んだばかりのあの男。俺と目が合うと優雅に微笑んだ。右手に持っているスマホから、ちょこんとしたキツネのストラップが揺れている。顔に似合わない可愛らしいストラップに、これがギャップ萌えというやつか、と密かに感じる。
「コーラSサイズで」
また注文するのか。思わず顔が歪んでしまいそうになったが、接客中にそんな態度はできない。不満を飲み込み、再び男の相手をする。
「今日、いつもより混んでるね」
「そうですね。ポテトが通常価格より値下げされているからかもしれません」
少し前から一週間限定でポテトがいつもより少し安く買えるキャンペーンをしていた。ポテトはマッツで一番と言っても過言ではないほどの人気メニュー。
今日がキャンペーン最終日ということもあり、ほとんどの客はポテト目当てに訪れていた。
「あー、そういえば話題になってたね」
男はレジ横にある広告チラシに視線を移す。ポテトが好きなのかわからないが、一応勧めてみようかな。
「ご一緒にいかがですか?」
「うん、じゃああとで頼みにくるよ」
また注文しにくるのかよ! 今頼めばいいのに、どうしてわざわざ小分けにしてくるんだ。そうして、男はコーラを受け取りレジから離れた。その後、すぐにコーラを飲み切ったのか、瞬く間にレジへ姿を現す。宣言通りポテトを注文した。
「さっきのポテトMサイズで」
「はい。ポテトのMサイズですね。以上でよろしいでしょうか」
「はい。いつも働いてるの水曜日と金曜日でしょ? 水曜っていつも空いてるのに今日は混んでて大変だね」
なんで俺のシフトを知ってるんだ。バイト仲間ですらきっと覚えてないだろう。でも、思い返せば、ここ最近の出勤日は必ずこの男の顔を見ている気がする。もしかして毎日のようにマッツにいるのか? マッツ好きすぎだろ。
「本当にマッツが好きなんですね」
思わずそう零すと、目の前の男はなぜか首を傾げた。
「そういうわけじゃないけど」
そ、そういうわけじゃないのか!? 週に何度もこの店に来ておいて、好きじゃないってどういうことだ? 困惑していると、彼はさらに俺に追い討ちをかけるように言葉を放った。
「店員さんが可愛いからつい来ちゃうんだ」
まさかの女目当て。一体どの店員のことを指しているんだろう。確かにうちの店は女性のバイトが多いし、可愛い子も多いが、それを俺に言うのはいかがなものか。だいたい、ここはただの飲食店だぞ。なにしに来ているんだ。
文句を言いたくなるが、相手は客だ。心を落ち着かせ、営業スマイルを作る。
「はは、そ、そうですか」
どうにか笑ってみせたものの、声はカタコトになってしまっている。すると、目の前の男は引き結んだ唇をゆるめた。
「ふ、冗談。ここ知り合い来ないし、勉強するのにちょうどいいんだよね」
「あ、ああ、なるほど」
「まあ可愛いと思ってるのも本当だけどね」
なんだこいつ。マッツに口説きに来ているのか。
「店員さんは気になる人っている?」
「いません」
「よかった」
男は満足気に笑みを浮かべる。もしかして、俺が店員の中の誰かを狙っていると思っているのか。心配しなくても、俺は仕事相手をそういう目で見ていない。それに、大抵の女性は俺よりもあなたを選びますよ。俺の返事を聞いて気が済んだのか、男はようやく立ち去ってくれた。
ほっと一息ついたのも束の間。数人の客の相手を終えると、男はまたレジへ姿を現した。飛び出そうになった悲鳴を引っ込めて、お決まりのセリフを絞り出す。
「え、と、ご注文をどうぞ」
「サラダ一つで」
サラダと心の中でメモを取るが、正直言いたい。
これ、最初からまとめて注文すればよくないか?
こんな客はこの男しかいない。普通マッツに来たらセットで頼む人が大多数だ。というか一緒に食べるのが美味しいだろう。ポテトを食べながらときどきナゲットをつまみコーラで流す。それが美味しいと思う。まあその人なりのこだわりがあるかもしれないし下手に文句は言えないけど。
その結果、普通ならば『バーガー王子』や『スマイルキラー』なんてあだ名がつけられそうなイケメンなのに、彼のあだ名は『注文の多い男』に決定した。
我ながらセンスが皆無なのは目を瞑ってほしい。だけど彼は本当に注文が多い。注文するだけではなく、なにかと話しかけてくるから、どうしても印象に残る。
現にまたレジに留まって話しかけてきた。
「店員さんはまだ夜ご飯食べてないよね?」
「まあ、はい」
「お腹空いてない? 俺なにか買ってあげようか」
「お、お気になさらず。お客様にいただくのはちょっと……」
なんで俺にそこまでしようとしてくるんだ。俺に興味でもあるのかな。この容姿なら男女ともに人が集まりそうなのに、わざわざ俺に構わないで欲しい。
でも、いつも一人で来ているし、イケメンなのに意外と陰キャとか? それで俺のことを同類だと思ってるのかな。それなら、少しだけ親近感が湧くかも。
「店員さんはマッツでよくなに頼む?」
「ポテトですかね」
「そうなんだ。ポテト美味しいよね。他にはどこのお店行ったりするの?」
「え、えっと……」
スマホにぶら下がっているキツネのストラップと同じように、楽しそうな笑みを浮かべる。一方、俺の笑みは引き攣ったまま。
前言撤回。やっぱりこの男は陰キャではない。陰キャならこんなにぐいぐい店員に話しかけられないだろう。それに加えて質問の内容もやけにプライベートに踏み込んでくるし、なんだかストーカーみたいだ。同じバイトで働く人たちはイケメンだからなにをしても許せるなんて言っていたが、顔で許されるのはいかがなものか。
改めて男の容姿をまじまじと見る。濃紺のニットに細身のパンツといったシンプルな格好だが、気品が漂っている。飾らない服装が、よりスタイルのよさを引き立てていた。大人っぽい雰囲気だけど、一体何歳なんだろう。この時間に来るってことは、同じ高校生かな。でもやけに色気があるから大学生かもしれない。
じっと彼の顔を観察していると、さすがに気づかれたのか、パチリと目が合う。濡れた唇の端がわずかに上がった。
「なにかあった?」
「いやえっと、なんでもないです!」
「ほんとに?」
レジ台から身を乗り出して聞いてくる。うわああ、顔を近づけるな! 何度も頷くと、ようやく納得してくれたのか下がってそのまま受け取りカウンターへ向かってくれた。その姿にほっとするが、このあとも同じように彼は注文に来るのだった。
いつものように、始業時間ギリギリに着く電車に乗る。早く着きすぎてもやることがないからギリギリを狙うのがマイルーティンである。
そこそこ人が混み合う電車の中で窓際の壁に背中を預け、スマホを取り出す。
ゆらゆらと揺れる電車の中で、俺はイヤホンをつけて、最近ハマっているアニメの最新話を見始めた。ちょうど前回いいところで終わってたし、続きを楽しみにしていたのだ。
俺の家から高校までは遠く、通学時間がかかってしまう。でも、アニメを見ていればあっという間に時間が過ぎていく。少し気だるい朝の時間、俺の小さな楽しみだった。今日さえ乗り越えれば明日は休みだし、アニメを見て気分を上げよう。すっかり物語に没入し、主人公を応援していたとき、突然イヤホン越しに大きな笑い声が聞こえた。現実に引き戻され、顔を上げる。そこには俺と同じ制服を着た高校生の集団がいた。
「アハハッ! マジウケるー」
「てか美怜も同じじゃん!」
やかましいぞ、そこの若者! なんて言ってくれるおっさんがいればいいのに。まあそれはそれで長々と説教をし始めたら面倒だが。
チラリと視線を前へ向けると、いかにもキラキラとした眩しい人々がいた。全員顔面偏差値が高い。
変に絡まれても嫌だし、空気になりきろう。俺は二酸化炭素排出器です。
「雅はどうー?」
「別に」
「もー、ノリ悪いってば!」
賑やかな空気の中、一人だけテンションの低い男がいた。
「雅が寝坊したせいで遅刻しそうになったんだから、もっとわたしたちに優しくしてよ!」
「悪い」
なるほど、この雅が犯人か。次から寝坊するなよ。朝くらいは穏やかに電車に揺られたいんだ。なんて、見知らぬ陽キャと心の中で一方的に会話をする。
それにしても、こいつは遅れたにもかかわらず、周りは全く気にしていないようだし、余程人望があるのだろうか。でも感じ悪そうだし、性格ではなく顔がかなりいいのかな。
もう少しで降りるし、ちょっと見るくらいならバレないだろう。顔を上げると、予想外の人物が見えて俺は目を剥いた。アンニュイな雰囲気を漂わせた美形、そしてスマホに揺れるキツネのストラップ。
注文の多い男……。
まさかこんなところで出会うとは。いつもマッツでしか見かけない変わった客が、自分と同じ制服を着ている。イケメンなだけあって着こなしているが、妙に新鮮で少しだけ変な気持ちになる。
というかおまえやっぱり陽キャだったのか。いつも一人で店に来るからイケメンな一匹狼タイプかと思っていたけど、店の外では女子に囲まれていたなんて。
はえー、と眺めているとパチッと男と目が合ってしまった。俺は瞬時に目を逸らす。
やばい。気づかれたか? まあ気づかれても特になにもないが、なんだか気まずい。学校の最寄り駅に着いた瞬間、俺は逃げるように電車から降りて、改札へ向かった。洪水のように溢れ出る大量の人を、かき分けるように駅の外へ出る。よし、早く学校に向かわないと。
踏み出した瞬間、突然腕を掴まれ引き寄せられた。驚いて振り向くと、そこにはあの注文の多い男がいた。
「いっ、いらっしゃいませっ」
気が動転した俺は、うっかりお馴染みの言葉が口からこぼれてしまった。
しん、と周囲が静まる。取り残された俺の声だけが耳の奥で反響した。まるで時が止まったようだが、周辺の人々は普通に歩き、木々も揺れている。ただ、俺と注文の多い男と、彼の友人たちだけが固まっていた。
じわじわと頭の天辺から首元へ広がるように皮膚が熱を持つ。
はっず! 職業病がこんなところで出るなんて最悪だ。というか、陽キャたちも車内ではあんなに騒いでいたのに、なんでこんなときだけ黙るんだ。
肩を縮こまらせうつむく。穴があったら入りたいとはまさにこの状況を言うのだろう。ここ最近で一番の地獄だ。せめて存在感だけはなくそうと身を縮めるが、目の前の男は無言で立ったまま。助けて。少しでいいから俺の存在を消して。
注文の多い男は、端正な唇の端を上げた。
「覚えてた? 俺のこと」
ええ、そりゃあ。俺のシフトの時間に合わせているのかと思うほど毎回来る上に、その顔面で独特な注文の仕方をするから嫌でも頭に残りますよ。
俺はバイトのときと同じように口角を上げ、震える唇を開いた。
「は、はい。すみません。さっきは変なこと言ってしまって。は、ははは」
「いや、大丈夫。さっき目逸らされたから気づかれてないのかと思ったけど、よかった」
目を細めた彼を前に、俺は思わず目を眇めた。イケメンの笑顔って太陽を直で見るくらい眩しい。すると、彼はとんでもないことを言い出した。
「学校まで一緒に行かない?」
いつもの通学路がまるでパレードのように賑やかだ。陽キャたちが声を弾ませる中、俺は端っこに転がっている小さな石ころのように歩いている。
「えー、雅が自分から話しかけに行くなんてびっくり。そんな友達いたんだ」
「めっちゃレアじゃね?」
別に友達というわけではないと思う。ただの店員と客だ。それなのに男は否定せず、騒ぐ陽キャたちの会話を受け流している。そして俺も自ら口を開く度胸はなく黙ったまま。静かに会話を聞いていると、突如亜麻色の髪をした女子生徒が俺に話を振ってきた。
「そういや名前なに?」
「冴木日翠です」
「へえ、じゃあひすぴだ!」
「ひ、ひすぴ?」
なんか可愛い、と陽キャたちは勝手に盛り上がる。呼び名なんてつけられたことなかったし、こんなキャピキャピした呼び方は俺には似合わない。不本意に感じていると、注文の多い男だけは真面目な顔で言った。
「日翠っていい名前だね」
「へ、どこが?」
「響きが綺麗」
青空の下、サラサラの黒髪をなびかせながら、まるで王子みたいに笑みを浮かべた。セリフも少女漫画のヒーローのようだ。ありがとう、と小さく言うと、男はまた笑みを浮かべた。その後も、やけにニコニコとしながら距離を詰めてくる。鬱陶しいし肩も当たって歩きにくい。もう少し離れてくれないか。
「ちょっと雅、ひすぴ困ってんじゃーん」
「困ってない。ね?」
「は、はい」
男の圧に抗えないまま歩き続け、ようやく学校へ到着した。階段の付近で陽キャたちは俺に向けて手を振る。
「じゃ、ここで。またねー、ひすぴ」
慌てて頷き手を振り返すと、彼女たちは自分の教室へ行ってしまった。俺はこのままひすぴって呼ばれるのか……。
注文の多い男含め、彼女たちは特進科のようだった。どうりで普通科の俺が見たことないはず。
顔だけではなく頭脳まで恵まれているのか。そんなことを考えていると、一人だけ立ち止まったまま隣にいる男の存在に気づく。あの注文の多い男である。
「どうされました?」
「ん? なんで敬語?」
「あ、店の癖で……」
「堅苦しいの好きじゃないからやめてよ。同い年だし」
そう言われても、もともと店員と客という関係だったから、タメ口は違和感がある。
「そういえば、俺の名前言ってなかったけど、高高瀬雅。よろしく」
俺の名前をやけに褒めていたが、彼の方が似合ってる名前だ。高瀬、と小さく呟くと彼は目を細めた。
「名字? 名前で呼んでくれないの?」
「いきなり名前はちょっと恥ずかしいから」
「そう? 別の呼び方は?」
「俺ネーミングセンスないし、あんまり思いつかない」
「そっか。じゃあそのままでいいよ」
その答えを聞き、ほっと胸を撫で下ろす。注文の多い男といい、俺はあだ名をつけるのが下手だ。もし下手な名前で呼んで空気が地獄になったら最悪だ。
「俺は特別な呼び方がほしいな」
「普通に冴木でよくない?」
「ダメ」
俺の言葉に高瀬は眉を顰める。普通に名字で呼べばよくない? 呼びにくい名前でもないし。
しばらく悩み続け、彼はひらめいたように目を輝かせた。
「すいって呼ぶのは?」
すいも日翠も大して変わらない気がする。どうして呼び名にこだわるのか。まあ、正直なんでもいいし高瀬の気に入った呼び方で呼ばせておこう。
「うん。じゃあそれで」
小さく頷くと、高瀬は花が咲いたように笑顔になった。眩しいからその笑顔やめてくれ。俺には強すぎる。
「すい、いいね。うん」
噛み締めるようにつけた呼び名を何度も呟く。なんだこいつ。やっぱり店の外に出ても変わってる客だ。このまま高瀬が謎の余韻に浸っている間にこっそり離れてしまおうかな。逃げ出そうとした直後、引き止めるように話しかけられた。
「すいはお昼ってどこで食べてるの?」
「いつも食堂で食べてる」
咄嗟に返事をしたものの、内心では冷や汗をかいていた。逃げようとしたことがバレたのかと思った。
「俺も食堂で食べてる。それなら、今日から一緒に食べよ」
普通科も特進科も昼休憩の時間は一緒だし大丈夫だよね、と高瀬は話を進めるが、待て待て。俺たち今朝までただの店員と客だったじゃないか。なんでそこまで距離を縮めようとしてくるんだ。さっきの冷や汗とは比べ物にならないほどの汗が流れる。
「じゃあ昼休憩に食堂前で待ち合わせで」
待ち合わせ。その言葉に苦い思い出が浮かんだ。胸が重くなり、うつむく。対照的に、高瀬の喜色に満ちた声が耳に入る。
「すいと食べるなんて楽しみ」
見上げると、高瀬は心の底から喜んでいるような笑みを浮かべていた。俺とご飯を食べるだけでそこまで喜ぶ意味がわからない。マッツのときから思っていたが、なんて不思議なやつなんだ。
「そういえば、すいのクラスどこ?」
「C組」
「わかった。教室まで送るよ。あ、LIME交換しよ」
断る隙もなく、半強制的にLIMEを交換した。あと教室はすぐ近くなので結構です。
高瀬と別れたあと、少し早足で教室へ向かう。扉を開けると、すでに多くの生徒たちが集まっていた。生徒たちをかき分けて、ようやく自分の席に着き、安堵の息を漏らす。
やっと解放された……。
ただでさえバイトのときも陽キャのオーラに当てられて干からびそうなのに、朝から大量の陽オーラを摂取してクタクタだ。
「おはよう、冴木」
「あ、おはよ」
机の上で項垂れていると、友達が後ろから話しかけてきた。
彼は塩谷次郎。俺の数少ない友達である。塩谷はアニメの趣味も合うし話しやすい。そんな塩谷に俺は心を開いたが、塩谷は俺以外にもクラスで友達がかなりいる。まさに今も、塩谷の友達がこちらに近づいてくる。
「塩谷おはよー!」
「おはよ。朝からめっちゃ元気じゃん」
塩谷とあいさつを交わしたあと、俺を一瞥する。
「冴木もおはよ」
「お、おはよう」
ついで程度にあいさつをされる。みんなはすぐに俺から意識を外し、塩谷の元へ集まる。その姿にほっとするものの、少し寂しい気持ちも残る。
塩谷は陽キャらしい雰囲気はないが、人気者だ。まあ受け答えもちゃんとしてるし、そりゃそうか。俺はすぐに言葉に詰まってしまう。同じオタクでも差がある。
「冴木、どうした? 暗い顔して」
「えっ、あ……なんでもない」
塩谷が不思議そうに俺の顔を見つめる。俺は咄嗟に笑顔を作って言葉を返した。
「そういえば今日のお昼なんだけどさ、いろいろあって……別々で食べてもいい?」
「了解」
塩谷は俺から視線を逸らし、みんなの輪に入っていく。その姿を見て、俺は誰にも聞かれないように小さくため息をついた。俺にとっては、一人しかいないかけがえのない友達だが、塩谷から見れば俺は何人かのうちの一人。
もし、かつての幼馴染のように、塩谷と縁が切れてしまったら、俺はまた一人ぼっちになってしまう。そのときが来たら、どうしよう。
その幼馴染は、明るく誰にでも優しいクラスの人気者だった。太陽のような存在で幼馴染といると俺の心も照らされ、彼のことを信頼していた。ずっと友達で、この先も一緒にいると思った。
しかし、ある日をきっかけに俺たちの関係にヒビが入った。
『冴木ってつまんねえよな。いつも浮いてるし存在感がない』
放課後の空き教室から、俺に関する言葉が聞こえた。そっと扉の隙間から中を覗く。すると、友達だと思っていた連中の輪の中に、幼馴染もいた。
まさかみんなにそう思われていたなんて知らなくて、鳩尾を打たれたような衝撃を受けた。今思い返せば、放課後遊ぶ約束をしていたのに誰も来なかったり、ぞんざいに扱われていたように思う。それでも、自分が嫌われていると突き付けられた瞬間はショックだった。
俺はその場から逃げ出して、そっと幼馴染とは距離を置いた。
思い出したくない苦い記憶だ。記憶に蓋をするように、俺は不用意に人を信用しないようになった。最初から信じなければ傷つくことなんてない。目立たず静かに過ごそう。浮かないように、なにも話さず背景になったように。そう、俺は二酸化炭素排出器だ。


