火々里《かがり》の人生は、これまで挫折の連続だった。
産まれてすぐ、親に柩地区に捨てられた。
百年ぶりに柩地区から蓮塔《れんとう》学院への入学を果たしても、周囲からの差別は壮絶だった。
学院の卒業試験に合格して地上戸籍を得ても、医師免許を得ても、それは変わらなかった。
元・魂人《たまびと》は、いつまで経っても魂人《たまびと》のままだ。
魂人《たまびと》が、本当の意味で幸せに暮らしていける場所など、何処にもなかった。
火々里はこの世界の残酷さを、誰よりも理解していた。
「……テメェ、今なんつった」
ゴム手袋をはめた両手も、白衣も、妹の血で染まった。
失血多量でショック状態寸前に陥った咲樂の救命を優先し、なんとか止血までは成功したものの、火々里《かがり》は内科医だ。
目の前で、興味がなさそうに椅子に座ってカルテをつける専門医を見下ろし、火々里は拳を握り込む。
横目で、一瞬のみ一瞥し、専門医の男は気怠く言い放った。
「魂人《たまびと》の手術なんか、僕がしてやる義理ないだろ……そう言ったんだが?」
元・魂人《たまびと》である自分のことを見下し、嫌悪していることは十二分に理解していた。
火々里は内科医であり、手術経験もない。
この専門医に頼るほかなかった。
時間外の今、院内にいる専門医はこの男だけだ。
「……あー。そういえば怪我してる女、ペルシック人……“柩の咲樂”だったっけ?」
専門医ははっと鼻で笑い、もう一度、火々里を馬鹿にするように見上げる。
「治してやってもいいけど、その女、僕に寄越すか、地下の自治権──」
「──ッ人が死にかけてんのに、ふざけんな!!」
火々里は男の胸倉を掴み上げて、我慢ならず怒鳴りつけた。
医局に、鋭さと憤りが綯交ぜになった声が反響して、当直の内科医が尻尾を巻いて出ていく。
烈火の如く怒りを燃やす瞳の奥の苛烈さに、思わず専門医の男は生唾を飲み込んだ。
頭がどうにかなりそうなほどの憤怒だった。
いつだって自分たちは搾取される側か、見捨てられる側だ。
火々里は握った拳を振り上げそうになるのを、なんとか堪えて、乱暴に胸倉から手を離す。
そしてそのまま医局から出ていき、咲樂と汐がいる処置室に戻った。
処置台には、止血した足を高く上げた咲樂が横たわり、それに縋り付くように項垂れた汐がいる。
膝から下の切創が惨い。
意図的に、咲樂が逃げられないようにすべく斬られたのだと、見て分かった。
「どけ汐。今から縫う」
「え……縫うって、火々里、内科医だろ……」
言外に、“お前に可能なのか”と問われたのだと理解した。
火々里は、咲樂の足を見る。
足首の後ろ側が、どうにもならないほど、断たれている。
吐きそうなほど、この世界が嫌いだ。
(……どうすれば。どうすればいい。何を捨てて、何を選べばいい)
最善の一手は明白なのに、“どうすればいい”なんて、何かに寄りかかろうとしてしまう。
遠い昔、母親を亡くし、餓死寸前だった小さな咲樂を拾って、生かしたのは火々里だ。
抱き上げた時、必死に縋り付いてきた子どもの熱を、今でも覚えている。
自分には、咲樂を死なせてはいけない責任がある。
拾った命を、生かす。
今の火々里にできることは、それだけしかない。
「──歩行機能は捨てる。とにかく傷口を塞ぐ」
息を飲む音がした。
「今の俺じゃ、アキレス腱の再建は無理だ。下手に触ると感染症を引き起こして、最悪壊死になりかねない」
火々里はまた新しいゴム手袋をつけ直し、マスクを装着する。
「せ、先生! これ、持ってきました! 他に何か、必要なものありますか!?」
すると、遠巻きにこちらを見ているだけだった職員の中から、ただ一人だけ、咲樂や汐よりも若い少女が手術道具を抱えて持ってきた。
いつも使えないと、周りに馬鹿にされている看護師だった。
「……悪い、助かる。補液……三号一リットルと、生食二リットル……あと抗生剤持ってきてくれ」
「は、はい!」
汐は医者ではないが、恐らくは看護師や技師たちよりも医療の知識がある。
今の状況を俯瞰すれば、火々里の判断は間違っていない。
分かっているからこそ、総合病院にもかかわらず、専門医が来ない現状に、汐は奥歯を噛み締めた。
火々里は看護師の少女を助手にして、細かく指示を出した。
断裂した腱には触れず、開いた皮膚と筋肉だけを縫い合わせていく。
医学書の知識と、見学した外科手術の光景だけを頼りに。
最後に結んだ糸を切り、無意識に止めた息を吐き出した。
内科だけでは飽き足らず、外科の医学書を読み込んでいたことが幸いした。
専門医ほど美しい縫合ではなかったが、記憶にある図面と、さほど遠くない。
しかし、再び咲樂の血圧が低下する音が鳴る。
補液が失った血液を補うわけではない。
血圧が安定したままであれば良かったが、失血量から考えても、難しいようだ。
「チッ、くそっ……」
輸血に使える保存した血液は、総合病院にもない。
献血者を募るしかないけれど、魂人《たまびと》のために血を捧げる人間など、それも同じ血液型を探すなど、星を掴むような話だった。
「──火々里、いいよ。僕から採って」
項垂れて、絶望していた汐が、火々里のすぐ傍に来て、生気を取り戻した青紫の双眸を見せた。
「僕と咲樂の血液型は同じγ型だから、いける。持病もないし、貧血もない。やろう」
そう。最も合理的なのは、同じ血液型の汐から輸血をすることだった。
保存血はない。供血者を探す時間もない。
火々里は汐を見る。
顔色が悪い。
ただでさえ極限状態だ。
ここで血を抜けば倒れる可能性もある。
輸血をして、咲樂が耐えられなかった時、汐も精神的に壊れることは、火を見るより明らかだ。
だが。
「わかった」
やらないで失う選択は、火々里の人生において、最も有り得ない。
輸血後、火々里は寝ずにずっと咲樂と汐の経過観察を続けた。
十五分、三十分、一時間、二時間、異常はない。
血圧も徐々に戻りつつある。
手伝いを申し出た看護師にも礼を言い、先に帰宅させた。
血液を抜かれた汐も目眩や冷汗が出たが、火々里同様、朝日が昇るまで眠らなかった。
朝、咲樂の血圧も、呼吸も、顔色も、正常だった。
ようやく生きた心地が戻り、火々里は今度こそ肩の力を抜き額を大きな片手で覆う。
(生きてる。大丈夫だ。死んでない。助けられた)
そのうち意識も戻るだろう。
まだまだ安心するには早すぎるけれど、一息つき、簡易寝台に座る汐の頭をぐしゃりと撫でた。
顔色は決して良くはなかった。
彼に付着した血液はできる限り落としたが、髪の毛の一部は凝血してしまっている。
「お疲れ。もう大丈夫だ。頑張ったな、汐」
もう大丈夫。
自分に言い聞かせるように、すぐにでも糸が切れそうな汐を落ち着かせるように言う。
すると汐は、途端に、珍しくくしゃりと表情を崩して俯いた。
「ちが、う……」
処置室に、泣きそうな声が落ちる。
「僕の、せいだ……っ、知ってたのに……こんなの、防げた、はずなのに……っ」
あの時──咲樂のクッキーを叩き落として、大泣きした時と、同じだと思った。
自責と悲傷で、心が悲鳴をあげている。
「……ちがうだろ。お前は悪くないだろ。悪いのは全部、咲樂を襲った奴らだ。お前がそいつらの罪を肩代わりするな」
「っでも」
「するな。咲樂にそれ、言えんのか。僕のせいだってめそめそすんのかよ」
汐は息を詰めて、長く沈黙したのち、小さく首を横に振った。
その時だった。
他には誰もいない処置室の扉が開いた。
黒い制服の裾と、灰色の髪の毛が揺れる。
眼鏡の奥が、悲痛な色に染まっていた。
蓮塔《れんとう》学院の同級生であり、火々里が親友と呼べるたった一人の男だ。
「尊《みこと》……? なんでここに」
「……芽以《めい》から聞いて、来ていた。何か起こった時、介入できると思ったんだ」
白律庁《はくりつちょう》所属であり、議会の宰相を父に持つエリートであれば、確かに理不尽をひっくり返せるかもしれない。
意外と権力を笠に着る強かな友に、ようやく微かな笑みが漏れた。
「あいつか。……そうか、手間かけたな。ずっと待合にいたのかよ。声かけろよ」
「いや、無理だろう。邪魔するわけにもいかなかったし、途中で白律庁《はくりつちょう》にも戻ったから、ずっと居たわけじゃない」
眼鏡のブリッジを押し上げて、まるで自分が手術をしたみたいな疲れ顔で溜め息を吐いた。
「……地下に下りた公家が、まだ帰っていないと、白律庁《はくりつちょう》に連絡が来た」
夜の海を彷彿とさせる鋭い目が、汐に流れる。
それを見て、火々里が息を飲む。
分かっていた。
咲樂の外傷は脚だ。
汐は頭から血を被っていた。
不自然だ。
最悪の可能性は、咲樂を背負った姿を目にした時から頭の片隅にあった。
「……出雲《いずも》地区の、公家、二人だった」
ぽつりと、薄い唇から零れる。
「──僕が殺した」
迷いなく明かされた事実を、火々里も、尊《みこと》も、何も言えずに聞いた。
咲樂を必死に救命した十数時間。
汐がここまで来なければ確実に消えていた命。
地上人が魂人《たまびと》を害しても裁かれない不合理。
許せるはずがなかった。
汐が殺さなければ、火々里が殺していたかもしれない。
けれど、この世界はどこまでも残酷なのだ。
魂人《たまびと》が地上人を害し、仇なした時、多くが極刑となる。
火々里は白衣を脱ぐと、汐に放り投げて尊を一瞥した。
無言で、目配せをするだけで十分だった。
「どこだ。そいつらの場所」
「……遊郭の裏」
死臭が染み付いた、呪いのような吹き溜まりを思い出して、眉間に皺が寄る。
「……汐は咲樂のこと見とけ。俺が帰るまで、頼むぞ」
「は……? 火々里、何する気……」
「行くぞ尊《みこと》」
「……分かった」
捜索隊が派遣される前に現場に急行する必要がある。
火々里ならば、文字通りに汐が犯した事実を“消せる”からだ。
咲樂が急変する可能性もあった。
だとしても、汐もまた、火々里にとっては弟であり、みすみす極刑になどさせるものかと、紫色に染まった朝を駆けた。
蓮塔《れんとう》地区の関所に行き、柩地区に下るその間も、火々里と尊に会話はない。
湿った岩の匂い。
地下水。
火。
長い階段が、暗闇の奥へ続いている。
等間隔に並ぶ行灯だけが、その道を不安定に照らしていた。
地上の光は、途中から届かない。
靴音を響かせながら、下っていく。
遊郭の外周の最奥、明らかに空気が重苦しいものに変わる裏手に入って、真っ先に視界に飛び込んだのは、出雲《いずも》地区の、公家の家紋。
男二人の立派な羽織りに刺繍された家格は、決して低くない。
しかし、その場に無惨に転がった小さな草履や、おびただしい血溜まりを見ると、腸が煮えくり返った。
殺されて当然だと思ってしまった。
そしてそれは、隣にいる男もそうだった。
「……俺の部署でも、どこまで誤魔化せるか分からない。とりあえず遺体を隠す場所を──」
淡々と、冷徹に先を考える尊をよそに、火々里は遺体のすぐ側にしゃがみ、右手を翳した。
その大きな手のひらから、髪の毛や瞳と同じ色の光がぼんやりと灯り、それから、みるみるうちに、熱を持った炎へと変貌した。
炎は、火々里の意思を持つように、男たちを取り囲んで燃やした。
肉が骨になり、骨が灰になり、灰と血が跡形もなく消えるまで、時間はかからなかった。
肉が焦げる匂いもなく、煙も昇らない。
それなのに、そこにあったものを、最初からなかったかのように、焼き尽くした。
赤色の炎に照らされた横顔は、ただただ静かで、凪いでいた。
「火々里、お前……」
驚きのあまり、尊の声が上擦る。
目の前で、科学や道理では証明できない現象を見せられたが、尊はそれをよく知っていた。
「お前──“パンドラ”だったのか」
──そのとき、パンドラはじぶんの子どもをかばって、炎のなかに飛び込みました。
火々里の頭の中で、幼い頃の咲樂の声が反芻される。
児童書、教科書、歴史書、世界中で語り継がれ、畏怖され、称賛されてきた。
多種多様な異能力と、それをもつ人間を、“パンドラ”と一纏めに呼んだ。
世界人口の四パーセントしか確認できていない、稀有な存在が、“パンドラ”だ。
「……言うなよ、誰にも」
生きてきて二十三年間、微かにも誰も疑わなかった。
火々里は自分はただの魂人《たまびと》だと振る舞い、自分を守るために、周りを欺いてきたのだ。
力を利用されないように。
自由を奪われないように。
「……」
実弟もまたパンドラである尊《みこと》は、火々里が起こした超常現象に戸惑いながらも、なんとか現実を受け入れた。
この国は特にパンドラ人口が少ないけれど、ペルシック人よりも、幾分か目にする機会があるから。
「ああ、言わない。……誰にも」
「咲樂にも、汐にも、言うな」
「約束する」
火々里は立ち上がり、表情を固くした親友の背を、粗雑に叩いた。
そして何も言わずに、胸糞の悪さだけが満ちる場所から歩き出す。
残酷な世界は、いつも火々里の前に立ち塞がった。
けれども、大事な妹と弟を食い潰そうとするならば、火々里は世界を焼き尽くす。
それだけの話だった。
産まれてすぐ、親に柩地区に捨てられた。
百年ぶりに柩地区から蓮塔《れんとう》学院への入学を果たしても、周囲からの差別は壮絶だった。
学院の卒業試験に合格して地上戸籍を得ても、医師免許を得ても、それは変わらなかった。
元・魂人《たまびと》は、いつまで経っても魂人《たまびと》のままだ。
魂人《たまびと》が、本当の意味で幸せに暮らしていける場所など、何処にもなかった。
火々里はこの世界の残酷さを、誰よりも理解していた。
「……テメェ、今なんつった」
ゴム手袋をはめた両手も、白衣も、妹の血で染まった。
失血多量でショック状態寸前に陥った咲樂の救命を優先し、なんとか止血までは成功したものの、火々里《かがり》は内科医だ。
目の前で、興味がなさそうに椅子に座ってカルテをつける専門医を見下ろし、火々里は拳を握り込む。
横目で、一瞬のみ一瞥し、専門医の男は気怠く言い放った。
「魂人《たまびと》の手術なんか、僕がしてやる義理ないだろ……そう言ったんだが?」
元・魂人《たまびと》である自分のことを見下し、嫌悪していることは十二分に理解していた。
火々里は内科医であり、手術経験もない。
この専門医に頼るほかなかった。
時間外の今、院内にいる専門医はこの男だけだ。
「……あー。そういえば怪我してる女、ペルシック人……“柩の咲樂”だったっけ?」
専門医ははっと鼻で笑い、もう一度、火々里を馬鹿にするように見上げる。
「治してやってもいいけど、その女、僕に寄越すか、地下の自治権──」
「──ッ人が死にかけてんのに、ふざけんな!!」
火々里は男の胸倉を掴み上げて、我慢ならず怒鳴りつけた。
医局に、鋭さと憤りが綯交ぜになった声が反響して、当直の内科医が尻尾を巻いて出ていく。
烈火の如く怒りを燃やす瞳の奥の苛烈さに、思わず専門医の男は生唾を飲み込んだ。
頭がどうにかなりそうなほどの憤怒だった。
いつだって自分たちは搾取される側か、見捨てられる側だ。
火々里は握った拳を振り上げそうになるのを、なんとか堪えて、乱暴に胸倉から手を離す。
そしてそのまま医局から出ていき、咲樂と汐がいる処置室に戻った。
処置台には、止血した足を高く上げた咲樂が横たわり、それに縋り付くように項垂れた汐がいる。
膝から下の切創が惨い。
意図的に、咲樂が逃げられないようにすべく斬られたのだと、見て分かった。
「どけ汐。今から縫う」
「え……縫うって、火々里、内科医だろ……」
言外に、“お前に可能なのか”と問われたのだと理解した。
火々里は、咲樂の足を見る。
足首の後ろ側が、どうにもならないほど、断たれている。
吐きそうなほど、この世界が嫌いだ。
(……どうすれば。どうすればいい。何を捨てて、何を選べばいい)
最善の一手は明白なのに、“どうすればいい”なんて、何かに寄りかかろうとしてしまう。
遠い昔、母親を亡くし、餓死寸前だった小さな咲樂を拾って、生かしたのは火々里だ。
抱き上げた時、必死に縋り付いてきた子どもの熱を、今でも覚えている。
自分には、咲樂を死なせてはいけない責任がある。
拾った命を、生かす。
今の火々里にできることは、それだけしかない。
「──歩行機能は捨てる。とにかく傷口を塞ぐ」
息を飲む音がした。
「今の俺じゃ、アキレス腱の再建は無理だ。下手に触ると感染症を引き起こして、最悪壊死になりかねない」
火々里はまた新しいゴム手袋をつけ直し、マスクを装着する。
「せ、先生! これ、持ってきました! 他に何か、必要なものありますか!?」
すると、遠巻きにこちらを見ているだけだった職員の中から、ただ一人だけ、咲樂や汐よりも若い少女が手術道具を抱えて持ってきた。
いつも使えないと、周りに馬鹿にされている看護師だった。
「……悪い、助かる。補液……三号一リットルと、生食二リットル……あと抗生剤持ってきてくれ」
「は、はい!」
汐は医者ではないが、恐らくは看護師や技師たちよりも医療の知識がある。
今の状況を俯瞰すれば、火々里の判断は間違っていない。
分かっているからこそ、総合病院にもかかわらず、専門医が来ない現状に、汐は奥歯を噛み締めた。
火々里は看護師の少女を助手にして、細かく指示を出した。
断裂した腱には触れず、開いた皮膚と筋肉だけを縫い合わせていく。
医学書の知識と、見学した外科手術の光景だけを頼りに。
最後に結んだ糸を切り、無意識に止めた息を吐き出した。
内科だけでは飽き足らず、外科の医学書を読み込んでいたことが幸いした。
専門医ほど美しい縫合ではなかったが、記憶にある図面と、さほど遠くない。
しかし、再び咲樂の血圧が低下する音が鳴る。
補液が失った血液を補うわけではない。
血圧が安定したままであれば良かったが、失血量から考えても、難しいようだ。
「チッ、くそっ……」
輸血に使える保存した血液は、総合病院にもない。
献血者を募るしかないけれど、魂人《たまびと》のために血を捧げる人間など、それも同じ血液型を探すなど、星を掴むような話だった。
「──火々里、いいよ。僕から採って」
項垂れて、絶望していた汐が、火々里のすぐ傍に来て、生気を取り戻した青紫の双眸を見せた。
「僕と咲樂の血液型は同じγ型だから、いける。持病もないし、貧血もない。やろう」
そう。最も合理的なのは、同じ血液型の汐から輸血をすることだった。
保存血はない。供血者を探す時間もない。
火々里は汐を見る。
顔色が悪い。
ただでさえ極限状態だ。
ここで血を抜けば倒れる可能性もある。
輸血をして、咲樂が耐えられなかった時、汐も精神的に壊れることは、火を見るより明らかだ。
だが。
「わかった」
やらないで失う選択は、火々里の人生において、最も有り得ない。
輸血後、火々里は寝ずにずっと咲樂と汐の経過観察を続けた。
十五分、三十分、一時間、二時間、異常はない。
血圧も徐々に戻りつつある。
手伝いを申し出た看護師にも礼を言い、先に帰宅させた。
血液を抜かれた汐も目眩や冷汗が出たが、火々里同様、朝日が昇るまで眠らなかった。
朝、咲樂の血圧も、呼吸も、顔色も、正常だった。
ようやく生きた心地が戻り、火々里は今度こそ肩の力を抜き額を大きな片手で覆う。
(生きてる。大丈夫だ。死んでない。助けられた)
そのうち意識も戻るだろう。
まだまだ安心するには早すぎるけれど、一息つき、簡易寝台に座る汐の頭をぐしゃりと撫でた。
顔色は決して良くはなかった。
彼に付着した血液はできる限り落としたが、髪の毛の一部は凝血してしまっている。
「お疲れ。もう大丈夫だ。頑張ったな、汐」
もう大丈夫。
自分に言い聞かせるように、すぐにでも糸が切れそうな汐を落ち着かせるように言う。
すると汐は、途端に、珍しくくしゃりと表情を崩して俯いた。
「ちが、う……」
処置室に、泣きそうな声が落ちる。
「僕の、せいだ……っ、知ってたのに……こんなの、防げた、はずなのに……っ」
あの時──咲樂のクッキーを叩き落として、大泣きした時と、同じだと思った。
自責と悲傷で、心が悲鳴をあげている。
「……ちがうだろ。お前は悪くないだろ。悪いのは全部、咲樂を襲った奴らだ。お前がそいつらの罪を肩代わりするな」
「っでも」
「するな。咲樂にそれ、言えんのか。僕のせいだってめそめそすんのかよ」
汐は息を詰めて、長く沈黙したのち、小さく首を横に振った。
その時だった。
他には誰もいない処置室の扉が開いた。
黒い制服の裾と、灰色の髪の毛が揺れる。
眼鏡の奥が、悲痛な色に染まっていた。
蓮塔《れんとう》学院の同級生であり、火々里が親友と呼べるたった一人の男だ。
「尊《みこと》……? なんでここに」
「……芽以《めい》から聞いて、来ていた。何か起こった時、介入できると思ったんだ」
白律庁《はくりつちょう》所属であり、議会の宰相を父に持つエリートであれば、確かに理不尽をひっくり返せるかもしれない。
意外と権力を笠に着る強かな友に、ようやく微かな笑みが漏れた。
「あいつか。……そうか、手間かけたな。ずっと待合にいたのかよ。声かけろよ」
「いや、無理だろう。邪魔するわけにもいかなかったし、途中で白律庁《はくりつちょう》にも戻ったから、ずっと居たわけじゃない」
眼鏡のブリッジを押し上げて、まるで自分が手術をしたみたいな疲れ顔で溜め息を吐いた。
「……地下に下りた公家が、まだ帰っていないと、白律庁《はくりつちょう》に連絡が来た」
夜の海を彷彿とさせる鋭い目が、汐に流れる。
それを見て、火々里が息を飲む。
分かっていた。
咲樂の外傷は脚だ。
汐は頭から血を被っていた。
不自然だ。
最悪の可能性は、咲樂を背負った姿を目にした時から頭の片隅にあった。
「……出雲《いずも》地区の、公家、二人だった」
ぽつりと、薄い唇から零れる。
「──僕が殺した」
迷いなく明かされた事実を、火々里も、尊《みこと》も、何も言えずに聞いた。
咲樂を必死に救命した十数時間。
汐がここまで来なければ確実に消えていた命。
地上人が魂人《たまびと》を害しても裁かれない不合理。
許せるはずがなかった。
汐が殺さなければ、火々里が殺していたかもしれない。
けれど、この世界はどこまでも残酷なのだ。
魂人《たまびと》が地上人を害し、仇なした時、多くが極刑となる。
火々里は白衣を脱ぐと、汐に放り投げて尊を一瞥した。
無言で、目配せをするだけで十分だった。
「どこだ。そいつらの場所」
「……遊郭の裏」
死臭が染み付いた、呪いのような吹き溜まりを思い出して、眉間に皺が寄る。
「……汐は咲樂のこと見とけ。俺が帰るまで、頼むぞ」
「は……? 火々里、何する気……」
「行くぞ尊《みこと》」
「……分かった」
捜索隊が派遣される前に現場に急行する必要がある。
火々里ならば、文字通りに汐が犯した事実を“消せる”からだ。
咲樂が急変する可能性もあった。
だとしても、汐もまた、火々里にとっては弟であり、みすみす極刑になどさせるものかと、紫色に染まった朝を駆けた。
蓮塔《れんとう》地区の関所に行き、柩地区に下るその間も、火々里と尊に会話はない。
湿った岩の匂い。
地下水。
火。
長い階段が、暗闇の奥へ続いている。
等間隔に並ぶ行灯だけが、その道を不安定に照らしていた。
地上の光は、途中から届かない。
靴音を響かせながら、下っていく。
遊郭の外周の最奥、明らかに空気が重苦しいものに変わる裏手に入って、真っ先に視界に飛び込んだのは、出雲《いずも》地区の、公家の家紋。
男二人の立派な羽織りに刺繍された家格は、決して低くない。
しかし、その場に無惨に転がった小さな草履や、おびただしい血溜まりを見ると、腸が煮えくり返った。
殺されて当然だと思ってしまった。
そしてそれは、隣にいる男もそうだった。
「……俺の部署でも、どこまで誤魔化せるか分からない。とりあえず遺体を隠す場所を──」
淡々と、冷徹に先を考える尊をよそに、火々里は遺体のすぐ側にしゃがみ、右手を翳した。
その大きな手のひらから、髪の毛や瞳と同じ色の光がぼんやりと灯り、それから、みるみるうちに、熱を持った炎へと変貌した。
炎は、火々里の意思を持つように、男たちを取り囲んで燃やした。
肉が骨になり、骨が灰になり、灰と血が跡形もなく消えるまで、時間はかからなかった。
肉が焦げる匂いもなく、煙も昇らない。
それなのに、そこにあったものを、最初からなかったかのように、焼き尽くした。
赤色の炎に照らされた横顔は、ただただ静かで、凪いでいた。
「火々里、お前……」
驚きのあまり、尊の声が上擦る。
目の前で、科学や道理では証明できない現象を見せられたが、尊はそれをよく知っていた。
「お前──“パンドラ”だったのか」
──そのとき、パンドラはじぶんの子どもをかばって、炎のなかに飛び込みました。
火々里の頭の中で、幼い頃の咲樂の声が反芻される。
児童書、教科書、歴史書、世界中で語り継がれ、畏怖され、称賛されてきた。
多種多様な異能力と、それをもつ人間を、“パンドラ”と一纏めに呼んだ。
世界人口の四パーセントしか確認できていない、稀有な存在が、“パンドラ”だ。
「……言うなよ、誰にも」
生きてきて二十三年間、微かにも誰も疑わなかった。
火々里は自分はただの魂人《たまびと》だと振る舞い、自分を守るために、周りを欺いてきたのだ。
力を利用されないように。
自由を奪われないように。
「……」
実弟もまたパンドラである尊《みこと》は、火々里が起こした超常現象に戸惑いながらも、なんとか現実を受け入れた。
この国は特にパンドラ人口が少ないけれど、ペルシック人よりも、幾分か目にする機会があるから。
「ああ、言わない。……誰にも」
「咲樂にも、汐にも、言うな」
「約束する」
火々里は立ち上がり、表情を固くした親友の背を、粗雑に叩いた。
そして何も言わずに、胸糞の悪さだけが満ちる場所から歩き出す。
残酷な世界は、いつも火々里の前に立ち塞がった。
けれども、大事な妹と弟を食い潰そうとするならば、火々里は世界を焼き尽くす。
それだけの話だった。

