PANDORA・柩灯

 火々里《かがり》の人生は、これまで挫折の連続だった。

 産まれてすぐ、親に柩地区に捨てられた。

 百年ぶりに柩地区から蓮塔《れんとう》学院への入学を果たしても、周囲からの差別は壮絶だった。

 学院の卒業試験に合格して地上戸籍を得ても、医師免許を得ても、それは変わらなかった。

 元・魂人《たまびと》は、いつまで経っても魂人《たまびと》のままだ。
 魂人《たまびと》が、本当の意味で幸せに暮らしていける場所など、何処にもなかった。
 火々里はこの世界の残酷さを、誰よりも理解していた。

「……テメェ、今なんつった」

 ゴム手袋をはめた両手も、白衣も、妹の血で染まった。
 失血多量でショック状態寸前に陥った咲樂の救命を優先し、なんとか止血までは成功したものの、火々里《かがり》は内科医だ。

 目の前で、興味がなさそうに椅子に座ってカルテをつける専門医を見下ろし、火々里は拳を握り込む。

 横目で、一瞬のみ一瞥し、専門医の男は気怠く言い放った。

「魂人《たまびと》の手術なんか、僕がしてやる義理ないだろ……そう言ったんだが?」

 元・魂人《たまびと》である自分のことを見下し、嫌悪していることは十二分に理解していた。

 火々里は内科医であり、手術経験もない。
 この専門医に頼るほかなかった。
 時間外の今、院内にいる専門医はこの男だけだ。

「……あー。そういえば怪我してる女、ペルシック人……“柩の咲樂”だったっけ?」

 専門医ははっと鼻で笑い、もう一度、火々里を馬鹿にするように見上げる。

「治してやってもいいけど、その女、僕に寄越すか、地下の自治権──」

「──ッ人が死にかけてんのに、ふざけんな!!」

 火々里は男の胸倉を掴み上げて、我慢ならず怒鳴りつけた。
 医局に、鋭さと憤りが綯交ぜになった声が反響して、当直の内科医が尻尾を巻いて出ていく。

 烈火の如く怒りを燃やす瞳の奥の苛烈さに、思わず専門医の男は生唾を飲み込んだ。

 頭がどうにかなりそうなほどの憤怒だった。
 いつだって自分たちは搾取される側か、見捨てられる側だ。

 火々里は握った拳を振り上げそうになるのを、なんとか堪えて、乱暴に胸倉から手を離す。

 そしてそのまま医局から出ていき、咲樂と汐がいる処置室に戻った。


 処置台には、止血した足を高く上げた咲樂が横たわり、それに縋り付くように項垂れた汐がいる。

 膝から下の切創が惨い。
 意図的に、咲樂が逃げられないようにすべく斬られたのだと、見て分かった。

「どけ汐。今から縫う」

「え……縫うって、火々里、内科医だろ……」

 言外に、“お前に可能なのか”と問われたのだと理解した。

 火々里は、咲樂の足を見る。
 足首の後ろ側が、どうにもならないほど、断たれている。

 吐きそうなほど、この世界が嫌いだ。

(……どうすれば。どうすればいい。何を捨てて、何を選べばいい)

 最善の一手は明白なのに、“どうすればいい”なんて、何かに寄りかかろうとしてしまう。


 遠い昔、母親を亡くし、餓死寸前だった小さな咲樂を拾って、生かしたのは火々里だ。

 抱き上げた時、必死に縋り付いてきた子どもの熱を、今でも覚えている。

 自分には、咲樂を死なせてはいけない責任がある。

 拾った命を、生かす。
 今の火々里にできることは、それだけしかない。


「──歩行機能は捨てる。とにかく傷口を塞ぐ」


 息を飲む音がした。

「今の俺じゃ、アキレス腱の再建は無理だ。下手に触ると感染症を引き起こして、最悪壊死になりかねない」

 火々里はまた新しいゴム手袋をつけ直し、マスクを装着する。

「せ、先生! これ、持ってきました! 他に何か、必要なものありますか!?」

 すると、遠巻きにこちらを見ているだけだった職員の中から、ただ一人だけ、咲樂や汐よりも若い少女が手術道具を抱えて持ってきた。

 いつも使えないと、周りに馬鹿にされている看護師だった。

「……悪い、助かる。補液……三号一リットルと、生食二リットル……あと抗生剤持ってきてくれ」

「は、はい!」

 汐は医者ではないが、恐らくは看護師や技師たちよりも医療の知識がある。
 今の状況を俯瞰すれば、火々里の判断は間違っていない。
 分かっているからこそ、総合病院にもかかわらず、専門医が来ない現状に、汐は奥歯を噛み締めた。

 火々里は看護師の少女を助手にして、細かく指示を出した。
 断裂した腱には触れず、開いた皮膚と筋肉だけを縫い合わせていく。
 医学書の知識と、見学した外科手術の光景だけを頼りに。

 最後に結んだ糸を切り、無意識に止めた息を吐き出した。
 内科だけでは飽き足らず、外科の医学書を読み込んでいたことが幸いした。
 専門医ほど美しい縫合ではなかったが、記憶にある図面と、さほど遠くない。

 しかし、再び咲樂の血圧が低下する音が鳴る。

 補液が失った血液を補うわけではない。
 血圧が安定したままであれば良かったが、失血量から考えても、難しいようだ。

「チッ、くそっ……」

 輸血に使える保存した血液は、総合病院にもない。
 献血者を募るしかないけれど、魂人《たまびと》のために血を捧げる人間など、それも同じ血液型を探すなど、星を掴むような話だった。

「──火々里、いいよ。僕から採って」

 項垂れて、絶望していた汐が、火々里のすぐ傍に来て、生気を取り戻した青紫の双眸を見せた。

「僕と咲樂の血液型は同じγ型だから、いける。持病もないし、貧血もない。やろう」

 そう。最も合理的なのは、同じ血液型の汐から輸血をすることだった。
 保存血はない。供血者を探す時間もない。

 火々里は汐を見る。
 顔色が悪い。
 ただでさえ極限状態だ。
 ここで血を抜けば倒れる可能性もある。

 輸血をして、咲樂が耐えられなかった時、汐も精神的に壊れることは、火を見るより明らかだ。

 だが。

「わかった」

 やらないで失う選択は、火々里の人生において、最も有り得ない。


 輸血後、火々里は寝ずにずっと咲樂と汐の経過観察を続けた。
 十五分、三十分、一時間、二時間、異常はない。
 血圧も徐々に戻りつつある。

 手伝いを申し出た看護師にも礼を言い、先に帰宅させた。
 血液を抜かれた汐も目眩や冷汗が出たが、火々里同様、朝日が昇るまで眠らなかった。


 朝、咲樂の血圧も、呼吸も、顔色も、正常だった。
 ようやく生きた心地が戻り、火々里は今度こそ肩の力を抜き額を大きな片手で覆う。

(生きてる。大丈夫だ。死んでない。助けられた)

 そのうち意識も戻るだろう。

 まだまだ安心するには早すぎるけれど、一息つき、簡易寝台に座る汐の頭をぐしゃりと撫でた。
 顔色は決して良くはなかった。

 彼に付着した血液はできる限り落としたが、髪の毛の一部は凝血してしまっている。

「お疲れ。もう大丈夫だ。頑張ったな、汐」

 もう大丈夫。
 自分に言い聞かせるように、すぐにでも糸が切れそうな汐を落ち着かせるように言う。

 すると汐は、途端に、珍しくくしゃりと表情を崩して俯いた。

「ちが、う……」

 処置室に、泣きそうな声が落ちる。
「僕の、せいだ……っ、知ってたのに……こんなの、防げた、はずなのに……っ」

 あの時──咲樂のクッキーを叩き落として、大泣きした時と、同じだと思った。
 自責と悲傷で、心が悲鳴をあげている。

「……ちがうだろ。お前は悪くないだろ。悪いのは全部、咲樂を襲った奴らだ。お前がそいつらの罪を肩代わりするな」

「っでも」

「するな。咲樂にそれ、言えんのか。僕のせいだってめそめそすんのかよ」

 汐は息を詰めて、長く沈黙したのち、小さく首を横に振った。

 その時だった。
 他には誰もいない処置室の扉が開いた。

 黒い制服の裾と、灰色の髪の毛が揺れる。
 眼鏡の奥が、悲痛な色に染まっていた。
 蓮塔《れんとう》学院の同級生であり、火々里が親友と呼べるたった一人の男だ。

「尊《みこと》……? なんでここに」

「……芽以《めい》から聞いて、来ていた。何か起こった時、介入できると思ったんだ」

 白律庁《はくりつちょう》所属であり、議会の宰相を父に持つエリートであれば、確かに理不尽をひっくり返せるかもしれない。

 意外と権力を笠に着る強かな友に、ようやく微かな笑みが漏れた。

「あいつか。……そうか、手間かけたな。ずっと待合にいたのかよ。声かけろよ」

「いや、無理だろう。邪魔するわけにもいかなかったし、途中で白律庁《はくりつちょう》にも戻ったから、ずっと居たわけじゃない」

 眼鏡のブリッジを押し上げて、まるで自分が手術をしたみたいな疲れ顔で溜め息を吐いた。

「……地下に下りた公家が、まだ帰っていないと、白律庁《はくりつちょう》に連絡が来た」

 夜の海を彷彿とさせる鋭い目が、汐に流れる。
 それを見て、火々里が息を飲む。

 分かっていた。
 咲樂の外傷は脚だ。
 汐は頭から血を被っていた。
 不自然だ。
 最悪の可能性は、咲樂を背負った姿を目にした時から頭の片隅にあった。

「……出雲《いずも》地区の、公家、二人だった」

 ぽつりと、薄い唇から零れる。

「──僕が殺した」

 迷いなく明かされた事実を、火々里も、尊《みこと》も、何も言えずに聞いた。

 咲樂を必死に救命した十数時間。
 汐がここまで来なければ確実に消えていた命。
 地上人が魂人《たまびと》を害しても裁かれない不合理。

 許せるはずがなかった。
 汐が殺さなければ、火々里が殺していたかもしれない。

 けれど、この世界はどこまでも残酷なのだ。

 魂人《たまびと》が地上人を害し、仇なした時、多くが極刑となる。

 火々里は白衣を脱ぐと、汐に放り投げて尊を一瞥した。
 無言で、目配せをするだけで十分だった。

「どこだ。そいつらの場所」

「……遊郭の裏」

 死臭が染み付いた、呪いのような吹き溜まりを思い出して、眉間に皺が寄る。

「……汐は咲樂のこと見とけ。俺が帰るまで、頼むぞ」

「は……? 火々里、何する気……」

「行くぞ尊《みこと》」

「……分かった」

 捜索隊が派遣される前に現場に急行する必要がある。

 火々里ならば、文字通りに汐が犯した事実を“消せる”からだ。

 咲樂が急変する可能性もあった。
 だとしても、汐もまた、火々里にとっては弟であり、みすみす極刑になどさせるものかと、紫色に染まった朝を駆けた。


 蓮塔《れんとう》地区の関所に行き、柩地区に下るその間も、火々里と尊に会話はない。

 湿った岩の匂い。
 地下水。
 火。

 長い階段が、暗闇の奥へ続いている。

 等間隔に並ぶ行灯だけが、その道を不安定に照らしていた。
 地上の光は、途中から届かない。
 靴音を響かせながら、下っていく。

 遊郭の外周の最奥、明らかに空気が重苦しいものに変わる裏手に入って、真っ先に視界に飛び込んだのは、出雲《いずも》地区の、公家の家紋。

 男二人の立派な羽織りに刺繍された家格は、決して低くない。
 しかし、その場に無惨に転がった小さな草履や、おびただしい血溜まりを見ると、腸が煮えくり返った。

 殺されて当然だと思ってしまった。
 そしてそれは、隣にいる男もそうだった。

「……俺の部署でも、どこまで誤魔化せるか分からない。とりあえず遺体を隠す場所を──」

 淡々と、冷徹に先を考える尊をよそに、火々里は遺体のすぐ側にしゃがみ、右手を翳した。

 その大きな手のひらから、髪の毛や瞳と同じ色の光がぼんやりと灯り、それから、みるみるうちに、熱を持った炎へと変貌した。

 炎は、火々里の意思を持つように、男たちを取り囲んで燃やした。
 肉が骨になり、骨が灰になり、灰と血が跡形もなく消えるまで、時間はかからなかった。

 肉が焦げる匂いもなく、煙も昇らない。
 それなのに、そこにあったものを、最初からなかったかのように、焼き尽くした。

 赤色の炎に照らされた横顔は、ただただ静かで、凪いでいた。

「火々里、お前……」

 驚きのあまり、尊の声が上擦る。
 目の前で、科学や道理では証明できない現象を見せられたが、尊はそれをよく知っていた。


「お前──“パンドラ”だったのか」


 ──そのとき、パンドラはじぶんの子どもをかばって、炎のなかに飛び込みました。

 火々里の頭の中で、幼い頃の咲樂の声が反芻される。

 児童書、教科書、歴史書、世界中で語り継がれ、畏怖され、称賛されてきた。
 多種多様な異能力と、それをもつ人間を、“パンドラ”と一纏めに呼んだ。

 世界人口の四パーセントしか確認できていない、稀有な存在が、“パンドラ”だ。

「……言うなよ、誰にも」

 生きてきて二十三年間、微かにも誰も疑わなかった。
 火々里は自分はただの魂人《たまびと》だと振る舞い、自分を守るために、周りを欺いてきたのだ。

 力を利用されないように。
 自由を奪われないように。

「……」

 実弟もまたパンドラである尊《みこと》は、火々里が起こした超常現象に戸惑いながらも、なんとか現実を受け入れた。

 この国は特にパンドラ人口が少ないけれど、ペルシック人よりも、幾分か目にする機会があるから。

「ああ、言わない。……誰にも」

「咲樂にも、汐にも、言うな」

「約束する」

 火々里は立ち上がり、表情を固くした親友の背を、粗雑に叩いた。
 そして何も言わずに、胸糞の悪さだけが満ちる場所から歩き出す。

 残酷な世界は、いつも火々里の前に立ち塞がった。

 けれども、大事な妹と弟を食い潰そうとするならば、火々里は世界を焼き尽くす。

 それだけの話だった。