PANDORA・柩灯

 今日も関所は平穏だった。

 地上の商人や、遊覧目的の貴族層が柩地区へと下りていった。
 商い札を持つ魂人《たまびと》の荷物検査。
 関札を確認。
 退屈な仕事だと、警備の若い軍人は碧眼を細める。

 その時だった。
 関所の階段を、一人の青年が駆け上がってくる。
 いや、一人ではない。

 誰かを背負っていた。

 軍人の碧眼が大きく見開かれて、言葉を失った。

 髪も、頬も、着物も、血で染まった男女がそこにいた。

 思わず、関所警備をしていた二人は呆然と立ち尽くした。
 だが、先に片割れの中年の軍人が我に返って 「止まれ」と鋭く命じる。

「──どけ」

 短い。
 青年がたった一言だけ発したのは、懇願ではない。
 命令だ。

 大声だったわけではない。
 それでも彼から立ち昇る、並々ならない殺気に気圧されて、二人は身じろいだ。

 魂人《たまびと》だというのに、まるで皇帝に睨まれたような、そんな凄みを持っていた。

 血が、背負った女の足から伝い落ちる。
 膝のすぐ下できつく紐が結ばれて、止血しているのが見えた。
 魂人だからこんなにも青白いのか、それとも。

「っこっちだ! 早く馬車に乗れ!」

 気付けば叫んでいた。
 規則も、手続きも、そんなものを考えている場合ではなかった。

 若い軍人は、もう一人の軍人を押しのけて青年を地上へ通すと、要人が停めていた無人の馬車を指した。

 その瞬間、血と憎悪で染まった青年の顔が、僅かに動揺を見せて、瞠目した。

「な……っ、葉山《はやま》! 何をしている! 通行証の確認もまだっ」

「そんなものは必要ありません! この男はここをよく通る! あなたこそ、状況が分からないのか!?」

 怪我人と表現することさえ、正しくない気がするほどの重傷なのだ。

 若い軍人は馬車の扉を開けて、戸惑う魂人《たまびと》を急かすように誘導して乗せる。
 生憎と今は御者が席を外していたが、軍警に所属する者は皆、馬の扱いに長けていた。
 何一つ躊躇わず御者台に座り、手綱を取ると、上官の男が険しい顔で叫んだ。

「戻れ! 違反だ! それにその馬車は魂人を乗せていいものではない!」

 慌てて馬車に駆けてくる男を一瞥し、碧眼の軍人は静かに言い放つ。

「軍警の理念は、“国と民を助け、護る”こと。違反ではありません」

 手綱を振り下ろした瞬間、大きな馬が走り出した。

 若き軍人は、もうじき陽が暮れる夕空の下、伊羅《いら》国立総合病院へと馬を走らせた。


 病院へ到着すると、女を背負った男は、相変わらず閻魔のような重苦しさを纏いながら馬車から降りた。

 魂人《たまびと》だけでは相手にもされないと分かっていたため、病院に入りすぐにそこにいた女性職員に“軍警”の腕章を見せる。

「火々里《かがり》という医者がいるだろう。今すぐ呼んでください!」

 広い待合、受付にいたのは片手で数えられるほどの人数だったが、全員が血塗れの二人に釘付けになり、どよめきが起こる。

 待つ間も、青年は女を背負ったまま離さず、無言のまま俯いていた。
 まるで少しでも手放せば、消えてしまうとでも思っているかのように。

 暫くして足音が近付いてきた。

 白衣を着た大男が、駆けてくる。
 鋭い赤目が大きく、信じられないものを見るかのように、見開かれた。

 言葉を失い、だがすぐに取り乱すまいと低い声が発される。

「こっち来い。状況説明できるか」

 黒髪の青年は力なく頷いたあと、火々里についていく。

 その時、急いでいるだろうに、火々里がこちらを振り返り、「助かった、ありがとう」と初めて礼を言ってきた。

 若い軍人は何も答えなかった。
 血痕の後始末をする従業員に頭を下げ、外に繋いである馬車にもう一度乗ると、次は白律庁《はくりつちょう》へと走った。


 白律庁《はくりつちょう》──、地上社会の秩序維持機関。

 そこに所属する友人がいる部署へ、迷うことなく向かう。
 さきほどまでの喧騒からは掛け離れた静謐で、潔癖な建物内を走り出しそうになるのを堪えて足早に歩いた。
 すると、目的の部署に辿り着くまでに、目当ての人物が向かいから歩いてきたではないか。

「──っ尊《みこと》!」

 抑えていたのに、堪らず駆け出してしまって、腰から提げた刀がカチャカチャと鳴る。

「……芽以《めい》……? どうしたんだ、こんな場所まで」

 白律庁《はくりつちょう》の腕章がついた黒い制服に、眼鏡に、同じく国から支給された刀剣。
 同じような装いなのに、軍警は白律庁《はくりつちょう》ほどの権限を広く持たない。

 芽以《めい》と呼ばれた、若き軍人は尊《みこと》をじっと見据えた。

「今、あの医者が、大変なことになっている。すぐに総合病院に行った方がいい」

 “あの医者”。
 それだけで察したのだろう。
 仕事中は滅多に揺らがない鉄仮面が、僅かに動いた。

「あいつと親しい魂人《たまびと》が、血だらけだった。恐らく、刀か剣で斬られてる。……上と揉めるぞ」

 刀も剣も、持つことを許されているのは、白律庁《はくりつちょう》の者と軍人と、貴族層だけだ。
 魂人《たまびと》の女が蹂躙されることは珍しくない。
 柩地区の一角で死体が積み上がっている時代も長くあった。
 しかし、地下で起きた出来事に、地上は干渉しない。

 この国の法律が適用されない見放された場所だからだ。

「火々里のために、わざわざ俺に知らせに来てくれたのか、芽以《めい》」

「ちがう。あの医者は、俺は嫌いだ。ただ、尊に知らせておかねば、お前が後悔すると思った。それだけだ」

 芽以《めい》は皮肉を吐きながらも、酷く真剣に、真っ直ぐに尊を見据えた。
 言葉に、それ以上も以下もない、嘘偽りがなかった。

「わかった。知らせてくれてありがとう。すぐに病院に行く」

「表に馬車を停めてある。送ってやる」

「……用意がいいな。頼む」

 一刻も早く、病院に行かなければならない。
 尊は焦燥感の上から、冷静さを塗り固めた。