※この話には暴力・流血・性的暴行を示唆する描写があります。
幽泉堂を開いてから、二年が経った。
「──おや、咲樂と、汐かい」
柩地区にある小料理屋に行った帰り道。
しゃがれた女の声が背後から聞こえ、そっと振り返る。
「あ、絹代さん。こんにちは」
先に咲樂が反応して、足を止め、女性に微笑んだ。汐も並んで会釈をした。
煙管から立ち昇る煙がくゆる。
素朴だが、上等な素材でできた着物は、中老でありながらも逞しさを漂わせる彼女の品格を、押し上げていた。
絹代はすぐに煙管の灰を地面に落として、爪先で踏んで消す。
少女の人好きのする声音と笑顔に、常から厳しい表情をする彼女も、僅かに眉間を緩めるのだ。
「二人で逢瀬かい? 相変わらず仲がいいね」
「ちがいますよ。甘味を食べに来てたんです。福屋のパフェ、絹代さんも食べましたか?」
流れるように否定され、汐は口角を上げたまま、片眉をぴくりと上げて、すぐに下げる。
「いいや。アタシは甘いもん苦手だからねぇ。その顔、美味かったんだね」
「桃が新鮮でとっても美味しかったんです。ね、汐」
「うん。桃は珍しいから、売り切れる前に行けて良かったね」
にこにこと、幼さを感じてもおかしくないのに、佇まいや話し方の影響か、不思議と咲樂は何をしても、何を喋っても、落ち着いた雰囲気を纏っている。
「お前は本当に、可愛い女だねぇ。うちに来て欲しかったよ」
突然の褒め言葉に、幸せそうな笑みが一瞬で困ったような、しかし嫌ではないのだと見て取れる表情になった。
滅多に人を褒めない絹代は、よく咲樂のことを褒めた。
「わたしには無理ですよ。ずっと笑顔でお話して、芸事もして。頭が良くないと、とても」
「ふふ、その顔で謙虚な娘だねほんと。年々母さんに似てきたんじゃないかい?」
「えっ、そうですか?」
「ああ。まあ母さんのほうが跳ねっ返りで、客とよく揉めてたけどね」
じゃあねと、軽く手を上げて絹代は踵を返す。
また煙管を咥えると、器用に刻み煙草を火皿に乗せて火をつけていた。
絹代の背を見送る咲樂を一瞥し、汐は感心する。
「君って本当に凄いよね。あの絹代さんに、すごく気に入られてる」
「え? ……たしかに、気にかけてくれるけど、母さんが桃源楼で働いてたからじゃないかしら?」
そうだろうかと、相変わらず自分自身に頓着がない咲樂に苦笑してしまう。
「幽泉堂と桃源楼で業務提携してほしいってお願いしに行った時、本当は僕、一度断られてるんだよ」
「ええっ? そうなの?」
「そう。それで一か八かで咲樂で絹代さんを口説けないかと思って、一緒に行ってもらったんだ。そしたらころっと契約完了さ。お見事だね」
「そ、そうだったの? でもわたし、普通にお話して、一緒にお仕事したいですってお願いしただけよ? 汐みたいに、口が上手くないもの」
本気で困惑して、桃色の瞳が右往左往泳いでいる。
そういうところだよと、おかしくなってしまった。
巨大な遊郭である桃源楼で長年生きてきた絹代は、飽きるほど裏切りや争い事を見てきたはずだ。
だからこそ、咲樂のような純真な少女こそ信用できるのだろう。
汐がにんまりと目を細め、咲樂をじっと見ると、恥ずかしそうに頬を赤らめて目を逸らした。
「お、おだてたって何もないわよ?」
「あはは、何もいらないよ」
自分が力及ばないことを、自然と咲樂はやってくれる。
汐は照れくさそうな横顔を眺めて、穏やかに目を伏せた。
その日の夜、いつものように売上を締めるために帳場に出ると、桃色の後ろ姿が、大きな花束を抱えていた。
蜜を思わせる濃厚な香りが鼻腔を擽る。
茉莉花だ。
「どうしたの? それ」
驚かせるつもりはなかったのだが、咲樂が肩を飛び上がらせて勢いよく振り向く。
髪と白い肌に、生命力を彷彿とさせる白花は、よく映えた。
「あ……えっと」
歯切れの悪い返答と、ほのかに紅潮する様子。 すぐに何があったのか察してしまい、無意識に眉間に力が入りそうになった。
わざと溜め息を吐き、肩を緩める。
「また求婚でもされたの?」
「……」
図星らしい。
魂人には戸籍がない。
だから本当に咲樂と結婚することなど不可能だ。
にもかかわらず、随分見慣れた光景になった。
「……咲樂、何でも全部受け取ってたら駄目だよ。相手が勘違いするよ?」
「う、受け取ってないわ。ただ、一生懸命断っても、なかなか引いてくれなくて」
「受け取ってるじゃない」
咲樂はむうっと頬を膨らませた。
「変なことされてない? 付き纏われてるとかないよね?」
「ないわ。本当にみんな、お花渡して終わりなの。きっと今回の方も、そうだと思う……」
叱られた子どもか、萎れた花か、明らさまに肩を落とすものだから、汐とてあまり強く言えない。
咲樂のことだからちゃんと断ろうと努力した上で、客に押し切られていることも想像に難くない。
咲樂の母親は、世界的に見ても珍しい異邦人だった。
汐も咲樂を初めて見た時には、「本当にこの世にいたのか」と思うくらい、人口が少ない人種だ。
──ペルシック人。
涙が宝石に変わる、おとぎ話のような秘島《ひとう》の住人。
実際に彼女の涙が、宝石に変わるところを目にしたことはないけれど、触れてはいけないと躊躇させる神秘性と、手に入れたいと執着させる危うさがあった。
そしてその宝石は市場に出回らない。
だからこそ、裏では恐ろしいほど高値で売買されている。
狭い地下が全ての咲樂は、きっとそのことを知らない。
「……今後も、お店の外ではお客様と極力交流しないこと。仕事中も、しつこい人がいたら呼んで。僕が対応するから。ちゃんとその辺の線引きはしておこう」
「……うん、分かったわ。ちゃんと守る」
「でも、その……本当に君が好いと思った人がいたら、僕にも止める権利はないから……その時は自由にしてもらっても……」
説教臭かったかもしれないと、やや干渉的になった物言いを気まずそうに訂正すれば、華やかな女の目が瞬き、すぐに笑った。
「ふふふ。そんな時来るかしら」
「来るかもしれないよ」
咲樂は花を部屋に持って行ってくると、足早に従業員区画がある上の階へ向かっていく。
ふわふわと揺れる髪の毛、銀色の帯、軽やかに階段をのぼる草履。
香水を作る時にも重宝される、茉莉花の芳醇な香りがそこら中に漂っていた。
帳場机に頬杖をつき、汐はつまらなそうに呟く。
「僕なら、梔子を贈るけどな」
それから茉莉花が枯れて、香りが消えた頃、帳場の時計が静かに時を刻んでいた。
今日も幽泉堂は平和だ。
依頼人の話に耳を傾け、薬を調合し、食事をして、眠る。
そんな日々が、これからも続くのだと。
少なくとも、この時の汐は信じていた。
「じゃあわたし、孤児院に行ってくるわね」
大きな籠を抱えた咲樂が階段から下りてきた。
汐は物販品を並べていた手を止めて、籠の中を覗き込む。
人形、編みぐるみ、幼子が着る甚平、前掛けなど、子どもたちに必要なものばかり。
「可愛いね。お店のものみたい」
「えへへ、ありがとう。産まれたばかりの子が来たって聞いたから、たくさん作ったの」
咲樂が自分の給料で布や糸を買って、咲樂自身で一つ一つ作る。
そしてそれらを孤児院の子どもたちに贈る。
彼女のお金の使い道はそれだった。
着物も簪も草履も、今あるもので良いのだと言う。
最初こそ「自分のためにも使ったら?」と提案したが、今では咲樂らしいなと、ただただ胸がすく。
「夕方までには帰るわね」
「うん、いってらっしゃい。気をつけてね」
今思えば、この日が最後だった。
まだあどけなく、少女らしさのままに笑う彼女の姿は。
厨房で仕込みを手伝って、退室時間になっても起きてこない客を起こしに行って、追いついていない客室清掃を手伝って、昼休憩に薬学書と処方箋を見ながら調合をして。
変わり映えのない、平和な日。
汐が帳場で給与台帳を書き終えて、うんと体を伸ばした時だった。
開け放した幽泉堂の正面玄関の暖簾を乱雑に払い除けて、誰かが駆け込んできた。
「──汐にいちゃん!!」
底が薄い草履特有の大袈裟な足音と、切迫した少年の声が広間に反響した。
何事かと、汐は瞠目して帳場から出て、肩で大きく呼吸をする少年に駆け寄り、しゃがむ。
「どうしたの、シュン」
孤児院にいる、十二歳の少年だった。
激しい呼吸や流れる汗が、少年の焦燥感を伝える。
「──咲樂ねえちゃんが、上の男に連れてかれた!」
泣きそうに声が震えていた。
汐の表情が、一瞬だけ止まる。
「……どこで」
「孤児院の、前で。地上の男が二人来て、咲樂ねえちゃん、断ってたけど、俺たちのこと……っ、庇って」
シュンの目から涙が溢れる。
「俺が止めようとしたら、押されて……っ、ごめん、ごめんなさい汐にいちゃん……っ」
「シュン」
静かな声だった。
「怪我してる?」
「……膝、だけ」
「じゃあここにいて。絶対動かないで」
立ち上がると厨房に向かい、顔を出す。
「ごめん、シュンが怪我してるから見てあげて」
「は? シュン?」
包丁を持ち、食材と向き合っていた鉄太がぱっと顔を上げて訝しむ。
「あと僕、今から店あけるから、帳場お願い」
返事を聞く前に踵を返して、広間の椅子に座るシュンの頭を撫で、「大丈夫だよ」と柔らかく微笑む。
鉄太が救急箱を持って来るのを見てから、暖簾を抜けた。
走る。
孤児院までの道を。
道を蹴る音が、行灯の灯りの下に響く。
何も考えない。
考えたら、足が止まる気がした。
孤児院から幽泉堂までの帰り道は、いつも決まっている。
水路沿いの路地を抜けて、古い橋を渡る。
咲樂はいつもそう帰ってくる。
橋の手前の横道で、すれ違った二人組の女の会話が汐の心臓を押し潰した。
「あぁもう怖い……」
「すごい悲鳴だったから……きっとあの娘も駄目だろうね」
化粧はしていなかったが、女たちの身なりや所作から、桃源楼の遊女であることは一目瞭然だった。
桃源楼。
あそこの裏手には、魂人でさえ近寄らない。
何故なら、誰にも弔ってもらえない骸が捨てられる場所だからだ。
「すみません、その話、どこの……っ」
息を切らしながら、遊女に声をかけると、彼女たちが振り返り驚いた顔をした。
「えっ? どこって……あの、裏手だよ。あんたも知ってんだろ……?」
魂人なら 。
続かないけれど、そう聞こえた気がした。
汐はすぐに引き返して桃源楼へと向かった。
初めて踏み入れた桃源楼の裏手は、行燈がなく、より一層薄暗かった。
建物の影が落ちる細い路地。
湿った土の匂いと、染み付いた生臭い鉄の匂いが鼻を刺す。
それが見えた瞬間、汐の足が止まった。
視界の先。
地面に広がる赤。
その中心で、二人の男が誰かに覆い被さるようにしていた。
桃色の髪が見えた。
見慣れた色だった。
毎日隣で見ていた色だった。
揺れるたび、優しい匂いを運んでくる色だった。
「――――」
声が出ない。
思考が追いつかない。
ただ、理解だけが一瞬で脳を貫いた。
咲樂だ。
耳鳴りがしていた。
世界の音が遠かった。
男たちの姿も。
路地も。
空気も。
何もかもが霞んで見える。
ただ一つ。
咲樂だけが見えた。
桃色の着物。
転がっている小さな草履。
赤く染まった地面。
微動だにしない身体。
男に抱えられた両脚が、血塗れだった。
彼らの足元には、無惨に千切れた銀色の帯が落ちていた。
それだけが、やけにはっきり見えた。
凍り付いていた思考が、一気に現実へ引き戻される。
汐が一歩、踏み出す。
普段は羽織りに隠れて見えない、背中側の帯に差した懐刀を、引き抜いた。
その青紫の瞳から一切の光が消え、依月家の屋敷を焼き尽くしたあの日の、昏い業火が再び灯っていた。
幽泉堂を開いてから、二年が経った。
「──おや、咲樂と、汐かい」
柩地区にある小料理屋に行った帰り道。
しゃがれた女の声が背後から聞こえ、そっと振り返る。
「あ、絹代さん。こんにちは」
先に咲樂が反応して、足を止め、女性に微笑んだ。汐も並んで会釈をした。
煙管から立ち昇る煙がくゆる。
素朴だが、上等な素材でできた着物は、中老でありながらも逞しさを漂わせる彼女の品格を、押し上げていた。
絹代はすぐに煙管の灰を地面に落として、爪先で踏んで消す。
少女の人好きのする声音と笑顔に、常から厳しい表情をする彼女も、僅かに眉間を緩めるのだ。
「二人で逢瀬かい? 相変わらず仲がいいね」
「ちがいますよ。甘味を食べに来てたんです。福屋のパフェ、絹代さんも食べましたか?」
流れるように否定され、汐は口角を上げたまま、片眉をぴくりと上げて、すぐに下げる。
「いいや。アタシは甘いもん苦手だからねぇ。その顔、美味かったんだね」
「桃が新鮮でとっても美味しかったんです。ね、汐」
「うん。桃は珍しいから、売り切れる前に行けて良かったね」
にこにこと、幼さを感じてもおかしくないのに、佇まいや話し方の影響か、不思議と咲樂は何をしても、何を喋っても、落ち着いた雰囲気を纏っている。
「お前は本当に、可愛い女だねぇ。うちに来て欲しかったよ」
突然の褒め言葉に、幸せそうな笑みが一瞬で困ったような、しかし嫌ではないのだと見て取れる表情になった。
滅多に人を褒めない絹代は、よく咲樂のことを褒めた。
「わたしには無理ですよ。ずっと笑顔でお話して、芸事もして。頭が良くないと、とても」
「ふふ、その顔で謙虚な娘だねほんと。年々母さんに似てきたんじゃないかい?」
「えっ、そうですか?」
「ああ。まあ母さんのほうが跳ねっ返りで、客とよく揉めてたけどね」
じゃあねと、軽く手を上げて絹代は踵を返す。
また煙管を咥えると、器用に刻み煙草を火皿に乗せて火をつけていた。
絹代の背を見送る咲樂を一瞥し、汐は感心する。
「君って本当に凄いよね。あの絹代さんに、すごく気に入られてる」
「え? ……たしかに、気にかけてくれるけど、母さんが桃源楼で働いてたからじゃないかしら?」
そうだろうかと、相変わらず自分自身に頓着がない咲樂に苦笑してしまう。
「幽泉堂と桃源楼で業務提携してほしいってお願いしに行った時、本当は僕、一度断られてるんだよ」
「ええっ? そうなの?」
「そう。それで一か八かで咲樂で絹代さんを口説けないかと思って、一緒に行ってもらったんだ。そしたらころっと契約完了さ。お見事だね」
「そ、そうだったの? でもわたし、普通にお話して、一緒にお仕事したいですってお願いしただけよ? 汐みたいに、口が上手くないもの」
本気で困惑して、桃色の瞳が右往左往泳いでいる。
そういうところだよと、おかしくなってしまった。
巨大な遊郭である桃源楼で長年生きてきた絹代は、飽きるほど裏切りや争い事を見てきたはずだ。
だからこそ、咲樂のような純真な少女こそ信用できるのだろう。
汐がにんまりと目を細め、咲樂をじっと見ると、恥ずかしそうに頬を赤らめて目を逸らした。
「お、おだてたって何もないわよ?」
「あはは、何もいらないよ」
自分が力及ばないことを、自然と咲樂はやってくれる。
汐は照れくさそうな横顔を眺めて、穏やかに目を伏せた。
その日の夜、いつものように売上を締めるために帳場に出ると、桃色の後ろ姿が、大きな花束を抱えていた。
蜜を思わせる濃厚な香りが鼻腔を擽る。
茉莉花だ。
「どうしたの? それ」
驚かせるつもりはなかったのだが、咲樂が肩を飛び上がらせて勢いよく振り向く。
髪と白い肌に、生命力を彷彿とさせる白花は、よく映えた。
「あ……えっと」
歯切れの悪い返答と、ほのかに紅潮する様子。 すぐに何があったのか察してしまい、無意識に眉間に力が入りそうになった。
わざと溜め息を吐き、肩を緩める。
「また求婚でもされたの?」
「……」
図星らしい。
魂人には戸籍がない。
だから本当に咲樂と結婚することなど不可能だ。
にもかかわらず、随分見慣れた光景になった。
「……咲樂、何でも全部受け取ってたら駄目だよ。相手が勘違いするよ?」
「う、受け取ってないわ。ただ、一生懸命断っても、なかなか引いてくれなくて」
「受け取ってるじゃない」
咲樂はむうっと頬を膨らませた。
「変なことされてない? 付き纏われてるとかないよね?」
「ないわ。本当にみんな、お花渡して終わりなの。きっと今回の方も、そうだと思う……」
叱られた子どもか、萎れた花か、明らさまに肩を落とすものだから、汐とてあまり強く言えない。
咲樂のことだからちゃんと断ろうと努力した上で、客に押し切られていることも想像に難くない。
咲樂の母親は、世界的に見ても珍しい異邦人だった。
汐も咲樂を初めて見た時には、「本当にこの世にいたのか」と思うくらい、人口が少ない人種だ。
──ペルシック人。
涙が宝石に変わる、おとぎ話のような秘島《ひとう》の住人。
実際に彼女の涙が、宝石に変わるところを目にしたことはないけれど、触れてはいけないと躊躇させる神秘性と、手に入れたいと執着させる危うさがあった。
そしてその宝石は市場に出回らない。
だからこそ、裏では恐ろしいほど高値で売買されている。
狭い地下が全ての咲樂は、きっとそのことを知らない。
「……今後も、お店の外ではお客様と極力交流しないこと。仕事中も、しつこい人がいたら呼んで。僕が対応するから。ちゃんとその辺の線引きはしておこう」
「……うん、分かったわ。ちゃんと守る」
「でも、その……本当に君が好いと思った人がいたら、僕にも止める権利はないから……その時は自由にしてもらっても……」
説教臭かったかもしれないと、やや干渉的になった物言いを気まずそうに訂正すれば、華やかな女の目が瞬き、すぐに笑った。
「ふふふ。そんな時来るかしら」
「来るかもしれないよ」
咲樂は花を部屋に持って行ってくると、足早に従業員区画がある上の階へ向かっていく。
ふわふわと揺れる髪の毛、銀色の帯、軽やかに階段をのぼる草履。
香水を作る時にも重宝される、茉莉花の芳醇な香りがそこら中に漂っていた。
帳場机に頬杖をつき、汐はつまらなそうに呟く。
「僕なら、梔子を贈るけどな」
それから茉莉花が枯れて、香りが消えた頃、帳場の時計が静かに時を刻んでいた。
今日も幽泉堂は平和だ。
依頼人の話に耳を傾け、薬を調合し、食事をして、眠る。
そんな日々が、これからも続くのだと。
少なくとも、この時の汐は信じていた。
「じゃあわたし、孤児院に行ってくるわね」
大きな籠を抱えた咲樂が階段から下りてきた。
汐は物販品を並べていた手を止めて、籠の中を覗き込む。
人形、編みぐるみ、幼子が着る甚平、前掛けなど、子どもたちに必要なものばかり。
「可愛いね。お店のものみたい」
「えへへ、ありがとう。産まれたばかりの子が来たって聞いたから、たくさん作ったの」
咲樂が自分の給料で布や糸を買って、咲樂自身で一つ一つ作る。
そしてそれらを孤児院の子どもたちに贈る。
彼女のお金の使い道はそれだった。
着物も簪も草履も、今あるもので良いのだと言う。
最初こそ「自分のためにも使ったら?」と提案したが、今では咲樂らしいなと、ただただ胸がすく。
「夕方までには帰るわね」
「うん、いってらっしゃい。気をつけてね」
今思えば、この日が最後だった。
まだあどけなく、少女らしさのままに笑う彼女の姿は。
厨房で仕込みを手伝って、退室時間になっても起きてこない客を起こしに行って、追いついていない客室清掃を手伝って、昼休憩に薬学書と処方箋を見ながら調合をして。
変わり映えのない、平和な日。
汐が帳場で給与台帳を書き終えて、うんと体を伸ばした時だった。
開け放した幽泉堂の正面玄関の暖簾を乱雑に払い除けて、誰かが駆け込んできた。
「──汐にいちゃん!!」
底が薄い草履特有の大袈裟な足音と、切迫した少年の声が広間に反響した。
何事かと、汐は瞠目して帳場から出て、肩で大きく呼吸をする少年に駆け寄り、しゃがむ。
「どうしたの、シュン」
孤児院にいる、十二歳の少年だった。
激しい呼吸や流れる汗が、少年の焦燥感を伝える。
「──咲樂ねえちゃんが、上の男に連れてかれた!」
泣きそうに声が震えていた。
汐の表情が、一瞬だけ止まる。
「……どこで」
「孤児院の、前で。地上の男が二人来て、咲樂ねえちゃん、断ってたけど、俺たちのこと……っ、庇って」
シュンの目から涙が溢れる。
「俺が止めようとしたら、押されて……っ、ごめん、ごめんなさい汐にいちゃん……っ」
「シュン」
静かな声だった。
「怪我してる?」
「……膝、だけ」
「じゃあここにいて。絶対動かないで」
立ち上がると厨房に向かい、顔を出す。
「ごめん、シュンが怪我してるから見てあげて」
「は? シュン?」
包丁を持ち、食材と向き合っていた鉄太がぱっと顔を上げて訝しむ。
「あと僕、今から店あけるから、帳場お願い」
返事を聞く前に踵を返して、広間の椅子に座るシュンの頭を撫で、「大丈夫だよ」と柔らかく微笑む。
鉄太が救急箱を持って来るのを見てから、暖簾を抜けた。
走る。
孤児院までの道を。
道を蹴る音が、行灯の灯りの下に響く。
何も考えない。
考えたら、足が止まる気がした。
孤児院から幽泉堂までの帰り道は、いつも決まっている。
水路沿いの路地を抜けて、古い橋を渡る。
咲樂はいつもそう帰ってくる。
橋の手前の横道で、すれ違った二人組の女の会話が汐の心臓を押し潰した。
「あぁもう怖い……」
「すごい悲鳴だったから……きっとあの娘も駄目だろうね」
化粧はしていなかったが、女たちの身なりや所作から、桃源楼の遊女であることは一目瞭然だった。
桃源楼。
あそこの裏手には、魂人でさえ近寄らない。
何故なら、誰にも弔ってもらえない骸が捨てられる場所だからだ。
「すみません、その話、どこの……っ」
息を切らしながら、遊女に声をかけると、彼女たちが振り返り驚いた顔をした。
「えっ? どこって……あの、裏手だよ。あんたも知ってんだろ……?」
魂人なら 。
続かないけれど、そう聞こえた気がした。
汐はすぐに引き返して桃源楼へと向かった。
初めて踏み入れた桃源楼の裏手は、行燈がなく、より一層薄暗かった。
建物の影が落ちる細い路地。
湿った土の匂いと、染み付いた生臭い鉄の匂いが鼻を刺す。
それが見えた瞬間、汐の足が止まった。
視界の先。
地面に広がる赤。
その中心で、二人の男が誰かに覆い被さるようにしていた。
桃色の髪が見えた。
見慣れた色だった。
毎日隣で見ていた色だった。
揺れるたび、優しい匂いを運んでくる色だった。
「――――」
声が出ない。
思考が追いつかない。
ただ、理解だけが一瞬で脳を貫いた。
咲樂だ。
耳鳴りがしていた。
世界の音が遠かった。
男たちの姿も。
路地も。
空気も。
何もかもが霞んで見える。
ただ一つ。
咲樂だけが見えた。
桃色の着物。
転がっている小さな草履。
赤く染まった地面。
微動だにしない身体。
男に抱えられた両脚が、血塗れだった。
彼らの足元には、無惨に千切れた銀色の帯が落ちていた。
それだけが、やけにはっきり見えた。
凍り付いていた思考が、一気に現実へ引き戻される。
汐が一歩、踏み出す。
普段は羽織りに隠れて見えない、背中側の帯に差した懐刀を、引き抜いた。
その青紫の瞳から一切の光が消え、依月家の屋敷を焼き尽くしたあの日の、昏い業火が再び灯っていた。

